山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼949号「上信越・四阿山(あずまやさん)と猿飛佐助」

【前文】
四阿山は公園などにある「あずまや」に似ているのが名前の由来。
また日本武尊が鳥居峠で妻を偲び「吾妻はや」といったからとも。
鳥居峠は領主真田幸村の猿飛佐助が甲賀流忍術の戸沢白雲斎につい
て修行したところ。いまも角間渓谷に修行した場所が残っています。
・長野県須坂市と群馬県嬬恋村との境。

・【本文】は下記にあります。

▼949号「上信越・四阿山(あずまやさん)と猿飛佐助」

【本文】
冬のスキー、夏のラグビーのメッカとして若者に人気の長野県の菅
平高原。「日本ダボス」と呼ばれているその高原の東方、群馬県と
の境に四阿山という山があります。四阿山は、長野県側の根子岳か
ら四阿山、浦倉山、奇妙山などの峰がほぼ円状に連なる四阿火山の
外輪山のひとつ。外輪山の内側には、直径約3.5キロのカルデラが
あり、深さ400〜500mにも達しているという。

カルデラ内部には硫黄鉱床がありますが、いまは採掘されていませ
ん。四阿山は、別名を吾妻(あがつま)山・吾嬬山・阿豆満山・東
屋山などと書かれます。山頂には東側を向いた上州祠(群馬県)と、
南側を向いた信州祠(長野県)の2つの石祠が建っています。江戸
時代の信州の地誌『信濃奇勝録』(しなのきしょうろく・井出道貞
著)にも「……夫より絶頂に至る、二祠あり」とある祠。

上州祠は群馬県側山ろくの今井村(いまの嬬恋村今井)にあった里
宮の今宮白山権現の奥宮。信州祠は長野県側山ろくの真田町の里宮
・山家神社の奥宮です。この山家神社は平安時代の「延喜式」神名
帳にも記載されているというから古い。信濃国の豪族真田氏の信仰
が厚かったという。

上州祠、信州祠のどちらも白山信仰に基づく神仏習合だったという。
上州祠にまつる神は日本武尊、弟橘姫(おとたちばなひめ)、菊理
姫だそうです。一方、信州祠にまつられる神は伊弉冉尊(いざなみ
のみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、菊理姫命(きくりひ
めのみこと)。両方の祠にまつられている菊理姫命(きくりひめの
みこと)は、白山比刀iしらやまひめ)と同一の神とかで、石川県
の白山に祭られている女神です。

長野県側山家神社にこんな伝説があります。白山権現の男神が不治
の病にかかり、それを嫌った夫人の白山比刀iしらやまひめ)がこ
こまで逃げてきたという。薄情な夫人ではあります。嫌われながら
も女神を追いかけてきたのか、男神がこの地にきて地元・草津の湯
に入って癒えたという言い伝えがあります。四阿山の名は、四阿(あ
ずまや・東屋)に山の形が似ているからという。四阿は公園などに
ある屋根だけの小さな小屋でよく休憩所になっています。

先の『信濃奇勝録』にも、「山頭は何方より見ても屋の棟の如し、
故に四阿と名(なづけ)し、……」と記されています。そのほか「あ
ずまや」の語源に関して日本武尊が東征の帰路「吾妻はや」といっ
たことから名づけられたともいいます。

これは『日本書紀』(景行天皇四十年是歳)条に、「武蔵・上野を転
歴(めぐ)りて、西(にしのかた)碓日坂(うすひのさか)に逮(い
た)ります。時に日本武尊、毎(つね)に弟橘姫(おとたちばなひ
め)を顧(しのび)たまふ情(みこころ)有(ま)します。故(か
れ)碓日嶺(うすひのみね・碓日坂)(鳥居峠)に登りて、東南(た
つみのかた)を望(おせ)りて三(み)たび嘆きて曰(のたま)は
く、「吾嬬はや」とのたまふ」。とあるのがその根拠。

そのため群馬県側は吾妻郡があり、川は吾妻川、村は嬬恋村として
残っており、群馬県側ではこの山を「吾妻山(あがつまやま)」(吾
嬬山)と呼んでいたという。しかし同じく地誌『信濃宝鑑』は「日
本武尊の吾嬬者耶と宣ひしはこの地なれど云へど、覚束(おぼつか)
なし」と素っ気ないから面白い。また四阿山のアヅマはアヅミに通
じ、アヅミ族に関係する(『日本山岳ルーツ大辞典』)という説もあ
ります。

日本武尊が東征の帰路、詠嘆したという碓日嶺(碓日坂)は「うす
い」といっても、いまの「碓氷峠」ではなく、四阿山頂から南へ下
ったところにある鳥居峠であるという。この説は古くからあり『上
野名跡志』という本も鳥居峠だとしています。鳥居峠は四阿山への
登山口にもなっていて石の鳥居が建っています。この鳥居は和銅元
年(708)建立だといい、峠名のもとになっています。

