第10章 南アルプスとその周辺
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▼中 扉 【南アルプスとその周辺】 このページの目次 -219- |
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■夜叉神峠の夜叉神の祠 夜叉神峠は、高谷山(たかたにやま)と大崖頭山(おおくずれあ −220− ―――――――――――――――――――――――― 夜叉神峠小屋の前はヤナギランがまっさかりでした。石祠はそこ
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■鳳凰三山地蔵ヶ岳 南アルプス北部の地蔵岳、観音岳、薬師岳を鳳凰三山といってい
−222− ―――――――――――――――――――――――― 岩峰の下の賽の河原は磔地になっていて、子授け地蔵の石仏がた −223− |
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■甲斐駒ヶ岳山頂の祠
南アルプスの北端に位置する甲斐駒ヶ岳(2967m)は日本全
国に十数座ある駒ヶ岳の最高峰で、そのどっしりとかまえた雄姿は、
人々の心を惹きつけます。とくに南麓の仙水峠から見あげる山容は、
男性的で雄々しく、絵筆をふるう姿をよく見かけるところです。
先年、岳友が「日本百名山」登山の最終の山に甲斐駒を残し、そ
のお祝い山行がありました。7月末という時期もあって駒津峰(こ
まつみね)から山頂まで登山者が続き、アリが列をなす状態です。
ほかの人たちが間に入り、パーティーがバラバラになるありさまで
した。
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駒ヶ岳の名は、山中に神馬がすむという伝説からとか、馬の姿の
雪形、駿馬が駆けるような山容、巨摩(こま)郡の一番の山にちな
むなど諸説があります。
一方、長野県側では伊那谷を隔て、東西に駒ヶ岳があり、甲斐駒
ヶ岳を東駒、木曽駒ヶ岳を西駒と呼びました。甲斐駒ヶ岳山頂から
東南に派生した摩利支天には山頂にそれを象徴する鉄剣が奉納され
ているところからその山名があり、手力男命がまつられているとい
う。
甲斐駒ヶ岳の山頂にもりっぱな祠が建っていますが、まわりに登
山者がたくさん集まって休憩していて、観察するのに難儀しました。
祠は駒ケ岳神社の奥宮で、前宮は山梨県北巨摩郡白州町横手と白
州地区の竹宇の2ヶ所にあり、黒戸尾根(くろどおね)から甲斐駒
への登山口になっています。
祭神は大国主命の名でおなじみ大己貴命(おおなむちのみこと)
と、少彦名命(すくなひこなのみこと)。神話に、大己貴命の子、
建御名方神(たけみなかたがみ)が出雲の国譲りの際、力くらべで
建御雷神(たけみかづちがみ・建御雷之男神)に破れ、諏訪湖まで
逃げて来て、諏訪大社の祭神になる時、甲斐駒ケ岳の崇高さにうた
れ、父親神をまつったのが最初だと、駒ケ岳神社の社伝にあります。
ほかに雄略朝というから大和時代に出雲国の宇迦山から神の座を移
したとする郡誌もあります。
この山も修験道の山。神仏習合の威力大権現も山頂にまつられて
いるといい、神社も古くは駒形権現とよばれたそうです。
・山梨県北杜市と長野県伊那市との境 JR中央本線甲府駅からバ
ス、広河原乗り換え北沢峠、歩いて4時間20分で甲斐駒ヶ岳(2
967m)−225−
第10章
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■甲斐駒ヶ岳・黒戸尾根の刀利天狗
各地に散在する駒ヶ岳は、たいがい馬にちなんだ山名で、全国に
10数座もあり地元名をつけ、秋田駒、会津駒、木曽駒などと呼ん
でいます。甲斐駒もそのひとつですが、信州側では赤河原岳、花崗
岩が風化して白く見えるところから白崩山といっていました。
数多い駒ヶ岳のなかでも甲斐駒は、深田久弥をも「もし日本の十
名山を選べと言われたとしても、私はこの山を落とさないだろう」
(「日本百名山」)といわせています。
確かに甲斐駒は、高さにおいて全国の駒ヶ岳の中でも富士山項の
一峰の駒ヶ岳を除けば日本の駒ヶ岳の最高峰です。
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山頂から北東に延びる黒戸尾根。ふもとの横手、竹宇地区にそれ
ぞれ駒ヶ岳神社があり、駒ヶ岳講などがよく信仰のために登ったと
いう。その尾根の中間に黒戸山があって「刀利天狗(とうりてんぐ)」
