【本文】
▼【丹沢山とは】
首都圏でおなじみの丹沢山は、『日本百名山』の71番
目に取りあげられている山です。一口に丹沢といっても
ここは山地とか山塊といわれる山のかたまりです。いま
一口に丹沢山といえば丹沢主稜上の峰(1567.1m)をい
っています。ここは北東へ丹沢三ツ峰方面への分岐で宮
ヶ瀬湖に下る尾根でもあります。しかし、昔は「丹沢山」
といえば、いまの東丹沢の札掛集落周辺の山を呼んでい
たようです。
江戸時代の相模国の地誌、『新編相模国風土記稿』「巻
之五十四」には、「丹澤山(太武坐波屋満・※たむざは
やま) 郡の西方にあり、東は郡内七沢・煤ケ谷・宮ケ
瀬等の山々に続き、西は足柄上郡南は大住郡、北は津久
井県の山々に接壌(※接近)し、東西凡三里余南北四里
許に及ぶと云(※へ)り、」とあります。丹沢山は「さ
ん」ではなく「やま」で、特定の山ではなく、あのあた
りの「あの山この山」の「やま」だったのです。
さらにその丹沢山を「同法」、「汐水」、「たらいごや」、
「荒樫尾」、「長尾」、「八瀬尾」、「大洞」、「本谷」の8
か所に分けています。それは、いまの東丹沢の札掛集落
周辺の山々のことで、東西12キロ、南北16キロくらいの
山域だといいいます。だから丹沢三ツ峰への分岐、みや
ま山荘のある、いまでいう「丹沢山」のことではないよ
うですね。同書に載っている古い地図も、いまの丹沢山
より南東側の山を描いています。
この山域は深い森林におおわれ、良材に富んでいまし
た。そのため、小田原が本拠の後北条氏はこの山の森林
保護につとめました。さらに徳川幕府になってもこれを
受け継ぎ、御留山として管理と保護をきびしくしました。
とくにツガ、ケヤキや、モミ、スギ、カヤ、クリは「丹
沢六木」として、厳重に取り締まりました。
▼【札掛の木】
その山林を巡回して、厳しく監視をする役人たちのこ
んなエピソードがあります。この山々の中を布川という
川が流れていました。そのほとりの、狭い平地に一本の
ケヤキの大木がありました。山回りをした役人が、ひと
とおり山々を回ってきて、このケヤキの下で一休み。
その時、巡回した印として、この木に「札」をかけた
といいます。その札からこのあたりを「札掛」と呼びま
した。そこは札掛地区としていまも地名が残っています。
この大ケヤキも、1937年(昭和12)の大豪雨による山津
波で押し倒されてしまったということです。
▼【いまの丹沢山】
それはさておき、いまの丹沢山といっている山を、地
元では昔から、「三境(さんさかい)」とか、「三境の峰」
と呼んでいたといいます。地元に住んでいた故栗原祥さ
んは、「尊仏2号」誌(山岳会「さがみの会」発行)に
こんなことを書いています。「鳥屋村(いまの津久井町)
の場合、村から見える現在の丹沢の峰や谷の総称は単に
「奥山」であった。いまでも津久井や愛甲では三境とい
う言葉は生きている」というのです。
つまり、いまの丹沢山は、足柄上郡・愛甲郡・旧津久
井郡(いまの相模原市)の3つの郡の境になっていたの
で、地元では三境とか三境の峰と呼ばれているというの
です。この峰はそのほかにも呼び方があって、鎌倉方面
では「御本の平」(みもとのたいら)などとも呼んだら
しいですが、いまではあまり聞かなくなったようです。
さて地元の人に、「三境」あるいは「三境の峰」と呼
ばれていたこの山が、一変して「丹沢山」と名前が変わ
ったのは、明治政府が地図を作りはじめた時からでした。
当時お上は、近代的な三角測量で、見通しのいい山に三
角点を設置、測量の網を広げていきました。この山も、
