山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼440号 「東北・八幡平と八幡太郎義家」

【概略】
東北の八幡平はどこから見ても盾を伏せたような形をしています。
八幡平の名は、八幡太郎義家が安倍貞任を追って登ったのでこの名
がついたとの説もあります。平安時代の康平5(1062)年、貞任を
討ち取ったのち、麓の滝沢村に八幡神社を建立したといい、同村に
は大釜、大館、旗曳、谷地、木戸口、鎧などの地名由来伝説もあり
ます。
・岩手県八幡平市と秋田県鹿角市、仙北市との境。

▼440号 「東北・八幡平と八幡太郎義家」

【本文】
岩手県と秋田県にまたがる八幡平(はちまんたい・標高1613.3m)
は、平安時代、「前九年の役」で父頼義とともに、安倍貞任(あべ
のさだとう)一族討伐に出陣した八幡太郎義家が、貞任軍を追って
山上に登ったことから八幡平と名づけたとの言い伝えがあります。

「前九年の役」(ぜんくねんのえき)で、源頼義・義家らは鎌倉時
代前期の康平5(1062)年9月15日、安倍氏懲罰のため、厨川柵(く
りやがわのき・岩手県盛岡市)に到着。厨川(くりやがわ)二郎
と異名をとる安倍貞任(さだとう)の一族の軍と激戦を繰り広げま
す。

義家らの軍は、厨川柵の周辺から滝沢村におよぶ民家を壊しながら
激しく攻め続けたといいますから、一般民衆はたまったものではあ
りません。むかしの武将はひどいことをしたものですネ。

この執ような攻撃に耐えられなくなった厨川柵はついに2日後の17
日に義家らの軍に落ちてしまいました。安倍一族を討った八幡太郎
義家と父の源頼義は、滝沢村大釜字上釜に八幡大神を勧請、神社
を建立したという。

八幡平山上にもそれにちなんだ八幡大神の祠(ほこら)があります。
滝沢村の大釜は、八幡太郎義家の陣営で、ここに陣釜を据えて兵馬
の食糧を調えたことから「大釜」の地名が生まれたという。

また大釜の高舘、高波気、篠木の参郷の森、鵜飼の鎧、滝沢の旗曳
谷地、木戸口など「前九年の役」と関係のある地名伝説がいまでも
残っています。

地名の由来にはそのほか、坂上田村麻呂が岩手山の鬼大猛丸をここ
に追い込んで殺し、その霊を弔い、八幡沼のほとりに全軍を集め、
8本の旗を立てて八幡大神を勧請(かんじょう:神や仏の分身、分
霊を他の地に移してまつること)し、八幡平と命名、武運を祈願し
たという説もあります。

そのほか、柔らかい土地(平)からの山名で、ヤワ(柔)・タ(処)。
ヤワタ(湿地)・タイ(平)に縁起のよい文字としての八をあて「八
幡平」にしたという説もあります。

深田久弥選定「日本百名山」に選定。また、田中澄江選定「花の百
名山」、同「新・花の百名山」にも選定されています。


▼八幡平【データ】
【所在地】
・岩手県八幡平市各地区名(旧岩手郡安代町)と岩手県八幡平市各
地区名(旧岩手郡松尾村)、秋田県鹿角市と秋田県仙北市田沢湖(旧
仙北郡田沢湖町)との境。いわて銀河鉄道大更駅の西22キロ。JR
東北新幹線盛岡駅からバスで八幡平終点。二等三角点(1613.3m)
がある。地形図に三角点の標高の記載あり。三角点より南東305m
にガマ沼、910mに八幡沼がある。

【名山】
・深田久弥選定「日本百名山」(第12番選定):日本二百名山、日
本三百名山にも含まれる。
・田中澄江選定(1981年)「花の百名山」(第20 番選定)
・田中澄江選定(1995年)「新・花の百名山」(第20 番選定)

【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)
・【二等三角点】緯度経度:北緯39度57分28.1364秒・東経140度51
分14.6976秒

【地図】
・2万5千分の1地形図「八幡平(秋田)」。5万分の1地形図「秋
田−八幡平」

【参考】
・『角川日本地名大辞典3・岩手県』高橋富雄ほか編(角川書店)1
985年(昭和60)
・『コンサイス日本山名辞典』(三省堂)1979年(昭和54)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本書紀』(巻第七:「岩波文庫日本書紀」(2)坂本太郎ほか(岩
波書店)1996年(平成8)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
【とよだ 時】

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