の祠が建っています。
そばの石碑に「駒嶽刀利天」の文字があり、横手駒ヶ岳神社の宮
司の話では、刀利天狗は「刀利天宮」でよいという。しかし、その
後登ったときには「三笠山刀利大神」の石碑も建っていました。
これは木曽御山獄山の前山の一峰・三笠山にすむという「三笠山
刀利天坊」天狗のこと。そういえば登山道に御嶽講行者の霊神碑が
ならんでいるし、黒戸山には猿田彦命(さるたひこのかみ)を祭っ
ており、うなずけなくもありません。
そもそも木曽御嶽山には「六尺坊」という大物天狗がいて、その
前衛の八海山、三笠山、阿留摩耶山(あるまやさん)にそれぞれ大
頭羅坊(だいずらぼう)、刀利天坊(とうりてんぼう)、アルマヤ坊
天狗がいることになっています。八海山は木曽福島駅から田の原行
きのバスで五合目。スキー場があるが夏などは降りる人も少ない。
田の原終点付近にある三笠山も御嶽をめざす登山者は目もくれませ
ん。
しかし、木曽御嶽山の山頂直下、三ノ池近くの飛騨頂上では刀利
天坊の像がハツタとにらみをきかしているのが頼もしい。
黒戸尾根と同様、秩父の両神山では先の三天狗を山の護法神に、
上州大田市・新田山でも御嶽権現の脇侍に刀利天坊と大頭羅坊を祭
っています。
・山梨県北杜市 JR中央本線韮崎駅からバス、竹宇神社から歩い
て4時間45分で甲斐駒ヶ岳(2967m) 2万5千分の1地形図
「長坂上条」−227−
第10章
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■北岳・幻の大日如来祠 北岳(3193m)は白根三山(しらねさんざん)の北端の山と −228− ―――――――――――――――――――――――― 最近、10数年前まで北岳の山頂に石祠の屋根のかけらがあった
−229− |
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■農鳥岳・大町系月の祠 南アルプスの北岳・間ノ岳・農鳥岳を合わせて白峰(しらね・白
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■荒川三山・東岳の祠 荒川岳は、前岳(3068m)、中岳(3083m)、それに東岳
−232− ―――――――――――――――――――――――― 東岳にも人工の木片があって、神をまつった形跡がある。東岳の −233− |
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■米寿の大名登山と荒川小屋 南アルプスは赤石山脈と呼ばれ、3000m級の山々が10座も
−234− ―――――――――――――――――――――――― 山駕篭に乗っているのは白髪にひげも真っ白な老紳士。大倉財閥 −235− |
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■赤石岳・幻の祠
赤石岳(赤石岳・3120m)は、南アルプス(赤石山脈)のほ
ぼ中央にあり、山脈名にもなっているほどの代表的な山。日本で第
7位、南アルプスのなかでは第4位の高さを誇ります。赤石の名は
南面の静岡県側を遡る赤石沢に由来しているとされています。赤石
沢は谷底に赤紅色のラジオラリアチャートがあり、その赤い石から
きているという。そういえば赤石岳付近では赤い色の石をよく目に
します。
赤石岳は静岡県の呼び名で、長野県では、静岡県境にあるため駿
河岳と呼び、また釜沢岳や、大河原ノ岳の名もあったという。大河
原ノ岳は、信州側山麓の大河原集落からの名前。
−236−
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南北朝時代、南朝の後醍醐天皇の皇子宗良(むねなが)親王が、
南朝勢力挽回のため、北条時行、諏訪頼継、高坂高宗などを従え、
遠江国伊谷城を棄てて信濃の国に入り、大河原に根拠地をおき、東
奔西走するかたわら、しばしば赤石岳山頂に座し、足利市調伏を祈
願したという。
同親王の「家集」(個人の和歌を集めた書)「李花集・りかしゅう」
の詞書(ことばがき)には、「興国5年、信濃国大川原と申す山の
おくに籠もり居侍りしに」とあり(信史5)、宗良親王が当地に入
ったのは、この興国5(1344)年・北朝では康永3年か、その
前年と推定されます(下伊那史)。
また同書には「大河原と申し侍りし山の奧をも又立ちいで侍りし
に」とあり、正平2年前後、親王は吉野に上ろうとして当地を出発
したが、翌年、美濃から駿府を経て当地に戻ったという(信史6)。
