■第8章 年間行事

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▼中 扉

【年間行事】この章の目次
 ・正月(年賀状)
 ・七草
 ・豆まき
 ・バレンタインデー
 ・ひなまつり(内裏さま、五人囃子、
   桜と橘、流しびな)
 ・彼岸
 ・こどもの日(こいのぼり)
 ・母の日
 ・父の日
 ・七夕さま
 ・お盆(盆おどり)
 ・月見
 ・クリスマス
 ・大みそか

−p

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・正月

・正月
文章んが


 1年の最初の月「正月」は、中国から入ってきた言葉だという。喜びごと

や晴れがましさ、休みの意味にも使われ「目の正月」「七日正月」「田打ち

正月」「雨降り正月(日照り続きの時、雨が降ると仕事を休んでする祝

い)」「骨正月」などといいます。



 かつて正月には、元日中心の大正月と1月15日中心の小正月があり

ました。大正月は、公家や武家、商家の間で祝ったのに対し、農村では

小正月を大事にしたという。



 昔は、満月から満月までを一カ月とする太陰暦であったため、望(も

ち)の日(陰暦15日)を正月としていたが中国から朔旦(さくたん=元日)

正月が輸入され、官の間で祝われはじめます。しかし民間のなかでの望

の正月は、依然として行われ、ついに大正月と小正月のふたつの正月が

できてしまいました。 明治になり太陽暦が採用されるとさらに混乱し、旧

正月、月遅れの正月を祝う地方もでてきます。それに伴い、正月行事も

同じように大正月、小正月、月遅れなど期日がバラバラに行われるように

なりました。



 現在は、正月は元日に統一されてきましたが、左義長(とんど焼き)、

穂垂(ほだれ)、繭玉、アワボヒエボ、餅花、削掛(けずりかけ)などの正月

の農業予祝行事がいまでも主に十四、15日に行われているのはその名

残だそうです。めでたや、めでたや。

−p164−

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・年賀状
文章んが


 他人様とつきあうようになると、新年の挨拶として年賀状も出さなけれ

ばなりません。一時は虚礼廃止でどうのこうのといわれた年賀状。いつの

間にかそんな声も聞こえなくなり、年末年始は郵便局も大忙しです。



 そもそもこの年質状、15世紀の頃ドイツで始まったのが最初。幼いキリ

ストの姿と新年を祝う文字を印刷したカードだったという。18世紀になり、

ドイツやオーストリア、フランスで流行していた絵入りの名刺が発展して、

美術的カードになり新年に送るようになります。19世紀にはイギリスでクリ

スマスカードに新年の祝詞も印刷して交換したといいます。



 日本で年賀はがきが売り出されたのは1873(明6)年になってからでし

た。しかし元旦配達サービスは1900(明33)年からで「三十三年一月一

日イ号便」の日付印でその日の最先便で届きました。ただし20通以上、

東京市中から発送のものとの制約があったそうです。ところがこの特別扱

いが大きな反響をよび、翌年から元旦配達サービスは次第に全国に広

がっていきます。

 昭和になり戦時体制強化で中断はしたものの、戦後復活、1949年

(昭24)にはお年玉付き年賀はがきが登場します。2円の通常はがき3千

万枚と寄付金1円付き1億5千万枚が発行されました。

−p165−

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・七 草(1月7日)
文章んが


 1月7日の朝、七草粥をつくって祝います。七草とは七種(くさ)の節供

のこと。正月7日の朝、前日とってきた7種類の若草のかゆを食べます。こ

のかゆは万病をのぞくといい、食べてことしの健康を祈ります。これは実

際にはお正月で弱った胃にやさいしい食べ物として行われた行事のよう

です。



 平安時代の本「延喜式(えんぎしき)」には正月15日宮中で七種がゆ

が行われ、材料はコメ、アワ、キビ、ヒエ、ミノゴメ、ゴマ、アズキの7種類の

穀物だったと出ています。



 これが中国からきた五節供の1つの「七種の菜」を食べる行事と合わさ

ります。この若草がゆを食べる習慣は、平安時代ころからできたとされて

います。7種類の若草の名については時代によりいろいろ変わったようで

す。



 「いまの七草」 セリ、ナズナ(ペンペングサ)、ゴギョウ(ハハコグサ)、

ハコベラ(ハコベ)、ホトケノザ(タラビコ)、スズナ(カブ)、スズシロ(ダイコ

ン)の7種類。



 「室町時代の七草」 セリ、ナズナ、ゴギョウ、ホトケノザ、タラビコ、ミミ

ナグサ、アシナ(ダイコン?)、の7種類だと当時の本に出ています。

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・豆まき(2月2日、3日ころ)
文章んが


 節分には豆まきをします。このような行事をして子供たちと一緒に過ご

すと、家族団らんにもつながり、子供たちの情緒も発達します。節分は季

節の移り変わる時という意味。もとは立春、立夏、立秋、立冬の前日をい

