山の伝承伝説に遊ぶ
山旅通信
【ひとり画ってん】とよだ 時

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1059号丹沢・日影山(ブッツェ平)

【短略文】
秦野峠は、かつては西丹沢玄倉集落と山北町寄集落を結ぶ重要な交
易路。また両域を嫁ぐために行き来した花嫁街道だったという。
秦野峠の西に日影山(ブッツェ平)は、南北朝時代、河村城に立
てこもり足利尊氏軍と戦った地元の豪族河村氏たちの残党にちなん
だ山だという。
・神奈川県足柄上郡山北町。

1059号丹沢・日影山(ブッツェ平)

【本文】
 神奈川県松田町寄集落から丹沢湖のある西丹沢玄倉集落に通じる
秦野峠林道は、25年の歳月を費やして1995年(平成7)に完成し
た林道。この林道がなかったころの秦野峠は、古くからふたつの集
落を結ぶ交易路であったという。また林道ができる前は、水害など
で大きく荒廃した峠道だったという。

 当時の峠道は秦野峠から西へ延びる尾根をたどります。交易路だ
けでなく、ふたつの地域相互に、嫁いでいくために越えていった「花
嫁街道」でもあったそうです。その尾根の途中にあるおだやかなピ
ークの日影山があります。ブッツェ平ともいうそうです。

 この日影山の北西には、静かに水をたたえた丹沢湖の湖面が明る
く光っています。一方、南側の皆瀬川の流域は樹林とヤブが多く、
登山者の姿も見られません。この流域は旧皆瀬川村で、いまは山北
町になっています。

 昔の神奈川県の地誌として多く引用されているものに、江戸時代
に編纂された『新編相模国風土記稿』という古書があります。その
地誌に、「皆瀬川村(美奈世加波牟良)江戸ヨリ行程二十五里餘。
当村モ古クハ川村郷ニ属セリ。……今大久保加賀守忠眞(ただざね
・小田原藩)領ス。……村南ニ川村御關(関)所道係レリ。幅六尺」
と皆瀬川村について記述があります。

 そのまわりの山については、「山:当村の四方皆連山ナレドモ。
各無名ナリ」とあり、日影山の記載はありません。日影山は「無名
ナリ」の山の中に入っていたようです。皆瀬川村は、『新編相模国
風土記稿』が編纂された時代には、「小名:人遠(此止登乎・ヒト
トヲ)・鍛冶屋敷・深沢・市関・湯ヶ沢・高杉・八町(八丁)」とあ
り、7つの集落からなっていたらしい。

 そういえば村を流れる「皆瀬川」の名は、「美しい七つの瀬」の
川が語源だとか。美七瀬川(みなせ)と読むわけですね。この流域
には南北朝時代の南朝方の伝承が多く残っています。それは山北町
の南側にあった河村城に関係があるらしい。

 この城は平安時代末期に、平将門を討った藤原秀郷の流れをくむ、
河村秀高という人が築いた城。建武の新政(建武の中興)を経て南
北朝時代になると、河村氏は新田氏に協力し南朝方につき、北朝方
の足利尊氏と対立します。やがて足利尊氏・直義兄弟が不仲になり、
尊氏が弟の直義を殺害します。

 河村氏がついた南朝方の新田義貞の息子新田義興(よしおき)と
脇屋義治らは、その混乱に乗じて、一時は鎌倉を占領するほでした。
しかし、尊氏軍が攻めてくるとの情報に、新田義興らは1352年(南
朝:正平7年、北朝:文和元年)、河村秀国・河村秀経らとともに
この城に立てこもりました。

 後醍醐天皇の皇子宗良親王(むねながしんのう)も立てこもった
とも伝えています。いまも高杉地区にある大杉大神宮の祭礼の「お
峰入り」は、宗良親王の河村城入りを模したとも、また親王を慰め
るために行われたともいわれ、国指定重要無形文化財に指定されて
います。

 さてそれからというもの、強大な足利尊氏軍は、河村城を取り囲
み攻めつづけます。執拗な尊氏方の兵糧攻めに堪えかね、河村城は
1年あまりで落城します。新田義興らは仕方なく、河村城の支城で
ある中川城などから次から次へと退却し、ついには甲斐へ逃げのび
ました。

