第1章 1月

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▼中 扉

1月(むつき) (この章の目次)
  ・睦月(むつき)
  ・正月 門松、元日、しめ飾り、初もうで、破魔矢、
      おみくじ、お屠蘇、雑煮、おせち料理、
      年賀状、お年玉、福笑い、国旗、獅子舞、
      双六、羽根突き、かるた、百人一首、
      猿まわし、凧あげ、年始まわり、書き初め、
      初夢、歯固め
  ・小寒
  ・消防出初め式
  ・七草
  ・学校始業
  ・鏡開き
  ・成人の日
  ・年賀はがき抽選会
  ・大寒
  ・1月その他の行事

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・睦月

 古い暦では1月を「睦月」と書き、「むつき」とか、「むつみづき」と呼んでいました。あの「万葉集」にもうたわれていますので古い時代からの呼び方です。

 なぜ睦月と呼ぶかというと、1月は1年の初めの月で正月なのだそうです。平安時代の「奥義抄」(おうぎしょう・藤原清輔)に、正月はお金持ちの人も貧しい人も、仲睦まじく行き来たるがゆえに「むつび月」なのだとあります。また、正月は天も地もゆったりと安らいで、睦む月だからともいわれています。

 1月にはこのほかに初月、(はつづき)とか太郎月、年始月(としはづき)などいろいろな呼び方があるそうです。

 英語のジャニュアリーはローマ神話にも出てくる神で、過去と未来を見通す神であり、また万物のもの事を開いたり閉じたりする役目の神・ジャーナスからきているのだそうです。

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・正 月

 もういくつ寝るとお正月……、という昔の歌があります。かつては家々に門松を建てました。待ちどおしかったお正月でした。お飾りも飾ってあります。鏡餅もお供えました。お正月さまどこまでござった。○○山(その地方の山)のすそのまでござった……。昔の子どもたちも正月を指おり数えたものでした。

 正月とは1年の初めの月の別名で、中国から入ってきたことばだそうです。
 正月さまとか年神(としがみ)さま、オバイさん、または歳徳神(としとくじん)と呼ばれる神さまをまつる正月は、もとは年の初めにあたり、家々の祖先の霊をお迎えし、お盆と同じようにまつりその年の豊かな実りを祈ったものだそうです。

 昔の人は年神は、ふだん山の上にいて春のはじめ人里におりてくると

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考えました。その目じるしが門松であり神をまつる祭壇です。人々は年神をお迎えするため、餅をついたりすすをはらったり、サカキを飾ったり大忙しして暮れを過ごしました。

 年神は女性だそうです。だからお仕えするのは年男といわれる男性です。昔は年男が若水を汲み、3ヶ日間はご飯の支度をして奥さんを休ませたそうです。

 正月には元旦を中心とした大正月と、15日を中心にした小正月がありました。こよみがまだよく普及していなかった昔は、一般の人はこよみに決められている朔日(ついたち)を正月にするよりも満月を目やすにした方がわかりやすかったという。それでこの風習が残ってしまったのだといわれています。

 いまでこそ、農村でも元旦を中心にした正月が行われていますが、も

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ともとこれは公家、武家の間で行われる正月でした。農村では小正月が重要視されていたそうです。また、いまは太陽暦に変わりましたが、昔のこよみどおり旧正月をやる所が最近まで残っていました。

 正月ということばもだんだん変わり、楽しく喜ばしいという意味にも使いました。よいものを見たとき「目の正月」などといいます。体裁のいいことばを「正月ことば」などともいった時もありました。

 除夜の鐘を聞いた人たちは、近くの神社に初もうでに行きます。破魔矢をいただき、おみくじを引き、ことしの好運を祈ります。

 そして、一家そろってクロマメ、カズノコ、タツクリ(ゴマメ)を使った正月料理を作り「くろぐろとまめで数々の田をつくる」と縁起をかついで食べたり、雑煮(ぞうに)を食べたりして、新しい気持ちで一年の門出を祝うのでした。いまはおせち料理をつくる家も少なくなりました。

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・門 松

 いまはあまり見られませんが、かつて門松は正月とは切っても切れないものでした。それは正月さまの神まつりの祭場であることを示すために、家の門口にたてます。また、山の上からおりてくる年神さまの目じるしになるとも考えられていました。

 門松のルーツについてはいろいろな説があります。中国の唐の時代のやり方が日本に伝わったのだという人、昔から、宮中にそのしきたりがないところから、貧しい家がきたない所を隠すためにたてたのだという人もいます。また、もと皇居の門前に鉾(ほこ)をたてていたのが変化したのだという説、スサノオノミコトが巨旦将来(こたんしょうらい)という人を殺した時、お墓にたてたのが門松のもとになったのだ、との説もあります。

 門松のかわりに、家の中にクリスマスツリーのような大きな松をたてる所や、神棚に小さな松を飾る所もあります。

 昔は、松のかわりにサカキをたてていました。ところによっては、シキミという木をたてたりしましたが、平安時代の延久・承保年間(1069〜1077)ころからだんだん松に変わってきたそうです。門松をたてない所もあります。群馬県の六合むらでは先祖が、落人として住み着いたのが元旦のため、門松をたてません。でもどういうわけか、門松という地名があったり、松の木が生えています。

 しかしいまでは一般家庭では、印刷した門松や略式の門松で代用するようになってきました。

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・元 日(1日)

 元日とは1年の初めの日であり、正月の朔日(ついたち)つまり第1日のこと。元とははじめの意味。普通は「がんじつ」と読みますが、「がん」は中国の呉音で「じつ」は漢音なので、昔は両方とも呉音の「がんにち」と読んだのだそうです。

 元日は、かつては元三(がんさん)、または元三日ともいい、歳・月・日の三つの元(はじめ)という意味が、いつの間にかまちがって元日から3日間(三ヶ日)の意味になったといいます。

