第11章 近畿の山々
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■伊吹山の日本武尊蔵 滋賀と岐阜の間にそびえる伊吹山(1377m)は、伊吹山地の −244− ―――――――――――――――――――――――― 飛行上人は別名を三朱上人と呼ばれ、三朱分(四分の三匁)の身
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■奈良県葛城山系・岩橋山の岩橋 修験道の祖・役(えん)ノ行者小角(おづぬ)が修行した山とし
−246− ―――――――――――――――――――――――― その時集まった天狗たちは京都愛宕山(あたごさん)太郎坊、同 −247− |
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■奈良・金剛山の蛇谷
奈良県と大阪の県境に連なる金剛山(1125m)や大和葛城山
(昔はこの辺り一帯をただ葛城山といった)は、各地の山の開祖・
役ノ行者の修行の場として有名である。金剛山から東側の御所市へ
と流れる「蛇谷」があります。
一方、蛇谷の北側には全国の一言主神社の総本山・葛城一言主神
社があります。この神社は「古事記」にも登場するほど古く、同書
「下つ巻・雄略天皇条」に天皇が葛城山に登っていたところ、向か
い側の尾根を同じ格好をして登ってくる者がいます。名を聞くと一
言主大神だというので、天皇は恐縮し太刀、弓矢、衣服などを献上
したという。
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これほどの神でありながら、わずか200年後の695(持統9)
年、役ノ行者に鬼として使役されているのですから、その落ちぶれ
方はあまりにもひどすぎます。
葛城山と金峰山に渡す「岩橋造り」で、一言主の神は鬼として使
役されたとき、行者の怒りにふれ葛の蔓で7巻きも縛られ、谷底に
置き去りにされた。その後、白山開創の祖で、「越の大徳」といわ
れる泰澄が、その声を聞き、一言主の結わえつけを解こうと願い、
試みにねんごろに加持祈祷したら、3回目に早くも解けてしまった
という。ところが暗闇の中から泰澄を叱る声があって、蔓は元通り
縛られていたという。
一言主神が、どんな手を尽くしても葛を解くことができず、その
苦しいうなり叫ぶ声は幾年たってもまだ絶えていないと伝えていま
す。なかには一言主神は長さ2丈半ばかりの黒ヘビにされ、いまで
は行者を恨む気力もなくなってしまったというものさえあります
(「役行者本記」)。同書はその谷こそ金剛山東方・御所市西にある
「蛇谷」だとしています。(「本朝神仙伝」では吉野になっています)。
かつて葛城山頂にあったという一言主神社は、いまは同市森脇地
区に祀られ、参拝者に「いちごんさん」と親しまれ、「一陽来復」
ののぼりがはためいていました。
・奈良県御所市 JR和歌山線、近鉄南大阪線五所駅から歩いて3
時間45分で金剛山 2万5千分の1地形図「御所」−249−
第11章
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■大峰山脈・弥山の天河神社奥宮
大峰山脈は紀伊山地中央部を南北に約50キロ、1200m以上
の山々が、約50座も連なる大山脈。吉野から熊野までの山中に山
伏修法の地が75ヶ所あり、七十五靡(なびき)と呼んでいます。
熊野から吉野への入峰(にゅうぶ)を順峰(じゅんぶ)、その反対
を逆峰(ぎゃくぶ)といっています。
弥山(みせん・1895m)は七十五靡の54番目の霊場で、熊
野からここまでを金剛界とし、これから吉野間を胎蔵界といってい
ます。山頂は樹林に囲まれた広場に弥山神社が鎮座していて、北東
の坪内集落の天河弁財天(てんかわべんざいてん)の奥宮になって
います。天河弁財天は、山と水を根源とした弥山の神への信仰から
発したという。
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本堂はたびたび火災にあい、明和5(1768)年の火災の後改
築しましたが、明治の神仏分離令で天河神社と改称。祭神も市杵島
姫命(いちきしまひめのみこと)など三柱に変更しましたが、いま
でも日本三弁天のひとつとして近隣の崇敬を受けています。ちなみ
に市杵島は神霊をまつる島の意味で、安芸の厳島神社のイツクシマ
は市杵島から誕生したものだそうです。
奥宮は役ノ行者の足跡を慕い、回峰の道を開拓した理源大師が弥
山山頂に宿坊と弁財天を祭神に弥山神社を建立したのがはじまりと
いう。
「大峰七十五靡奥駈修行記」に、「山頂に小さな池があり、新客
は手を入れて用いると渇水する霊地なり。先達より水を受ける霊水
なり。役ノ行者大峰開山の時最初観見した弁財天なり。次に山上で
初め地蔵菩薩が出現し給うに、われの守護には弱しとして三十七の
行により、蔵王権現が現出給う。これこそわが守護権現とし、第一
の守護の本尊とす。註に弁財天は母親で地蔵尊は父親、蔵王権現は
先祖なり」とあります。
ある年、熊野から順峰の道順を歩き弥山を訪れました。八経ヶ岳
から弥山に着いたとたんに土砂降りの雨。奥宮参拝もそこそこにテ
ントにもぐり込みましたが、中は水浸しでふき取るのに骨がおれま
す。
やっと落ちついたところで、傘をさして小屋に水を貰いに行った
ら小屋番がのんびりとテレビを見ていたのが印象にあります。雨は
一晩中勢いが衰えず、翌朝、小池がどこにあるのか確認するどころ
ではなく、篠つく雨のなかテントを畳んで飛び出しました。
しかし、雨は止まず歩き出しはしましたが、篠つく雨に天川辻の
行者還小屋に逃げ込みました。このあたりは谷からの強風が弥山に
当たり吹き込む名所。壊れかかった小屋は一晩中荒れて、近くを通