 その後は何処ともなく退いていったという。そしてのち、東京都
大田区の多摩川の矢口の渡しで、部下の裏切りで非業の最期をむか
えます。その後、新田義興の家臣の矢口信吉がこんどは神奈川県・
東丹沢の「長者屋敷」に隠れ住むことにつながっていきます。

 こうしたいきさつから、神奈川県、山北周辺には南朝方にまつわ
る伝説が多く残っています。なかには、後醍醐天皇が日影山(ブッ
ツェ平)南ろくの皆瀬川の八丁(八町)地区に、妃とともに隠れ住
み、この地で最後を迎えたといい、その御陵といわれるものまであ
ります。

 また河村氏の残党も日影山(ブッツェ平)や八丁(八町)地区に
も住んだという。ブッツェ平(武士平)の山名はこの武士が由来だ
といいます。さらに皆瀬川村の中を流れる「皆瀬川」についてこん
な話があります。

 この川はかつては皆瀬川村の中を流れ、いまのJR御殿場線の線
路のある安戸トンネルあたりまで南下、ここで急に東へ直角に曲が
り、山北駅を含む町の中心を流れていたという。古書にも「河村城
は南に酒匂川、北に皆瀬川」とあります。

 河村城は皆瀬川と酒匂川に挟まれていたとあり、地図で見てもい
まの地形と違っています。それは皆瀬川村の名主の湯山弥五右衛門
が開削し、川の流れを大きく変えたからです。江戸時代中期、宝永
4年(1707)に起こった富士山の大噴火は、降灰以後流砂のため、
皆瀬川の河床が上がり、川が氾濫し村人は大変な被害を受けました。

 それを見た湯山弥五右衛門は、河川の改修を試みるのでした。ま
ず、代官の伊奈半左衛門という人に陳情しましたが、受け入れられ
ませんでした。そこで弥五右衛門は、大胆にも江戸幕府に直訴しま
した。

 こうしてなんとか許可が得られ、工事に着工、直角に東へ曲がっ
ていた皆瀬川を真っ直ぐ南に掘り進め、酒匂川に合流させ、水害か
ら村を守ったのでした。ところがこんどは、水位が下がりすぎて井
戸水が出なくなる騒ぎが起こりました。

 満々と水をたたえた田んぼもカラカラに干上がって、畑になって
しまう始末。やがて次代の弥五右衛門の時代になり、水を川の上流
から開くことになりました。こうして村人も安心して農作業に励め
るようになったという。

 『新編相模国風土記稿』(巻之十六)にも、「村北ヨリ南ニ流テ。
直ニ酒匂川ニ合ス。(幅三十間)、舊(旧)ハ村ノ中央ヲ流レシニ。
寶(宝)永六年官命ヲ下サレ。掘改(め)ラル。舊地は今古川跡ト
唱ヘ水田トス」とあるところです。

 現在、皆瀬川流域は浸食作用によって、小規模な断崖がつくられ、
断崖の急斜面地帯には、シダ類植物群落(ハコネシダ、マメシダ、
ビロウドシダ、ノキシノブ、イワヒバなど)が見られ、神奈川県の
天然記念物に指定されています。また、山北町皆瀬川人遠で合流す
る沢沿いには、有孔虫の一種が含まれる石灰岩も露出していて、こ
れも県の天然記念物になっています。


▼日影山(ブッツェ平)【データ】
【所在地】
・神奈川県足柄上郡山北町。小田急線新松田駅からバス。丹沢湖
下車。3時間30分で。日影山(ブッツェ平)。三等三角点(876.16
m)あり。
【位置】
・三角点:北緯35度24分36.79秒、東経139度4分59.18秒
【地図】
・2万5千分の1地形図:山北。


▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1991年(平成3)
・『かながわ 山紀行』植木知司(かなしん出版)1991年(平成3)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・「尊仏2号」栗原祥・山田邦昭ほか(さがみの会)1989年(平成
元)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系14・神奈川県の地名』鈴木棠三ほか(平凡社)
1990年(平成2)

 

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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