第3章 北関東・西上州の山々
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▼中 扉 【北関東・西上州の山々】 このページの目次 -63- |
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■那須茶臼岳山頂の祠と伝説 栃木県那須町にある茶臼岳は那須岳ともいい標高1915m、無 −64− ―――――――――――――――――――――――― 正体を暴かれたキツネは那須野が原に逃げ、その怨念で毒石に化
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■奥日光・金精峠の金精さま 奥日光湯元から群馬県片品村とを結ぶ国道120号線の県境の金
−66− ―――――――――――――――――――――――― 金精さまの「金」は金色に輝く立派なものという意味で、「精」 −67− |
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■奥日光白根山・白根権現の祠
奥日光白根山(2578m)の山頂にも古い木の祠が建っていま
す。奥白根神社の白根権現をまつるものです。仏や菩薩がモロモロ
の生物を救うために、神に化身して仮(権)にこの世に現れるとい
う本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)の権現なので当然修験道の
山です。
本地は十一面観音で、山頂に「魔海、仏海」の2湖があると古書
にあるといいますが、火口湖の五色沼や弥陀ヶ池を指すかははっき
りしません。
東の前白峰山に対しての奥白根山で、前白根には前白根山神社が
まつられ、奥白根神社は大己貴命(おおなむちのみこと)が祭神に
なっています。江戸初期の慶安2(1649)年、白根山が噴火し
たとき、古くから祀られていた石祠が、火口に落下しました。その
後、日光山座主(ざす)の名で再建されたという。
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奥白根山は、日光男体山の奥の院ともいわれています。鎌倉時代
前期、熊野三山信仰を日光に導入した常陸の豪族大方政家の六男、
頼朝の帰依僧・但馬法印弁覚は、日光三所権現の信仰に基づく日光
修験の体系化を図り、日光山中興とされようになりました。
日光修験は、鎌倉末期から南北朝にかけてとくに盛んになり、春
の峰、夏の峰、冬の峰と秋の五禅頂を合わせた「三峰五禅頂」の峰
入り修行が行われ、奥白根山も夏の奥駈け道場の場になっていたそ
うです。
かつて庶民の信仰登山道は、いまと違い群馬県側が表口だったと
され、丸沼方面から登る人が多く、いまでも遠鳥居、不動尊、六地
蔵、大日如来などの地名が残っています。
当時、上州側の村人は産土神(うぶすながみ)として山頂に荒山
権現をまつり、各家ごとに特産の新繭からとった糸を奉納するため
に登山したという。
シラネアオイの花を見に行ったのは、もう十数年も前になります。
淡紅紫色の花はちょうど見ごろで、あちらこちらでシャッターの音
がしています。花を十分に楽しんだあと、がれきの急坂を登ります。
ガスにつつまれた山頂には、壊れた木の祠が見向きもされずころが
っています。荒廃したその形からかなり以前から見捨てられてきた
と思われ、民衆の山岳への信仰の衰退を象徴しているようでありま
した。
・栃木県日光市と群馬県片品村との境 日光駅からバス、湯元から
歩いて4時間で日光白根山(2578m) 2万5千分の1地形図
「男体山」−69−
第3章
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■日光男体山の天狗騒動
日光の男体山は家族持ちです。北東の女峰山の妻との間に愛子(ま
なこ)の意味の(?)小真名子山、大真名子山があり、北側にはす
でに独立した長男・太郎山があります。男体山の名は、この山を神
体とする二荒(ふたら)山神社(山頂に奥社)の祭神・大己貴命(お
おなむちのみこと=大国主命・大黒さま)の居所であるところから
きているという。
奈良時代のえらいお坊さん、勝道上人が782(延暦元)年にこ
の山を開いたと、弘法大師空海が漢詩集『性霊集』に書いています。
その時、どのコースを登ったかについてはこだわりがあるらしく、
いろいろな人の間で難しい論議が交わされてきました。
勝道上人が登ったころの山は補陀洛山(ふだらくやま)と呼ばれ、
のち二荒山(北東の羅刹崛(くつ)の岩穴から年2回突風が吹き出
るのにちなむ)と改称。その後、空海が岩穴を結界。二荒を「にこ
う」と読み、日光の名が生まれたとされています。
ここも山岳修行の山、日光修験は八十坊からなり、本山派、当山
派の支配からはずれ、独自に厳しい修行をしていたという。もとも
と日光には日光坊という天狗がいたが、1617(元和3)年、東
照宮造営前後に突然、群馬県の妙義山に「山移り」したという。
山移りは神奈川県の丹沢大山の天狗相模坊(さがみぼう)が香川
県の白峰に移り、後がまに伯耆大山(ほうきだいせん)から伯耆坊
天狗が移り住んだように、よく行われることです。
日光坊がいなくなった日光に住みだした天狗が東光坊。東光坊は
徳川家康の化身という説があります。家康他界後、神号が許された
とき幕府は称号を「東光権現」とする意見が大勢を占めていたが、
中途で再転し、結局「東照権現」に決定したと「東照宮史」にあり、
あながちこの説でたらめでもなさそうです。
ただこの天狗は新参者のせいか、勢力が日光中腹からふもとにか
けてだけで、奧の山々には及ばず古参の天狗どもがよく騒ぎを起こ
したという。−70−
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江戸も後期の1824(文政7)年、奥山の天狗どもあてに日光
社参奉行水野出羽守と、日光の前山・古峰ヶ原(こぶがはら)の天
狗隼人坊(はやとぼう)の連名で、日光廟前とわざわざ山の中の剣
ヶ峰に高札を建てたといいます。
内容は来年、十一代将軍家斉が日光社参に訪れるため、その期
間は騒ぎを起こさず、京都の鞍馬山、愛宕山、静岡の秋葉山、福岡
県の英彦山など、他の山に移れというものだったというウソのような
ホントの話があったというから愉快です。
ちなみに翌年の家斉の社参は行われなかったということです。
・栃木県日光市 JR日光線日光駅からバス、二荒山神社前から歩
いて3時間40分 2万5千分の1地形図「男体山」
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第3章
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■足尾・皇海山の剣 栃木と群馬の県境にどっしりとまたがる皇海山(2144m)。二
−72− ―――――――――――――――――――――――― 当時は朱書きだったといいますがいまは墨書きなので、誰かが書 −73− |
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■足尾・庚申山と庚申信仰 60日に一度回ってくる「十二支」の庚申(かのえさる)の夜、 −74− ―――――――――――――――――――――――― 江戸の末期には信者も増えて庚申山「お山廻り」が流行します。
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■荒船山の祠伝説 でっかい船の形をした、その名も荒船山。「あの平らな頂上の突 −76− ―――――――――――――――――――――――― 荒船山は修験道の山でもあり、山腹に荒船不動、山麓には天台宗
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■両神山の両神神社 その昔、日本武尊が東征の折り、筑波山から八日間この山を見な
−78− ―――――――――――――――――――――――― 山頂直下の平坦部には、ふたつの神社が背中合わせに鎮座してい −79− |
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■北関東・西上州の山 参考文献 ・「日光山の信仰伝承」飯田真(「山岳宗教史研究叢書・16」所収 −80− |
(第3章 終わり)
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