山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

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▼727号 「尾瀬と安倍の一族・阿部三太郎」

【概略】
尾瀬の名のもと尾瀬氏は悪勢(おぜ)からきているという。「利根
郡村誌」は「悪勢ト云ヒシ剛ノ者、此城墟ニ住シ」近郊のむらを襲
い「悪勢」と呼ばれ、転じて尾瀬氏になり地名になったという。ま
た奥州安倍貞任の残党説がここにやってきて盗賊になりはてて世継
ぎをくり返し160間住んだところという。
・群馬県片品村(牛首)

▼727号 「尾瀬と安倍の一族・阿部三太郎」

【本文】
尾瀬の名のもとになっている尾瀬氏は悪勢(おぜ)からきていると
いう。「利根郡村誌」という地誌は「悪勢城墟」と題して由来に関
して2説をあげています。

悪勢説は「(尾瀬は)徒屬ノ住セシ所ト云フ。悪勢(オゼ)ト云ヒ
シ剛ノ者五六十ノ従者アリテ此城墟ニ住シ、近隣ヲ掠奪シ、暴行日
二甚シク、王沢(帝王の恵み・徳沢)二沾(うるお)ハズ。因って
日本武尊、当郡最高ノ宝保鷹山ニ在シ、王軍ヲ向ラル。悪勢魔法ヲ
以テ種々ノ奇術を施シ、盛夏二雪ヲ降ラセ、或ハ火ヲ降ラセ、王軍
ヲ悩マス数々ナレバ、御進撃被遊、岩代国火打岳ヨリ神風ヲ起シ御
征伐ナサレケレバ、悪勢通力ヲ失ヒ、一日ヲ不出シテ撲滅シ、賊党
四方二敗退スト」とあります。

また平安時代中期の奥州の武将、安倍貞任の残党説もあります。「康
平年間安倍貞任滅亡ノ時、阿部(安部?)三太郎残党僅ニ二十三人
付キ従ヒ、奥州ヨリ此山中二来リ、盗賊ノ業トシテ年月ヲ経過セシニ、
残党次第ニ嘯集シテ、近里遠境意二任セテ悪行シ、頗ル国家ノ愁ト
ナル。後チ世嗣相続キ、一ノ石太郎、二郎、三郎、松冠者、宮太郎、
太郎冠者及ビ檜枝又三郎ノ七世、康平(1058〜1065)ヨリ貞応(1222
〜1224)マデ凡ソ百六十年間ノ居城タリ」(いずれも「尾瀬の昔と今・
小暮理太郎」から)。

これには、三太郎冠者安倍頼吉からはじまり、一ノ石太郎頼任、三
郎尾瀬一臈、四郎松冠者、川場四郎高倉宮舎人、黒丸(高倉宮妾)、
宮御前、高倉太郎公豊などの名がならぶ「八十代天皇高倉家系図」
というものがついています。

この家系図だと安倍一族は以仁王と関係があることになってしま
い、興味の増すところですが、残念なことに出所が不明です。

また戸倉に伝わる話では、尾瀬氏の城は尾瀬ヶ原の牛首だったとの
説もあります。

長蔵小屋の近くの湿原の中にある尾瀬塚というのは尾瀬氏の墓だと
いわれています。

また安倍三太郎がここで稲作をしたがどこよりも早く収穫でき、早
瀬といったものが尾瀬に転訛したという説もありますが、尾瀬では
米が作れないことが実験されているそうです。

▼【データ】牛首(うしくび)
★【異名・由来】
尾瀬氏の城は尾瀬ヶ原の牛首だったとの説

★【所在地】
・群馬県利根郡片品村。JR上越線沼田駅からバス戸倉乗り換え・
鳩待峠から歩いて2時間10分で牛首。写真測量による標高点(1450
m)がある。地形図上には地名と標高点とその標高のみ記載。付近
に何も記載なし

★【位置】
・牛首標高点:北緯36度55分15.86秒、東経139度12分47.59秒

★【地図】
・2万5千分の1地形図「尾瀬ヶ原(日光)」or「至仏山(日光)」(2
図葉名と重なる)

★【参考】
・「尾瀬の昔と今」小暮理太郎:『日本山岳風土記5・東北北越の山
々』(宝文堂)1960年(昭和35)
・『尾瀬むかしむかし』第2集(南雲観光物産)
・『日本の伝説・27』(上州の伝説)都丸十九一ほか(角川書店)197
8年(昭和53年)

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
【とよだ 時】

 

 

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