山の伝承伝説に遊ぶ
山旅通信
【ひとり画ってん】とよだ 時

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1056号各地の山々に伝わる大太法師伝説

【略文】
昔、巨人が全国を歩きまわっていたという。富士山をつくろうとし
て、運んでいた土がもっこからこぼれ落ちてあちこちに山ができた
という。こんな巨人も時代が移るに従い人間に近づき小形になって
いきます。しかし「小形巨人」たちは、秋田三吉神や榛名のダイダ
法師などのように、地域の人たちに天狗だとされています。

1056号各地の山々に伝わる大太法師伝説

【本文】
 昔、巨人がやってきて全国を歩きまわっていたという。富士山を
つくろうとして、運んでいた土がもっこからこぼれ落ちてあちこち
に山ができたという。また歩いた大きな足跡に水が溜まって、池や
沼地になっていまに残っているという地名伝説が各地にあります。
富士山に腰をかけて東京湾の水で顔を洗ったなどのデッカイ話もな
らびます。

 しかしこの巨人伝説も、人類の文化の発達に比例して、それらの
大巨人は次第に影がうすくなり、だんだん人間に近い巨人に縮小さ
れてしまっています。平安初期の説話小説集『日本霊異記』にも超
能力を持つ怪人道場法師が出たきますが、大太法師の小形版のよう
です。

 この法師は、紀元570〜580年代というから気が遠くなるような
古墳時代後期、尾張国(いまの愛知県西半部)の一農夫が、空か落
ちてきた雷の子を助けて帰したお礼に子が授かり、生まれた子は10
歳の時には8尺(約2.5m)四方の大石を投げ飛ばすという怪力の
持ち主になりました。

 飛鳥の元興寺の小僧となり、夜な夜な同寺の小坊主を食らう鬼の
頭髪を引きはがし、その正体を暴いたりしました。のちに元興寺の
僧となりました。そんな時、たまたま付近の地主たちが、寺の田ん
ぼに流れ込む水をせき止めて田んぼを干上がらした事件がありまし
た。彼は怒って、水門に100人かかっても動かせないような大石を
置いて流れ口をふさぎ、地主たちを懲らしめたという。

 そんな力持ちの法師ながら、太古の大巨人の山競べや、足跡の沼
に比べると話のスケールが小さくなっているのは否めません。しか
し、道場法師以後に伝承される「小形巨人」たちは、天狗の仲間入
りをしているのが多い。相撲好きな秋田三吉神や南海硫黄ヶ島のホ
ダラ山王・ミエビ山王、また榛名のダイダ法師たちも天狗扱いをさ
れています。

 南海硫黄ヶ島は鹿児島県三島村硫黄島、ここでは天狗が、火口に
立って羽団扇で扇ぎ返して噴火を収束させたという。また群馬県榛
名湖畔のヒトモッコ山は、昔天狗が作った山だという。天狗は榛名
富士を、ほんものの富士山より標高を高くしようと、地面を掘って
は土を榛名富士に積み上げていました。

 しかし夜が明けてしまい、神通力がなくなり、最後の一モッコを
投げ捨てました。それがあのヒトモッコ山で土を掘り下げたところ
が榛名湖だという。地元ではこれを大太法師=天狗の仕業だといい、
いまでも湖畔の土産物店では「松傘天狗」という天狗こけしを売っ
ています。

 一方、超巨人の全国的なダイダラ坊伝説はこんな具合です。鹿児
島県下に有名な大人(おおひと)弥五郎などは、地域の霊威ある八
幡神に征服された巨人として伝えられています。また沖縄本島では
アマンチュウ(天人)という巨人の話があります。大昔、天地はい
まのように隔てはなく、ひとつになっていたという。つまり頭が天
につかえていて、人間も立って歩けなく這って歩いていたという。
大男アマンチュウはもっとヒドイ。

 これはいかにも不便だ。彼はある日、硬岩の上に立ち、これを足
場にして天を両手で持ち上げ、「エイッ」とばかり立ち上がりまし
た。天は地面から高く離れ、人々は立って歩けるようになりました。
見ると足場にしていた硬岩には大男の足形がへこんでいたという。
「それがいま某所某所の大きな足跡はこのアマンチューの足跡であ
る」というのです。

