山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼940号「大菩薩嶺と大菩薩登山口雲峰寺」

【前文】
中里介山の小説で有名な大菩薩峠の北方にそびえる大菩薩嶺も『日
本百名山』のひとつ。その山ろく天目山は甲斐武田氏の終えんの場
所。勝頼は自刃に際して家宝を2人の家臣に託しました。家臣は日
川沿いに登り、裂石の雲峰寺に重宝類を奉納したということです。
・山梨県甲州市と丹波山村との境。

・【本文】は下記にあります。

▼940号「大菩薩嶺と大菩薩登山口雲峰寺」

【本文】
中里介山の小説で有名な大菩薩峠の北方にそびえる大菩薩嶺(だい
ぼさつれい・2056.9m)も『日本百名山』のひとつです。別名を大
黒茂ノセリ、大黒茂山、鍋頭山といい、大菩薩連嶺(大菩薩山塊
ともいう)の最高峰。

ここは富士川、多摩川、相模川の分水嶺になっています。大菩薩
連嶺という呼び名は、大正のはじめに中村清太郎、木暮理太郎(明
治時代の登山家、日本登山界の大先達)によって唱えられ、一般
化しました。

その範囲は、北は柳沢峠から東は鶴峠、南は笹子峠を指している
ようです。大菩薩という山名は、山頂に三角点を設置する時、陸
地測量部がつけたともいわれてもいますが、江戸時代の地誌『甲
斐国志』には、近世ごろにはこの山を大菩薩峰といい、周辺一帯
の山々を総称して大菩薩嶺といっていたらしい。

ところで大菩薩の名は、(1:甲斐武田の祖・新羅三郎義光が、平
安時代、東北でおこった前九年の役(1051〜1062年)、後三年の
役(1083〜1087年)の、「後三年の役」に奥州出陣の際、義光は
大菩薩峠で道の迷い難儀をしている時、木こりが現れて道案内をし
た後、姿を消しました。

義光が峠に立ち、西に目をやるとはるかに八旒(りゅう)の白旗が
ひるがえるのが見えました。これぞ軍神の加護に違いないとはるか
に拝し「八幡大菩薩ト高声ニ賛嘆ス是レニヨリ遂ニ嶺(とうげ)ノ
名トナルト云フ」(『甲斐国志』より)との説があります。

また(2:旧塩山市の上萩原の神部(かんべ)神社(岩間明神)
の山宮がこの山にあり、この宮の本地仏(本地垂迹説での神の本
当の姿である仏や菩薩)が観音菩薩であることからその名が起こ
ったとの説もあります。

これも『甲斐国志』に「中世仏法盛ニ行ナハルヽ頃本地仏ノ観音ヲ
山宮ニ安置セラレシヨリ大菩薩ノ名ヲ得タリ」との同神社社伝を載
せています。しかし直接には陸地測量部が三角点設置の際、大菩
薩嶺と表記したものらしい。

『甲斐国志』(山川の部)は「萩原山 東ノ方都留郡ニ界フ南ハ初
鹿野山・牛奥ヤナナリ嶺(とうげ)ヲ大菩薩ト云フ(略)又残簡
風土記ニ山梨郡東ハ限ル神部山トアルモ此ナルベシ」、古跡の部は
「神部山 残簡風土記ニ山梨郡東ハ神部山トアリ今其ノ山ハ適知
スベカラズト雖モ疑ウラクハ大菩薩嶺(とうげ)是(こ)レナル
ベシ」(『甲斐国志』嶺をほとんどトウゲと読ませている)とあり
ます。

古代は神部山と呼び、近世は萩原山と呼んだという。ただこれは
西麓の旧塩山市あたりの呼び方で、東麓の奥多摩町に近い丹波山
村では、大黒茂谷の源頭にあることから「大黒茂ノセリ、大黒茂
山」と呼んでいました。また「鍋頭山」とも呼び、塩山方面の名
で日川の源流ナベガワラのツメにあることからという。

この萩原山についてはこんなエピソードもあります。近世、萩原
山は上、下、中の萩原村など現在の塩山市域にあった山梨郡10ヶ
村の入会(いりあい)山でした。

ところが江戸前期の寛文13年(1673)、丹波山村との間で山論(山
に関する争論)が生まれ、延宝2年(1674年)に幕府の裁許で、
ここから北西に延びる尾根を境にし、北麓、泉水(せんすい)谷
南面は丹波山村のものとされ、他の村々の出入りは禁じられてい
たということです。

大菩薩嶺の山頂近くに雷岩という岩がありますが、この岩は昔は
「神成岩」と書かれ、神のいます所としていました。しかし雨乞
いをする場所の岩だったので、いつしか「雷岩」と書くようにな
ったという。

大菩薩嶺の山ろくは甲斐武田氏の終えんの場所でもあります。織田
信長とその同盟者の徳川家康、北条氏政らと戦った「長篠の戦い」
以降、武田勝頼率いる甲斐武田家は次第に勢力が衰えていきました。

