山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅通信【ひとり画展】とよだ 時

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▼1057号「丹沢・姫次の姫と丹沢主脈」

昔、追っ手から逃れてきた姫が焼山まで来たとき、追っ手に追いつ
かれ、家来は殺されてしまいます。なおも奥へ奧へと逃れましたが、
追いつかれあえなく最期。姫が突き落とされたところから「姫突き」
の名が生まれ、「ヒメツギ」に転訛、さらに「姫次」になりました。
・神奈川県相模原市

 

▼1057号「丹沢・姫次の姫と丹沢主脈」

【本文】
 丹沢山塊の東丹沢の大倉尾根を登り、丹沢主脈を縦走します。
塔ノ岳から、丹沢山、不動ノ峰を通り、蛭ヶ岳を経て北へ下ります。
しばらくして原小屋平を過ぎ、ひと登りするとベンチのある姫次(ひ
めつぐ)という所に出ます。

 地元では「ヒメツギ」と呼ぶそうです。ここは深い谷が尾根に食
い込んでいる丹沢の中では珍しく、カラマツに囲まれた1キロ四方
の高原状のササ原です。姫次原・姫次岳とも呼ばれ、有名な植物学
者で登山家の武田久吉博士はとくに、姫岳と書いてヒメツギのルビ
をふっています。

 博士も著書に丹沢の潅木にはウツギの類が多いとあり、ニシキウ
ツギやヒメウツギも出てきます。そんなことから一般的に、このヒ
メウツギが「ヒメツギ」、さらにヒメツグに転訛したのだろうとさ
れています。さらにヒメハギも由来の可能性があるという人もいま
す。

 『丹沢記』を著した吉田喜久治氏は、「ヒメハギ」の「ハ」が「ツ」
にすりかわったか、また「ヒメウツギ」の「ウ」が黙音となったか
としています。ヒメハギはヒメハギ科ヒメハギ属の常緑多年草。ヒ
メウツギはユキノシタ科ウツギ属の落葉低木。かなり以前、ここで
一晩過ごしたことがありました。ころは秋、翌朝テントから出たと
きのカラマツの色づきが格別でした。

 ここにはお姫さまにちなんだこんな伝説があります。その昔、追
っ手から逃れてきた姫が、ひとりの家来(夫との説もある)を連れ
て丹沢に逃れてきました。焼山登山口西野々方面から奥山へ登る途
中、岩場のある急坂にさしかかりました。

 姫を先に登らせた家来が、ふと見上げると……。ハッとなった家
来は目をそらし、姫が登り切るまで目をつむっていたという。その
坂を「サネミザカ」というそうです。ふたりがあえぎあえぎ焼山ま
で来たとき、追っ手に追いつかれ、家来は殺されてしまったそうで
す。姫はけなげにもなお奥へ奧へと逃れました。

 この時追ってきた敵の兵士の松明(たいまつ)が枯れ葉に燃え移
り山火事になってしまいます。それからというもの、この山を「焼
山」というようになったと伝えています。また異説に、こんな話も
あります。

この山は鳥屋、青野原、青根の旧3村の境界の入会地でした。山仕
事の村境となればとかく紛争がつきものです。その上、境界争いに
よる出火からか、たびたび山火事が発生したそうです。そのため、
山の名前まで焼山と呼ばれるしまつ。「このままではまずい」と3
つの村が集まり、話し合いをしました。

 3つの村の境界をはっきりさせるため、それぞれの村が石祠を建
てたと伝えます。この祠はそれぞれに焼山権現という神をまつり、
青根社は青根村方面を、鳥屋社は鳥屋村方面を、また青野原社は青
野原村方面を向けて建てました。この祠が建ってからは山火事もな
くなったということです。さて話を戻します。

焼山からさらに登ると、黍殻(きびがら)山という山があります。
(ここは落人の姫とその夫が、この近くにこっそりと住み、キビを
つくっていたとか、神ノ川の方の折花姫伝説の長者舎(ごや)の長
者さまの出づくりのキビ畑であったという話もあります)。

 しかし、キビガラとはウラハグサ(イネ科・アシの仲間)のこと
をいう、道志方面の方言だとくるからこんがらかります。また昔は、
この山を「はらきみがら」と呼んでいたらしい。この「きみがら」
が「君ヶ谷」、そして黍殻山と呼ばれるようになったらしい。ホン
トに山の名は難しいものです。

 さて、姫はさらに奥山に逃れます。やっと開けたササ原にたどり
着きました。やれやれと思ったのもつかの間、大勢の追っ手に追い
つかれてしまいました。「もはやこれまで」。

 姫は、自ら剣でのどを突いたとも、敵に突き落とされて悲しい最
期を迎えたという。(どこへ突き落とされたかは不明)。そんなとこ
ろから「姫突き」の名が生まれ、「ヒメツギ」に転訛、さらに「姫
次」になったという。