この峠は武田信玄や上杉謙信の軍勢も往き来した峠。戦国末期から
近世初頭にかけては、上野の利根・吾妻郡を真田氏が支配、北信濃
の上田城と上野(群馬県)の沼田城を結ぶ軍用道路にもなりました。
真田氏といえば、豊臣秀吉の知将といわれた真田幸村の家来の真田
十勇士。なかでも忍術で有名な猿飛佐助もこのあたりで修行したと
言い伝えられています。

猿飛佐助は、ここ鳥居峠のふもとに住む郷士鷲塚家に生まれ、最初
鷲塚佐助といっていました。いつも山の中で猿などと遊び暮らすう
ちに、甲賀流忍術の「大名人」戸沢白雲斎に見出され、3年間ミッ
チリと修行に励み、甲賀忍者の免許皆伝をもらいます。そこへたま
たまこの峠にイノシシ狩りに来た真田幸村に出会います。

佐助は幸村に自分の技を披露して家来になったという。佐助の猿の
ような軽い身のこなしから幸村に「猿飛」の名をもらい、猿飛佐助
幸吉(さるとびさすけゆきよし)と名乗りました。佐助は幸村の側
近くで仕え、神出鬼没の大活躍。諸国を巡り情報を収集、徳川の武
将とも対決し最後は夏の陣で討死にしたことになっています。

真田氏の本拠・松尾城の北を流れる角間川を遡ると湯ノ丸山と、烏
帽子山の北面が切り立った崖がせまってくる角間渓谷があります。
このあたりにある鬼ヶ城、猿飛岩、獅子牢、石橋などと呼ばれる奇
岩、巨岩があり、猿飛佐助が修行した場所とされています。

また四阿山頂への中間あたり、1769m地点にある的岩があります。
この岩はその昔、浅間山ろくで巻き狩りを行った源頼朝がここまで
来て、矢を射て岩を貫いたという伝説があります。ここはまた鎮西
八郎為朝が矢を射たともいうところ。

的岩の一部にデコボコしたところがありますが、そこは鬼がにぎり
めしを投げつけたところだとか、3尺(1m弱)の童子があらわれ
て、頼朝に「鎌倉に帰れ」などと、にぎりめしを投げつけたあとだ
ともいい伝えています。ここは幅が2m〜4mで、長さが400mに
もなる岩脈。屏風のような不思議な景観をつくっており、国の天然
記念物に指定されています。

江戸時代の享保7年(1722)には高井郡と小県郡の、また明暦2年
(1656)以来、元禄14年までの45年間の国境論争、それに続く元
禄15年(1702)までの四阿東麓のやはり国境紛争もあったそうで
す。四阿山は、春から初夏にかけてはツツジやスズラン、リンドウ
などが咲き乱れます。西行法師はこの山を「かみな月時雨はるれば
東屋の峰にぞ月はむねとすみける」と詠んでいます。

▼四阿山【データ】
【所在地】
長野県須坂市と群馬県吾妻(あがつま)郡嬬恋(つまごい)村との
境。北陸新幹線上田駅の北東21キロ。北陸新幹線上田駅からバス、55
分で菅平高原、さらに歩いて4時間で四阿山。2等三角点(2333.
2m)と、写真測量による標高点(2354m)、鳥居記号がある。地
形図上には山名(四阿山)と三角点の記号とその標高、それに標高
点記号とその標高を記載。

【名山】
・「日本百名山」(深田久弥選定):第042番選定(日本二百名山、
日本三百名山にも含まれる)
・「新日本百名山」(岩崎元郎選定):第53 番選定
・「ぐんま百名山」(群馬県選定):第6番選定
・「信州百名山」(清水栄一選定):第36番選定

【位置】
・【四阿山標高点】北緯36度32分29.79秒、東経138度24分45.06秒
・【四阿山二等三角点】北緯36度32分33.29秒、東経138度24分52.2
1秒

【地図】
・旧2万5千分1地形図名:四阿山

【参考文献】
・『角川日本地名大辞典10・群馬県』(角川書店)1988年(昭和63)
・『角川日本地名大辞典20・長野県』(角川書店)1990年(平成2)
・『山岳宗教史研究叢書17』「修験道史料集1・東日本編」五来重
編(名著出版)1983年(昭和58)
・『信州山岳百科・3』(信濃毎日新聞社編)1983年(昭和58)
・『信州百名山』清水栄一(桐原書店)1990年(平成2)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本書紀』720年(養老4):岩波文庫『日本書紀』全5巻(校
注・坂本太郎ほか)(岩波書店)1995年(平成7)
・『日本歴史地名大系10・群馬県の地名』(平凡社)1987年(昭和62)
・『日本歴史地名大系20・長野県の地名』(平凡社)1979年(昭和54)
・『名山の民俗史』高橋千劔破(河出書房新社)2009年(平成21)

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
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