い、1年に4回あった行事です。そのなかでも春先の立春の前日はいち

ばん大切にしていたため、これだけ残ったのだそうです。



 旧暦ではこの節分がよく正月と重なりました。それで大みそかに行われ

ていた追儺(ついな)の行事といっしょになり、鬼を追い払う行事だったこ

とから「節分には悪い鬼がやってくるので、豆をまいて払おう」ということに

なりました。



 この豆まきは、室町時代からつづいているらしく「花営三代記」という当

時の本にもでているそうです。また魔よけにイワシの頭をヒイラギにさして

戸口に飾ったりします。



 かつては正月には年神について精霊たちがついてくるなどといいまし

た。この精霊への供え物を豆まきの形にしたという説もあります。

−p167−

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・バレンタインデー(2月14日)
文章んが


 もともとこれはカトリックの祝日で聖バレンタインを記念する日。聖バレ

ンタインとは西暦270年、皇帝の圧迫で殉教死したバレンチヌスのことだ

といわれています。



 はじめは親子が愛の教訓と感謝の気持ちを書いたノートを交換し合う

ものでしたが、だんだん男女の愛の告白にかわり、いまでは女性から告

白する日になりました。



 日本でバレンタインデーを紹介した第1号は、明治41(1908)年3月1

0日発行の「風俗画報」第381号。それによると「外国にバレンタインとい

うことあり。耶蘇教(やそきょう)の聖者セント・バレンタインの命日にあたる

2月14日に必ず行われる。青年男女匿名で恋愛に関した詩歌や風刺的

な警句などを盛んに贈答する……。またバレンタイン会という宴会を開き

面白おかしくさわぐ……」と報道しています。



 昭和35年、アメリカやヨーロッパでバレンタインデーにキャンデーを贈

るのにヒントを得た森永製菓が新聞で大々的に宣伝。当時の新聞に、2

月14日は「愛の日」。ハートのついたカードや手紙にチョコレートをそえ

て贈る日です……との広告が載っています。



 これに若い女の子がのせられて大騒ぎ。次第に広まっていきました。

いまはお返しする日のホワイト・デーなるものまでつくり出され、ヤイノヤイ

ノとせっつかされます。

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・ひなまつり(3月3日)
文章んが


 ♪あかりをつけましょボンボリに…のひな祭り、もとは上巳(じょうし)の

祓からきているという。昔は3月の第一の巳の日は恐ろしいことが起こる

日だとする考えから、身のけがれを人形(ひとがた)に託し川にながす行

事がありました。その人形がその場限りのものだったのがだんだん精巧な

ものになってくると「流すのはもったいない」……ということになり永久保存

されるようになっていきます。



 流しびなの風習が残っているのはそのなごりで特に鳥取県が有名。小

さな男びな、女びなを二組買い、一組は神棚に他の一組を川に流す。乳

が出るための祈願だというこれは和歌山県や広島県にも。



 ひな段がはじまった元禄以前からで寛延(1748〜51)のころはまだ

二段。明和(1764〜72)は三段にふえ、いまはゴ−カに七、八段。



 ひな節供の供えもののひし餅は貞享(1684〜88)ころからのもので、

もとは三角形ではないかとの説がある。三重県では「三角餅」というし、静

岡県では実際に三角形をしている所があります。



 また草餅について三代実録という本に「三月三日は婦女がハハコグサ

を採って餅をつくること歳事である…」と載っており、「後拾遺集」の藤原

実方の歌にも「みかの夜のもちいは食はじ煩はし聞けば夜どのにははこ

つむり」とあり、昔はヨモギよりハハコグサを主に使っていたということで

す。

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・内裏さま
文章んが


 内裏(だいり)とは天皇の御所のこと。内裏さまはそこに住んでいる人の

こと。また内裏びなのことだそうです。



 室町時代、公家の間では3月の節供がとり行われていました。一方庶

民の間ではそれとは関係のない紙びながありました。その紙のひなが、

みそぎの行事に使う人形(ひとがた)と合わさり発展していきます。



 江戸時代の初めになると、これらのひなを屏風の前に2、3対飾るよう

になります。江戸も元禄時代(1688〜1704)に入ると、布でつくられた

公家が正装した姿の人形があらわれ、内裏びな・御所びなと初めて呼ば

れはじめます。



 江戸時代なかごろからは、調度類を飾る習慣ができてひな段もつくら

れ、はれておひな様が飾られるようになったのであります。



 かつて農村の内裏びなはたいてい土製だったという。ちなみに内裏び

なは、いまは向かって左が男びな、右が女びながならんでいますが、明

治時代までは反対だったそうです。何ごとも時代によって変わるものです

ね。

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・五人囃子
文章んが


 ♪五人囃子の笛たいこ……と歌われるように5人囃子(ごにんばやし)