同親王は文中3(1374)年12月、いったん吉野に帰るが、約
30年間にわたって当地あるいは大草を根拠に駿河、武蔵、上野、
越後、美濃、尾張などを転戦し、南朝挽回を画策しました。
宗良親王がいつ没したかは不明ながら戦国時代の天文19年宗詢
が文永寺で、宗良親王の和歌を書き写したものの詞書に「大草と申
(もうす)山の奥のさとの奥に、大河原と申所にて、むなしくなら
せ給とそ、あハれなる事共なり」と記され、ここが親王の終焉の地
とされています(三宝院文書/信史7)。
「続史愚抄(ぞくしぐしょう)」(江戸中期の公卿柳原紀光が父光
綱の志を継ぎ編修した歴史書)などによれば、1385(元中2)
年8月に没したという。
釜沢から小河内川を上った御所平は親王隠棲の御所と伝え、現在
その供養塔である宝篋印塔が残り、「李花集」の詞書に「信濃国大
川原と申し侍りける深山の中に、心うつくしう庵一二ばかりしてす
み侍りける…うんぬん」とあるのは御所近くのことと推定されてい
ます(下伊那史)。この近くに的場という地名があり、鉄鏃(やじ
り)が出土しています。
親王を擁護したのは、大河原城主香坂高宗であり、「李花集」の
詞書(ことばがき)に高宗の忠節にふれたものがあるということで
す。
また赤石岳北側・西麓の大河原方面から稜線に登ったところに
「大聖寺平」という平坦地があります。大河原方面へ下る分岐があ
り、指導標とケルンが建っています。ここは大河原に籠居していた
宗良親王の故事による「大小寺平」が古名だといわれ、いまでもこ
の一帯には宗良(むねなが)親王伝説が残っています。
赤石岳は、江戸時代から山岳宗教登山が行われていたとみられて
おり、明治12(1879)年内務省地理局の測量登山のあと、同
19年信州河野村堀越(いまの豊岡村)の敬神講の堀本丈吉や、ま
た同年甲州の名取直衛(江)が登頂して祈祷しているという。
これほど信仰登山が盛んだった赤石岳に、祠のひとつやふたつな
いわけがない。加藤文太郎も「南アルプスをゆく」のなかで、小赤
石岳の南、剣ヶ峰に「蚕玉大神(こだまたいじん)」を祀ってある
と書いてあり、赤石西峰に祠ありと記す登山用地図もあります。
しかし、酔狂にもそれを確認すべく、何回となく登り、西峰から
南峰とゴツゴツの大岩を伝わってあっちウロウロ、こっちウロウロ。
調べに調べたがいまだに見つからないのは、どうしたことでありま
しょう。
・静岡県静岡市と長野県大鹿村との境 JR飯田線伊那大島駅から
バス・塩川終点から歩いて三伏峠経由19時間40分で赤石岳(3
120m)・2万5千分の1地形図「赤石岳」−237−
第10章
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■光岳の光る岩峰
南アルプスはふつう北端の甲斐駒ヶ岳から、光岳までをいってお
り、光岳は縦走の終点にあたります。北のイザルヶ岳との間にある
センジヶ原は、二重山稜になった草原でダケカンバが生えたお花畑。
地面が幾何学模様に縁どられ、ひとつひとつが島のようになってい
ます。光岳と書いて「テカリ岳」。山の名は本当にむずかしい。テ
カリ、センジヶ原、イザルヶ岳など独特の名前がならび、南アルプ
ス最南端の雰囲気が感じられます。
ふもとの村から見見ると、沈みゆく夕日に映えて「テカリ」と光
る山があります。村人はそれをテカリ岳と呼び「光岳」の字を当て
ました。そのテカリと光るのが光岳山頂の西側にある光岩。石灰岩
のザラザラした岩峰で、南西の池口岳方面から見ると、西日を浴び
て白く光って目立つという。
「峰頭はいずれも木立は遠のいて、岳樺や偃松(はいまつ)が身
をふせ、西南に面して灰白の断崖を三丈ばかり剥き出している、岩
石の膚はザラザラに荒らけて、地衣が青白いの、樺色の、膏薬でも
貼りつけたようだ。…寸又谷には奥山の高みに四角な大岩がある。
遠くまで光って見えるので谷間の猟夫たちは“テカリ石”と呼んで
いる……」。中村清太郎も「光岳・イザルヶ岳」のなかで書いてい
ます。
光岳の南には遠江、東は駿河、西に信濃と旧国名が広がっていま
す。三つの国の隅っこ、国境にあるので「三隅山」の異名もありま
す。
光岳はハイマツの南限地だという。地面に這っているからハイマ
ツで、立ち上がってしまえばハイマツではなくなります。ところが、
ここのハイマツは立ち上がりはじめています。日本でのハイマツ生
息地の南端は東洋の最南端であり、それは世界の最南端にもなると
いう。−238−
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光岳山頂は樹林の中で展望はありません。簡単に登れる光石は、