る送電線がうなり続けていました。
・奈良県天川村、上北山村との境 近鉄吉野線下市口駅からバス、
天川川合から歩いて時間310分で弥山(1895m) 2万5千分の
1地形図「弥山」−251−
第11章
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■大峰山脈・山上ヶ岳の役行者像 山上ヶ岳(1719m)はいまだに女人禁制を守る修験道の聖地
−252− ―――――――――――――――――――――――― 吉祥草寺は、JR和歌山本線玉手駅(たまでえき)からほどない −253− |
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■大峰山脈・前鬼後鬼 各地の山々に見られる役行者像に必ずといっていいほど、2匹の −254− ―――――――――――――――――――――――― その子孫は、江戸時代までに5家に分かれ、鬼熊、鬼上、鬼継、
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■大台ヶ原・日出ヶ岳の牛石 大台ヶ原は、北は高見山から発して奈良・三重県境を走る台高山 −256− ―――――――――――――――――――――――― 妖怪は年1回、旅人を襲います。猟師が死闘の末、撃ち取ってみ
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■和歌山県高野山・楊柳山の高林坊天狗 弘法大師空海が開創した高野山は、真言宗の根本道場として、総 −258− ―――――――――――――――――――――――― さて、南海電鉄極楽橋駅から不動坂を登りつめたあたりに女人堂
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■南紀法師山・幻のニホンオオカミ
すでに絶滅したはずのニホンオオカミ。最近なにかと話題になり、
またカメラにおさめたという人もいて、その誘い出し作戦も行われ
ています。
1905(明治38)年、奈良県東吉野村鷲家口(わしけぐち)
で大英博物館から派遣されたマルコム・アンダーソンが、猟師から
若い雄のオオカミの死がいを購入、イギリスへ送りました。これが
日本での最後のニホンオオカミ。
以後ニホンオオカミは、絶滅したされてきました。ところがその
後姿を見たとか、吠える声を聞いたなどの情報が多く寄せられてい
ます。そこで全国の愛好家が集まり、1993年に「日本オオカミ
協会」を設立。その第2回目の誘い出し作戦が、1995年3月2
5、26日和歌山県大塔山系法師山(1120m)で行われるとい
うので参加してみました。
大塔村(いまは五條市)の地名は、南北朝時代大塔宮護良親王が、
当地に逃れた故事によっているところ。原生林が続くこの山系にも
オオカミのうわさが後を絶たず、「ニホンオオカミ生存の可能性は
十分ある」と、作戦の主催者「紀伊半島ニホンオオカミ研究会」の
グループは主張します。
法師山は360度の展望で、大島(串本町)から日ノ御埼(美浜
町)、大峰山系、また富士山を望める一番南に位置する山とも聞き
ます。「紀伊続風土記」には「山峰他峰よりすぐれて其頂を顕すを
以て名つくなり」とあります。
3月は、ニホンオオカミの発情期の終わりに当たって、誘い出し
にはよい時期という。山頂からカナダオオカミの遠吠えのテープを
一晩中流し続け、手前のコルでその反応を録音しようというもので
した。−260−
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機材運搬の際、持ってきた豚のレバーを、けもの道やニホンオオ
カミの出そうな谷に投げ込んでいきます。
夜、雨が本降りになり、やがて雪に変わりました。暖かいこの地
方では滅多にない積もり方だという。
翌朝、白銀の山頂で機材の撤収が続きます。録音テープには、残
念ながら雨の音に混じってジェット機の爆音が入っていただけ。雪
の登山道に群生するバイカオウレンの花が寒そうに咲いていまし
た。
・和歌山県大塔村 JR紀勢本線紀伊田辺駅からタクシー、大塔村
木守から歩いて2時間で法師山(1120m) 2万5千分の1地形図
「木守」
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第11章
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■近畿の山々 参考文献 ご協力
「紀伊続風土記」 仁井田好古ほか編 1839年(天保10)・紀
伊国地誌。
「高野山の山岳伝承」日野西真定(「山岳宗教史研究叢書・16」名
著出版 所収)
「伊吹山の山岳伝承」中川義昭(「山岳宗教史研究叢書・16」名著
出版 所収)
「葛城山系の山岳伝承」中西政一郎(「山岳宗教史研究叢書・16」
名著出版 所収)
「吉野・大峰の山岳伝承」岸田定雄(「山岳宗教史研究叢書・16」
名著出版 所収)
「役行者伝記集成」銭谷武平(東方出版)
「紀和山脈縦走」北尾鐐之助(「山岳宗教史研究叢書・7」名著出
版 所収)
「金峰山の伝統と発展」村上俊雄(「山岳宗教史研究叢書・7」名
著出版 所収)
「大峰七十五靡奥駆修行記」(「山岳宗教史研究叢書・18」名著出版
所収)
「高野山における丹生・高野両明神」景山春樹(「山岳宗教史研究
叢書・3」名著出版 所収)
「台高山脈とその伊勢側の谷々」山口政一(「日本山岳風土記・7」
宝文館 所収)
「吉野拾遺」松翁(「群書類従」第27輯・雑部・第485 所収)
▼協力
和歌山県南部川村(いまはみなべ町)教育委員会
紀伊半島オオカミ研究会−262−
第11章
(第11章 終わり)
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