第6章 大菩薩・奥秩父と茅ヶ岳の山々
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▼中 扉 【大菩薩・奥秩父と茅ヶ岳】 このページの目次 -121- |
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■大菩薩峠妙見菩薩と石丸峠 中里介山の小説「大菩薩峠」で、山より峠の方が有名になってし −122− ―――――――――――――――――――――――― しかし小暮理太郎は「大菩薩連嶺瞥見」のなかで「石丸峠につい
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■黒川鶏冠山・にわとり大権現 ニワトリのトサカのような鶏冠山(くろかわけいかんやま・17
−124− ―――――――――――――――――――――――― いまでも山中には寺屋敷、女郎ゴー、また柳沢川、一ノ瀬川合流 −125− |
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■小金沢連嶺・滝子山鎮西池の白縫神社
大菩薩嶺から小金沢山、黒岳、大谷ヶ丸と続く連嶺の最南端にあ
る滝子山(1590m)は、中央線初狩駅からでもよく目立ちます。
三つのピークをもち、3峰が連立しているので三ツ丸の名もあると
か。三角点は山頂の東直下にあります。山名は笹子付近から見ると、
急な崖が滝をつくっているかのように見えるので滝子山。また滝の
ある多くの沢を派生しているからとの説もあります。
滝子山の北側直下には、鎮西ヶ池と呼ばれる水たまりほどの池が
あり、そばに白縫(しらぬい)神社があって、鳥居の向こうに賽銭
箱を前にした祠が建っています。
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鎮西といえば鎮西八郎為朝。父源為義の機嫌をそこね、九州に追
われたあの為朝。のちに保元の乱で父とともに戦ったが破れ、伊豆
大島に流罪になったという。
その為朝が、伊豆に上陸、峰伝いにここまできたという伝説があ
ります。また一説には、伊豆の大島に流された為朝を慕って「九州
での妻」白縫姫が一子・為若を連れてはるばる訪ねてきて、ここに
庵を結び3ヶ月ほど住んだといわれています。
ここでの生活物資は、西麓の田野から運んだとされ、「米背負の
辻」という所もあります。また付近には「御馬冷やし場」、「菜畑」
という名の場所も残っています。山中に3ヶ月くらしてから降りた
ところが東麓の恵能野(えのうの)というところ。山の不便さに比
べ「恵みよき野」といったとか、いわないとか。これがこの地名の
由来です。
恵能野には為朝の末裔といわれる人もおり、為朝大神の祠があり、
白縫姫、為若などを祭ってあるという。当地では、滝子山を鎮西ヶ
山と呼び、為朝にちなむ故事も伝えています。
のちに鎮西ヶ池から白縫姫か、その侍女のものらしい古鏡が出て
きたため大騒ぎになったという。干ばつの時などには、この鏡を水
に浸して雨乞いをするといいます。
なお、平安後期の1170(嘉応2)年、為朝は朝廷の討伐軍と
戦ったのち、自害します。しかし、自害したのは為朝の身代わりだ
とする説があり、いろいろな為朝伝説を生んでいます。なかには八
丈島や琉球に渡ったとする説も根強く残っています。
・山梨県大月市 JR中央本線初狩駅から4時間10分で滝子山
(1590m) 2万5千分の1地形図「笹子」−127−
第6章
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■奥秩父飛竜山の飛竜神社
奥秩父・笠取山から雲取山への尾根上にある飛竜山(2077
m)。といっても飛竜山頂へ行くには、雲取山からつづく縦走路わ
きにある飛竜権現の祠の前から北側に直登、ヤブの中を往復45分
くらいかかります。山頂には三等三角点があるだけで、展望はあり
ません。山頂付近にはシャクナゲの群落があります。開花は6月の
中旬。
飛竜山への最初の登頂は、明治45(1912)年、田部重治、