は、能楽の囃子方を人形化したもの。5人1組のひな人形です。



 江戸時代中ごろ、天明年間(1781〜89)に江戸でつくり出され、天

神、金時、弁慶、えびす、大黒、神馬や鶴などといっしょに飾られてニギ

ヤカ、ニギヤカ。



 江戸も末期になると内裏びなや官女、隋身、五人囃子がきまり、調度

類もいろいろ工夫が行われいまのような形式が生まれかけました。



 五人囃子はひな壇の3段め、向かって右から謡(うたい)、笛、小鼓(こ

づつみ)、太鼓(おおかわ)、太鼓(たいこ)の順にならんでいます。

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・サクラとタチバナ
文章んが


 ひな段の向かって右、左大臣の下にはサクラ、向かって左、右大臣の

下にはタチバナをかざります。サクラ、タチバナとも、古くから日本で愛さ

れ、サクラは「古事記」、「日本書紀」にも記載があり、また歌にもたくさん

詠まれていて日本の花の代表選手です。



 タチバナはミカン科ミカン属の常緑低木。大昔から常世(とこよ)の国の

木実の樹として珍重され、好んで庭に植えらていたといいます。「古事

記」に、垂仁(すいにん)天皇の時代(紀元前29年即位〜70年没といわ

れる)、田道間守(たじまもり)という者を常世の国に使わして、非時(ときじ

く)の香(かぐ)の果(このみ)を求めさせたとありますが、これがタチバナだ

という伝承によります。



 平安時代になってもタチバナを大事にする風潮が残り、平安京の新造

内裏の紫宸殿(ししんでん)階前の左(東)腋(えき)のサクラ(左近の桜)、

右(西)腋(えき)のタチバナ(右近の橘)は有名で、儀式のとき左右近衛

が分かれてそれぞれその木の前に陣をしいたのだそうです。



 「左近の桜」は、平安時代以降紫宸殿の階下東側に植えられたヤマザ

クラ。左近衛府が栽培したといいます。また「右近の橘」は、同じく紫宸殿

の階下西側に植えられたタチバナ。右近衛府が栽培したのでその名が

あります。野生のタチバナの改良種だといわれています。

−p172−

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・流しびな
文章んが


 鳥取県や岐阜、和歌山、広島県などでは、3月3日の夕方、川や海に

ひなを流す「ひな送り」の行事があります。元来ひなまつりのひなは、ひと

の身のけがれを託すワラや草でつくった人形(ひとがた)だったといいま

す。人形を自分の体にこすり、けがれが移ったら海や川にすてたものだ

そうです。それがいつからか人形の細工が精巧になり捨てるにはもった

いない、飾りにとって置こうとなっていきました。



 川や海に流す「流しびな」はブドウくらいの大きさの首に目鼻を描いた

もの。その男びな、女びなを10体ほどつけた竹串を「舟」に乗せて流しま

す。切り紙の人形(ひとがた)をつくるところや、色紙で男女のひなをつく

り首をつけて流す所もあり、いまでもいろいろな古い風習が残っていま

す。これらはいまは観光行事になっています。

−p173−

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・彼 岸
文章んが


 お彼岸には先祖が眠っているお墓にお参りに行きます。彼岸(ひが

ん)には春と秋にありますが、春の彼岸は、春分の日(3月21日ころ)を中

心にしてその前後3日と中日を入れ、あわせて7日間をいいます。



 彼岸は彼方の岸、向こう岸のことで悟りの世界をいうそうです。生死の

境はこちらの岸、これを此岸(しがん)といいます。このことから煩悩(ぼん

のう)の此岸から、彼岸へ到達するという意味になっています。



 何ごとにもはじめがあります。日本ではじめて彼岸を行ったのは平安時

代らしく、同時代の記録をまとめた「日本後紀」の延暦25(806)年、立春

・春分など四季の8日に教典を読ませた記録があるのが最も古いという。

当時中国でつくられた教典に、立春・春分などの四季の8日に仏事を行

うと功徳があると説かれていたそうです。



 お彼岸にあたる日が先祖の供養の日となったのは、仏教の西方浄土

説に、春分の太陽が真西に沈むことから結びついたものとのこと。仏教の

本家本元・インドでは彼岸の行事はなく、彼岸会(ひがんえ)の法要をす

るのは日本だけともいわれます。

−p174−

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・こどもの日(5月5日)
文章んが


 こどもの日は国民祝日のひとつで、昭和23年の法律で定められまし

た。昭和29年の国連の総会で「世界こどもの日」が制定されてから、各国

がそれぞれ都合のよい日を子どもの日として定めています。アメリカでは

5月1日、インドは11月14日、イギリスは3月の第1月曜、ソ連、ポーラン

ド、ハンガリーは6月1日などになっています。



 こどもの日は端午(たんご)の節供です。端午の端ははじめの意味。月

のはじめの午(うま)の日のこというとの説があります。また月のはじめの5

日を「初五」とか「端午」と呼んでいたともいいます。



 毎月5日があるので初五または端午は毎月ありますが、5月5日はとく

に邪鬼をはらう節日(せちにち)として、また5がならぶ「五午」、「重五」の

日として重んじられたのだそうです。