 巨人の名は大太法師で、ダイダラボッチとかデーダラ坊などと呼
んでいます。そのほかダイタイボウ(茨城県)、ダイタボッチ(東
京・埼玉)ダイダラホウシ(栃木県)、ダイテンボウ(会津地方)、
デイラボッチ(長野県)、レイラボッチ(山梨県)、ダンダンボウシ
(富山県)、ダタンボウ(三重県)、ダイダラボウ(香川県)、ダイ
タボウ(愛知県)、デーデッポー(千葉県)などとなまって呼ばれ
それぞれ大男にちなむ地名伝説があります。

 この巨人伝説は『古事記』や『日本書紀』などの神話にも出てき
ます。『古事記』に登場する伊弉諾尊(いざなぎ・男神)、伊耶伊弉
冉尊(いざなみ・女神)の2神の、大八洲(おおやしま)誕生譚、
また大己貴(おおなむち)の神(大国主神)の出雲の国引き神話な
どはこの類なのだそうでず。

 北アルプスは唐松岳の巨人伝説です。大昔、信濃国に雲を突くよ
うな大男のそりのそりとやってきました。西條の湖のほとりまで来
た時、足もとに枝振りのいい小松を見つけました。「ここにはもっ
たいないカラマツだ。もっと高いところに植えてやろう」。見渡す
と高山がならぶ先に形のいい木曽御嶽が目にとまりました。「よし、
あそこの頂上に植えてやろう」。巨人がカラマツを引き抜き、大き
な手のひらに乗せ、木曽御嶽に手を延ばしました。

 その時、夜がシラジラと明け太陽が顔を出しました。日の光が嫌
いな巨人は大慌て。カラマツを放り投げて一目散に逃げ出しました。
カラマツは近くの唐松岳の頂上に落ちて根を張ったという。それか
ら幾千年、西條の湖の跡はなくなってしまいましたが、カラマツは
いまでも残っているという。そして信濃国に湖や沼が多いのはその
巨人の足跡に水が溜まった跡だとされています。

 また、奈良時代の『常陸風土記』那珂郡の条にも具体的な地名が
出てきます。茨城県大洗海岸近くの大櫛という所に巨人が住んでい
て、海に手を伸ばし大ハマグリを捕って食べていました。その貝殻
のたまったのがいまの「大串貝塚」だとしています。巨人の足跡は
長さ360mもあり、面積が40平方mもあり、オシッコをしたとき
にできた穴が40平方mあまりというから半端ではありません。

 江戸時代の『松屋筆記』にも出てきます。「武蔵相模などの国人
が常にダイダラボッチとて形大なる鬼神のやうにいひあざむものあ
り。相模野の中に大沼といふ沼あり、それはダイダラボッチが富士
の山を背負はんとせし時足をふみしあと也といひ、また此(この)
原に藤のたえてなきはそのをり背負し縄のきれたれば藤をもとめけ
れどもなかりしゆゑの因縁也といひつたへたり、……」とあります。

 このような、巨人足跡は関東だけでも30以上あるといわれ、全
国的にはどのくらいあるでしょうか。たとえば東京都世田谷区代田
の地名はダイダラボッチのダイタだし、近年まであった同地代田薬
師付近にあった細長い窪地や、長野県の飯縄山麓の大座法師池、埼
玉県さいたま市の太田窪、長野県諏訪市の手長神社境内の1反歩ほ
ど水たまりが数ヶ所あり、みな大男の足跡だとされています。

 埼玉県日高市にある岩登りの練習場として人気のある日和田山に
も伝説があります。昔、ダイジャラボッチャという巨人が、日和田
山と南方の飯能市にある多峰主山(とうのすやま)を天秤(てんび
ん)棒でどこからか担ってきました。やがて「巾着田」のある高麗
地区あたりまで来ると、さすがに疲れたので休もうと担いできた山
を降ろしました。その時、多峯主山をドカッと置いたため崩れて、
標高が271mと低くなってしまいました。まあいいか。ダイジャラ
ボッチャは日和田山に腰を掛け、高麗川の水で汚れた足を洗ったと
いう。その場所は新井(洗い)地区の名で残っています。

