第2章 2 月

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2月(きさらぎ) (この章の目次)
  ・如月(きさらぎ)
  ・節分
  ・立春
  ・初午
  ・針供養
  ・建国記念の日
  ・バレンタインデー
  ・2月その他の行事 

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・如月(2月)

 旧暦では2月を「きさらぎ」と呼び、如月とか衣更月と書きます。これは太陽暦になったいまでも通用しています。この呼び方は奈良時代に書かれた「日本書紀」(720年)にも出てくるほど古くから使われていたようです。

 きさらぎは、生(き)更ぎの意味で草木の芽が出てくることだとも、また衣更着のことで(寒いため)着物を更に重ね着る意味だともいわれています。そのことは、江戸時代中期其諺(きげん)の歳時記「滑稽雑談」という本にも出てきます。ただ着物を重ね着るというのは間違いだという人もいるようです。

 そのほか、昔は2月のことを木芽月(このめづき)、雪消月(ゆききえづき)、梅見月(うめみづき)ともいっていました。

 また英語のフェブラリーは、キリストが生まれて40日め、2月の2日に聖母マリアがエルサレムに行ったことをフェプルアリウスいい、それが2

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月の名前になったそうです。

 2月には4年に1度うるう年があります。1年は365・2422日です。

 紀元前45年、ユリアス・シーザーは天文学者ソシゲネスに命じて、改暦をつくらせました。それによると1年を365・25日とし、各月を31日と30日の2つにわけ、当時1年の終わりの月であった2月を28日ときめ、4年に1回うるう年をおくことにしました。

 しかしそれですと400年に3日の食いちがいがおきます。そこで、うるう年は4年に1度おくが400年に3回なくすようにします。それには「西暦年数が4で割り切れる年はうるう年にするが、100で割り切れるときは平年にもどし、400で割り切れるときはうるう年にする」という、いまの暦になおしたのだそうです。

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・節 分(3日ころ)

 節分とは、季節の移り変わる時という意味で、かつては立春、立夏、立秋、立冬の前日のことをいったそうです。そのためもともと節分は1年に4回あったという。それが立春の前の日だけをいうようになったのは、立春は旧暦では1月の7日前後になることもあり、昔は新年の初めの大切な行事とされていたからだそうです。

 古い暦のうるう年では、正月より前に節分がくることさえあったという。昔から新しい春には神が訪れ、人々に祝福を与えてくれるといわれていました。神を迎えるためには、家に中をおはらいしなければなりません。

 人々は家から邪鬼をはらうため豆をまいたり、鬼打ちややいかがしの行事をしたのだそうです。それがいまの節分の行事につながっているとされています。そのほか「成り木責め」や「木まじない」という行事をする地方もあります。

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・豆まき(節分)

 「福はァうちィ、鬼はァそとォォ」。節分(3日ころ)の豆まきはいまでは寺院だけの行事のようになってしまいましたが、それでもスーパーなどで炒ったダイズや鬼の面を売っています。

 年と年との境(大晦日から正月)には祭りをうけるため、年神サマがおりてきます。ところが年神にゾロゾロついてくる精霊がいるというのです。その精霊たちへの供物を豆まきの形にしたのだともいわれています。

 また昔の暦では、節分は正月と重なることがよくありました。そのため豆まきの行事が、大みそかに行われていた追儺(ついな=鬼やらい)の行事とあわさり、「節分には悪い鬼がやってくるので、豆をまいて追い払おう」ということになります。

 豆まきは鎌倉時代の「花営三代記」や「看聞御記」という本にも記載があり、古い時代から続いているようです。ただ、中国にもこれと同じような豆で鬼を追い払う行事があり、それが日本に伝わってきたのではないかという説もあります。

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 昔、九鬼という大名の家では自分の姓と同じ鬼に「鬼は外」ともいえず、「鬼は内、福は外……」といい、最後に苦しまぎれに「富は内」ととなえたそうです。

 大阪の古い家では「福は内」と豆をまく人のあとから「ごもっとさまで……」とあいづちを打ちながらついてくる、笑わせ役があったといいます。

 また節分には魔よけとして、イワシの頭をヒイラギやカヤにさして戸口にさします。これは「目突き柴」といい鬼の目を突いて追い払うということで、同じく悪魔をはらう「焼いかがし」という行事を簡単にしたものだそうです。

 ところによっては年末のすす払いの時に豆をまく所(青森、岩手)や、1月7日にまく所(九州)もあります。

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・追儺 鬼やらい(節分)

 節分の夜、神社で追儺(ついな)という行事があります。「鬼やらい」とか「なやらい」などともいい、もとは大みそかの夜に行われていた行事だそうです。文字通り新しい年に向けて疫鬼を追い払おうというわけです。