明治11年(1878)から明治15年(1882)ごろ、山頂に一
等三角点をが設置し、天城山や愛鷹山・筑波山などと三
角測量が行われました。
この時、三角点を「点の記」に「丹沢山」と記入し、
できた地図にも「丹沢山」と記入してしまったのです。
また、その時、この測量に従事した作業員が、主に札掛
方面の人たちであったことから、札掛を中心とした山名
の「丹沢山」にしたとの説もあります。政府が発行する
地図に「丹沢山」と記入されてしまっては、いまさら「三
境(さんさかい)」に直せといっても、石頭の役人が訂
正するはずはありません。いつしか地元の名前など忘れ
られ、この名前が定着し、ガイドブックなどにも書かれ
るようになってしまったということです。
この山からは大きな尾根が4つが延びています。南へ
は、笹原が広がる竜ヶ馬場から塔ノ岳への尾根、東への
尾根は三ツ峰尾根を少し下って東へ別れ、札掛方面へい
たる天王寺尾根、北東には宮ケ瀬へとつづく三ツ峰尾根、
北西へは不動ノ峰、鬼ヶ岩ノ頭など、修験者たちの行場
(ぎょうば)から、蛭ヶ岳へとつづく丹沢主脈です。こ
の山の北側、早戸川の支流大滝沢には落差50mの早戸大
滝もあります。ここは近郊の雨乞いの場所だったところ
で、修験者たちは修行をしながらこの沢を登って、丹沢
山・蛭ヶ岳へ向かったといいます。
ここ丹沢山といえばこんなこともありました。1954年
(昭和29)の11月、慶応高校山岳部の3人が、この山の
北面で吹雪と疲労で遭難したという痛ましい事故が起こ
っています。また、1955年(昭和30)に行われた「第10
回国民体育大会」では登山部門の会場となり、国体コー
スが開かれもしました。また1964年(昭和39)には、こ
の山頂に「みやま山荘」が建てられ、縦走に便利になっ
たことから登山者が急増したそうです。
▼【宮ヶ瀬・長者屋敷伝説】
丹沢三峰から宮ヶ瀬へ下る途中の御殿の森南麓中津川
のほとりに「長者屋敷」という所があり、キャンプ場に
なっています。そこには隠れ里伝説があって、それにと
もなう地名説話も残っています。ころは南北朝時代、い
まの神奈川県山北町にあった河村城にたてこもった南朝
方の新田義興は、足利尊氏の執拗な攻撃にたえられず落
城。のち再起をはかりますが、多摩川の矢口の渡しで謀
殺されてしまいました。
その家臣に矢口信吉という武士がいました。信吉は主
君を失ってから、わずかな郎党を率いて丹沢山中・宮ヶ
瀬の奥地に逃れていきました。そしてここに館を築き隠
棲の地とし入道、矢口入道信吉と名のっていました。一
族は狩猟をし、魚をとり、また川から砂金を取っていま
した。そして99頭もの白い牛を連れて、煤ヶ谷(すすが
や)村を通って山越えし、ひそかに鎌倉と交易します。
その結果、巨額の富を蓄え、矢口長者と呼ばれる生活を
送っていました。
そこの地は、山を背にした渓流には小島が浮かんでい
ます。小さな島は、主君と長年共にした鎌倉の、由比ヶ
浜(ゆいがはま・いまの神奈川県鎌倉市南部の海岸)か
ら眺める江ノ島にどことなく似ています。矢口長者がこ
の地へきてから長い歳月が流れ、世の中は足利幕府の時
代になり、戦さのない日々になっていました。
そのころ、川下の宮ヶ瀬の村(いまの清川村宮ヶ瀬)
は、谷間に民家が点在する小さな山村でした。ある日、
村の若者が中津川で釣りをしていました。ふと川面を見
ると、漆塗りのお椀が流れてくるのを見つけました。「誰
も住んでいるはずがねェ山奥からこんなりっぱな椀が流
れてくるなんて」。不審に思った若者はこっそり川をの
ぼって行って驚きました。
そこには、金銀を散りばめたように輝くりっぱな屋敷