 ふつう端午の節供というと男の子の節供ということになっています。しか

しもともとは女性の節供だったという。このころは田植えの月で早乙女(さ

おとめ)に休養をとらせるおまつりだったといいます。



 この日は災いをはらうためショウブ湯に入ります。そのため端午の節供

を「菖蒲の節句」とも呼ぶようになりました。やがて武家の時代になると、

ショウブが武道を奨励する「尚武」に通じることから鎧や甲を飾るようにな

り、やがて男の子の節供といわれるようになったということです。そのため

こどもの日制定の趣旨に「子どもの人格を重んじ、子どもの幸福をはかる

とともに、母に感謝する」という一文があります。

−p175−

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・こいのぼり
文章んが


 かつては男の子の初節句に、母親の実家や親類からこいのぼりを贈る

風習があったそうです。田植えのすんだ田んぼをバックに雄壮に泳ぐこ

いのぼりをみると心がおどります。さて、中国の黄河の上流にある竜門に

泳ぎのぼることのできた鯉は、竜になれる……という伝説があるそうです。

そこで「鯉の滝のぼり」は立身出世のたとえにされるようになったという。



 武士社会になり、端午の節供が「尚武の節供」として重んじられ、家紋

の入った旗さし物やのぼり、吹き流しを掲げ、鎧兜(よろいかぶと)など武

具を玄関前にならべるようになりました。江戸中期になると町人たちも節

供のお祝いをするようになります。家々に鯉の絵を描いた幟(のぼり)を立

てたりしました。やがて幟の上にあった小旗のかわりに鯉ののぼりをつけ

るようになりました



 この鯉を大きくしてさおの先につけたのがいまのこいのぼり。はじめは

「こいの吹きながし」で吹き流していたようですが、江戸時代の後期の安

永(1772〜81)年間になるとこいのぼりがあらわれます。明治に入ると、

こいのぼりや吹き流しに、真ごい、ひごいをとりまぜるようになりました。

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・母の日(5月第2日曜日)
文章んが


 以前は母親のいる人は赤、いない人は白いカーネーションを胸につけ

ました。これは1910年ころ、アメリカの女性が亡き母を思い、教会で白い

カーネーションを配ったのがはじまりだそうです。



 これに、4月節の最初の日から4度めの日曜日に、両親の霊に感謝の

祈りをささげる風習が合わさり、5月の第2日曜日が母の日に決められま

した。



 アメリカでは1915年、ウィルソン大統領がこれを制定、日本では第2次

大戦後導入されました。いまではプレゼントのコマーシャルも手伝ってデ

パートからスーパーマーケト贈答品売り場はにぎわいます。



 さて日本で最初の母の日の行事は、昭和6(1931)年5月の第2日曜

日(10日)「母をたたえましょう」街頭行進が東京で行われました。大手

町、日本橋、銀座尾張町をそれぞれ出発、日比谷公園まで行進したそう

です。

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・父の日(6月)
文章んが


 ふだんは忘れられているお父さん。父親の存在感は母親にくらべ、どう

してもイマイチです。きょうぐらいは、大いにいばりたいものであります。



 「母の日」があるのだから「父の日」があってもいいのではないか。そう

思ったアメリカ、ワシントン州のジョン・ブルース・ドッドというご婦人が、19

10年父親に感謝の気持ちを表そうと提唱したのが「父の日」の最初だと

いわれています。



 その後1934年ころになり、その行事は6月第3日曜日行うことに決めら

れ、父親の苦労に感謝してプレゼントなどをするアメリカの年中行事のひ

とつに加えられました。



 日本では戦後、母の日に行事が行われるようになり、父の日は、それ

に少し遅れた昭和25年ごろから普及しだしたようです。

−p178−

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・七夕さま
文章んが


 7月7日は七夕(たなばた)さま。短冊に願いごとを書いてササ竹につる

します。子供たちもお手伝いして大喜びです。



 天の川の両側に牽牛(けんぎゅう)星と織女(しょくじょ)星があるという

話は古くからあったらしく、中国最古の詩集「詩経」(紀元前11世紀〜6

世紀と推測)にすでに載っています。その星が次第に互いが恋人同士だ

ということになり、はては年1度デートするのだと話は発展していきます。



 これが乞巧奠(きっこうてん)という行事になります。これが691年という

から飛鳥時代以前に日本に伝来しました。それに日本に古くからあった

棚織津女(たなばたつめ)の信仰と合わさって七夕の行事になります。乞

巧奠とは女の人が織女星にあやかり、裁縫の上達を祈る行事。おなじみ

のササ竹に願い事を書いてつるすやり方は、手習い、習字が普及してか

らのもので、江戸時代、寺子屋がはやりだしたからだということです。

−p179−

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・お 盆
文章んが


 お盆には実家に帰って墓参り、迎え火をたき仏さまを盆棚にお迎えし

ます。もともとお盆は旧暦の7月15日の行事でしたが、明治5(1872)

