第11章 法 事

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▼中 扉

この章の目次
 ・法事(法要)
 ・忌日
 ・四十九日
 ・年忌(神式、キリスト教式)
 ・墓参り

−p239-

 

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・法事(法要)

・法事(法要)
文章んが


 四十九日とか、一周忌だということで僧侶や親戚を呼んで法事が行わ

れます。法事のもとの意味は仏教の宣揚や修行のことだったらしいです

が、中国で法要などの仏教行事のことを法事というようになったという。こ

れが日本に渡来し平安時代から追福や善根のため仏を供養し、坊さん

への施しを法事というようになったという。



 江戸時代になるともっぱら故人の冥福(めいふく)のための忌日法要を

さすようになるます。いまでは忌日に行う仏事をみんな法事、法要と呼ん

でいるようです。



 いずれにしても、忌日だ、年忌だ、遠忌だとああだこうだお金がかかり、

霊もゆっくりあの世で眠ってなんかいられないかもせん。

−p240−

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・忌 日
文章んが


 忌日(きにち)は故人が亡くなった日に当たる日のことで命日ともいい

ます。故人を追慕し法要を営みます。忌日は、お逮夜(たいや)、初七日

(しょなのか)、二七日(ふたなのか)、三七日(みなのか)……とならびま

す。なかでも四十九日は満中陰、中陰満ともいい、死者の魂を成仏させ

るためとくに供養するそうです。



 最初のお逮夜は亡くなった日を入れて6日目(初七日の前夜)をいい

ますが、いまは初七日といっしょに行うことが多いようです。



 以下忌日を列挙しますと、7日ごとに14日目を二七日、21日目を三七

日、28日目を四七日(よなのか)、1ヶ月目の命日を月忌み、35日目を五

七日(いつなのか)、42日目を六七日(むなのか)、49日目は七七日(し

ちしちにち)または四十九日(この日は満中陰、中陰満ともいい、死者の

魂を成仏させるため供養するという)、100日目を百ヶ日(ひゃっかにち)

と呼んでいます。このように7日ごとになっているのは死者が冥土(めい

ど)に行ってから死後の世界の運命が決まる7つの関門の日だからといい

ます。



 このほかにあとで述べるように翌年の1周期などの年忌もあります。これ

だけの忌日を全部人を呼んで法要していたらたまりません。いまはどんど

ん簡略化する家庭がふえているそうです。

−p241−

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・四十九日
文章んが


 初七日(しょなのか)、二七日(ふたなのか)……など7日ごとに法会を

重ね、七七49日(しちしちしじゅうくにち)で精進あけとし、この日を満中

陰といっています。つまり7週間たって中陰が満期になったことだそうで

す。満期といっても定期預金のことではありません。中陰は中有(ちゅう

う)ともいい、仏教の生類の存在が成り立つとする生有(しょうゆう)、本有

(ほんぬ)、死有(しう)とともに四有のひとつ。



 この世に生まれる最初の存在を生有、死ぬまでの生涯を本有、死のせ

つなを死有、死から来世に生まれるまでを中有といい、その存在は1〜7

週間でその間に次生が決まるとされています……。(オレなんの話ををし

てるんだろ?チンプンカンプン)