が建っているではありませんか。歩いている人々の中に
は、落ち武者らしい姿もあります。そばには、何頭もの
白い牛が寝そべり、花々が咲き誇っています。「こりゃ、
えらいことだぞ」。村へ帰った若者は、みんなに話しま
した。
村人は若者が見たりっぱな屋敷がならぶ村の話に花を
咲かせていました。しかし、次第にあの舘(やかた)に
ある金銀財宝を奪おうという相談になっていきました。
若者たちはある時、それぞれが竹槍や鍬(くわ)、鎌な
どを持って、深夜の闇にまぎれて一斉に館を襲ったので
す。
不意をつかれた信吉一族は右往左往。とうとう全員殺
されてしまいました。若者たちは、館に火をつけ、次々
に財宝を運び出して分配したといいます。矢口長者の妻
(ひとり娘ともいう)は、丹沢三ツ峰登山コースなって
いる「御殿の森」まで逃げていきました。しかし、所詮
女性の身、村人に追いつめられてしまいます。
「もはやこれまで」。矢口長者の妻は、頭にさしてい
た金のかんざしでのどを突いて自害してしまいました。
さすがに哀れに思った村人は、「御殿の森」に金のかん
ざしをご神体とした小さな祠を建てました。御殿山には
いまも祠があります。
その付近にはその時、信吉と村人が戦った(勝負した)
所といわれる「勝負沢」、六百両の財宝を分配した「六
百沢」、その財宝を持ちきれず捨てた「ころがし沢」。
ひとり娘が殺された場所が「ハタチ沢」(娘は二十歳だ
った)などの伝説にちなむ地名が残っています。
▼【龍ヶ馬場伝説】
いまでいう「丹沢山」の南側に「竜ヶ馬場」というと
ころがあります。ここにはこんな伝承があります。その
昔、修験者たちが修行の奥駆けで、大山方面から塔ノ岳
経由で丹沢縦走を行いました。その途中、疲れた体でこ
こ竜ヶ馬場までやってきて、一休みしました。
そんな時、ふとウトウトとまどろんだ時、夢の中に竜
に乗った菩薩さまがあらわれました。そこで、その尾根
の西側の岩場に竜頭(りゅうず)菩薩をまつりました。
そんなことから「竜ヶ馬場」の名がつけられたといいま
す。このように、丹沢の山々には修験者たちが開いたと
ころが多くあります。
丹沢の修験は、大山を行場とした大山修験(当山派)
のほかに、大山東方山中の日向修験(本山派)と、東北
東山ろくの八菅修験(本山派)などがあります。とくに
日向山修験は、日向薬師を基点として大山、表尾根、塔
ノ岳から主脈といわれる山々を行場としていました。
1963年(昭和38)に発見された『峯中記略扣(控)』(ぶ
ちゅう
きりゃくひかえ)という古文書があります。
これは日向山霊山寺修験(日向修験)常蓮坊が書き留
めた、丹沢入峰修行(4泊5日かけての奥駈け)の作法
を示したもの。それには竜ヶ馬場についてこんなことが
書いてあります。
「是ヨリ北ヱ行黒尊仏岩有、是ヨリ登リ龍ガ馬場也、
此所百間程ノ長サニ而広ハ五間位ノ馬場ノ形也、此中所
ニ竜樹菩薩ノ尊有、是ニ札納、而モ此馬場ニ而竜樹ボサ
ツ馬ニ御ナリ相成候ト云伝也、此向ハ行者カエシト云大
キナ岩有(り)、是ヨリ右ノ方ハ平イ地ノカキノ也、夫
ヨリ峰ニ登リ彌陀ガ原ト云所ニ出て、是ニ一宿致シ、是
ヨリヲリ込蔵王権現有札納、是ヨリ下リコフバセ上リコ
フバセト云所新客サカサ木ノ行所有、是ヨリ峰ニ登リ神
前ノ平地也、此所ニ不動尊有」とむつかしい文字がなら
んでいます。
つまり、塔ノ岳の黒尊仏からなおも進み、「これより
登り、龍ヶ馬場に至る。この所は百間程の長さで、広さ
は五間位の馬場の形をしている。ここに龍樹菩薩の尊仏
があり、札を納める。この馬場は、龍樹菩薩が馬に乗っ
たという伝承がある。此向かいに(一部の資料には「段