 中国でも追儺は最も古い行事で、先秦の時代、紀元前3世紀ごろから行われていたという。周の時代では、方相氏というまじない師が熊の皮をかぶり、黄金の四つ目の面を着け、戈(ほこ)と盾(たて)を持って宮廷の中から悪魔を追い出す作法を行っていたといいます。

 その中国の行事が日本に渡来、陰陽道の行事として取り入れられます。飛鳥時代の文武天皇の慶雲3(706)年、諸国に疫病が流行し農民が次々に死んでいきました。そのため、大みそかに厄よけをしようと土で牛をつくり「鬼やらい」をしたという。これが追儺・鬼やらいの最初だといわれます。

 その後「延喜式」などの本から、この行事は毎年大晦日に宮中で行われていたようです。追儺はまた宮中だけでなく貴族の間でも行われ「西宮記」の延喜八年(908)十二月二十九日の条にの記載があります。しかしいつの間にかすたれてしまったということです。

 いま神社で行われている追儺は江戸時代以後、民間の豆まきと合わさってできたものといわれています。追儺には宮中方式にならって鬼を追う形の物と、単に芸能人などを迎えて年男が豆をまくだけのものがあります。

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・立 春(4日ころ)

 立春は二十四節気のひとつで、太陽の黄経(天球の太陽の位置)が315度になる日をいい、毎年1月4日ごろにあたります。この日は文字通り、春のはじめと考えられ、またかつて1年のはじめとも考えられました。

 中国の流れをくんでいる日本の旧暦(陰暦)では正月は立春の前後になっていたという。だからいまでも年賀状に「新春」とか「初春」と書いています。文字通り新年には新春とか初春とかいうことばがぴったりだったわけです。

 よく聞く「入梅」や「土用」などの雑節はすべて立春を基準に決められています。八十八夜、二百十日、二百二十日は立春から数えて88日目、210日目、220日目です。

 二十四節気をさらに3つに分けた七十二候では、立春は第一候から第三候にあたります。第一候は新暦2月4日から8日ころで「東風凍(こおり)を解く」ころ、第二候は9日から13日ころで「鶯(うぐいす)鳴く」ころ、第三候は14にちから18日ころで「魚氷(ひ)に上がる」ころなのだそうです。

 本当の春にはまだまだですが、それでも昼間の時間がのびて、東京では1月の31日間に38分長くなるのに対し、2月は28日間にナント56分ものびるそうです。

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・初 午(最初の午の日)

 2月の最初の午(うま)の日を初午といいます。午は子(ね)・丑(うし)・寅・卯・辰…とつづく十二支のひとつ。この日はお稲荷(いなり)さんの祭日として知られています。稲荷は京都伏見の稲荷神社や愛知県の豊川稲荷が有名ですが、そのほか各地にも稲荷神社やホコラがあり、それぞれ初午祭が行われます。

 初午の日には道陸(ろく)神祭をする所や、蚕玉(こだま)祭をする所(長野・岐阜)もあるそうです。

 そもそも2月の初午の日を稲荷の縁日になったとする由来は、伏見稲荷神社の祭神が伏見伊奈利山の三ヶ峰に降り立った日が、奈良時代のはじめの711年(和銅4年)の初午の日(11日または9日)だといわれているところからきているという。

 稲荷の神が三ヶ峰に降り立ったのをきっかけに、帰化人の秦公伊呂具(はたのきみいろぐ)が社を建ててまつったのが稲荷神社の起源とされています。それが次第に仏教の荼吉尼天(だきにてん)と合わさり、玄狐に乗った姿にもとづいてキツネを使者とする考えが生まれきたのだそうです。

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・針供養(8日)

 1月8日は針供養。このごろあまり見られなくなったこの行事も、裁縫師や裁縫学校などでは行われているらしくテレビのニュースで見ることがあります。

 この日は裁縫の針作業を休んで折れた針のために供養します。折れた針を集めて豆腐やコンニャクに刺して川に流したり、危くないよう淡島神社に納めたりします。(針を豆腐やコンニャクに刺して川に流した方が危ない?)

