山の伝承伝説に遊ぶ
山旅通信
【ひとり画ってん】とよだ 時

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1055号丹沢甲相国境尾根・大界木山と平指山

【略文】
大界木山は、畦ヶ丸から菰釣山・山中湖方面へ縦走するときは必ず
通る山です。道志川からのびる室久保沢の上流に沼ノ沢という沢が
大界木山に突き上げています。沼ノ沢には小さな沼があったという。
その沼のほとりに大きなケヤキの木があったと道志村の古老の話で
す。「カイギ」はケヤキの意味でしょうか。
・神奈川県山北町と山梨県道志村との境。

1055号丹沢甲相国境尾根・大界木山と平指山

【本文】
 丹沢のいちばん西側、神奈川県(相模)と山梨県(甲斐)の県境
を西北に連なる尾根を甲相国境尾根(こうそうこっきょうおね)と
いうそうです。蛭ヶ岳から檜洞丸、大室、加入道、大界木、菰釣、
三国山へとつづく尾根を「丹沢主稜」といいます。そのうち、大室
山から先、三国山へつづく延長約20キロの尾根が「甲相国境尾根」
です。丹沢のなかでも奥深く、山小屋もなく、せいぜいあっても避
難小屋。

 この稜線はよい木材が採れるといい、かつては小田原北条氏の命
で、地元小田原まで木材を運搬していたという。江戸時代には「御
木」として保護され、明治時代には御料林に指定されました。こ
んな山林ですから、尾根に隣接する相模の国(神奈川県)・甲斐の
国(山梨県)、さらには三国山から不老山に至る尾根に接する駿河
の国(静岡県)も巻き込んで、ともに自分の領地として少しでも
広くしようと模索します。

 そんななか、山梨県側平野村の名主・長田勝之進らが「相模国」
からこっそり国境を越えて、炭焼きに入り込む者がいるという訴
えがありました。これが大論争に発展していきます。江戸時代、1
841年(天保12)10月、ついに平野村の勝之進は幕府に幕府に告訴。

 相州側は中川村(いまの山北町)・青根村(いまの相模原市津久
井)・青野原村(いまの相模原市津久井)・牧野村(いまの藤野町)
と、甲州側は道志村・山中村(いまの山中湖村)・長池村(いまの
山中湖村)の3村)、駿州側(静岡県)は須走村(いまの小山町)
の計8ヶ村に及ぶ国境論争です。

 1847年(弘化4)幕府の家老が裁定に乗り出しました。そこで
ああでもない、こうでもないと協議され、やっといまのような国
境線が引かれたということです。この論争は古くは平安時代の797
年(延暦16)中央政府の裁定から引き継がれ、なんと千年にもお
よんだという。

 大界木山(だいかいぎさん・やま・1246m)は、丹沢山西部、
城ヶ尾峠の北東にある山。畦ヶ丸からモロクボ沢の頭に出て、甲相
国境尾根を菰釣山方面に縦走する時は必ず通る山。甲相国境紛争真
っ直中にあった山です。甲州側では高指山(たかざすやま)といい、
江戸時代の地誌『甲斐国志』には高叉(ざす)山と記されています。

 この山の道志側には、大指(おおざす)とか、大室指(おおむろ
ざす)という地名がたくさんあります。「指」は、昔の開墾地であ
ろうという。開墾して高いところまで広げていった山、高指山はそ
んな開墾地の山ではないか(『かながわの山』)。

 道志川から分かれて山梨、神奈川の県境の尾根にのびる室久保沢
(モロクボ)の上流に、ノマノ沢(沼ノ沢)という沢が大界木山、
浦安峠へ突き上げています。そのほとりに沢名通り、小さい沼があ
ります。この沼のほとりに、ひときわ大きなケヤキの木があったと
の道志村のお年寄りの話があります。

 ケヤキといえば江戸時代、この山で杉やヒノキなどとともに、伐
採を禁じられていた村人あこがれの名木。地名、山名に使われても
不思議はないようです。解説書にも大界木山は「でっかい木」の意
味だとか、また大きなケヤキの木がある山だとするものもあります。
すると「カイギ」はケヤキの意味でしょうか。

 先の『甲斐国志』巻之三十七に、「……是レ(山中湖側)ヨリ東
道志村ニ入ル、……(中略)……。板橋・善木ノ南ニ出ヅ、……。
三ヶ脊山ニ至ル、入会山ヨリ峯分レテ一里余東ニ行キテ高叉山(タ
カザス)(※大界木山のこと・高指山)ニ至ル、此ノ間相州小田原
ヘ出ヅル間道アリ、サカゼ(※三ヶ瀬川)沢通ト云フ、……。

