続・山の神々いらすと紀行
第10章 中国・四国・九州の山々
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■02:四国・白峰の相模坊は丹沢大山から来た
【本文】
香川県坂出市白峰山(370m)にすむ相模坊天狗は、日本の天狗
の有名度の物差しにもなっている「日本八天狗」にも入っている大
天狗です。もとは名前のように、相模の国(神奈川県)丹沢大山(1252
m)にすんでいましたが、いつのころかここ、白峰山に移ったとい
う。
白峰山の中腹には四国霊場第八十一番札所白峰寺があり、境内に
崇徳(すとく)上皇陵があります。平安時代の保元元年(1156)、
保元の乱で敗れここ讃岐(香川県)に流されました。
崇徳院はここ白峰の岩牢の中で8年間の悲憤の生活、46歳の生
涯を終えます(長寛2・1164)。崩御した院のそばで、その霊を慰
めていたのが相模坊天狗とその配下たちだったという。その後、仁
安(にんあん)3年(1168)、西行が崇徳院の墓に詣でた時、崇徳
院の怨霊と問答したという話があります。
「御衣は柿色のいたうすすびたるに、手足の爪は獣のごとく生(お
ひ)のびて、さながら魔王の形、あさましくもおそろし。空にむか
ひて「相模(さがみ)、相模」と叫(よば)せ給ふ。「あ」と答へて、
鳶(とび)のごとくの化鳥(けてう)翔(かけ)来り、前に伏(ふ
し)て詔(みことのり)をまつ」という件(くだり)が『雨月物語』
(巻之一白峰)にあります。
この鳶のような鳥が相模坊天狗です。このころはまだ狩野元信が
鼻の高い天狗を創作していなく、天狗といえばカラス天狗だったわ
けです。崇徳院は相模坊に向かっていいます。
「なぜ早く平重盛の命をとって後白河上皇や平清盛を苦しめない
のか」。すると化鳥は、後白河上皇の福運はいまだつきておりませ
ん。重盛の忠義にも近づき近寄りかねます。しかしいまから干支(え
と)を一回りし12年たてば、平重盛の寿命がつきて平家一族の幸
いも亡びましょう、と相模坊天狗は断言します。
そして干支が一周した13年後、その言葉どおり平重盛は重い病
で世を去ってから平家一門は滅亡しています。もちろんこれは『雨
月物語』の作者・上田秋成が平家滅亡の年数を計算しての上の構成
だといわれてはおりますが……。
▼白峰山【データ】
【所在地】
・香川県坂出市。予讃線国分駅の北北西3キロ。
【位置】
・白峰山:北緯34度19分50.32秒、東経133度55分43.49秒
【地図】
・2万5千分の1地形図:白峰山
▼【参考文献】
・『雨月物語』上田秋成:『雨月物語』(日本古典文学全集48)高田
衛校注・訳(小学館)1989年(平成1)
・『今昔物語集』:日本古典文学全集24『今昔物語集』:馬淵和夫ほ
か校注・訳(小学館)1995年(平成7)
・『続日本紀』(巻第一)平安時代初期に編纂:新日本古典文学大
系12『続日本紀1』青木和夫ほか校注(岩波書店)1990年(平成
2)
・『図聚天狗列伝・西日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
・『太平記5』(巻第32~巻第40)山下宏明校注(新潮社)1991年
(平成3)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成
4)
02:白峰の相模坊おわり
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