 いま1月1日は昭和23年に実施された「国民の祝日に関する法律」で、新しい希望をもって祝う日とされています。

 また、年賀はがきに書かれる元旦(がんたん)とは、1月1日の朝のことで、元朝、元朔(がんさく)とも呼ぶのだそうです。

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・しめ飾り

 お正月には注連縄(しめなわ)を飾ります。しめなわは神前や、神聖な所にかけ渡して、内と外を区別してけがれたものを遠ざけます。

 しめなわは神話にも出てきます。アマテラスオオミカミを天の岩戸からやっとむかえ出した神々は、もう二度とそこに隠れられないように入口に縄を張ってしまったのだそうです。

 「古事記」ではこれを尻久米縄(しりくめなわ)と書いています。その時、神々が注連縄をあまりあわてて張ったのでわらの尻の方を切るのを忘れ、そのままたれ下げていたと書かれています。そういえば、しめなわはどれも尻の方がたれ下がっています。

 しめなわにはいろいろなものをつるします。これらは、橙(だいだい)は代々繁盛するようになど、多くは語呂にあわせての祝い物だそうです。

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・初 詣

 新しい年を迎えると、近くの神社に初詣(はつもうで)に出かけます。初詣は、ほんとうは自分の信仰する氏神や、歳徳神(年神)に1年間の無事と平安をお願いするもので、これは平安時代からつづく風習だそうです。

 お正月には家々の神まつりのほかに、氏神にお籠(こも)りをするならわしがありました。大昔は夕暮れが1日の境目だったので、大みそかの夕方からおこもりをし、寝ないで新年を迎えたといいます。それが次第に1日の境が真夜中だという考えが広まり、新年になるのは除夜の鐘が鳴ってからということになり、鐘が鳴らないと初詣の感じがしなくなりました。

 そのため大晦日の夜にお参りし、元日にまた来たり元日だけお参りするように変わってきたということです。

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・破魔矢

 初もうでに行くと破魔矢(はまや)をいただいて帰り、魔除けとして飾ります。破魔矢は昔、正月にこどもが持って遊んだ破魔弓(はまゆみ)につがえる矢だったそうです。

 魔障を払い除くという破魔弓は、孝徳天皇の時代(645〜654・飛鳥時代)に中国の伝説の人である蚩尤(しゆう)の眼になぞらえて、丸い的(まと)を射たのが始まりとも、物をかける賭弓(のりゆみ)をまねたのだともいいますがはっきりしません。

 破魔弓は浜弓とも書き、わらなわで径30センチくらいの中に穴のあいた「はま」といういう的を打って遊びます。これは端を「は」、間中(まなか)を「ま」というところから、または浜曲(はまわ)ということからついた名で、破魔の字はこじつけだという人もいるそうです。

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・お神籤

 年頭には近くのお寺や神社でお神籤(おみくじ)を引き、1年の吉凶を占います。お神籤は「お孔子」とも書き、昔は子どもの名前を決める時や家の跡目の決定などの時もお神籤を引いて決めていたのだそうです。

 平安時代の934年ころ、源順(みなもとのしたがう)という人が著した「倭名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)という本には、玉籤を太万久之(たまくし)、籤を太介乃久之(たけのくし)と書かれています。そこから串(くし)がなまって「くじ」になったのだという人もいます。

 お神籤には、その引き方として玉籤、引籤そして振籤などの方法があるそうです。こうして引いたくじの紙は境内の木の枝にむすび、凶なら吉を、吉ならさらに大吉を神仏に祈願します。

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・お屠蘇

 いまでこそワインやビールを、お屠蘇(とそ)のかわりに飲む家が多くなりましたが、ほんとうは屠蘇散(とそさん)という袋に入った漢方薬を、お酒やみりんにひたして、年頭に当たり延命長寿を願って飲む薬だそうです。以前は山椒(さんしょう)や桔梗(ききょう)など、10種類近い薬種を各家で調合して作ったそうです。

 屠蘇とは、もと中国で行われたならわしで「蘇」という悪い鬼を屠(ほふ)る意味です。その調合は、中国の魏の時代(200年ころ)のお医者さん、華侘(かだ)という人があみだしたとする説や、同じく中国唐代の名医・孫思ばく(そんしばく)という人(?〜682)が処方したものだという説もあります。

 日本では平安時代の811年(弘仁2)に初めて宮中で使われたのが、次第に一般に広まっていったのだといわれています。

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・雑 煮

 元旦の朝、お屠蘇(とそ)を祝って雑煮(ぞうに)を食べるとなんとなくお正月らしい気分になります。雑煮は、昔から新年の行事の献立の中で、最も重要な地位を占めてきました。

 古い昔、正月の神である歳神(としがみ)様に供えた餅やダイコン、ニンジンなどの野菜を下げて雑然と集め、煮込んで食べることから雑煮の料理が始まったといわれています。なるほど、それで「雑に煮る」と書くんだあ。

 また餅には人の命に力を与えるという考え方があり、「力もち」などといい出産や誕生祝いなどにも食べたそうです。いまでも力餅などといいますよね。中国の「本草綱目」(ほんぞうこうもく・1578年)という本には雑煮は、内蔵を保養するというので「保臓」と呼んでいます。日本でも江戸時代の本、「貞丈雑記」(ていじょうざっき・1843年)に、雑煮の本名は「ほうぞう」といい、体を温め、尿を縮め、大便を固めるという3つの効果があると書かれています。

 餅は望月(もちづき)の望の意味。円満をあらわし古鏡になぞらえて「鏡」とも呼びます。だからお祝いの餅は丸くするのが本当だとされ、四角に切った切り餅は略式のものだそうです。切り餅は焼いてから使用するという。餅を焼いてふくらませて角を丸くする意からだといいます。室町時代に朝廷がおとろえたころ、京都の御所でも餅花びらを焼いてふくらませてから雑煮のかわりにしたそうです。

 雑煮を大別すると、すまし汁、みそ汁、あずき雑煮に分けられるそうです。すまし汁は関東、中国、九州で、みそ汁系は京都から近畿地方に使われているという。あずき雑煮は九州の一部、山陽、山陰の海岸にみられます。また、餅の形も関東では切り餅を入れ、関西では丸餅をゆでて使います。材料も昔はアワビやナマコの貯蔵品を入れましたが、明治以後は鶏肉やコマツナ、ミツバ、ダイコンなどにカマボコも入れるようになっています。