中村清太郎だったという。
縦走路わきの飛竜権現は文字どおり竜神で、雨をもたらす神です。
飛竜権現についてはこんな言い伝えがあります。その昔、ふもとの
山梨県丹波村の大屋の祠に、木彫りの飛竜の神のご神体が祭られて
いました。
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しかし、村人のお供え物が少ないことから神さまがヘソ
を曲げてしまい、竜になって姿をあらわし雨や風をまきおこして暴
れまくり、付近の木々や草類を枯らしてしまったという。
困った村人は、おそるおそるその竜のあとをつけて山中に入り、
暴れ疲れて大木の股で休んでいる飛竜神に三拝九拝して謝り、供物
を多くすることを約束、大木の根元に祠を建立、手厚く祭ったとい
う。その後は、飛竜の神もおとなしくなり、再び暴れることはなく
なったという。それがいまある社のもとだというのです。
しかし、いま残っている伝説では、1804(文明12・戦国時
代の初め)年、小菅遠江守信景が建立したのだともいわれ、境内1
80坪(官有地)、祭神は大己貴神(おおなむちのかみ=大国主命)
ということになっています。
いまの里宮は丹波山村字上岡道上にあり、建立者や年は同じ、境
内83坪(民有地)で、山宮には代表が、その他の人は里宮に参拝
したという。祭日は9月29日。この飛竜権現は、昔からかなり有
名な神社であったらしく、地誌にも数ヶ所にわたって記載がありま
す。
ここ飛竜山は、甲州(山梨県)と武州(東京都、埼玉県)の国境
の山。甲州側では飛竜権現にちなんで飛竜山、武州側では秩父側の
谷間一帯を大洞というところから、大洞山と呼んでいたという。し
かし、三峰方面からはほとんど用事のない山で登る人もありません
でした。
明治時代になり地図を作るため、陸地測量部が秩父側から人夫を
連れてこの山に測量に入りました。人夫が秩父側の人ですから、当
然山の名を大洞山と報告します。そこで陸地測量部は地図に大洞山
とつけてしまいました。のち、事情に気づき、三角点名称を「飛竜」
と訂正しましたが、そこはそれ頭の固い役人のこと、いまでも「大
洞」の名を別名に併用しています。
・山梨県丹波山村と埼玉県大滝村との境 JR青梅線奥多摩駅から
バス、丹波から歩いて4時間30分で飛竜山(2077m) 2万5
千分の1地形図「雲取山」-129-
第6章
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■奥秩父・笠取山の水神社の祠 多摩川と荒川の水源として知られる奥秩父の笠取山(1953
−130− ―――――――――――――――――――――――― 水干にはりっぱな石祠があって「水神社」の奥宮になっています。 −131− |
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■奥秩父・十文字峠の観音さま 秩父三峠のひとつに数えられる十文字峠道(埼玉県側から長野県 −132− ―――――――――――――――――――――――― これらの石仏はいまでも栃本側から一里観音、二里観音、三里観
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■奥秩父・国師ヶ岳天狗岩の鉄剣 奥秩父・大弛峠の東1キロに国師ヶ岳(2592m)という峰が −134− ―――――――――――――――――――――――― 天狗、権現とならべば修験道に関係深い。神社の祭神は、今は大
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■奥秩父金峰山・五丈岩と祠 遠くからでも目立つ金峰山(2599m)の五丈岩。その形が大 −136− ―――――――――――――――――――――――― 五丈岩のわきを南(山梨県側)にまわり込むと、ちょっとした広
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■奥秩父・乾徳山頂の祠
奥秩父前衛の乾徳山(2031m)は独立峰で、山頂部が大岩峰