年、旧暦の太陰暦から太陽暦に移行してから大混乱。いままで通り旧暦

7月15日にやる所、新暦でやる所、月遅れでやる所、9月1日にやる所ま

であります。



 お盆とは盂蘭盆(うらぼん)を略したもので、インドの農耕社会の祖先を

うやまう思想から発生したのだとか。子孫がいなく供養してくれる者がいな

い孤独な霊は悪所に落ちてしまうといい、これに食べ物を供えて救おうと

するといいます。



 日本には仏教伝来とともに中国から伝えられ、606年(飛鳥時代)7月

15日の斎会(さいえ・お坊さんを集め食事をふるまう法会)が最初だそう

ですです。



 かつてはお盆が終わると、農村ではマコモなどで作った精霊船や盆の

飾りそのものを水に流して祖霊を送りました。

−p180−

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・盆踊り
文章んが


 毎晩のように遠くから盆踊りのお囃子が聞こえてきます。盆踊り、これ

は元来年に一度、この世に帰ってくる祖先の霊をなぐさめるおどりです。



 盆おどりは遠く平安時代、空也(くうや)上人が創った踴躍(ゆうやく)念

仏がもと。これが室町時代に盆おどりに発展し江戸時代にはいまの形に

なって定着したのだそうです。



 盆おどりには円舞式と行進式があります。円舞式は祭壇であるヤグラ

中心のおどり。行進式はいくつもの組が町をねり歩くもの。四国の阿波踊

りなどは行進式に入ります。これは霊を送り出す意味と厄神(やくがみ)を

村境に追い出す意味もあるそうです。

−p181−

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・月 見
文章んが


 夜も明るく照らす名月。お月見も日本に昔からある行事、子供たちに

伝えて行きたいものです。満月は旧暦の15日の夜の月。1年12ヶ月と毎

月ある十五夜のお月さんの中でも中秋・陰暦8月15日の夜の月は、出て

くる時間もちょうどよく、気候も心地いい時期です。昔からゆっくり月を見

て楽しむ習慣がありました。



 陰暦8月15日の月を「中秋の名月」ともいいます。日本で最初に行わ

れたのは平安時代、909年(延喜9)8月15日。庶民の間で盛んになっ

たのは江戸時代になってから。ダンゴ、サトイモ、クリ、カキなどを供え、ス

スキと秋の草花を生けるようになりました。おイモを供えるので「芋名月」と

もいいます。



 中秋に月を愛でて宴を催す月見の習慣は、中国から輸入されたもの

だそうです。中国では立秋を過ぎたあたりからどんどん降水量が下がるた

め、このころはほぼ間違いなく美事な月が鑑賞できるのだそうです。


 十五夜には、サトイモの茎をワラやナワで巻いた「ワラ鉄砲」で地面を

打ったり、綱引きをしたり、相撲をとったりお祭りをする所もあるそうです。



この芋名月に対して、陰暦9月13日の夜を十三夜といい、豆名月、栗名

月ともいってやはり月見をします。

−p182−

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・クリスマス(12月25日)
文章んが


 クリスマスツリーにケーキにプレゼント。これも子供たちが待ち遠しがる

日のひとつです。クリスマスはキリストの降誕祭です。



 しかし、はじめキリスト教にはクリスマスなどはなかったというからびっく

りです。キリスト教で降誕の祝日として最初に祝われたのは西暦200年の

5月20日だったという。12月25日ではありませんでした。



 西暦300年ころになってカトリック教会がはじめて12月25日をクリスマ

スと定めたという。しかし、実際にキリストがこの日に生まれたという証拠は

ないそうです。逆に12月は、生誕地のユダヤは雨の季節で、聖書に載っ

ているキリスト誕生の時の気候の様子とは違ってしまいます。



 このころにキリストの降誕祭・クリスマスとしたのは、この時期は1年の節

目であり、新しい活動の準備をする冬至の日に合わせたのだといわれて

います。

−p183−

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・大みそか
文章んが


 大みそかには除夜の鐘を聞きます。除夜は夜を除く……夜がないこ

と、寝ないことなのだそうです。いまでこそ、海外旅行や家族旅行などい

ろいろな形で過ごすようですが、昔は大はらいをし、物忌(い)みをして、

一晩中起きて正月さまを迎えたそうです。



 大みそかの夜にはそばを食べます。そばのように長く幸せにと縁起を

かついだものだとも、金箔師(きんぱくし)が金や銀の粉が散らばった時

そば粉のこねたもので集めることから、金銭をかきあつめる……意味とも

いわれています。つごもりそばとか運気そばとも呼ばれています。



 大みそかは除夜の鐘を突きに行く人もいるでしょう。除夜の鐘は108回

突きます。それは修行に専念する時、心をしめつけて妨げる無慚(むざ

ん)、無愧(むき)、嫉(しつ)、慳(けん)、悔(げ)、睡眠(すいみん)、掉挙

(じょうこ)、?沈(こんちん)忿(ふん)、覆(ぷく)というものの10種と、人々

を迷い結びつける「九十八結」の98を加え、合計108だとする説。



 また六根と六境との関連から六塵(じん=穢れ、煩悩)が生じ、そのそ

れぞれに好・悪・平(非好非悪)の3種があって6ラ3で18。そのおのおの

に染(せん)・浄(じょう)があり、その2をかけて36になります。さらにそれ

ぞれに過去、現在、未来があるため、36に3をかけると108になるのだと

いう説もあります。ムズカシイことになりました。

−p184−

(第8章「年間行事」終わり)

 1年の最初の月「正月」は、中国から入ってきた言葉だという。喜びごとや晴れがましさ、休みの意味にも使われ「目の正月」「七日正月」「田打ち正月」「雨降り正月(日照り続きの時、雨が降ると仕事を休んでする祝い)」「骨正月」などといいます。