 この姫こそ「天目山の戦い」に敗れた岩殿城の小山田八左衛門丞
行村の娘・折花姫のことでしょうか。この話は、神ノ川の折花姫伝
説と混同されているようですが、しかし、姫の父親小山田八左衛門
丞行村の墓が青野原西野々にあるのです。

 岩殿城とは、山梨県JR大月駅前岩殿山に築かれた城。ここの城
主小山田信茂(のぶしげ)が仕える甲斐武田氏17代当主武田勝頼は、
天正3年(1575)三河長篠の戦いで徳川家康・織田信長連合軍に敗
れて以来、勢力が激減し、次第に領地も失っていきました。

 勝頼は1581年、織田・徳川連合軍を迎え討つため、新府韮崎城を
築きます。しかし翌年の1582年(天正10)、織田信長が武田侵攻を
はじめると、武田勝頼は新府韮崎城に火をつけて逃れ、山梨県大月
市にある家来の小山田信茂の砦である岩殿城を目指しました。

 その道中、笹子峠で小山田信茂が主君を裏切り行方をくらましま
す。行くところがなくなった武田勝頼は、いまの山梨県甲州市大和
村田野の天目山近く(JR中央線甲斐大和駅東方)で、敵軍に追い
つめられ、嫡男信勝とともに自害しました(天目山の戦い)。

 こうして平安時代から続く甲斐武田氏は滅亡しました。その後小
山田信茂は、信長方へ家来にしてくれるように願い出るのでしたが、
かえって不忠者として成敗されてしまいます。

 この小山田信茂の一族(従兄弟)に小山田八左衛門丞行村(彦之
丞)という武士がいました。小山田行村は主君小山田信茂留守の間、
岩殿城で城代を勤めていました。八左衛門丞行村は、岩殿城主信茂
が織田信長に処刑されたという知らせに「信長は必ずここにも攻め
てくる」と確信。

 行村は一族を連れて大月からいまの神奈川県相模原市津久井地区
へと入って行きました。一行は丹沢の山々を越えて、小田原に逃げ
るつもりだったらしい。

 その一行の中に折花姫(おりばなひめ)という美女がおりました。
せまりくる敵軍の追っ手。小山田行村は、最愛の折花姫が逃げられ
るよう、わざと敵の弾に当たり犠牲になりました。その間に、折花
姫は翁と姥を伴い神ノ川の上流に逃げていったいうのです。

 その後、折花姫は神ノ川沿いに隠れ住みますが、信長・家康連合
軍の追っ手は執拗に探してきます。懸命に逃げるものの、か弱い姫
の足は思うようにはかどらず、たちまち音久和(おんぐわ)集落の
あたりで追いつかれ、ついに姥に矢が当たってしまったという。

 姥は追っ手の目をあざむくため、姫の打ち掛けをかぶって、敵の
眼前に躍り出ました。こうして姫を逃すため息を引き取った場所に
「ばば宮」というお宮をまつりました。

 姫は悲しみのなか、死んだ姥に手向けの念仏を唱えながら、山道
を登っていきました。そこを「アミダ申シ」というそうです。だま
されたと知った追っ手は、渓谷を登っていく姫と翁の二人を発見、
矢弾をうち注ぎます。

 翁もついに傷つき、苦しい息の下から姫に逃げていく行き先を教
え、最後の力を振りしぼって敵と立ち向かい討ち死にしたという。
その場所にあるのが「じじ宮」です。

 ひとり残された折花姫は、神ノ川を奧へと分け入っていきました
が、追っ手に取り囲まれ、姫は自ら懐剣でのどを突き、無念の最期
をとげたのでした。そこには姫折宮がまつれていて、その付近の木
を切るといまもタタリがあると伝えられています。


▼姫次【データ】
★【所在地】
・神奈川県相模原市(旧津久井郡津久井町)。JR中央線藤野駅か
らバス、やまなみ温泉下車、藤野町営バス東野行き乗り換え、終
点東野で下車、さらに歩いて3時間で姫次。
★【位置】
・姫次:北緯35度30分32.85秒、東経139度07分56.4秒
★【地図】
・2万5千分の1地形図「大室山(東京)」or「青野原(東京)」(2
図葉名と重なる)


▼【参考文献】
・『あしなか復刻版・第三冊』:▼「あしなか41輯」(山村民俗の会)
1954年(昭和29)
・『落人・長者伝説の研究』落合清治(岩田書院)1997年(平成9)
・『かながわの山』植木知司(神奈川合同出版)1981年(昭和56)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『尊仏2号』栗原祥・山田邦昭ほか(さがみの会)1989年(平成
元)
・『丹沢記』吉田喜久治(岳(ヌプリ)書房)1983年(昭和58)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
【とよだ 時】

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