 房総(千葉県)にも巨人伝説があります。デーデッポーは、富士
山に腰をかけて東京湾で顔を洗い千葉県側にやってきました。ノッ
シ、ノッシと歩いているときエッヘンと咳払い。すると口から島が
飛び出しました。それが鋸南町から見える浮島になったといいます。
また昼寝しようとデーデッポは横になって寝ころんだところ足が東
京湾に届いてしまったという。その時南房総市(旧富山町)にある
富山という山を枕がわりにしたため、富山は真ん中がへこみ南峰と
北峰の双耳峰になってしまったということです。

 その山麓にもデーデッポの足跡が残っています。先年鋸南町の水
仙ロードを歩いたとき、足跡を訪ねようと町の職員の方に聞いてみ
ましたが、そこへ行く途中の道が荒廃して藪になっていて通れない
とのことでした。この巨人をなぜ大太法師やダイダラボッチという
のかについて、江戸時代から「大太坊蹤(だいたぼうあしあと)」(山
崎美成)や「大太法師弁」(明和舟江)、「怪談几弁・かいだんきべ
ん」などで論じられていました。そしてああだら、こうだらと論議
はしましたが、このデッカイはなしにはとりつくしまもなく、結局
は「愚量の及ぶところにあらず」ということになっているのだそう
です。

 現代でも、タラは貴人の呼称だとする説、タタラと関連して鍛冶
屋の伝播説、アイヌ語のダイ(小山)とタラ(背負う)で「小山を
背負う」意味から生まれた巨人名。その他台湾の伝説からきている
とか、はたまたギリシャ神話まで引っ張り出して説明しようとする
説まであります。あの民俗学者の柳田國男博士も「ダイダラ坊の足
跡」のなかで、巨人来往の衝、デエラ坊の山作り、関東のダイダ坊
として触れています。

 そもそもこの巨人は、天地創造の神だったのではないかと考えら
れていたようです。大力の巨人は、山奧にすんでいて、時々人間の
世界に姿をあらわすのだとされていたようです。鬼とか山中での修
行者のたちの異形が、里の人たちの想像力をかきたて、山神の化身
として描かれたらしい。しかし本来は、人力をはるかに超えた、想
像上の巨大な神のイメージがあったのであろうとされています。

 しかし、このような日本の巨人も、神霊としてあがめられていた
時期は、意外に短かったという。先にも書きましたように、道場法
師以後、次第に人間に近づいて小さくなり、むしろ少彦名神(すく
なひこな)・一寸法師・座敷童などに象徴される「小さ子」の信仰
の方が強いという。巨人は大力だけで天地創造者としての絶対的神
格を保つことができなかったと研究者は書いています。つまり「大
男総身に知恵が回りかね」ということでしょうか。

▼【参考文献】
・「あしなか・80号」足立東衛(山村民俗の会)1981年(昭和56)
・『埼玉県伝説集成・上』韮塚一三郎(北辰図書出版)1973年(昭
和48)
・『世界大百科事典7』(平凡社)1972年(昭和47)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成4)
・『日本神話伝説総覧』(歴史読本)(新人物往来社)1992年(平成4)
・『日本大百科全書』(小学館)1986年(昭和61)
・『日本伝説集』高木敏雄(ちくま学芸文庫・筑摩書房)2010年(平
成22)
・『日本伝奇伝説大事典』乾克己ほか編(角川書店)1990年(平成
2)
・『日本伝説大系4・北関東』(茨城・栃木・群馬)渡邊昭五(みず
うみ書房)1986年(昭和61)
・『日本伝説大系5・南関東』(千葉・埼玉・東京・神奈川・山梨)
宮田登ほか(みずうみ書房)1986年(昭和61)
・『日本伝説大系7』(中部:長野・静岡・愛知・岐阜)(みずうみ
書房)1982年(昭和57)
・『日本の民俗25・滋賀』橋本鉄男(第一法規)1976年(昭和51)
・『日本の民話2』松谷みよ子(角川書店)1974年(昭和49)
・『日本未確認生物事典』笹間良彦著(柏美術出版)1994年(平成
6)
・『日本霊異記』:日本古典文学全集第6巻「日本霊異記」中田祝夫
校注・訳(小学館)1993年(平成5)
・『常陸風土記』秋本吉郎校注(岩波書店)1987年(昭和62)
・『房総の伝説』高橋在久ほか(角川書店)1976年(昭和51)
・『民間信仰辞典』桜井徳太郎編(東京堂出版)1984年(昭和59)
・『柳田國男全集5・6』柳田国男(ちくま文庫)(筑摩書房)

 

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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