 かつて正月には、元日中心の大正月と1月15日中心の小正月がありました。大正月は、公家や武家、商家の間で祝ったのに対し、農村では小正月を大事にしたという。

 昔は、満月から満月までを一カ月とする太陰暦であったため、望(もち)の日(陰暦15日)を正月としていたが中国から朔旦(さくたん=元日)正月が輸入され、官の間で祝われはじめます。しかし民間のなかでの望の正月は、依然として行われ、ついに大正月と小正月のふたつの正月ができてしまいました。 明治になり太陽暦が採用されるとさらに混乱し、旧正月、月遅れの正月を祝う地方もでてきます。それに伴い、正月行事も同じように大正月、小正月、月遅れなど期日がバラバラに行われるようになりました。

 現在は、正月は元日に統一されてきましたが、左義長(とんど焼き)、穂垂(ほだれ)、繭玉、アワボヒエボ、餅花、削掛(けずりかけ)などの正月の農業予祝行事がいまでも主に十四、15日に行われているのはその名残だそうです。めでたや、めでたや。

−p164−

 

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・年賀状

文章んが

 他人様とつきあうようになると、新年の挨拶として年賀状も出さなければなりません。一時は虚礼廃止でどうのこうのといわれた年賀状。いつの間にかそんな声も聞こえなくなり、年末年始は郵便局も大忙しです。

 そもそもこの年質状、15世紀の頃ドイツで始まったのが最初。幼いキリストの姿と新年を祝う文字を印刷したカードだったという。18世紀になり、ドイツやオーストリア、フランスで流行していた絵入りの名刺が発展して、美術的カードになり新年に送るようになります。19世紀にはイギリスでクリスマスカードに新年の祝詞も印刷して交換したといいます。

 日本で年賀はがきが売り出されたのは1873(明6)年になってからでした。しかし元旦配達サービスは1900(明33)年からで「三十三年一月一日イ号便」の日付印でその日の最先便で届きました。ただし20通以上、東京市中から発送のものとの制約があったそうです。ところがこの特別扱いが大きな反響をよび、翌年から元旦配達サービスは次第に全国に広がっていきます。

 昭和になり戦時体制強化で中断はしたものの、戦後復活、1949年(昭24)にはお年玉付き年賀はがきが登場します。2円の通常はがき3千万枚と寄付金1円付き1億5千万枚が発行されました。

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・七 草(1月7日)

文章んが

 1月7日の朝、七草粥をつくって祝います。七草とは七種(くさ)の節供のこと。正月7日の朝、前日とってきた7種類の若草のかゆを食べます。このかゆは万病をのぞくといい、食べてことしの健康を祈ります。これは実際にはお正月で弱った胃にやさいしい食べ物として行われた行事のようです。

 平安時代の本「延喜式(えんぎしき)」には正月15日宮中で七種がゆが行われ、材料はコメ、アワ、キビ、ヒエ、ミノゴメ、ゴマ、アズキの7種類の穀物だったと出ています。

 これが中国からきた五節供の1つの「七種の菜」を食べる行事と合わさります。この若草がゆを食べる習慣は、平安時代ころからできたとされています。7種類の若草の名については時代によりいろいろ変わったようです。

 「いまの七草」 セリ、ナズナ(ペンペングサ)、ゴギョウ(ハハコグサ)、ハコベラ(ハコベ)、ホトケノザ(タラビコ)、スズナ(カブ)、スズシロ(ダイコン)の7種類。

 「室町時代の七草」 セリ、ナズナ、ゴギョウ、ホトケノザ、タラビコ、ミミナグサ、アシナ(ダイコン?)、の7種類だと当時の本に出ています。

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・豆まき(2月2日、3日ころ)

文章んが

 節分には豆まきをします。このような行事をして子供たちと一緒に過ごすと、家族団らんにもつながり、子供たちの情緒も発達します。節分は季節の移り変わる時という意味。もとは立春、立夏、立秋、立冬の前日をいい、1年に4回あった行事です。そのなかでも春先の立春の前日はいちばん大切にしていたため、これだけ残ったのだそうです。

 旧暦ではこの節分がよく正月と重なりました。それで大みそかに行われていた追儺(ついな)の行事といっしょになり、鬼を追い払う行事だったことから「節分には悪い鬼がやってくるので、豆をまいて払おう」ということになりました。

 この豆まきは、室町時代からつづいているらしく「花営三代記」という当時の本にもでているそうです。また魔よけにイワシの頭をヒイラギにさして戸口に飾ったりします。

 かつては正月には年神について精霊たちがついてくるなどといいました。この精霊への供え物を豆まきの形にしたという説もあります。

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・バレンタインデー(2月14日)

文章んが

 もともとこれはカトリックの祝日で聖バレンタインを記念する日。聖バレンタインとは西暦270年、皇帝の圧迫で殉教死したバレンチヌスのことだといわれています。

 はじめは親子が愛の教訓と感謝の気持ちを書いたノートを交換し合うものでしたが、だんだん男女の愛の告白にかわり、いまでは女性から告白する日になりました。

 日本でバレンタインデーを紹介した第1号は、明治41(1908)年3月10日発行の「風俗画報」第381号。それによると「外国にバレンタインということあり。耶蘇教(やそきょう)の聖者セント・バレンタインの命日にあたる2月14日に必ず行われる。青年男女匿名で恋愛に関した詩歌や風刺的な警句などを盛んに贈答する……。またバレンタイン会という宴会を開き面白おかしくさわぐ……」と報道しています。