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・おせち料理

 おせち(御節)は御節供(おせちく)の略したもので、もとは節会(せちえ)の料理だったという。節会とは、正月や五節供(1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日の節供)などのことで、昔はこの日に朝廷で宴会が行われていたそうです。

 昔の料理の本を見ると、おせち料理はゴボウやイモ、ニンジン、コンニャク、ダイコン、焼き豆腐などの精進物中心の煮しめが主と出ています。かつて東京では大みそかの年越しの食事をおせちといっていたそうです。おせち料理にはクロマメやカズノコ、ゴマメ(タツクリともいう)などを入れますが、これは「くろぐろと、まめで数々の田を作る」の縁起からきているそうです。

 おせち料理の詰め方。一の重(口取り)は、クロマメ、カズノコ、ゴマメ、市松カマボコ、キントン。二の重(焼きもの)は、クルマエビ、ブリ、イカ、酢ゴボウ。三の重(煮もの)は、サトイモ、タケノコ、レンコン、ニンジン、サヤエンドウなど。予の重(酢もの)は、酢レンコン、ショウガ、ナマスなど。

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・年賀状

 パソコンや携帯電話のEメールの時代になっても年賀状のやりとりはすたれません。やはり手元に形で残しておきたいのでしょうか。本来「年賀」とは、古希、還暦、喜寿などの高齢の寿を祝うことばですが、いま「年賀状」といえば、新年の祝賀の書状(とくにはがき)をいっています。

 年賀状のルーツは遠く15世紀、ドイツで幼いキリストの姿と新年を祝う文字を銅板でカードに印刷したのが最初といわれています。しかしこれは、一般の家庭にまでは広まりませんでした。18世紀になり、名刺をつくって交換するのが流行しました。

はじめ、名刺に絵柄などを入れていましたが、のちドイツやフランスでカードとしてつくられ、新年に送られるようになります。一方イギリスではクリスマスカードのようにもなっていきました。

 日本での年賀状の歴史は、1873(明治6)年に郵便はがきが発売されてからはじまります。特別に年賀郵便取り扱いは1899(明治32)年からはじめられました。この年はまだ指定された郵便局に限られていましたが、翌年からは必要に応じ全国の郵便局で取り扱われれるようになりました。

 1940(昭和15)年から1947年まで戦争などで中断はしましたが、48年から再開。いまのようなお年玉つき年賀はがきが売られたのは翌年49年からでした。

 明治時代の年賀状には「ふたつ折り脇なしはがき」も残っています。日本で最初の年賀用切手は、1936年の渡辺崋山の富士山の絵だったそうです。また最初の官製年賀はがき発売は1950(昭和25)年で、料額印面は「松くいつる」だったそうです。

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・お年玉

 10万円貯まった、20万円を超えたなどと自慢しあう子どもたち。みなさんどう思います? このお年玉、もとはいまのような意味ではなかったようです。

 もともと年玉というのは、お正月のお祝いの贈りものだったという。正月に子どもたちにお年玉をあげる習慣は古く、室町時代から京都の公家(くげ)や武家などで盛んに行われたそうです。ただ、あげるものはお金ではなく正月のお祝いとして、すずりや筆、紙、茶わんなどだったそうです。男の子には凧(たこ)の紙蔦(いかのぼり)や、まり打ちの道具、女の子には羽子板や紅箱をあげていたという。

 お年玉は「お年賜」の意味で、新年に目上から身祝いとしていただくもののこと。正月の神からもらうものを年玉という所は各地にあります。このようにお年玉とは尊い者から魂を分けてもらうこと。お守りのように肌身につける魂を物であらわしたものなのだそうです。

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・福笑い

福笑いも正月に子どもたちがよくする遊びです。目かくしをしたものが、目、鼻、口、まゆなどの切り抜きを手渡されて、お多福の面を完成させます。この遊びは、江戸時代からはじまったのではないかといわれています。

初めのころは綱の輪で顔や鼻を作っていたようで、「尾張童遊集」という本にもそんな絵が出てきます。お多福だけではなく、だるまの福笑いなど時代によっていろいろあったようです。また、お多福はおかめ(阿亀)ともいい、鼻が低く、ひたいやほお、あごのふくれた女性の面です。

このような人相をふざけて三平二満(さんぺいにまん)といい、美しくはないがあいきょうに富んだ福のある顔とされています。「多福」とはいい名前ですね。魔よけとして、また福徳を祝う縁起ものでもあります。

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・国 旗

 元日などの祝日には、日の丸をあげている家を見かけます。日の丸は日章旗とも呼ばれ、太陽をかたどったものだそうです。ルーツを調べてみると、「続日本書紀」という本に大宝元年(701)元旦に文武天皇が朝賀の折り、金塗りの丸板に三足のカラスを描いた「日像幡」という旗を掲げたと出ているが最初のようです。戦国時代、武田信玄や上杉謙信も日の丸を旗じるしに使ったそうです。

 明治3(1870)年になると太政官布告で日章旗を制定、昭和5(1930)年には掲揚の仕方などが決まりました。しかし、明治3(1870)年の太政官布告の制定には、日の丸を国旗にするという条文が、はっきり書かれていないという人もいます。

 日の丸もただ四角に赤い丸を描けばいいというものではなく、その比率が決まっているようです。旗の比率は横100とすれば、縦70ということになっていますが、ふつうは縦61センチ、横91センチ、日の丸直径36センチにしているそうです。

また日の丸の直径は旗の縦の5分の3、上下の空きを等しくし、日の丸の中心は旗の中心より横の100分の1だけ旗ざお側に寄るようにするのだそうです。旗が1本の時は外から見て門の左側に立て、さおが少し左に突き出るようにするのが正しい立て方だそうです。

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・獅子舞

 いまはデパートやスーパー、テレビの正月番組以外、すっかり見なくなってしまった獅子舞(ししまい)ですが、昔は正月の風物詩の一つでした。新しい年の初めに家々をまわって祝福して歩く神楽の一種です。