 …高叉(※大界木山のこと)ヨリ丑(※北北東)ニ峯ツヾキ、殿
ムレ山(※鳥ノ胸山)ト云フ峯……。殿ムレ山ヨリ中ノ叉峯(ザス
ミネ・※平指山か?)ヲ過ギ大群山ニツヾク」と出ています。

 また平指山(ひらざすやま)は、大界木山から北側道志村方面へ
のびる尾根上の山(標高1146m)。甲相国境尾根からは道志村に外
れた山です。

 昔はこの一帯はヤブがひどく、縦走するには相当難儀をしたらし
い。1953年(昭和28)に出版された道志村の村史『道志七里』に、
当時の畦ヶ丸山行記が載っています。ちょっと長いですが書き出し
てみます。

 「この頂(いただき・畦ヶ丸)に分け入る城ヶ尾峠からの主稜に
は、かそけき踏み跡すら見出しかねるすヾ竹の一大群落帯に飛び込
んでゆく。その高さ数尺に及ぶ尾根通しのそれは、ガサガサと顔を
払い衣服に当たる笹と潅木との猛闘が、一つの山瘤を越して大界木
山の登りにかヽると益々ひどくなる。眺望は勿論道志川向こうの山
嶺すら漉かし見ることも許されない。…

 …(※大界木山の)頂からこの群叢林には尚蔓草とイバラがから
み出しここで東方に急曲する尾根通しの進路など、すべて磁石と地
図に按じつつ行動せねばならない。頂(※大界木山の)を過ぎると
ボサは愈々(※いよいよ)猛威を振るい、、一歩一歩襲い来るジャ
ングルへ、脚先から頭からねじ込み潜り込むの薮漕ぎのテクニック
を動員しても、何時しか足裏は土から離れて潅木の小枝の上を歩い
ているのに驚かされる。…

 …北面室窪沢頭(※モロクボ沢の頭)一帯は檜の植林地であるが、
こヽも蔓草とボサのハンモックである。尾根が再び東曲する地点が
来るが、進路はえて迷い易く特に細心の注意を要する。一度迷路の
小尾根に迷い下りでもすると、何処をどう迷い歩いているのか見当
も付かず、殊にこの地の名物濃霧は、忽ち衣服を濡れ鼠にしてしま
う。…

 …道志側から登る畦ヶ丸は全く取り付きにくい秘峰である。小さ
な隆起を越しゆく頃、漸く前面網目越しに畦ヶ丸の崩壊を綴る山肌
に近づいて居なければ登頂は失敗に終わる。こゝから頂へは地図と
相違してひどく痩せた尾根を渡り、二ヶ所計り石英閃(せん)緑岩
砂のガレ上を通ると、後はぐんぐん笹の中の一喘(ぜん)登で頂に
出ることが出来る。…

 …この頂は村外(※道志村の外)に外れて僅かに神奈川県下に飛
び出して居る寸尺の空き地もない叢林で、みやまえんじゅ、しで、
こめつが、ぶな等の密生した中に、仰ぐ天空すら樹梢(※じゅしょ
う)に遮られて定かに望むことが出来ない。深閑と秘みかえる登頂
を楽しむ用意がなければならない。…

 …城ヶ尾峠(1時間10分)−大界木山(2時間)−畦ヶ丸」と
つづいており、なみの苦労ではなかったようです。ここに記載され
ているように、城ヶ尾峠から大界木山まで1時間10分、そこから
畦ヶ丸まで2時間、計3時間10分かかっています。ちなみにいま
のコースタイムは1時間30分です。



▼大界木山【データ】
★【所在地】
・神奈川県山北町と山梨県道志村との境。JR御殿場線山北駅の
北北西15キロ。小田急線新松田駅からバス、大滝橋停留所下車、
さらに歩いて畦ヶ丸を越えて4時間30分で大界木山山。写真測量
による標高点(1246m)がある。
★【位置】
・標高点:北緯35度28分45.1秒、東経139度00分58.75秒
★【地図】
・2万5千分1地形図名:中川。



▼【参考文献】
・『甲斐国志』(松平定能(まさ)編集)1814(文化11年):(「大日
本地誌大系」(雄山閣)1973年(昭和48)
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1991年(平成3)
・『かながわの山』植木知司(神奈川合同出版)1981年(昭和56)
・『道志七里』伊藤堅吉(山梨県道志村役場)1953年(昭和28)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)

 

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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