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山の与太ばなし【奥多摩のはなし】(06)
【とよだ 時】

 (イラスト本ではありません)

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▼「奥多摩生籐山・三国山と甘草清水

【略文】
この山はふつうは、三角点(990.3m)のあるピークを「生藤山」とか「三国
山」といっています。しかし実際の都県境の「三国山」は、生藤山の少し
西南にあるいまの地形図に三国峠と記されている峰が山頂なのだそうで
す。つまり生藤山とはこのあたりの総称らしい。近くには「甘草水」という清
水もあります。
・東京都檜原村、神奈川県相模原市、山梨県上野原市の境。


▼時間に余裕がありましたら下記の【本文】もどうぞ。

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▼「奥多摩生籐山・三国山と甘草清水

・【本文】
 奥多摩の三頭山から南東に笹尾根を下ると、熊倉山の南東の先に生

藤山(しょうとうさん)という山があります。奥多摩の南端に当たる山です。

東京都檜原(ひのはら)村、神奈川県相模原市、山梨県上野原市の境に

あります。別名を「きっとさん」とか「三国山」というそうです。そういえば生

藤山は生(き)藤(とう)とも読めますよね。



 この山はふつう、茅丸(1019m)西方にある三角点(990.3m)のある

ピークを「生藤山」とか「三国山」といっています。しかし実際の都県境の

「三国山」は、生藤山の少し西南にあるいまの地形図に三国峠と記されて

いる峰が山頂なのだそうです。つまり生藤山とはこのあたりの総称らしい。

しかし、ただ単に生藤山といえば三角点のあるピークをいうようです。



 三国山は「甲・武・相」3国の境にある山です。そのため3国の、ともに

江戸時代の地誌、『甲斐国志』(江戸時代後期の1814(文化11年)完

成)、『新編武蔵風土記稿』(1810・文政11年)、『新編相模国風土記

稿』(1841年(天保12))それぞれに、下記のように記載されています。



 『甲斐国志』(巻之36)には「…栗坂ヨリ辰巳(たつみ)(※南東)ニ峯ツ

ヾキ半里許(ばか)リニシテ三国山ニ出ヅ是甲武相三州ノ分界也嶺ノ西

北ハ棡原(※ゆずりはら)ニ属シ嶺ノ南ハ相州津久井県佐野村ニ属シ嶺

ノ東ハ武州日野村ニ属ス…」とあります。



 『新編武蔵風土記稿』(巻之111)には「相州甲州の接地なり、由(よ

っ)て三國嶺の唱はおこれりといふ、最険阻なる嶺なりと云、…」。また『新

編相模国風土記稿』(巻之16)には「当国(※相模)と駿甲(駿府、甲州)

三州の間にあるが故、此唱あり」と記しています。



 ここも分水嶺のひとつで、東京都側は、南秋川の支流の矢沢の源頭に

なっていて、多摩川に注いでいます。神奈川県側は鎌沢から沢井川、相

模湖を経て相模湾に、山梨県側は南西の黒田川に落ち、鶴川、桂川を

経て相模湖の注ぎ、同じく相模湾に流れています。



 そもそも三国峠(三国山)は、古くから甲州街道から武州御岳(みたけ)

に抜ける「檜原御獄道」や「井戸棡原(ゆずりはら)道」として、御岳信仰

や甲州と武州の交易の道に利用されてきたという。



 この三国峠(三国山)から北西にのびる笹尾根の熊倉山手前、北東か

ら長尾尾根が合わさるピークが軍荼利(ぐんだり)山だと、宮内敏雄著『奥

多摩』にあります。



 同書には、「山頂は巨木の一本天を摩し、その株に小石祠をまつる。こ

こに山名由来の軍荼利(ぐんだり)様がまつってあったのだが、現在は甲

州側に下されて井戸の部落に遷され、日本武尊と合祀され井戸の軍荼

利さまと名が変わって信仰を聚(あつ)めている。いかなる旱天にもこの宮

に祈ると雨の降らぬことはないそうである」とあります。



 しかしその手前にも、軍刀利(ぐんだり)神社元社跡の標柱がある山が

あるのです。登山地図に鳥居のマークが打ってあるところがそれ。その山

頂の標柱には軍荼利神社元社跡とあり、また鳥居の神額に軍刀利神社

元社とあるところからここが本当の軍荼利山らしい。なんともまぎらわし

い。



 さて、三国山の近くにある「甘草水(かんぞうすい)」という清水が湧く水

場があります。以前は少ない水量を大事に汲んでいたのですが、いつの

ころからか飲めなくなってしまいました。近くにはサクラ並木もあり、かつて

はわざわざ花見にやってきたものです。



 甘草水にはこんな伝説があります。その昔、日本武尊(やまとたけるの

みこと)が、東夷征伐でこのあたりにやってきて、ここで軍を休ませました。

しかしあたりに水がないため、兵士たちはのどの渇きに悩まされました。

そのとき、武尊(たける)が鉾先で岩をうがち、湧き水を掘り当てたのがこ

の水だというのです。そのため突井(つくい)の甘草水というのだそうで

す。



 『新編相模国風土記稿』(巻之119)にも「景行天皇四十年日本武尊

東夷征伐の時三国峠に軍を憩ひ給ふに、山上に水なく、諸軍勢渇にた

へず、爰(ここ)に於て尊鉾を以て巌頭を鑿(うが)ち(※穴を開ける)たま

へば清泉忽(たちまち)湧出し、軍士を養ふに足れり、尊(みこと)大(お

おい)に喜び狭野尊(さののみこと)(神武天皇)の賜(たまもの)なりとの

たまひ、即泉を甘草水と名づく、下流をば狭野川と呼ぶ、遂に村名となる

(後に佐野川と書換ふ)」とあります。



 山ろくの上野原からの登山口にあたるところに石楯尾(いわたておの)

