『続・山の神々いらすと紀行』
第3章 関東の山々

………………………………………………

■14:奥高尾・陣馬山と武田勝頼

【略文】
高尾山北西の陣馬(場)山は、裏高尾、奥高尾などとも呼ばれ、
また東京側では案下嶺ともいったという。山頂は広く台地には白
馬像が建っています。山名には諸説ありますが戦国時代、武田信
玄の子の武田勝頼方が武州に軍を進め、北条氏照の居城滝山城を
攻めた時ここに陣を張ったという説があります。「陣張山」から「陣
場山」になり、次第に「陣馬山」になったのですね。

−30−

――――――――――――――――――――――――

■14:奥高尾・陣馬山と武田勝頼


【本文】

東京都民の山として知られる高尾山北西の景信山につづくところに

陣馬(場)山(855m)という山があります。ここは別称裏高尾、

奥高尾とも呼ばれ、また東京側では案下嶺ともいったらしい(『武

蔵名勝図会』)。山頂は広い台地になっていて、数軒の茶店があり、

白馬像が建っています。ほぼ360度の展望で富士山から、南アル

プス、また丹沢、大菩薩、奥多摩、奥秩父や、奥日光の山々まで。

そのほか都心のビル群、相模湾に浮かぶ江ノ島、三浦半島や房総

半島まで眺められます。



山名の由来には諸説あるようです。まず戦国時代の永禄12年(1569

年)、武田信玄の小田原攻めがはじまると、その子の武田勝頼が武

州にも軍を進め、拝島に近い場所にあった北条氏照の居城滝山城

(小田原城の支城・いまの東京都八王子市丹木町)を攻めたとい

う。



武田信玄、勝頼父子の城攻めは、熾烈を極めたという。滝山城の

対岸、拝島の森に武田信玄本隊が陣取り、別動隊の大月の岩殿城主、

小山田信茂は、当時予想もしていなかった小仏峠を越えて乱入。こ

の時勝頼は武田方・攻め手の将だったという。その時この山に陣

を張ったというのです(『角川日本地名大辞典14・神奈川県』)。廿

里古戦場(とどりこせんじょう)。



また山頂に武田方の烽火台があったとする説(「津久井郡勢誌」)。

さらに日本武尊が東征の時、ここを通るのに陣馬とともに苦労し

たためという説もあります。またここは猟師の野営場で、萱(じん)

の刈場であったという説もあるようです。



武田久吉(明治-昭和時代の登山家,植物学者)は大正時代著した「多

摩川相模川の分水山脈」の中で「陣場ヶ峰」と記し、河田驕iみ

き)の『一日二日山の旅』には「陣場峯」と記しています。この

ように以前は「陣場峯」、「陣場山」、「陣張山」などと呼んでいた

ようです。その後、「陣場山」になり、次第に「陣馬山」が一般的

になりました。国土地理院の地形図にも「陣馬山(陣場山)」と記

入されています。



陣馬山の北には和田峠があり、東麓の陣馬高原にはキャンプ場も

あります。中村雨紅作詞の「夕焼け小焼け」の歌はこの山麓で生ま

れたといい、東麓の八王子市上恩方(おんがた)町琴平住吉神社

(通称宮尾神社)には、1956年(昭和31)建立中村雨紅作詞の歌

碑もあります。なお蛇足ながら中村雨紅(高井宮吉)は、この神

社の神官高井丹吾の二男(三男とも)だったそうです。



▼陣馬山【データ】
【所在地】
・東京都八王子市と神奈川県相模原市との境。中央本線藤野駅の
北4キロ。JR中央線八王子駅からバス陣馬高原下下車、1時間で
和田峠。さらに30分で陣馬山(855m(857m)国土地理院HPに
標高なし)。白馬像と茶店がある。地形図上に何も記載なし。
【位置】
・陣馬山:北緯35度39分7.48秒、東経139度9分59.61秒
【地図】
・2万5千分1地形図名:与瀬 [北西]


【参考文献】
・『一日二日の山の旅』河田驕iみき)(自彊館書店)大正12(1923)

・『角川日本地名大辞典13・東京都』北原進(角川書店)1978年(昭
和53年)
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『津久井郡勢誌』(復刻 増補版)(津久井郡勢誌復刻増補版刊行)
1978年(昭和53)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・「日本歴史地名大系13・東京都の地名」児玉幸多ほか(平凡社)
2002年(平成14)
・『武蔵名勝図会』(植田孟縉撰)1820年(文政3):多摩郡一円の
名所旧跡を名所図会風に編したもの。

 

▼14:陣馬山おわり
………………………………………………………………………
目次へ戻る