山の伝承伝説に遊ぶ
山旅通信
【ひとり画ってん】とよだ 時

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1048号奥多摩御前山・ニセ石尊大権現

【略文】
神奈川県丹沢の相模大山の「大山まいり」は、落語にも取り上げら
れるほどにぎわい、ここ奥多摩方面でも、うらやましく思ったよう
で、ニセ物の石尊大権現を作って、御前山にまつって一時はたいへ
んなにぎわいだったという。
・東京都奥多摩町と檜原村との境。

1048号奥多摩御前山・ニセ石尊大権現

【本文】
 神奈川県丹沢の相模大山石尊大権現の「大山まいり」は、落語に
も取り上げられるほどにぎわい、ここ奥多摩方面でも、うらやまし
く思ったようで、ニセ物の石尊大権現を作って、御前山にまつって
一時はたいへんなにぎわいだったという。

 奥多摩の御前山は、大岳山、御前山、三頭山は奥多摩三山に数
えられほど人気があります。その名前は、『旅と伝説』(1942年(昭
和17)1月号)に「ゴゼンといふ名……越中の釼(剱)ヶ岳(三
〇〇三米)は釼ヶ御前と尊称され、山をゴゼンサマと敬称するの
は古い習慣であった…」。

 さらに「東北の飯豊山には本山直下にオンマヘザカ(御前坂)
があり、この付近にはゴヒショ(御秘所)と呼ぶ山中の霊地があ
る(山岳)。奥多摩にも御前山(一四〇五米)があり、この付近に
大嶽山(1267米)がある。恐らくはこの御前山も大嶽山に對する
御前であらう」とあります。

 このように、御前というのは、大岳山の前山だという意味の「オ
ンマエ山」説がありました。しかし、実際には大岳山と御前山は、
地勢的にも信仰的にも全然関係がないという(「あしなか第6輯」
(山村民俗の会)加藤秀夫説)。この場合の御前(ごぜん)は御膳
(ごぜん)で、神へ供える時の飯を盛るとがった三角の形が、こ
の山の形に似ているところからついた名前らしい(大岳山の山頂
付近から見る)。

 御前山には山頂から西へ少し下ったところに10坪くらいの小平
地があり、昔は1mから1.5mの板葺きの小さな祠があったという。
ご神体は高さ30センチくらいの雄・雌のオイヌさまだったとい
う。

 これとは別に、三頭山のふもと檜原村にはこんな伝説が伝わっ
ています。大昔、三頭山が荒れたとき、その原因をさぐる占いを行
うために、エカツとミトカツという兄弟が、大和の国(奈良)ま
で出かけました。

 神に占った結果、奥多摩の三頭山に天降っている神、「オオモノ
ヌシクシカマタの神」をまつれば鎮まるということが分かり、やっ
と山が静になったという。

 そののち、功績のあった兄のエカツは三頭山にまつられ、弟のミ
トカツは御前山にまつられているという(檜原村文化財専門委員岡
部駒橘氏)。一方、御前山は昔は「水戸山」といっていました。こ
の山を「ゴゼン山」と呼ぶようになったのは幕末のころで、ひとつ
の事件がきっかけらしい。

 もともと奥多摩には、3つの御前の山があったという。すなわち
「水戸山御前の山の神」、「月夜御山の御前山の神」、「三頭山御前山
の神」の三御前だったという。それがある事件が起きてからは、い
まの御前山(水戸御前)だけが御前山と呼ばれるようになりました。

 江戸時代がそろそろ終わりなるころ、水戸御前南ろくの檜原村宿
に半六という、山師(やまし)行者がいたそうです。半六は、相模
国(神奈川県)大山の石尊さまの繁盛ぶりがうらやましくて仕方あ
りません。

 半六は、江戸や八王子、青梅、所沢、はては川越、飯能などの同
業の山師行者に、石尊神社のご神体を盗もうと誘いました(昔は山
師と呼ばれる人たちがたくさんいた)。それに賛同した仲間のエセ
行者たちといっしょに半六は、ご神体を盗み出しました。

 そして餅米に川原の砂を混ぜて臼で撞き固め、本もののご神体と
見分けがつかないほど巧妙につくったニセの像をつくり、水戸山(御
前山)に置きました。

 雪が降ったある日、半六はニセ石尊の前の雪の上に「大山石尊此
処ニ飛ブ」と書いておき、あとから村の猟師たちを現場に案内。驚
いた猟師たちは家に帰って近所、知り合いに広めました。