 獅子は悪魔をはらう霊獣としてあがめられ、また五穀の豊作を祈るため獅子頭をかぶって舞います。いまでも農村などで秋祭りにはよく獅子舞が行われます。

 獅子舞の来歴はきわめて古く、古代に唐から伝わった伎楽(ぎがく)獅子以前から、すでにあったといわれています。その場合のシシは猪(いのしし)などのけものも意味し、「古事記」(712年)にも弘計王(おけおう)という人が、室寿(むろほぎ)の宴でシカの角をささげながら舞ったと書かれております。また「万葉集」にも詠まれています。

 獅子舞には1人で舞う「一人立ち」と2人で舞う「二人立ち」があります。平安時代の「信西古楽図」には全身皮のようなものをかぶった2人が前と後ろに立っている図が描かれています。

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・双 六

 ふつう、子どもたちが正月に遊ぶ双六(すごろく)は絵双六とよび、江戸時代のはじめにつくられたものだそうです。もともと絵双六の最初は宗教的なものだったという。

 江戸時代の小説家・柳亭種彦の「還魂紙料」(すきかえし)という本には、「仏法双六」とか「名目双六」などといって、なりたてのお坊さんに仏教の初歩を教えるための絵だったと出ています。それが浄土双六となり、のちに娯楽性を加え、東海道五十三次の道中双六・野良(やろう)双六など遊びの双六に変わっていったようです。

 この絵双六からいろいろな種類が派生します。浄土双六の中から怪異な図をとってつくった化け物双六があります。その最も古いものに「なんけんけれど化物双六」というものがあり、1731(亨保16)年正月吉日上梓となっています。正月に上梓というところからみて正月の遊びに使われたのではないかといわれています。

 絵双六に対して盤双六というものがありました。盤双六の歴史は古く、そのルーツは古代インドにまでさかのぼるという。「涅槃経」のなかに「婆羅塞戯」とあるのがそれとされています。そこから西はヨーロッパ、東はアジアに伝わっていったのだそうです。

 日本には6世紀初め武烈天皇時代に伝来したという。これはは盤の上でサイを振って駒石をすすめて物を賭ける双六で、賭博の道具に使われ、「日本書紀」持統記(じとうき)に、689年(飛鳥時代)に禁止令が出ています。

 その後もこっそり行われてはいましたが、江戸時代になり、すっかりすたれてしまったということです。

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・羽つき

これもいまは見られなくなった正月の遊びですが、土産や飾っておくための羽子板を時どき見ます。羽根つきには、1人で突いて遊ぶ「突き羽根」と、2つの組にわかれて突く「追い羽根」があります。

室町時代の本「看聞御記」には、室町時代の永享4(1432)年の正月5日に、公卿組と女中の組が追い羽根をしたと載っています。これは「こきの子勝負」といって物を賭けるおとなの遊びだったそうです。なんでも賭博にしてしまうのですね。

一方、1人でつく突き羽根はずっとあとの近世初期に発生したもので、その後、次第に正月に女の子が遊ぶものになっていったのだそうです。

羽根つきは、もと豆に羽根をつけてうち、節分に豆をうつのと同じ厄(やく)払いの意味があったという。羽根は竹を細かく裂いたものや、竹の筒に紙を差し込んだものでした。それをムクロジの種に鳥の羽根をつけて市販されてから普及していったという。羽子板は玉をついて遊ぶ毬杖(ぎっちょう)の変化したものといわれ、昔は左義長を焼く絵が多かったそうです。

羽根つき歌に「一人きな、二人きな、三人きたらば四(よ)っといで、五(い)つやら六(む)かし、七人の八(は)くしょ、九のやでいっちょいよ」というのもあります。

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・かるた・百人一首

 かるたは歌留多とか骨牌と書きます。一口にかるたといっても、花がるたや歌がるた、トランプなどその種類はたくさんあります。正月に遊ぶいろはがるた(伊呂波歌留多)は、子ども向きの歌がるたの一種。江戸時代の中期に上方ではじまり、江戸に伝わって流行、「犬棒かるた」に変わっていったといわれています。

 そのため、「い」は東京では「犬も歩けば棒に当たる」ですが、大阪では「一を聞いて十を知る」、京都では「一寸先は闇」と内容が違っていす。また名古屋地方では「江戸いろは」と「上方いろは」が混ざった「尾張かるた」もあります。

 かるたというのは、ポルトガル語が語源とされていますが、古い時代中国から伝わった賭博遊びの樗蒲(かりうら・ちょぼ)からきたという人もいます。

 一方「百人一首」は歌仙秀歌撰のひとつの形態といわれ、歌仙(優れた歌人)100人を選び出し、ひとり1首ずつ100首の秀歌を選出したもの。ふつうは「小倉百人一首」を指しますが、「異種百人一首」や「変わり百人一首」というものもあるそうです。

 小倉百人一首は、藤原定家が小倉(椋・ぐら)山荘にこもり、「勅撰集」から選んだもので、これが後に貝がらのふたに書いて遊ぶ貝合わせに発展、いまの百人一首のもとになったといわれています。

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・猿まわし

 猿まわしは、すでに鎌倉時代の書物に記録されています。これはもともと、最も大切だった馬の安全を願い、厩(うまや)を祈祷(きとう)する職業だったのだそうです。安土桃山時代の1583年(天正11年)徳川家康の馬の病気を猿まわしの祈祷でなおした猿まわしが、ほうびとして駿府(いまの静岡県)に住む土地をもらったという記録があります。

 江戸時代には、あちこちに多くの猿まわしの集団があり、お正月などに辻芸(つじげい)や門付(かどづ)けに出るようになり、輪抜けや歌舞伎役者の身ぶりまでして見物人を喜ばせていたそうです。

 この猿まわしも時代の流れですたれてしまい、1955(昭和30)年ころにはすっかり姿を消してしまいましたが、山口県光市では復活の気運が起こり、周防(すおう)猿まわしの会が発足、東京などでも公開しています。いまは興行として日光猿軍団のようなものまであらわれています。

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・凧あげ

 いまも正月に凧(たこ)をあげる子どもを見かけます。この凧の歴史は古く、西洋では紀元前230年代、ギリシャの物理学者、あのアルキメデスがつくり出したものといわれています。また東洋ではやはり紀元前、漢の韓信という人が戦の時、敵陣との距離を測るための道具に凧を考え出したといわれます。