 五七日(いつなのか=35日目)で、冥土で死者が5回目の審判を受け

たことになります。その後いよいよ死後の世界での運命が決まるという七

七日、四十九日がきました。この世の裁判と違ってさすがあの世の裁きは

早いものですね。



 さて、この日「四十九日」は生きているものにとっては忌み明けで、昔は

きょうから肉ものを食べてもよいとされていたそうですよ。

−p242−

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・年 忌
文章んが


 年忌(ねんき)は年回忌ともいい、死者の祥月(しょうつき=なくなった

月)の命日に行う仏事供養のことです。



 年回忌は一周期(一年忌)、2年目が三回忌、そして七回忌、十三回

忌、十七回忌、二十三回忌(または二十五回忌)、二十七回忌、三十三

回忌、三十七回忌、五十回忌、百回忌、あと50年ごとに遠忌(おんき)が

控えているから限りなく続きます。



 しかし、普通は多くても三回、七回、十三回、二十三回、三十三回くら

いの法要を行い、お盆や彼岸の墓まいりくらいですませているそうです。

−p243−

 古くは一周忌が死者の追福の仏事の終わりだったらしく、奈良時代の

「続日本紀」には周忌、平安時代の「栄華物語」などには「はて・果」と出

ています。



 年忌のなかでも一周忌、三回忌は中国の儒家の小祥(しょうしょう)、大

祥という「礼記」にある記述から出たものといわれます。十三回忌は奈良

時代にはじまったと古書に書かれており、三十三回忌は鎌倉時代、三回

・七回・十七回・二十五回忌は室町時代にそれぞれはじまったということ

であります。



 また江戸時代には二十一回・二十三回・二十七回・三十七回・五十回

忌とまあ次々に作り出すものです。


 宗派の祖師のためには、また別のものがあり、三百年忌、五百年忌、

一千年忌までエンエンと行ったようであります。

−p244−

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・神式・キリスト教式法要
文章んが


 プロテスタント(新教):期日に決まりはないそうですが、死後1週間目

か10日目、または1ヶ月目の昇天記念日に墓前などで記念式を行うそう

です。



 カトリック(旧教):3日目、7日目、30日目、1年目に教会堂で追悼の礼

拝が行われます。ミサのあと別宅か自宅で茶話会を開き、故人をしのび

ます。



 神式:仏式の忌日に当たるものとして、帰家祭、翌日祭、毎十日祭(死

亡した日から10日目ごとに霊を祭る)、五十日祭、清払(きよばら)いの義

(五十日祭の翌日)、合祀歳、百日祭、忌日祭と月次祭(つきなみさい=

命日と毎月1月15日)、式年祭(一年祭・三年祭・五年祭・十年祭・二十

年祭・三十年祭・四十年祭・五十年祭・百年祭とつづき以後100年ごと)

があるそうです。神式では五十日祭が忌み明けだそうです。

−p245−

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▼墓まいり
文章んが


 どんな不信心な人でも盆や彼岸など帰省のときは墓まいりをします。


 墓まいりは、命日や四十九日などの忌日に法要を営み、おまいりに行

くことから生まれた習慣なのだそうです。江戸時代には墓まいりが流行し

たといいます。とかく家にしばられがちな女性にとって、墓まいりは外出の

絶好の口実でありました。うるさい舅や姑から解放され、思いっきり墓石の

前でひとり物思いにふけられます。



 墓まいりには墓石の掃除をし、まわりの草をとり花をとり替え、墓石に水

をかけてたわしでこすって清め、仏さまのあかを落としてあげるのだそで

ます。お酒など故人の好物も供えます。



 なお墓石にひとりひとり水をかけるのは、死後の世界一つである「餓鬼

道」に生まれ変わってしまった死者は、いつも渇きに苦しむという考えが

あり、それを慰めるという思想からだそうです。



 またどこにも口うるさいものがおり、墓まいりは午前中にしろだとか、つ

いでの墓まいりはいけないなどとシチメンドウなことをいう人もいるようで

す。

−p246−

(第11章「法事」終わり)

 四十九日とか、一周忌だということで僧侶や親戚を呼んで法事が行われます。法事のもとの意味は仏教の宣揚や修行のことだったらしいですが、中国で法要などの仏教行事のことを法事というようになったという。これが日本に渡来し平安時代から追福や善根のため仏を供養し、坊さんへの施しを法事というようになったという。

 江戸時代になるともっぱら故人の冥福(めいふく)のための忌日法要をさすようになるます。いまでは忌日に行う仏事をみんな法事、法要と呼んでいるようです。

 いずれにしても、忌日だ、年忌だ、遠忌だとああだこうだお金がかかり、霊もゆっくりあの世で眠ってなんかいられないかもせん。

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・忌 日

文章んが

 忌日(きにち)は故人が亡くなった日に当たる日のことで命日ともいいます。故人を追慕し法要を営みます。忌日は、お逮夜(たいや)、初七日(しょなのか)、二七日(ふたなのか)、三七日(みなのか)……とならびます。なかでも四十九日は満中陰、中陰満ともいい、死者の魂を成仏させるためとくに供養するそうです。

 最初のお逮夜は亡くなった日を入れて6日目(初七日の前夜)をいいますが、いまは初七日といっしょに行うことが多いようです。

 以下忌日を列挙しますと、7日ごとに14日目を二七日、21日目を三七日、28日目を四七日(よなのか)、1ヶ月目の命日を月忌み、35日目を五七日(いつなのか)、42日目を六七日(むなのか)、49日目は七七日(しちしちにち)または四十九日(この日は満中陰、中陰満ともいい、死者の魂を成仏させるため供養するという)、100日目を百ヶ日(ひゃっかにち)と呼んでいます。このように7日ごとになっているのは死者が冥土(めいど)に行ってから死後の世界の運命が決まる7つの関門の日だからといいます。

 このほかにあとで述べるように翌年の1周期などの年忌もあります。これだけの忌日を全部人を呼んで法要していたらたまりません。いまはどんどん簡略化する家庭がふえているそうです。

−p241−

 

