伝説伝承の山旅通信【ひとり画展】とよだ 時

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1075号「北ア・池平山と4つの仙人山」

【本文】
 北アルプス剱岳から北にのびる稜線ルートには、池ノ谷乗越(い
けのたんのっこし)、三ノ窓(さんのまど)、小窓ノ王、小窓の頭、
小窓(こまど)、池平山(いけのだいらやま・池ノ平山とも書く)
などの難所があります。窓(まど)というのは、稜線上でV字形
に深く切れ込んだキレットのこと(『山の用語なんでも事典』)。

 大窓の手前の池平山(池ノ平山)は、古くは「西仙人山」と呼
ばれていました。明治時代、陸地測量部という役所が地図を作成す
る時、この山の東面の「池ノ平」の名前をとって「池平山」として
しまったのだそうです。その証拠に、この山の西側(富山県上市町
馬場島方面)から小窓へ突き上げる白萩沢の一源流に西仙人谷して
その名がいまも残っています。しかしすぐそばに中仙人谷、東仙人
谷もあるので、それぞれの文字のつく山があったのかも知れません。

 池平山の東面直下の「池の平」は大正時代の初期にモリブデンと
いう鉱石が採掘された時期がありました。これは特殊合金の原材料
になるシロモノ。時は1902年(明治35)、陸地測量部が白ハゲ山
(大窓北方側ピーク)に三角点を設置しようとした時のこと。三角
標をたてるため作業員が登山。その中の一人が地面に鉛のようなも
のが散らばっているのを見つけ、持ち帰りました。

 それがたまたま横浜に住んでいたドイツ人が手に入れました。こ
の人はそれをモリブデンを含む輝水鉛鉱だと判定する知識があった
のか、薬の原料だとうそをついて買い取り、地元の鉱夫たちを雇っ
て採掘させたということです。

 そして年間約3トンものモンブデンを母国へ送り、耐久性のある
大砲を製造していたのだそうです。やがて日本もこれが重要な金属
であることを知り、鉱夫たちでにぎわうようになります。モリブデ
ンの産出量のピークは1917年(大正6)あたり、日本の生産量の
76%を占めたというからすごい。

 そして突然の閉山。「五棟の飯場は皆傾き、帳簿や伝票類が乱雑
に散らばっている……」、1922年(大正11)にここを訪れた冠松次
郎(山岳紀行文、とくに黒部峡谷の地域研究で知られる登山者)は、
なぜかあわただしく短期間に閉山した様子を著書に記しています。

 その後、第二次大戦下の1941年(昭和16)には、海軍の支援に
よって、本格的に採掘しましたが、1945年(昭和20)終戦と同時
に閉山しました。また戦後に再び開鉱しましたが、短い期間で閉山
してしまいました。いまも池ノ平小屋の近くには鉱石を洗鉱してい
たあともあって、キラキラ光るモリブデン鉱が落ちているといいま
すが、気がつきませんでした。

 モリブデンの採掘場所は、小黒部谷と大窓雪渓の出合い付近。事
務所と飯場は、池平山東方直下の鞍部(いまの池ノ平)に置きまし
た。建物は建て替えられ、いまの池ノ平小屋になっています。1915
年(大正4)、ここを訪れた小暮理太郎と田部重治が宿泊したといい
ます。

 採掘された鉱石は、索道で上市町馬場島方面へ搬出していました。
その経路は池ノ平から大窓に運び、大窓からは索道で白萩川におろ
し、白萩川沿いにブナグラ谷出合へ。さらに早月川沿いにいまの滑
川市へと運ばれていたらしい。史跡としては大窓に955年(昭和30)
ごろまで、大きな櫓が建っていたといい、白萩川の河原にもワイヤ
ー類が散乱していたといいます。いまでも大窓から白萩川に下る途
中に、3ヶ所石積みの架台(かだい)がかかっているというから、
大規模な索道をつくっていたようです。

 さて、池平山の東側下方には仙人の名のつく地名がならんでいま
す。池平山をかつては西仙人山といい、その東に仙人山、南仙人山、
北仙人山(地形図では坊主山)、仙人峠、仙人池、仙人湯、仙人谷
などなど。このあたりはかつて、剱岳を崇拝する修験者が修業しな
がら回峰していたかららしい。