 日本には、平安時代以前に中国から伝わり、紙老鴟(しろうし)とか紙鴛(しえん)という中国の名前で呼ばれていたと、源順(みなもとのしたがう)が「和名抄」(わみょうしょう・平安時代の分類体漢和対照辞書)という本に書いています。

 江戸時代の初め1615(元和元)年ころ、長崎の代官が夜中にロウソクをたてて烏賊幟(いかのぼり)をあげて見せ、民衆から喝采を浴び一般の人にも凧に興味をもたせたというエピソードも残っています。

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 そして1630年(寛永7年)ころになると凧あげが異常にはやりだし、1655(承応4)年には通行妨害になるからと「凧あげ禁止令」が出るほどになりました。

 中国から日本に渡ってきた当時の凧は、いまのとんび凧や、やっこ凧のようなものだったそうです。それが問題の元禄年間(1688〜1704年)になると、万事物事が派手になり、市松模様のものや緋縮緬(ひぢりめん)のだるま模様など、贅沢高級ハデハデな凧が商人たちによってあげられるようになります。のちには13平方メートルもの大きさの凧やからくり凧、細工凧も作られたそうです。いまでも各地に大だこのあげの行事が残っているのはその名残だという。

 正月にあげる子どもの遊びとしての凧あげは、全国的ではなく関東地方でのことだそうです。関西では4、5月ごろ、中国地方では6、7月ごろが風の具合がよく、たこあげの季節なのだそうです。

 変わった形の凧には、神奈川県の「あぶ凧」、山口県の「ふぐ凧」、愛知県の「蜂凧」、静岡県の「べっかこう」、山形県の「あんど凧」、福島県の「唐人凧」、長崎県の「みそこし」、香川県の「せみ凧」、香川県の「五つ輪」などがあります。

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・年始まわり(2日)

 お正月2日には日ごろお世話になっている人の家々に新年のあいさつをしにまわります。これはもともとは子どもが親元のところに集まり、生きている親に新年のお祝いを述べ、また先祖の御霊(みたま)をまつり、共々にこれからの新しい年を迎えようとするものでした。いまでは親せき、知り合い、会社の上役などの家を訪問し新年のあいさつをします。

 古くは年始に来る人は大事な客として、最も正式な接待をしなければならなかったそうです。しかしたくさんの家々をまわる人は、いちいちご馳走になっているわけにもいかず、玄関先でお祝いをいう「門礼」ですませます。江戸時代にはそういう人のために喰積(くいつみ)というものを玄関に出しておき、その家を訪問した人はそれを食べるまねをするのがしきたりだったそうです。

 東北地方ではかつては年始に「カドノレイの餅」餅を持っていく習わしがあったそうです。また年賀のお客には「手掛け」というものを出し、客はそれを食べるまねをして次の家に行ったという。お正月でも忙しかったのですね。

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・書き初め(2日)

 お正月に行う書き初(ぞ)めは、吉書始(きっしょはじめ)ともいい、1月2日にめでたい句などを書く行事です。正月の仕事はじめの日に、めでたい文句や絵を書いて壁にかけることは古くから行われていたそうです。

 この書き初めは寺子屋や学校ができるにしたがいどんどん広まったという。小正月の「」どんと焼き」の火でもやし、高く上がるほど字が上手になるなどといいます。

 書き初めはお琴の弾(ひ)き初めや、謡(うた)いの謡い初めなどと同じ芸事のはじめの行事で、習字教育の発展で盛んになったもの。

 江戸時代には若水で墨をすり、学問の神・菅公の画像をかけ、めでたい詩歌や漢詩を書きました。詩歌では「君が代は……」、漢詩では「朗詠集」の句が多かったそうです。ちなみに「朗詠集」の句は「長生殿裏 春秋富 不老門前 日月遅」というものだそうです。

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・初 夢(2日)

 初夢はいつ見る夢をいうのか。それだけでも諸説ふんぷんです。かつては立春(2月4日ごろ)が正月だったため、節分から立春の明け方までの夢を初夢といったといいます。平安時代後期の「山家集」(西行)にも、立春の朝よみけると詞書(ことばがき)して、「年くれぬ春くべしとは思ひねにまさしく見えてかなふ初夢」と書かれています。

 それが元禄年間(1688〜1704年)のころから、大みそかの夢をいうようになったという。かつて大みそかは寝ないで過ごす習慣があり、そのようなのところでは元旦の夜に見る夢をいい、なかには3日の夜の夢が初夢だという人までいます。江戸が東京と呼ばれるようになってからは物事をはじめる日ということから、2日の夜に見る夢を初夢というようになったのだそうです。

 めでたい夢は「一富士、二たか、三なすび」の順だとされていますが、これにも三大あだ討ちの歌という人と静岡の名産をうたったのだ、とする説があります。

 三大仇討ちを詠んだ歌というのは、
一に富士(曾我兄弟、富士のすそ野の仇討ち)、二にたか(鷹)の羽のぶっちがい(赤穂浪士の主君浅野の紋所)、三に名をなす伊賀の上野に……というものだそうです。

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・歯固め(3日)

 昔は歯固めという行事もありました。歯固めは正月の3ヶ日に鏡餅やクリ、豆など固いものを食べる行事です。正月の神に供えたものは神秘な霊の力が宿るとする考えから、また固いものを食べて歯の根っこを固めて健康になり、長生きしようとする気持ちからはじめられたそうです。

 昔、中国に正月に固い飴をなめて「歯を丈夫に」しようとする風習があったそうです。それが日本に伝わり、公家の社会で年頭に鏡餅や押しアユ、イノシシ、鹿の肉、ダイコン、ウリなどを食べて「歯固め」といったという。「枕草子」や、あの「源氏物語」にも出てきます。歯は齢(よわい)の意味があり、歯を丈夫にし、年齢を重ねようとしたもののようです。

 民間では多くは、歳神(としがみ)に供えた鏡餅そのものを「歯固め」といい、この餅を凍み餅(しみもち)にしたり、あられやかき餅にして保存、6月1日に食べるという地方が多くありました。これは、はげしい農作業の労働を前に神に供えたものを食べて、それに宿っている神の霊力に頼ろうとしたのだろうといわれています。

