『続・山の神々いらすと紀行』
第3章 関東の山々

………………………………………………

■16:神奈川県・石老山

【略文】
相模湖に影を映す石老山。この山は山の中にある寺・石老山顕鏡寺
の山号からきているという。寺の名はこの山には古い石群がたくさ
んあるため石老山。寺の草創伝説の銀の鏡にちなみ顕鏡寺。そして
寺の号をとってこの山を石老山と呼ぶようになったという。
・神奈川県相模湖町と藤野町の境。

■16:神奈川県・石老山


【本文】

JR中央本線相模湖駅のすぐ南側にあるその名も相模湖に影を落と

す石老山。石老山とは珍しい名前ですが、山中にある古い石群から

石老の名をとった石老山顕鏡寺(けんきょうじ)というお寺があり、

その山号から石老山と呼ぶようになったという。石老山山中の苔む

した巨岩は屏風岩、仁王岩、文殊岩、大天狗岩、鐘岩、八方岩な

どと呼ばれていいます。顕鏡寺は昔から有名な寺だったようです。



江戸幕府官撰による相模国に関する地誌『新編相模国風土記稿』(巻

之百十七・津久井県巻之二)に、「…山の中腹に顕鏡寺及び岩窟虚

空蔵堂あり…、寺記に拠れば仁寿元年(851)草創の地なり、例祭

二月十三日武相甲は勿論、他の州都に及まで祈請するもの多く群

参せり、霊験著るき由を伝へて小児虫留加持の守護符を出せり、

是がために参詣の徒常に道に相望めり…」とあります。



2月13日の例祭には武相甲はもちろん、ほかの地方の人たちも大

勢参拝に来たとあり、東京や、神奈川、山梨県以外からも大勢の信

者が登っていたようです。とくにここから出される小児虫留加持(し

ょうじむしとめかじ)のお札は霊験あらたかなことから多くの人々

が参詣にきたという。寺の縁起によれば、平安時代前期の仁寿元

年(851)ごろ、大宮人(おおみやびと)(殿上人)の三条貴丞卿

(さんじょうきしょうきょう)の若君武庫(むこ)(兵庫県南部摂

津地方の古地名)の郎子(いらっこ)(若い男性を親しんで呼んだ

語)が八条殿の姫君と恋に落ちたという。



親が許さぬ恋だったため、2人は京から駆け落ち、はるばる相模

国まできて粕屋の里の能城太郎兵衛の家に泊まりました。そこで

相模川の上流の山中に岩窟(道志岩窟)があることを聞いたので

す。2人は早速岩窟のある石老山に登り、この岩窟で愛の巣を設

けました。やがて2人に一女一男という子供が授かります。男の

子は山中の岩窟にちなんで岩若丸と名づけられました。岩若丸が

7歳になった年、父は僧になり道志法師と名乗って托鉢の旅に出

ました。



父が托鉢から帰ってみると母の姿がありません。父と岩若丸は探

しまわりましたが見つかりませんでした。父は母を探すために全

国行脚に出ようと考えました。父は都から移ってきたとき世話に

なった、粕屋の里の太郎兵衛に岩若丸の養育を頼みました。その

時、父子が再会した時のあかしとして銀の鏡を割って、片方を自

分が、もう片方を岩若丸に渡し父は行脚に旅立ちました。その後

この鏡片のおかげで、成長した岩若丸は父母と再会できたのでし

た。



年が移って貞観(じょうがん)18年(876)、岩若丸は「源海上人」

と号し、父と同じように僧となり家を出て修行。しかし岩若丸は

父母の死後、石老山の道志岩窟に戻り、一寺を建立して父母の菩

提を弔ったということです。また別の話では、岩若丸は若者に成

長しましたが、いつまで経っても全国行脚に出かけた父からの沙

汰がありません。そこでこんどは岩若丸が父母を探す旅に出たと

いう。



歳月が流れ、源海上人というお坊さんがこの石老山に入って、一

寺を建て親子の供養をしたという。源海上人はその親子が分け合

った鏡の一片を持っており、上人は旅先でこの父子に出会い、こ

の地に遣わされたという話です。そして前述のように、古い石の

山から寺の山号を石老山とし、再会のあかしだった鏡から顕鏡寺

と呼んだという(寺の縁起に草創は仁寿元年(851年)とあるから

顕鏡寺になる前から寺はあったのですね)。



このように寺の山号にもなり、苔むした巨岩が多い山であるとこ

ろから、この山は石老山と呼ばれるようになったという。山中に

は12の巨岩が立ちならび、山頂へはその間を見上げながら登って

いきます。



なおこの寺は『新編相模国風土記稿』によれば、「古義真言宗(千

木良村善勝寺末)開基東三条大臣兵庫頭…中興開山源栄…本尊虚

空蔵、此寺享保(きょうほう)二年祝融の災(しゅくゆうのわざ

わい)に罹(かか)り、什宝(じゅうほう=秘蔵の宝物)の類悉

(ことごとく)灰燼(かいじん=灰や燃え殻)に委(まか)して

唯(ただ)?記(縁起)のみを余す(のこす)と云へども、?記

の文冗長にして徴(しるし)とするに足らざれば爰(ここ)に略

せり」なのだそうです。アララ。



またこの寺にはNHK朝の連続テレビ小説でヒロインの「腹心の友」

として登場した「葉山蓮子」(愛称「蓮れんさま」、実際は「Yあき

さま」)柳原白蓮(やなぎわらびゃくれん)の墓があります。墓碑

には、「妙光院心華白蓮大姉」と刻まれています。



▼石老山【データ】
【所在地】
・神奈川県相模湖町寸沢嵐と藤野町牧野の境。JR中央本線相模
湖駅の南4キロ。JR中央本線相模湖駅からバス、石老山入り口停
留所下車、さらに歩いて2時間15分で石老山。三等三角点(694.4
m)と、写真測量による標高点(702m)がある。
【ご利益】
・顕鏡寺(東面中腹):真言宗高野山派。本尊は福一満虚空蔵菩薩。
津久井三十三観音霊場第14番札所になっている。霊場の本尊は十
一面観世音菩薩。(もとは増原西福寺所蔵。合併で遷座)(増原)来
てみれば世に増原の顕鏡寺朝日輝く法の石。
【位置】
・標高点:北緯35度35分7.43秒、東経139度11分26.25秒
・三角点:北緯35度35分6.92秒、東経139度11分21
48秒
【地図】
・旧2万5千分1地形図名:青野原。


▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『かながわの山』植木知司(神奈川合同出版)1981年(昭和56)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『新編相模国風土記稿』(巻之百十七・津久井県巻之二)石老山
:「大日本地誌大系23」『新編相模国風土記稿5』蘆田伊人校訂(雄
山閣)1980年(昭和55)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系14・神奈川県の地名』鈴木棠三ほか(平凡社)
1990年(平成2)

 

▼16:石老山おわり
………………………………………………………………………
目次へ戻る