 昭和35年、アメリカやヨーロッパでバレンタインデーにキャンデーを贈るのにヒントを得た森永製菓が新聞で大々的に宣伝。当時の新聞に、2月14日は「愛の日」。ハートのついたカードや手紙にチョコレートをそえて贈る日です……との広告が載っています。

 これに若い女の子がのせられて大騒ぎ。次第に広まっていきました。いまはお返しする日のホワイト・デーなるものまでつくり出され、ヤイノヤイノとせっつかされます。

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・ひなまつり(3月3日)

文章んが

 ♪あかりをつけましょボンボリに…のひな祭り、もとは上巳(じょうし)の祓からきているという。昔は3月の第一の巳の日は恐ろしいことが起こる日だとする考えから、身のけがれを人形(ひとがた)に託し川にながす行事がありました。その人形がその場限りのものだったのがだんだん精巧なものになってくると「流すのはもったいない」……ということになり永久保存されるようになっていきます。

 流しびなの風習が残っているのはそのなごりで特に鳥取県が有名。小さな男びな、女びなを二組買い、一組は神棚に他の一組を川に流す。乳が出るための祈願だというこれは和歌山県や広島県にも。

 ひな段がはじまった元禄以前からで寛延(1748〜51)のころはまだ二段。明和(1764〜72)は三段にふえ、いまはゴ−カに七、八段。

 ひな節供の供えもののひし餅は貞享(1684〜88)ころからのもので、もとは三角形ではないかとの説がある。三重県では「三角餅」というし、静岡県では実際に三角形をしている所があります。

 また草餅について三代実録という本に「三月三日は婦女がハハコグサを採って餅をつくること歳事である…」と載っており、「後拾遺集」の藤原実方の歌にも「みかの夜のもちいは食はじ煩はし聞けば夜どのにははこつむり」とあり、昔はヨモギよりハハコグサを主に使っていたということです。

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・内裏さま

文章んが

 内裏(だいり)とは天皇の御所のこと。内裏さまはそこに住んでいる人のこと。また内裏びなのことだそうです。

 室町時代、公家の間では3月の節供がとり行われていました。一方庶民の間ではそれとは関係のない紙びながありました。その紙のひなが、みそぎの行事に使う人形(ひとがた)と合わさり発展していきます。

 江戸時代の初めになると、これらのひなを屏風の前に2、3対飾るようになります。江戸も元禄時代(1688〜1704)に入ると、布でつくられた公家が正装した姿の人形があらわれ、内裏びな・御所びなと初めて呼ばれはじめます。

 江戸時代なかごろからは、調度類を飾る習慣ができてひな段もつくられ、はれておひな様が飾られるようになったのであります。

 かつて農村の内裏びなはたいてい土製だったという。ちなみに内裏びなは、いまは向かって左が男びな、右が女びながならんでいますが、明治時代までは反対だったそうです。何ごとも時代によって変わるものですね。

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・五人囃子

文章んが

 ♪五人囃子の笛たいこ……と歌われるように5人囃子(ごにんばやし)は、能楽の囃子方を人形化したもの。5人1組のひな人形です。

 江戸時代中ごろ、天明年間(1781〜89)に江戸でつくり出され、天神、金時、弁慶、えびす、大黒、神馬や鶴などといっしょに飾られてニギヤカ、ニギヤカ。

 江戸も末期になると内裏びなや官女、隋身、五人囃子がきまり、調度類もいろいろ工夫が行われいまのような形式が生まれかけました。

 五人囃子はひな壇の3段め、向かって右から謡(うたい)、笛、小鼓(こづつみ)、太鼓(おおかわ)、太鼓(たいこ)の順にならんでいます。

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・サクラとタチバナ

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 ひな段の向かって右、左大臣の下にはサクラ、向かって左、右大臣の下にはタチバナをかざります。サクラ、タチバナとも、古くから日本で愛され、サクラは「古事記」、「日本書紀」にも記載があり、また歌にもたくさん詠まれていて日本の花の代表選手です。

 タチバナはミカン科ミカン属の常緑低木。大昔から常世(とこよ)の国の木実の樹として珍重され、好んで庭に植えらていたといいます。「古事記」に、垂仁(すいにん)天皇の時代(紀元前29年即位〜70年没といわれる)、田道間守(たじまもり)という者を常世の国に使わして、非時(ときじく)の香(かぐ)の果(このみ)を求めさせたとありますが、これがタチバナだという伝承によります。

 平安時代になってもタチバナを大事にする風潮が残り、平安京の新造内裏の紫宸殿(ししんでん)階前の左(東)腋(えき)のサクラ(左近の桜)、右(西)腋(えき)のタチバナ(右近の橘)は有名で、儀式のとき左右近衛が分かれてそれぞれその木の前に陣をしいたのだそうです。