なお赤ちゃんの歯が出はじめにしゃぶらせるおもちゃにも歯固めというものもあります。

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・小 寒(6日)

 カレンダーの1月6日ころに小寒(しょうかん)という文字が書かれています。これは二十四節気(にじゅうしせっき)のひとつで、太陽の黄経(天球の太陽の位置)が285度をいうのだそうです。この日を「寒の入り」と呼び本格的な寒さがやってくる時期としています。

 昔の月の満ち欠けを基準にした「こよみ」(陰暦)では季節とのずれがでてきて、こよみの日付けだけでは本当の季節の移り変わりがよくわかりません。そこで考え出されたのが二十四節気と七十二候(こう)というものです。

 1年をほぼ24等分にして15日ずつにし、それぞれをその季節にふさわしい名前をつけたのが二十四節気です。それをさらに3つに分け1年を72候にします。一候を5日にして5日ごとに季節の動きをみようとするわけです。二十四節気は立春(七十二候では第一候から第三候)からはじまり、小寒は第六十七候から第六十九候までをいい、それぞれに季節あった文をつけています。

 第六十七候は新暦の1月6日から10日ころで「芹(せり)生ず」のころ、第六十八候は10から14日ころで「水泉動く」ころ、第六十九候は15日から19日ころで「雉(きじ)始めて鳴く」ころとしています。いよいよ本格的な寒さがやってきます。

 ちなみに「二十四節気」は以下のようになります。
立春(2月4日ころ)、雨水(2月19日ころ)、啓蟄(3月6日ころ)、春分(3月21日ころ)、清明(4月5日ころ)、穀雨(4月20日ころ)、立夏(5月6日ころ)、小満(5月21日ころ)、芒種(6月6日ころ)、夏至(6月21日ころ)。

小暑(7月7日ころ)、大暑(7月23日ころ)、立秋(8月8日ころ)、処暑(8月23日ころ)、白露(8月23日ころ)、秋分(9月23日ころ)、甘露(10月9日ころ)、霜降(10月24日ころ)、立冬(11月8日ころ)、小雪(11月23日ころ)、大雪(12月7日ころ)、冬至(12月22日ころ)、小寒(1月6日ころ)、大寒(1月20日ころ)というわけです。

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・消防出初め式(6日)

 新年にあたり、消防士さんたちがそろって消防訓練を行います。出初め式は各地の消防団ごと1月6日に行うことがだいたい一定しているようです。

 とくに東京の晴海で行われる出初め式は有名で、現代の消防設備の演習をするほか、はしご乗りなど江戸時代に活躍した火消しの伝統を鳶職(とびしょく)の人たちが披露してくれます。

 はしご乗りは昔からあった軽わざの一種。江戸時代前期の延宝年間(1678〜1681年)ころから「はしごさし」という名の見世物があったそうです。のち女性の軽わざ師が登場し、はしごの上で逆立ちをする「しゃちほこ立ち」という技が有名だったという。

 このような軽わざが、明治以後にも消防組へ受けつがれ、1875年(明治8年)の1月4日警視庁練兵場で、はじめて行われた出初め式にも活躍したそうです。
 東京の出初め式はもと皇居前で行われていましたが、その後神宮外苑に移り、さらに1965(昭和40)年からは晴海の会場で行うようになりました。

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・七 草(7日)

 七草は七種(ななくさ)の節供の略したもので、1月6日にとってきた若菜を7日の朝、七種類の若菜のかゆにして食べて祝う行事です。七日正月(なぬかしょうがつ)とか七草の祝いとかいって、このかゆを食べると万病をのぞくといい、祝いのかゆを食べてその年の健康を予祝します。

 七日正月は江戸時代は人日(じんじつ)ともよばれ、五節供の1つに数えられていました。これは中国からつたわった行事で、中国のいいつたえでは元日から8日までをそれぞれ?(とり)狗(いぬ)、羊(ひつじ)などをあてはめていくと、7日が人の日になるからこの名ができたということです。

 そして漢の時代(唐代だという人もいる)に7種の菜を羮(あつもの)に

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して食べ、病気にかからないまじないをしたとされています。また、五節供とは人日(正月7日)、上巳(じょうし・3月3日)、端午(たんご・5月5日)、七夕(たなばた・7月7日)、重陽(ちょうよう・9月9日)の5つをいうそうです。

 中国からつたわった七種がゆの行事とは別に、以前から日本にも独特の七種がゆがあったのだそうです。平安時代の本、「延喜式(えんぎしき)」によると、日本の七種がゆの行事は正月15日に宮中で行われ、材料はコメ、アワ、キビ、ヒエ、ミノ、ゴマ、アズキの7種類の穀もつだったそうです。それが中国から渡来した7種類の草のかゆとごちゃまぜになり、平安時代ころから若菜を使ったかゆに変わってしまったのだという。

 七草がゆに使用する若菜の種類は、地方によってもいろいろで、時代によっても変わってきているようです。平安時代の若菜がゆは「枕草子」にミミナグサ1種類だけが書かれていますがあとは何を使用したかは不明です。

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 鎌倉時代の七草は「河海抄」という本にはいまと同じ「セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ」をあげています。室町時代では文安3年(1446年)にできた「(土偏に蓋)嚢抄(あいのうしょう)」という本に「セリ、ナズナ、ゴギョウ、ホトケノザ、タビラコ、ミミナシ、アシナ」が出てきます。

 「七草ナズナ、唐土(とうど)の鳥と日本の鳥と渡らぬ先に…」これは七草をまな板でたたく時の「七草ばやし」といわれる唱えごとです。「唐土の鳥」というのは鬼車鳥という夜飛びまわる鳥で、この鳥が子どもの着物の上に血のしずくを落とすと、疳(かん)になるので7歳以下の子どもの着物は夜干してはいけないとか、鬼車鳥は人のつめを食べるくせがあるので、夜つめを切ってはいけないなどといわれました。