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・四十九日

文章んが

 初七日(しょなのか)、二七日(ふたなのか)……など7日ごとに法会を重ね、七七49日(しちしちしじゅうくにち)で精進あけとし、この日を満中陰といっています。つまり7週間たって中陰が満期になったことだそうです。満期といっても定期預金のことではありません。中陰は中有(ちゅうう)ともいい、仏教の生類の存在が成り立つとする生有(しょうゆう)、本有(ほんぬ)、死有(しう)とともに四有のひとつ。

 この世に生まれる最初の存在を生有、死ぬまでの生涯を本有、死のせつなを死有、死から来世に生まれるまでを中有といい、その存在は1〜7週間でその間に次生が決まるとされています……。(オレなんの話ををしてるんだろ?チンプンカンプン)

 五七日(いつなのか=35日目)で、冥土で死者が5回目の審判を受けたことになります。その後いよいよ死後の世界での運命が決まるという七七日、四十九日がきました。この世の裁判と違ってさすがあの世の裁きは早いものですね。

 さて、この日「四十九日」は生きているものにとっては忌み明けで、昔はきょうから肉ものを食べてもよいとされていたそうですよ。

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・年 忌

文章んが

 年忌(ねんき)は年回忌ともいい、死者の祥月(しょうつき=なくなった月)の命日に行う仏事供養のことです。

 年回忌は一周期(一年忌)、2年目が三回忌、そして七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌(または二十五回忌)、二十七回忌、三十三回忌、三十七回忌、五十回忌、百回忌、あと50年ごとに遠忌(おんき)が控えているから限りなく続きます。

 しかし、普通は多くても三回、七回、十三回、二十三回、三十三回くらいの法要を行い、お盆や彼岸の墓まいりくらいですませているそうです。

−p243−

 

 古くは一周忌が死者の追福の仏事の終わりだったらしく、奈良時代の「続日本紀」には周忌、平安時代の「栄華物語」などには「はて・果」と出ています。

 年忌のなかでも一周忌、三回忌は中国の儒家の小祥(しょうしょう)、大祥という「礼記」にある記述から出たものといわれます。十三回忌は奈良時代にはじまったと古書に書かれており、三十三回忌は鎌倉時代、三回・七回・十七回・二十五回忌は室町時代にそれぞれはじまったということであります。

 また江戸時代には二十一回・二十三回・二十七回・三十七回・五十回忌とまあ次々に作り出すものです。
 宗派の祖師のためには、また別のものがあり、三百年忌、五百年忌、一千年忌までエンエンと行ったようであります。

−p244−

 

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・神式・キリスト教式法要

文章んが

 プロテスタント(新教):期日に決まりはないそうですが、死後1週間目か10日目、または1ヶ月目の昇天記念日に墓前などで記念式を行うそうです。
 カトリック(旧教):3日目、7日目、30日目、1年目に教会堂で追悼の礼拝が行われます。ミサのあと別宅か自宅で茶話会を開き、故人をしのびます。
 神式:仏式の忌日に当たるものとして、帰家祭、翌日祭、毎十日祭(死亡した日から10日目ごとに霊を祭る)、五十日祭、清払(きよばら)いの義(五十日祭の翌日)、合祀歳、百日祭、忌日祭と月次祭(つきなみさい=命日と毎月1月15日)、式年祭(一年祭・三年祭・五年祭・十年祭・二十年祭・三十年祭・四十年祭・五十年祭・百年祭とつづき以後100年ごと)があるそうです。神式では五十日祭が忌み明けだそうです。

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▼墓まいり

文章んが

 どんな不信心な人でも盆や彼岸など帰省のときは墓まいりをします。
 墓まいりは、命日や四十九日などの忌日に法要を営み、おまいりに行くことから生まれた習慣なのだそうです。江戸時代には墓まいりが流行したといいます。とかく家にしばられがちな女性にとって、墓まいりは外出の絶好の口実でありました。うるさい舅や姑から解放され、思いっきり墓石の前でひとり物思いにふけられます。

 墓まいりには墓石の掃除をし、まわりの草をとり花をとり替え、墓石に水をかけてたわしでこすって清め、仏さまのあかを落としてあげるのだそでます。お酒など故人の好物も供えます。

 なお墓石にひとりひとり水をかけるのは、死後の世界一つである「餓鬼道」に生まれ変わってしまった死者は、いつも渇きに苦しむという考えがあり、それを慰めるという思想からだそうです。

 またどこにも口うるさいものがおり、墓まいりは午前中にしろだとか、ついでの墓まいりはいけないなどとシチメンドウなことをいう人もいるようです。

−p246−

 

(第11章「法事」終わり)

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