からなり、大きな鎖につかまって登り降りするスリルに、にぎやか
な歓声があがります。岩のうしろからも山頂部へ出られ、山頂から
は360度の展望です。また登山途中、大平牧場の売店では新鮮な
牛乳も飲め、新緑、紅葉の季節に訪れる人も多い。
ここはかつて南北朝時代の禅僧夢窓国師(むそうこくし)が、一
夏(いちげ)面壁し座禅を組んだところとして有名です。夢窓国師
(夢窓疎石)は伊勢に生まれ、4歳の時山梨県に移住。宇多(うだ)
源氏の出身で初め知曜(ちかく)といっていましたが、ある日、唐
の疎山(そざん)と石頭にあそぶ夢を見て「疎石」と改名します。
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幼く仏門に入り、後醍醐天皇から国師の号を賜り、その後没後も
数々の号が追加され、のちには夢窓正覚心宗普済玄猷(しょうがく
しんしゅうふさいげんゆう)仏統大円国師という長い名の、俗に「七
朝(しちよう)の帝師」と呼ばれる臨済宗の僧になりました。
夢窓国師は乾徳山で修行の後、塩山市(いまは甲州市)小屋敷に
乾徳山恵林寺(えりんじ)を創建。この寺の乾(いぬい・北西)の
方向にあり、また徳和地区内にあるところから乾と徳をとり、乾徳
山と名づけました。「甲斐国志」には「(乾徳山の)山ノ高キコト本
村ヨリ二里余、夢窓国師一夏面壁ノ地ナリ。国師後ニ恵林寺ヲ創メ
乾徳ヲ号トナス。ケダシ竜ノ乾徳ナリ。柚木ノ竜山庵ニ本ヅク。或
ハ恵林ノ乾位ニアタリ、徳和村(いまの三富村・いまは山梨市)ノ
域ナル故ニ乾徳ト名ヅクルトモ云フ」とあり、乾徳を天の主竜とも
解釈しています。
また同書には国師とゆかりの座禅石をはじめ、硯石・枕立・手水
石・扇平・休息石など山中にある岩や地名も記されています。
乾徳山から南東にのびる道満尾根があります。夢窓が一夏面壁の
時、授戒従侍した弟子に道満がいましたが、道満は、実はふもとの
徳和山吉祥寺の毘沙門天の権化だったという伝説が残っています。
尾根の名前はその道満にちなんでいます。
山頂の石碑は乾徳山大権現をまつる奥宮で、徳和地区に鳥居と里
宮があります。この山も信仰の山で明治の中頃までは女性の入山は
禁止されていたということです。
・山梨県三富村(いまは山梨市) JR中央本線塩山駅からバス、
乾徳山登山口から歩いて5時間で乾徳山(2031m) 2万5千
分の1地形図「川浦」−139−
第6章
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■奥秩父・黒金山・西沢渓谷間の石碑
夢窓国師が修行したという乾徳山から北へ黒金山を経由して、西
沢渓谷へ抜ける途中、2021mの標高点があるあたりに、「大山
祇神」の文字が刻まれた岩があります。
これは麓の三富村(いまは山梨市)上釜口赤浦の大岳山那賀都神
社の祭神の名です。大山祇神(おおやまずみのかみ)は大山積神と
も書き、大山に住むとの意の山の神で、各地の山の神の総元締めで
す。もと富士山にまつられていましたが、いまは娘の木花咲耶姫に
その座を譲っているという。
大岳山とは北西にそびえる国師ヶ岳の別名で、木曽の御嶽山、筑
後の神岳山とともに「神代の三岳山」といわれます(「コンサイス
日本山名辞典」)。国師ヶ岳は古くから大岳山那賀都神社の奥ノ院に
なっていて、はじめは山の近くの岩窟(天狗尾根の天狗岩のこと
か?)に祭られていましたが、のち上釜口に鎮座したと伝えられて
います。
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大岳山那賀都神社は、商売繁盛と養蚕の神として庶民の信仰を集
め、かつては多くの大岳山信者が奥ノ院に登拝しました。大岳山神社の
社伝にも「国師ヶ岳奥宮ヘ七里余アリ」と記され、そのルートは里
宮の那賀都神社から赤ノ浦川に入り、北西にのびる大岳参道(いま
はピーク1439mから先は廃道になっている)を途中で青笹川か
ら上がる、青笹新道に合わせ牛首ノタルに出て西沢渓谷奥の不動小
屋を経て、谷沿いに天狗尾根に向かいました。いまのハイキングコース
はその参拝路を改修したものという。