安土桃山時代の天正10年(1582)3月、織田信長らの連合軍に追
われに追われた武田勝頼は、自ら韮崎にある新府城(しんぷじょう)
に火をかけ、一族とともに甲斐郡内(ぐんない)へと落ちていきま
した。

郡内には信頼できる岩殿城主の小山田信茂がいたのでした(なお、
岩殿城は都留郡北部に位置し小山田氏の詰城とされていますが、小
山田氏の本拠である谷村(都留市谷村)とは距離があるため、小山
田氏の城と見るか武田氏の城と見るかで議論があるそうです)。

しかしその小山田信茂が謀反をおこし、武田側から寝返りました。
勝頼一行は笹子峠まで行きますが、行く手をはばまれてしまいます。
仕方なく勝頼は、旧大和村日川(にっかわ)渓谷の上流天目山の栖
(せい・棲)雲寺をめざしました。天目山とは大菩薩山塊のふもと
の「木賊」のあたりのこと。ここにある古刹栖(棲)雲寺のあたり
は中国杭州の天目山に似ており、この寺に天目山の山号をつけたと
いう。

しかし一行は天目山まで行きつかず、田野地区で追撃軍に追いつか
れ、激戦の末、勝頼は夫人とともに自刃、甲斐武田氏は滅亡しまし
た。そのあたりの日川(にっかわ)は戦死者の血で何日も染まった
といい、三日血川の名が残っています。

その時、勝頼は自刃に際して、武田家重代の家宝である「御旗(み
はた)」と「楯無(たてなし)の鎧」を2人の家臣に託しました。
家臣の2人は日川から大菩薩峠に登り、大菩薩嶺の山ろく裂石にあ
る雲峰寺(うんぽうじ)に、勝頼から預かった重宝類を奉納しまし
た。

雲峰寺は、奈良時代に行基菩薩によって建立されたという古刹で甲
斐源氏武田氏累代の祈願所でした。天目山(いまの山梨県甲州市田
野)の景徳院にはいまでも武田勝頼と奥方の自刃の生害石や墓が残
っています。

さて大菩薩嶺の南方にある大菩薩峠は、江戸時代には甲州道中の
裏街道でもありました。この峠のアップダウンの八里は道が険し
く、人家もなく難所としても有名で「親しらず子しらず」と呼ば
れ、遭難事故も時々起こったという。

大菩薩峠の八里についてはこんな話もあります。昔、奈良の大仏
を見た甲州人が、その大きさに驚きました。しかし彼は「甲州に
来れば小仏でも3里、大菩薩ともなれば8里もある」とほざいた
という。甲州人の負け惜しみの強さをあらわす話として残ってい
ます。

この峠の物資運搬は苦労が多く「大峰荷渡し」という無人の荷物
引き取りの習慣がありました。『甲斐国志』(その巻36)には「萩
原村ヨリ米穀ヲ小菅村ノ方ヘ送ルモノ此ノ峠マデ持チ来リ妙見社ノ
前ニ置テ帰ル小菅ノ方ヨリ荷ヲ運ブ者峠ニ置テ彼ノ所レ送ノ荷物ヲ
持チ帰ル此ノ間数日ヲ経ルト雖モ盗ミ去ル者ナシ」と記しています。

昔の峠道は、いまの「妙見の頭」の下(賽ノ河原)を通っていたの
です。この交易は明治初期まで続き、萩原からは米や塩などが、小
菅、丹波山からは木材や木炭などが運ばれ、『甲斐国志』にもある
ように置きっぱなしの荷物を盗むものもいなかったという。

1912年(明治45)3月31日、田部重治、中村清太郎の2人が山
頂から下山中、大黒茂谷に迷い込み遭難。一夜を雪の谷で明かし
たが田部が意識不明になり、中村が里へ走って救出された。近代
登山が始まって山梨県で初めての初めての遭難だそうです。

草原はテガタチドリ、コウリンカ、オオバギボウシ、アキノキリ
ンソウ、ヤナギラン、ウメバチソウ、シモツケソウ、ノアザミな
どのお花畑が広がる。深田久弥「日本百名山」第70番選定。田中
澄江「花の百名山」第53選定。田中澄江「新花の百名山」第51
番選定。山梨県「山梨百名山」第56 番選定。

▼大菩薩嶺【データ】
【所在地】
・山梨県甲州市塩山(旧同県塩山市)と山梨県北都留郡丹波山村
との境。中央本線塩山駅の北東10キロ。JR中央線塩山駅からバ
ス、大菩薩登山口から歩いて3時間20分で大菩薩嶺(3等三角点
大菩薩2056.9m)

【位置】
・大菩薩嶺三角点:北緯35度44分55.68秒、東経138度50分
43.73秒)
【地図】
・2万5千分の1地形図「大菩薩峠(甲府)」or「柳沢峠(甲府)」(2
図葉名と重なる)

【参考文献】
・『甲斐国志』(松平定能(まさ)編集)1814(文化11年):(『大
日本地誌大系』(雄山閣)1973年(昭和48)所収
・『角川日本地名大辞典19・山梨』(角川書店)1991年(平成3)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系19・山梨』(平凡社)1995年(平成7)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新社)2004年
(平成16)

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
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