向かいに」とあります)行者返しという大きな岩がある。
それより峰に登ると、弥陀ケ原という所に出る。これよ
り峰に登り一宿する」のだそうです。
ここに出てくる「行者返し」と呼ばれた大岩はいまで
もあります。この笹原は、明るく絶好の憩いの場所です。
登山者が腰を下ろし、休憩しているのをよく見かけます。
明るい竜ヶ馬場(りゅうがばば)のスズタケの斜面に出
ます。
▼【白いムジナ伝説】
ここ丹沢山ろくにはこんな伝説もあります。丹沢山東
ろく、箒杉沢から玄倉川につづく、丹沢湖の湖底に沈ん
だ三保村の話です。ある鉄砲打ちが、丹沢山に入り猟の
最中、山中で夜を過ごした時こと。突然暗闇の中から、
ハイカラ娘があらわれました。当時丹沢山には、人を取
って食う化け物がいるというウワサがありました。猟師
は、「さては化け物!」と思い、鉄砲を撃ちました。
しかし、若い女は、何の反応もなく笑っています。猟
師は鉄砲を何度も撃ちました。それでも女は、相変わら
ず笑っています。よく見ると、女は暗い中に提灯(ちょ
うちん)を持っています。猟師は提灯をねらって弾を撃
ちました。するとスーッと姿が消えました。翌朝、確か
めに行くと、そこには白いムジナが死んでいたという。
ちなみにムジナとはタヌキのことだそうです。
▼丹沢山【データ】
★【所在地】
・神奈川県愛甲郡清川村と同県相模原市(旧津久井郡津
久井町)と足柄上郡山北町山北町の境。小田急小田原線
渋沢駅からバス、終点大倉下車歩いて5時間で丹沢山(標
高1567.1m)。
★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」
から検索
・三角点:北緯35度28分28秒、東経139度09分46秒
★【地図】
・2万5千分の1地形図「大山(東京)」
▼【参考文献】
・『あしなか9』(会報・総目次)「月報第4号」(山村
民俗の会)1948年(昭和23)
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編
(角川書店)1984年(昭和59)
・『かながわの山』植木知司(神奈川合同出版)1981年
(昭和56)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005
年(平成17)
・『新編相模国風土記稿』(巻之五十四 村里部):大日
本地誌大系21「新編相模国風土記稿3」編集校訂・蘆田
伊人(雄山閣)1980年(昭和55)
・「尊仏2号」栗原祥・山田邦昭ほか(さがみの会)19
89年(昭和64・平成1)
・『丹沢記』吉田喜久治(岳(ヌプリ)書房)1983年(昭
和58)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年
(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平
成16)
・『日本未確認生物事典』笹間良彦著(柏美術出版)19
94年(平成6)
・『日本歴史地名大系14・神奈川県の地名』鈴木棠三ほ
か(平凡社)1990年(平成2)
・『名山の民俗史』高橋千劔破(河出書房新社)2009年
(平成21)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新
社)2004年(平成16)
……………………………………………………………………………
山旅通信【ひとり画ッ展】題名一覧へ【戻る】
……………………………………………………
「峠と花と地蔵さんと…」HPトップページへ【戻る】
|