 この悪鳥が飛ぶ前に七草がゆを食べれば寿命がのびるといいつたえ

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られ、七草ばやしを唱えながら夜通し打ったそうです。いつかテレビの料理番組で料理の先生が楽しそうに♪七草ナズナ…とうたいながら包丁でたたいていましたが、ほんとうはそんなものではなく、もっと厳粛な行事だったようです。
 しかし、この七草ばやしの本来の意味は正月の行事の「鳥追い」の行事からきたもので、新年に作物に害をおよぼす鳥を追いはらって豊かなみのりを祈る願いが、七種がゆに結びついたのだともいわれています。
 現代の春の七草はセリ、ナズナ(ペンペングサ)、ゴギョウ(ハハコグサ)、ハコベラ(ハコベ)、ホトケノザ(タビラコ)、スズナ(カブ)、スズシロ(ダイコン)の7種で、お店屋さんに観賞用の鉢植まで売っています。
 ちなみに秋の七草は、ハギ、オバナ、クズ、ナデシコ、オミナエシ、フジバカマ、アサガオ(またはキキョウ)をいっています。

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・学校始業(8日)

 冬休みも終わり、いよいよ3学期が始まります。学期とは学校で1学年を区分けした一定の期間のひとつで、ふつう小・中学校と高校では3期に、大学では2期に分けています。

 冬休みは学校教育法施行令という法律で、教育委員会が公立の小、中、高等学校について決め、私立はその学校の学則で定めることになっているそうです。その期間は法律では決まっていませんが冬休み、春休み、夏休みなどの合計が規則で決められている授業日数に足らなくならないように計算されています。農繁期や冬休みを長くとる地方では、夏休みが短くなり、冬休みが短くてすむ地方では夏休みが長くできます。

 小・中学校や高校では夏休みや冬休みがくると第1学期や第2学期が終わるとしていますが、この学期も公立では教育委員会、私立では知

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事が決めることになっていて、必ずしもそれと一致しなくてもかまわないのだそうです。

 また冬休みにしろ夏休みにしろ、学校は授業を休むだけなので、学校で働く教職員は休日になるものではありません。しかし、たてまえは授業以外の学校の事務に従事することにはなっていますが、ふつうは自宅研修などの形で勤務場所変更が認められ、学校に出なくてもよいことになっているのだそうです。

 学校そのもの歴史は古く、奈良時代の「懐風藻」という本(751年)に記載があったり、「日本書紀」には「676年・飛鳥時代」のところに書かれていますがよくは分からずじまい。

 その後701年(大宝元年)につくられた大宝令の学制によってつくられたのがはじめてだといわれています。しかし今の小学校は1872(明治5)年にできた学校制度がもとになっているのだそうです。

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・鏡開き(11日)

 1月の11日は鏡開き。正月に歳神に供えた鏡餅をおろして割って、雑煮やあずき汁にして食べます。どういう分けか餅を刃物で切ることをきらい、手や槌(つち)で割ったり、欠いたりして利用します。

 鏡開きの「開く」は割るの忌(い)みことばです。鏡餅は昔から正月の神だなや床の間、便所、井戸などにも飾るものでした。その形は人間の心臓をかたどっているのだとか、天皇家に伝わる三種の神器のひとつ八咫(やた)の鏡の形になっているのだともいう。

 鏡開きは「源氏物語」にも登場している行事で、もとは正月の20日に行われていたそうです。しかし徳川幕府の時代になり、三代将軍家光の忌日が20日のため、その日にお祝いするのはいかにもまずい。そこで11日に変更したといいます。

 鏡開きの行事は、この日を一応正月の終わりだとする考えから、正月の象徴になっている鏡餅をくずして食べるのだという。東京の講道館の鏡開きは有名です。

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・成人の日(第2月曜日)

 1月の第2月曜日は成人の日です。各地でおとなになった人たちを励ます記念行事が開かれますが、近年若者のマナーにいろいろ問題があるようです。

 成人の日は、国民の祝日のひとつ、1948(昭和23)年の「国民の祝日に関する法律」で、ほかの祝日といっしょに制定されました。この日には各自治体が主体となって青年を対象に「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」趣旨の記念行事が行われます。

 「民法」三条に「満二十年をもって青年とす」とあり、記念行事には過去1年間に満20歳になった青年男女が招待されます。

 1948年制定の法律では、成人の日は1月15日となっていましたが、2000年から土曜・日曜・月曜と3連休になるよう、第2月曜日に変更されました。そのためか成人の日の印象が薄くなってきています。

 一方、昔から日本には成人を祝う習慣がありました。男性は元服(げんぷく)、褌(へこ)祝い、女性は裳着(もぎ)、髪あげの儀式をする日でした。しかし、明治以後から富国強兵の思想が強くなり、男性は徴兵の時の検査が成人式のかわりになってしまい、終戦まで続きました。

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・小正月(14日〜15日)

 1月14日〜15日は小正月でもあります。1日(朔日)を正月にする方法が中国から伝わる前や、太陽暦が採用される前は、月の満ち欠けを基準(満月から満月までを1ヶ月)にした陰暦を使っていました。その陰暦では正月は、新しい年に入ってからはじめての満月の日にしていたという。

 小正月はそのなごり。太陽の動きで計る新しい暦になってからも月の満ち欠けを基準にした正月(陰暦15日)の習慣が抜けず、大の正月と小正月を二重に祝うことになったという。さらに陰暦15日を太陽暦の15日に移行していまでも小正月の行事は続いています。

 大正月を「男の正月」、小正月を「女の正月」というところもあり、14日から15日にかけて左義長やどんと焼き、あわぼひえぼやまゆ玉などの物作りなど各地でいろいろな行事が行われます。

・左義長(小正月)

 正月の松かざりなどを焼く左義長(さぎちょう)も1月14,15日行われる小正月の行事のひとつです。左義長は「どんと焼き」などとも呼ばれ、

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お盆と同じように祖霊を迎え送りするための火まつりです。

 左義長は山?(さんそう)という山の中に住む、一本足の怪人を爆竹で追い払う中国の行事がもとになっているとの説があります。また、仏教と道教とどちらが尊いか実験し、両方の経典を焼いてみたら左側の仏教の経典は燃えなかったという。そこで「左の義、長ぜり(すぐれている)」という意味で「左義長」の名がついたという説もあります。
 さらに鳥追い行事との関連で左義長は「鷺(さぎ)鳥」のことだとも、またこれは平安時代の宮廷行事でもあった三毬杖(さぎじょう)に由来しているのだともいいます。毬杖というのは馬に乗ってまりを打つ遊びだそうです。