 一方、仲間の山師行者たちもそれぞれの地元でこの話を宣伝。講
社をつくり、水戸御前(御前山)石尊権現への参拝者を募りました。
こうして奥多摩の石尊大権現は一躍有名になり、各地の行者や一般
参詣者が参加、参拝者一行がゾロゾロと水戸御前(御前山)に向か
い、山はにぎわったという。

 だれが決めたか、9月9日を祭日とし、その日は、小河内の原や、
檜原村の沢又からは、三頭山の祭りで使う獅子まで登ってきて、御
前山の山頂で獅子舞を行うという始末。檜原村、氷川村、小河内の
村の3方面からの登山道は、押すな押すなと賑わいました。一時は
参拝者のあげる賽銭で、賽銭箱があふれたということです。

 この山はもと「水戸山御前の山の神」といい、ふもとの農家には
御前山の山神がまつってありました。これを作神として信仰して、
農家は粟、稗(ひえ)、蕎麦、黍(きび)を苞(つと)に入れて、
供えたりしました。

 ニセのご神体をまつった祠は、山頂から檜原村へ4,50m行っ
たところにあり、建物の中に「御前山神」と「石尊神社」としてま
つってあったという。

 こうなると各方面の登山口では、「わが方こそ参道の本道だ」と
いいたくなります。いわゆる「本道」争いがはじまったのです。埒
(らち)があかなくなった村人は、時の代官に訴え出たのです。ま
ずい!山師行者たちはお上が出てくるのにビクビクものです。

 当時、檜原村、氷川村、小河内の村の3方面の登山道のうち、青
梅街道利用の氷川村境(いまの境橋バス停のあるあたり)の栃寄地
区経由の参拝者が一番多かったそうです。

 そのため、栃寄地区の村人は参拝者目当てに、宿屋をはじめよう
と家を改築し、夜具を新調する者、飲食店をはじめる者などがおり、
また村では道路を改修も行って話がだんだん大きくなっていきまし
た。

 その一方で、神奈川県の相州大山ではご神体が盗まれて大騒ぎ、
これも時の代官、江川氏に訴え出ました。お上の調査したところ、
ご神体は、大山山中の笹やぶに隠してあるのを発見。こうして御前
山にあるご神体はニセ物であることが見破られ、檜原村の名主吉野
郡治方へ持ち込まれました。

 ご神体を壊してみると、川砂を餅米で固めた真っ赤なニセ物。犯
人山師半六はすぐご用となり入獄となりました。これを知った信者
たちはガックリ。御前山への登山者は急減。しかし3つの御前山の
うち、ここの御前山だけが名前が残り、ほかの「月夜御山の御前山
の神」、「三頭山御前山の神」は忘れられていきました。とんだ騒ぎ
でありました。

 ただ相模大山の石尊は、山頂神社の中にある地面に埋まった岩だ
と聞きます。これを持ち出したとというのは、ちょっと眉つば物か?
しかしそこはそれ、石尊大権現のような広い心で、まあ、まあ…と
いきたいものです。ちなみに小河内峠に向かう途中にある「中平」
(なかでいろ)は、有史以前の時代の甲州・武州・信州の文化交流
のあとだったそうです。


▼御前山【データ】
【山名・地名】
【所在地】
・東京都西多摩郡奥多摩町と東京都西多摩郡檜原村との境。JR
青梅線奥多摩駅からバス奥多摩湖バス停から歩いて3時間で御前
山。三等三角点(1405.0m)がある。地形図に山名と三角点の標高
記載あり。三角点より東方向230mに避難小屋がある。
【位置】
・三角点:北緯35度46分12.23秒、東経139度04分50.25秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「奥多摩湖(東京)」


▼【参考文献】
・『あしなか第1冊』「あしなか第6輯」(山村民俗の会)1943年(昭
和18)
・『奥多摩』宮内敏雄(百水社)1992年(平成4)
・『奥多摩の世間話』渡辺節子著(青木書店)2010年(平成22)
・『角川日本地名大辞典13・東京都」北原進(角川書店)1978年(昭
和53年)
・『旅と伝説』三元社(1942年(昭和17)1月号)
・檜原村文化財専門委員岡部駒橘氏

 

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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