真っ白な岩峰で、なるほど「夕日にテカリと映える」は納得です。
光小屋前の広場が幕営地になっています。その晩は篠つくような大
雨です。あしたは早い。早々に夕食をすませ、シュラフの中へもぐ
ります。
翌朝3時、テントから出てみると満天の星が光っています。月明
かりでテントをたたみました。これから寸又峡までの長丁場が待っ
ています。芝沢橋の林道まで4時間。あとは37キロの林道歩き。
林道は底深い寸又川に沿い、長々と延びています。林道はその支流
があるたびごとに大きく支流に沿って巻き、また登り返すので、な
かなか先に進みません。足にマメができそうになっては靴を脱ぎ、
手当をしてまた歩きはじめます。寸又峡へ渡る吊り橋が見えるころ
にはすでに陽は西にかたむきはじめています。寸又峡キャンプ場に
着いたときは夏にもかかわらず、暗くなってしまいました。
・静岡県本川根町と静岡県南信濃村との境 大井川鉄道井川駅から
バス、畑薙第一ダムから歩いて13時間で光岳(2591m) 2万5千
分の1地形図「光岳」
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第10章
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■南アの展望台勧業峰・大日岳の大日如来
南アルプス南部への登山は、いまは大井川鉄道利用か、東海道新
幹線静岡駅から富士見峠を越える井川林道を通るバスで、井川集落
経由で入るのが普通です。しかし、昭和33(1958)年に井川
林道が開通する以前は、登山者はこの大日峠を越えて、それぞれの
山をめざしました。
井川と静岡を結ぶ、大日峠越えのルートは、全長54キロあり、
かつては索道も設けられていた重要な経路で、井川集落への物資の
補給は、みなこの峠を越えて運ばれていました。
−240−
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この道はいまでも県道になっていると聞いています。そのためか、
井川湖の渡し船は無料でした。当時は旅の安全を願って、一丁ごと
に石仏が置かれ、峠には大日堂が建っていたそうです。この峠は勘
行峰と三ツ峰との鞍部のひとつで、安倍川水系と大井川水系の分水
界にもなっています。
いまでも清水の湧く、荒れはてた水呑茶屋からヒノキ林を登ると
大日峠で、雑草の茂った小平地でした。大日峠の名前の由来である
大日堂は、登山者あるいは何者かのいたずらか、火事で焼けてなく
なってしまい、いまは大日堂や茶壷屋敷跡の石碑がさびしく建って
います。かつての石仏は、井川集落の大日院に移転してしまったと
立て札にあります。
大日如来碑の裏側に「昭和34年焼失、同年之を建立」とありま
すが、焼失の焼の字が削り取られています。南側にりっぱな舗装道
路の十字路があり、新大日峠の標識があって近くに駐車場まででき、
行楽の人たちの車が列をなしています。
数日後に行った井川本村の大日院は、バス停の上の高台にあり井
川湖を見下ろしています。石仏群はお寺の入り口にならんでいまし
た。大日如来から茶壷屋敷の山の神までがまつられています。石仏
は車道ができたころに一括してここに移したという。なお大日峠か
ら井川湖側、少年自然の家への途中にはいまも馬頭観音など、いく
つかの石仏が苔むして残っている。
・静岡県静岡市 JR静岡駅から畑薙第一ダム行きバス、富士見峠
から歩いて30分で勧業峰 2万5千分の1地形図「湯の森」−241−
第10章
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■南アルプスとその周辺 参考文献・ご協力
「北岳」峰谷緑(「甲州の山旅・甲州百山」実業之日本社 所収)
「白峰山脈の記」小島烏水(「日本山岳風土記・2」宝文館 所収)
「甲斐駒雑記」小暮理太郎(「日本山岳風土記・2」宝文館 所収)
「南アルプスをゆく 赤石山脈・白峰山脈縦走」加藤文太郎 (「日
本山岳風土記・2」宝文館 所収)
「光岳・イザルヶ岳」中村清太郎(「日本山岳風土記・2」宝文館 所収)
「夜叉神峠の由来」夜叉神峠小屋パンフ 所蔵
「甲斐国志」松平定能(「大日本地誌大系全48巻」雄山閣出版
「新稿日本登山史」山崎安治著(白水社)1986年
「甲斐の山旅・甲州の山」実業之日本社 1989年
「山の紋章・雪形」田淵行男著(学習研究社)昭和56年−242−
(第10章 終わり)
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