 そのせいか仙人湯の近くには、仙人窟があって、南北朝時代の石
仏も鎮座するといいます。ただ池ノ平山山頂、赤谷山、大窓にも石
仏がありますが、これはのちに建てられたもので、昔の山岳信仰の
石仏たちではないそうです。(こういう、近年になって新興宗教団
体が石仏を建てるには国の認可が必要でしょうにね)。

 仙人山は、北東面にある仙人谷からきた名前で、人の住むどこの
里からも見えないほど奥深い山だとか。仙人山の北東にある坊主山
(2199.2m)。国土地理院の地形図では「坊主山」とありますが、
かつては北仙人山といっていたそうです。昭和のはじめ、このあた
りがよく登られていた時代の文献をみると、坊主山はこの山の北約
3キロの1668.1mの名無し峰を指していたのだそうです。

 仙人山の東、約1.5キロには南仙人山もあります。南仙人山は仙
人峠、仙人池から東へつづくガンドウ尾根の上にあり、標高は2173.1
mです。尾根の末端は黒部峡谷のS字峡になります。ちなみに「ガ
ンドウ」とは、大きな鋸のことで、尾根の形がギザギザになってい
るさまといいます。ここは登山道がないので登山者はいません。た
だ冬季、鹿島槍ヶ岳から黒部峡谷を横断して剱岳をめざす際の一コ
ースとなっているそうです。

 ある年の9月、大勢の登山者で賑わう剱岳山頂から、東北へのび
る尾根に入り、池ノ谷乗越(いけのたんのっこし)へ向かいました。
そびえたつ岩陰で薄暗く、砂地の急坂を大石と一緒になって滑り
ながら下ります。三ノ窓の先は、鼻がつかえるように「小窓ノ王」
がそびえたっています。小窓ノ王とはその北側にある2650m峰の
小窓ノ頭よりもっと高い所にあるため、「頭」よりも上位の地位だ
として「王」の字がつけられたとのことです。

 「小窓ノ王」の名がはじめて使われたのは『登高記』で著者の
吉沢一郎氏の命名らしい。これに対して、小窓の西側にある小さな
ピークを小窓妃(ひ)と呼んでいるとのことです(『富山県山名録』)。
小窓を通過し、草つきをあえぎながら池ノ平山へ。山頂からは剱岳
がみごとです。

 ここからは大窓方面を右に見ながら東方へ下ります。途中、かつ
てモリブデン鉱山の小屋だった池ノ平小屋を見送り、仙人池ヒュッ
テへ。水面にうつる剱岳から続く八ツ峰、三ノ窓、あの小窓ノ王、
小窓雪渓……、なるほどこれが仙人池か、などと感心します。

 のちに資料を調べると仙人池は、1926年(昭和元)に冠松次郎
が発見した池で、氷河がつくった圏谷と、氷河末端の堆石提で囲ま
れた場所に、水が溜まって池になったものとありました(『角川日
本地名大辞典・富山』)。またヒュッテでは、こんなに山の奥深い所
にかかわらずお風呂も「ご馳走」になり、翌朝は仙人峠から仙人新
道、剱沢、内蔵助谷経由で黒部ダムに向かったのでありました。

▼池平山(池ノ平山)【データ】
★【所在地】
・富山県上市町と富山県黒部市にまたがる。
★【位置】
・池平山:北緯36度38分24.8秒、東経137度37分36.96秒
★【地図】
・2万5千分1地形図名:「十字峡」
★【山行】
・某年1987(昭和62)年9月14日
▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典・富山』(角川書店)1979年(昭和54)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『富山県山名録』橋本廣ほか(桂書房)2001年(平成13)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本の山1000』(山と渓谷社)1992年(平成4)
・『日本歴史地名大系16・富山県の地名』(平凡社)1994年(平成
6)
・『山ことば辞典』岩科小一郎(百水社)1993年(平成5)
・『山の用語なんでも事典』(山と渓谷社)1984年(昭和59)

 

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【とよだ 時】山の伝承探査
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