山の伝承伝説に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅通信【ひとり画展】とよだ 時

▼794号「山の妖怪・天狗」

【概略】
天狗はもとはすべて烏天狗の姿だったという。足利時代、日本画の
狩野元信が鼻の高い修験者姿の大天狗の姿を描き出した。それを見
て各地の天狗信奉者は次々この像に乗り換えた。しかし、長野県飯
縄山系の天狗の山・東京高尾山・迦葉山などはいまでもくちばしの
ある天狗で通している。

【本文】山の妖怪・天狗

山の妖怪のひとつに天狗がいます。天狗が初めて記録に出てくるの
は『日本書紀』(巻第二十三・舒明天皇の条)で、天狗(あまつき
つね)の文字がでてきます。しかしその姿は長い間はっきりしなか
ったという。

その後、天狗の記録はなにもなく、平安中期になりボツボツと登場
しはじめます。平安時代後期の『今昔物語』に「今は昔、天竺に天
狗ありけり」とちらほら出てくるようになります。

いまは天狗といえば、鼻が高く赤ら顔、歯の高いげたをはき、羽う
ちわを持った修験者風の格好をしています。この姿をしたのを大天
狗といい、くちばしのとがっているのがカラス天狗、または小天狗
です。なかには中天狗というのもいるとか。これが天狗の階級です。

そのほか木葉天狗、柴天狗、草天狗、金天狗、銀天狗というのもあ
るそうです。もともと天狗はいまのような鼻高天狗ではなく、すべ
てくちばしのとがったカラス天狗だったそうです。

南北朝時代の「太平記」(巻第五)に記載されている北条八代執権
高時が天狗になぶりものにされた「高時天狗舞い」や同(巻第二十
五)の「天狗評定」に出てくるのはみな醜いトビの形をしたカラス
天狗です。

ではいまのような山伏姿になったのはいつごろでしょうか。一説に
足利何代目かの将軍の時、牛若丸に武術を教えた天狗・鞍馬山魔王
大僧正(鞍馬山僧正坊とは別の天狗)が将軍の夢枕にあらわれて「自
分の姿を日本画狩野派2代目・狩野元信に描かせて鞍馬寺に安置せ
よ」とのご託宣したというのです。

将軍が元信に命じると、元信も同じ夢を見たという。早速制作にと
りかかりましたが、まさかトビの天狗を描くわけにも行きません。
イメージは浮かんでいるのですが、どうしても手が動きません。

すると天井からクモが一匹降りてきて画紙の上で糸を吐きながらは
い回りました。それを筆でなぞってみると不思議やイメージどおり
の天狗像ができあがったというのです。

この天狗像は、これまでの天狗像とは違い堂々とした大天狗。それ
を見た各地の山々の天狗信奉者は次々とこちらの像に乗り換えてい
きました。

しかし、長野県飯縄山系の天狗の山(東京高尾山、箱根明星ヶ岳・
大雄山、静岡秋葉山、群馬迦葉山、日光付近・古峰ヶ原など)はい
までもくちばしのある荼吉尼天の姿で通しています。

もちろんこの説を否定する本も多く、元信に依頼した人は別人だと
するものや、天狗像を創り出したのは京大工の祖父だなどとする本
などもあります。

また天狗のルーツは日本神話のなかの天孫降臨の時、道案内に出た
猿田彦が原点だとする説や、また仏教のカルラ王の姿や面相もよく
似ており、その他、雅楽の「湖徳面」もそっくりなことなどもあり、大天
狗のモデルには多くの異説があります。

▼【参考】
『今昔物語集』(巻第二十):日本古典文学全集24『今昔物語集』(3)
馬淵和夫ほか校注・訳(小学館)1995年(平成7)
『図聚天狗列伝・東日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
『図聚天狗列伝・西日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
『太平記』:『新潮日本古典集成・太平記4』山下宏明・校注(新潮
社)1991年(平成3)
『日本山名事典」徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
『日本書紀・巻第二十三』息長足広額天皇(おきながたらしひひろ
ぬかのすめらみこと・舒明天皇):『岩波文庫日本書紀・4』坂本太
郎ほか校注(岩波書店)1996年(平成8)
『日本大百科全書・6』(小学館)1985年(昭和60)
『宿なし百神』川口謙二著(東京美術刊)1979年(昭和54)

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
【とよだ 時】

 

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