 豆腐を使うのは白い豆腐のように色白の美人にあやかることと、やわらかい気持ちになれるようにとの願いがあるという。また原料の豆から「マメに働けるよう」にともいわれています。

 淡島さまに納めるのは、淡島神社は波利才女(はりさいじょ)を祭神にしているところからきているそうです。針供養の起源は淡島信仰ではないかともいわれています。針供養は12月8日にも行われます。

 裏日本では魚のハリセンボンを針の神としてまつり、だんごを供えるところもあるそうです。

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・建国記念日(11日)

 建国記念日(2月11日)は、1966(昭和41)年6月に制定された、建国をしのび、国を愛する心を養うための国民の祝日なのだそうです。

 この日は、戦前は神武天皇即位の第1日とした建国の記念日「紀元節」でした。明治5年(1872)に制定された旧祝祭日では四大節のひとつです。しかし第二次世界大戦後廃止されていたもの。

 新しく2月11日を建国の日と定めたのは、「日本書紀」に神武天皇が、辛酉(かのとのとり)の年、春正月の朔日(ついたち)に大和の畝傍(うねび)の橿原(かしはら)で即位したとあり、それをいまの太陽暦に換算したものという。

 しかし、そのころの暦がどんな種類のものかはっきりせず、換算するのはきわめてむずかしく、戦前の憲法に逆もどりとの声もあり歴史学者、文化人など疑問を持っている人が多く、建国記念の日に対する受け取り方は人によってさまざまです。

 また旧憲法の大日本帝国憲法が1889(明治22)年の2月11日に発布されており、かつてはきょうは「憲法発布記念日」でもありました。

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・バレンタインデー(14日)

 2月14日はバレンタインデーです。何日も前からデパートやスーパーマーケットではチョコレートやいろいろな商品をならべています。

 バレンタインデーはカトリックの祝日で、聖バレンタインを記念する日だといいます。しかし同じ名前の聖人バレンタインさんは52人もいて、この日に関係があるらしいといわれているのはこのうちの2人。なかでも西暦270年、皇帝の圧迫で殉教死したバレンチヌスという人が有力だとか。

 この習慣ははじめ、親子が愛の教訓と感謝の心を書いたノートを交換しあったものでしたが、次第に男女の愛の告白をする日となりいまでは女性から告白してもいい日になっています。しかし現代は女性のストーカーまでいる時代、こっそり男性が告白する日に変わるかも知れません。

 バレンタインデーの由来についてはそのほか、ローマ時代、「二月祭」に遊び相手の娘をくじびきできめた風習があり、それがキリスト教化したのものだとも、またこの日から小鳥が結婚するからだなどいろいろ起源説があります。

 1960(昭和35)年、アメリカやヨーロッパでバレンタインデーに、キャンデーを贈るのにヒントを得た森永製菓がチョコレートを贈るよう、新聞で大々的に宣伝。当時の新聞に、2月14日は「愛の日」。ハートのついたカードや手紙にチョコレートをそえて贈る日です……との広告が載っています。これに若い女の子がのせられて大騒ぎ。次第に広まっていきました。

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・2月 その他の行事

▼旧正月(旧暦1日)
 昔の暦の陰暦で行う正月もあります。日本は昔からの行事に新しい太陽暦の日どりをとるほかに旧暦も使い、また日どりを調節変更した月遅れの正月もあります。そのほかに満月を1カ月の初めとした古い習慣から、小正月などいうものもあり、立春を正月とした習慣から複雑なものとなっています。

▼事始め(8日)
 事始めは新しく仕事にとりかかるということからいわれるようになりました。2月8日または12月8日に行われます。2月8日を事始めにした場合は、12月8日を事納め、12月8日を事始めとした時は2月8日が事納めになり、どちらをとるかは決まっていないそうです。

 物事の神を農業の神と考えた人は、農作業を始めるにあたり、2月の事始めを祝い、とり入れの終わった12月に事納めをします。事納めの日にはみそ汁にイモ、ゴボウ、ダイコン、アズキ、ニンジン、コンニャク等を入れた「お事汁」を食べたりします。

 また、正月の祭事のはじまりを事のはじまりだとする人は12月の8日を事始めとし、正月の行事の終わった日、2月8日を事納めと呼びました。そして事始め、事納めの両方をさして事八日(ことようか)などといっています。昔、この日は大目玉または一つ目の化け物が来ると信じられ、家の外に目籠(めかご)やざるなど目の数の多いものを、さおの先につけて魔除けにしたそうです。

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▼雨水(19ころ)
 2月19日ころは二十四節気のひとつ雨水(うすい)です。太陽の黄経(天球の太陽の位置)が330度の時をいいます。立春から15日後で、雪や氷が解けて降る雪も雨となる季節の意味だそうです。

 雨水は七十二候では立春から数えて第四候から第六候にあたります。第四候は2月19日から23日ころで「土脉(どみゃく)潤い起こる」ころ、第五候は24日から27日ころで「霞(かすみ)始めてたなびく」ころ、第六候は3月28日から4日ころで「草木萌(も)え動く」ころなのだそうです。昔から農作業の準備をする目安になりました。

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(2月終わり)

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