大山祇神の石碑はこの参道沿いに、参詣の安全を祈って建立した
ものか、あるいは女人禁制で女性はここまでは許されたのだとも考
えられます。那賀都神社の例祭は毎年4月の18日で、近郊から大
勢の参拝者が参集しました。
大山祇神の石碑のまわりはシャクナゲの群落があり、登山道をア
ーチ状に覆っています。満開の花の下を香りにむせながら西沢渓谷
へ向かいました。もう10数年前の6月でした。
・山梨県三富村(いまは山梨市) JR中央本線塩山駅からバス、
西沢渓谷入口から3時間45分 2万5千分の1地形図「金峰山」−141−
第6章
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■茅ヶ岳の仙人
『日本百名山』の著者深田久弥の終焉地として知られる茅ヶ岳。
昭和56年韮崎市の観光協会が南麓に深田記念公園をつくり、「百
ノ頂ニ 百ノ喜ビアリ」と久弥自筆の文字を刻んだ記念碑を建てま
した。茅ヶ岳は姿が八ヶ岳連峰に似ているので「ニセ八ツ」とも呼
ばれています。高原状に広がる裾野は長く、西麓一帯はもっとも日
照時間が長い地域といわれ、東大の宇宙線明野観測所もあります。
茅ヶ岳は、北隣にある金ヶ岳と双耳峰になっていて韮崎方面から
見るとMの字形にも見えます。この茅ヶ岳、金ヶ岳にはそれぞれ孫
右衛門天狗、新左衛門仙人がすんでいるという。この山一帯は昔か
ら特別な山域と考えられていたらしく、いろいろな伝説があります。
江戸時代中期の宝暦年間(1751〜64年)の古書に、怪人・
江草孫右衛門と金ヶ岳新左衛門の話が登場しますが、文化年間(1
804〜18年)になり地誌では孫左衛門と両方を統一しています。
しかし伝承のなかには茅ヶ岳の天狗を孫左衛門とするものもあって
紛らわしい。
いずれにしても茅ヶ岳(または江草)孫右衛門天狗と金ヶ岳新左
衛門仙人がいることは確かです。
孫右衛門天狗は、いまの群馬県の人。戦国時代、茅ヶ岳西麓の須
玉町江草地区に移住してきたが、人とうまくつきあえず世を捨てて
山籠もり(永世年間・1504〜21年)。それから200年も経
った正徳年間、江草の住人が山仕事中、うっかり孫右衛門の昼寝の
じゃまをして怒らせてしまい、すさまじい雷鳴と山鳴りに命からが
ら逃げ帰ったという。−142−
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一方、金ヶ岳新左衛門仙人は、いつのころからかこの山に住み、
すでに数百年間。飛行が自在で雨風、雷などを自由にあやつるとい
う。
ただし、この二人は仲が悪く、金ヶ岳新左衛門仙人は「江草の孫
右衛門などはまだまだ未熟者」と相手にしなかったと伝えています
(「仙人の研究」)。
茅ヶ岳と金ヶ岳では歩いて30分あまり。そんな「超過密」状態
では、いくら仙人・天狗の間でもストレスがたまってしまうのかも
知れません。
・山梨県須玉町と敷島町との境 JR中央本線韮崎駅からバス、穂
坂柳平から歩いて3時間30分 2万5千分の1地形図「茅ヶ岳」
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第6章
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■大菩薩・奥秩父と茅ヶ岳の山 参考文献・ご協力
「奥秩父の伝説と史話」太田巌(さきたま出版会)
「大菩薩嶺瞥見」小暮理太郎(「日本山岳風土記・3」宝文館所収)
「大菩薩連嶺」岩科小一郎著(朋文堂刊)(「あしなか249」所収)
「秩父の山々」田部重吉(「日本山岳風土記・3」 宝文館)
「秩父の日本狼」吉田浩堂(「日本山岳風土記・3」宝文館)
「甲州の伝説」土橋里木ほか(日本の伝説・10)角川書店
「御嶽山金桜神社」パンフ(御岳町金桜神社社務所)
「日本歴史地名大系・山梨」平凡社
「角川日本地名大辞典・山梨」角川書店
▼協力
長野県川上村教育委員会村誌編纂室
山梨県丹波山村教育委員会−144−
(第6章 終わり)
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