神社があります。ここは、式内社として格式の高い神社だそうです。ただ

藤野町の名倉にも同名の神社があって、ここもまぎらわしいところ。



 一方、生藤山の位置、山名についてはかつていろいろと議論されたこ

とがあるらしい。明治から昭和時代の登山家で、植物学者の武田久吉博

士が「北相の一角」(日本山岳会発行『山岳』に掲載)に、生藤山は連行

峰・萱丸(かやまる)・津座(つづら)岩ノ峰から三国山付近にかけての総

名であると発表しています。



 それに対して明治から昭和にかけての商工官僚だった田島勝太郎が

反論。同氏の著書『奥多摩』(それを繞る山と渓と)に「…成る程生藤山と

云ふ字は広きに亘ってゐるやうであって、それは武田氏のご想像の通り

だと思ふが、独立山に対する名の生藤山は郡村誌(※多摩郡村誌)に依

ると、単一村の名に相違ないやうである。



 即ち同書三国山の条に、「北ハ本村(註檜原村)字南郷ニ、東方ハ相

州津久井郡字生藤ニ、西ハ甲州都留郡棡原村ニ属ス」とあって立派に

三国の境の字たる事を明にし、軍荼利山の条に「佐野川ニテハ生藤山ト

云」と脚注を施し、而して「北ハ本村字南郷ニ、南ハ佐野川村字生藤山

ニ属ス」と記し、本山は武相の境界にあるものなるを明にし、山名は佐野

川村にて生藤山と云ふが、字は同村生藤山に属している旨を明かに書

き別けてある点から見て、三国山も軍荼利山も同じ字の生藤山に属する

も、山名としては軍荼利山が生藤山であることを明白にしてある。生藤山

一名軍荼利山即ち九九○米三角点の山であると決定すべきものである。

…」と述べています。



 これに対して、奥多摩の研究者の宮内敏雄氏は、その著『奥多摩』(山

・渓・峠)(同じタイトルで間違いやすいのですが)の中で、「一体に田島

氏の「奥多摩」は、…こと西多摩郡内になると、「多摩郡村誌」を金科玉条

に翳(かざ)しているのが見られる。…。その紀行を読んでみても数繁く

歩いておらず、殊に甲武相国境山稜となると机上測量の憾み(うらみ)の

み強くなるのである。



 一例を牽くと「北相の一角」の和田川の鎌沢の部落の箇所で「…また

生藤山とは三国山と同一だと教へて貰った…。」と軍荼利山が「郡村誌」

(※多摩郡村誌)による部相界でないことを述べ、今また現に地元でもそ

う呼んでいるのに、田島氏は一回の採訪もせず「郡村誌」を押立てゝいる

のである。これは「郡村誌」の記条の誤りであって、之の編纂者斎藤真指

も各村の書上の概ね机上編纂のための誤謬(ごびゅう)であったとみて

よいであろう。檜原村でも軍荼利山が西方であることは衆口の一致すると

ころなのである。」と再反論しています。



 さらに同氏は「ショウトウ」の意味について、ショウトウと発音する山は、

ほかに多摩川水源にも御坂山塊にもある。山中湖畔の長池付近では、

方言でホオジロをアカセットウといい、またショットウと発音するところもあ

る。御坂山塊の節刀ヶ岳のセットウも同じ意味で、生藤山の地元で野鳥

のホオジロを「ショットウ」といい、それをそのままこの生藤山にもって来て

もよいようだとしています。

何ともこんがらがる話になってしまいました。スミマセン。



▼生藤山【データ】
【所在地】
・東京都西多摩郡檜原村、神奈川県相模原市、山梨県上野原市の境。
JR中央本線上野原駅の北6キロ。JR中央本線上野原駅からバス、
石楯尾神社停留所下車、さらに歩いて2時間で生藤山。2等三角
点(990.34m)がある。
【位置】
・三角点:北緯35度40分20秒.6548、東経139度07分56秒.6276
【地図】
・旧2万5千分の1地形図:五日市。
▼【参考文献】
・『奥多摩』(山・渓・峠)宮内敏雄(百水社)1992年(平成4)
・『奥多摩』(それを繞る山と渓と)田島勝太郎(山と溪谷社)1935年(昭
和10)
・『甲斐国志』(巻之36・山之部第16ノ中・都留郡郡内領)(松平定能(ま
さ)編集)1814(文化11年):「大日本地誌大系・45」『甲斐国志・2』(雄
山閣)1973年(昭和48)所収
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『新編相模国風土記稿』(巻之16・村里部・足柄上郡・巻之5・大井庄)
:大日本地誌大系・19『新編相模国風土記稿・1』編集校訂・蘆田伊人
(雄山閣)1980年(昭和55)
・『新編武蔵風土記稿』(巻之111・多磨郡之23 小宮領):大日本地誌
大系12『新編武蔵風土記稿・6』蘆田伊人編(雄山閣)昭和45(1970)
年版
・『北相の一角』武田久吉:日本山岳会『山岳』(大正8年10月)に掲載:
『現代日本紀行文学全集 山岳編(上)』(ほるぷ出版)1976年(昭和51
年)再録出版



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