・物作り(小正月)

 小正月の物作りは、その年の豊作を願う行事です。粟穂稗穂(あわぼひえぼ)はヌルデの木でヒエやアワの穂にみたてたものをつくりたい肥の上に立てます。

 穂だれといって削花(けずりばな)を穂の形に作ったり、木の枝に餅やだんごをならせて、作物の豊かな実りになぞらえたりします。また餅を繭(まゆ)の形に作って木につけた繭玉も、養蚕の豊収を祈ります。

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・成木ぜめ(小正月)

 小正月には成木ぜめという行事も行われます。この木は柿の木のこと。柿の木を責めて実をならせようという行事です。ふつうは2人がかりで柿などの木に、斧や鎌で傷をつけて1人が「なるかならぬか」と柿の木に質問します。すると木の陰に隠れたもう1人が「なります、なります」と答えるもの。

 実際、木に傷をつけると実がたくさんなるのに効果があるそうです。ちなみにわが家に猫の額くらいの庭に柿の木があり、木に傷をつけて実験してみました。翌年実がたくさんなったのは偶然でしょうか。

・鳥追い(小正月)

 「鳥追い」は田や畑の害虫を追い払おうとするもので、多くは子どもたちが「鳥追い棒」という棒で、「朝鳥、ホイホイ、夕鳥ホイホイ」などとはやしたてて村の中を歩きます。
 また嫁たたき、モグラ送りや蚊(か)の口やき、キツネ狩りなど、いまではちょっと想像のつかないようなものも行われたということです。東北地方の庭田植え、ナマハゲ、カマクラなども小正月の行事です。

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・年賀はがき抽選会(15日ごろ)

 1月15日ごろは、お年玉つき年賀はがきの抽選が行われます。お年玉つき年賀はがきは1949(昭和24)年11月に公布された「お年玉つき年賀葉書及び寄付金つき郵便葉書の発売並びに寄付金の処理に関する法律」という、長ったらしい法律に基づいたもの。

 同年12月1日に第1回の次の正月用が発売され、2円の通常はがきが3千万枚と寄附金1円をつけたはがき1億5千万枚が発行されました。

 1回目のお年玉は特等がミシン、1等・洋服地、2等・グローブ、3等・コウモリがさでした。1959(昭和34)年は特等・マットレス、1等・トランジスタラジオ、2等・腕時計、3等・万年筆セットです。1965年からは特等がなくなり、1等ポータブルテレビ、1978年は1等・ラジオつきテレビでした。

 毎年1月15日に抽選会が行われていましたが、2000年から成人の日が第2月曜日になってしまったため、抽選会は15日ころの日曜日に行うよう変わりました。

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・大 寒(20日ころ)

 カレンダーなどの1月20日ころのところに大寒(だいかん)という文字が書かれています。大寒とは二十四節気(せっき)のひとつで太陽の黄経が300度になる時をいい、寒さが最もきびしくなるころとされています。江戸時代の本「年浪草」に寒さは「栗烈として極まれり」とあります。

小寒から大寒までの15日と、大寒から立春の15日の計30日を「寒のうち」といっています。気温をみると過去70年の東京の記録でも、小寒から15日間は平均3・0度、大寒から15日間の平均は2・9度で、立春からの15日の3・4度とくらべても低いことがわかります。

 二十四節気とは1年を24等分してそれぞれその季節にふさわしい名をつけたもので、小寒(しょうかん)、大寒(だいかん)、立春、雨水(うすい)、啓蟄(けいちつ)、春分、清明(せいめい)、穀雨(こくう)、立夏(りっか)、小満(しょうまん)、芒種(ぼうしゅ)……と続きます。

 大寒をさらに3つに分けた七十二候では、大寒は第七十候〜第七十二候にあたります。第七十候は新暦1月20日から24にちころで「蕗(ふき)の花咲く」ころ、第七十一候は25日から29日ころで「水沢(さわみず)腹(あつく)く堅し」のころ、第七十二候は1月30日から2月3日ころで「?(にわとり)始めて乳(とやにつく)」ころだとしています。

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・1月その他の行事

▼玉せせり(3日)
 福岡県箱崎町の筥崎宮(はこざきぐう)。木で作った玉を裸の競(せり)子が奪い合って豊作を占います。

▼七福神舞い(7日)
 福島県白沢村。子どもたちが七福神に扮して春を祝って家々を回る行事。二本松市でも行われます。

▼七日堂裸まいり(7日) 
福島県柳津(やないづ)町。鐘を合図に円蔵寺の石段をかけあがり、麻なわを登ります。むな木に早くついた者に幸運がまわって来るといいます。

▼うそかえ神事(7日)
 太宰府(だざいふ)や大阪の河内道明寺(25日)、東京・亀戸(24・25日)などの天満宮。木でつくったウソという鳥に去年の罪を移らせて捨て、かわりにことしの福をよぶウソをもらいます。

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▼歌会始め(11、12日ころ)
 平安時代から宮中で行われてきた行事です。いまはその年の和歌のテーマを決め、すぐれたものを披露しています。

▼新野(にいの)雪まつり(14日)
 長野県阿南町。豊作を祈る祭。大きなたいまつの下で田楽、競馬(きょうま)、天狗、田遊びなどが徹夜で行われます。

▼ホンヤラドウ(14日)
 新潟県十日町市。小正月の鳥追い行事。雪で鳥追い堂をつくり、火をたいて雪室の中で食べたり飲んだりし、また拍子木(ひょうしぎ)をたたいて鳥追い歌をうたいます。

▼川崎大師初大師(21日)
神奈川県川崎市。厄除け祈願の人たちでにぎわいます。

▼成田山初不動(28日)
 千葉県成田市成田。露店が出て、参詣者がたくさんでて押すな押すなとにぎわいます。

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(1月終わり)

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