 「左近の桜」は、平安時代以降紫宸殿の階下東側に植えられたヤマザクラ。左近衛府が栽培したといいます。また「右近の橘」は、同じく紫宸殿の階下西側に植えられたタチバナ。右近衛府が栽培したのでその名があります。野生のタチバナの改良種だといわれています。

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・流しびな

文章んが

 鳥取県や岐阜、和歌山、広島県などでは、3月3日の夕方、川や海にひなを流す「ひな送り」の行事があります。元来ひなまつりのひなは、ひとの身のけがれを託すワラや草でつくった人形(ひとがた)だったといいます。人形を自分の体にこすり、けがれが移ったら海や川にすてたものだそうです。それがいつからか人形の細工が精巧になり捨てるにはもったいない、飾りにとって置こうとなっていきました。

 川や海に流す「流しびな」はブドウくらいの大きさの首に目鼻を描いたもの。その男びな、女びなを10体ほどつけた竹串を「舟」に乗せて流します。切り紙の人形(ひとがた)をつくるところや、色紙で男女のひなをつくり首をつけて流す所もあり、いまでもいろいろな古い風習が残っています。これらはいまは観光行事になっています。

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・彼 岸

文章んが

 お彼岸には先祖が眠っているお墓にお参りに行きます。彼岸(ひがん)には春と秋にありますが、春の彼岸は、春分の日(3月21日ころ)を中心にしてその前後3日と中日を入れ、あわせて7日間をいいます。

 彼岸は彼方の岸、向こう岸のことで悟りの世界をいうそうです。生死の境はこちらの岸、これを此岸(しがん)といいます。このことから煩悩(ぼんのう)の此岸から、彼岸へ到達するという意味になっています。

 何ごとにもはじめがあります。日本ではじめて彼岸を行ったのは平安時代らしく、同時代の記録をまとめた「日本後紀」の延暦25(806)年、立春・春分など四季の8日に教典を読ませた記録があるのが最も古いという。当時中国でつくられた教典に、立春・春分などの四季の8日に仏事を行うと功徳があると説かれていたそうです。

 お彼岸にあたる日が先祖の供養の日となったのは、仏教の西方浄土説に、春分の太陽が真西に沈むことから結びついたものとのこと。仏教の本家本元・インドでは彼岸の行事はなく、彼岸会(ひがんえ)の法要をするのは日本だけともいわれます。

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・こどもの日(5月5日)

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 こどもの日は国民祝日のひとつで、昭和23年の法律で定められました。昭和29年の国連の総会で「世界こどもの日」が制定されてから、各国がそれぞれ都合のよい日を子どもの日として定めています。アメリカでは5月1日、インドは11月14日、イギリスは3月の第1月曜、ソ連、ポーランド、ハンガリーは6月1日などになっています。

 こどもの日は端午(たんご)の節供です。端午の端ははじめの意味。月のはじめの午(うま)の日のこというとの説があります。また月のはじめの5日を「初五」とか「端午」と呼んでいたともいいます。

 毎月5日があるので初五または端午は毎月ありますが、5月5日はとくに邪鬼をはらう節日(せちにち)として、また5がならぶ「五午」、「重五」の日として重んじられたのだそうです。

 ふつう端午の節供というと男の子の節供ということになっています。しかしもともとは女性の節供だったという。このころは田植えの月で早乙女(さおとめ)に休養をとらせるおまつりだったといいます。

 この日は災いをはらうためショウブ湯に入ります。そのため端午の節供を「菖蒲の節句」とも呼ぶようになりました。やがて武家の時代になると、ショウブが武道を奨励する「尚武」に通じることから鎧や甲を飾るようになり、やがて男の子の節供といわれるようになったということです。そのためこどもの日制定の趣旨に「子どもの人格を重んじ、子どもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」という一文があります。

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・こいのぼり

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 かつては男の子の初節句に、母親の実家や親類からこいのぼりを贈る風習があったそうです。田植えのすんだ田んぼをバックに雄壮に泳ぐこいのぼりをみると心がおどります。さて、中国の黄河の上流にある竜門に泳ぎのぼることのできた鯉は、竜になれる……という伝説があるそうです。そこで「鯉の滝のぼり」は立身出世のたとえにされるようになったという。

 武士社会になり、端午の節供が「尚武の節供」として重んじられ、家紋の入った旗さし物やのぼり、吹き流しを掲げ、鎧兜(よろいかぶと)など武具を玄関前にならべるようになりました。江戸中期になると町人たちも節供のお祝いをするようになります。家々に鯉の絵を描いた幟(のぼり)を立てたりしました。やがて幟の上にあった小旗のかわりに鯉ののぼりをつけるようになりました

 この鯉を大きくしてさおの先につけたのがいまのこいのぼり。はじめは「こいの吹きながし」で吹き流していたようですが、江戸時代の後期の安永(1772〜81)年間になるとこいのぼりがあらわれます。明治に入ると、こいのぼりや吹き流しに、真ごい、ひごいをとりまぜるようになりました。

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・母の日(5月第2日曜日)

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 以前は母親のいる人は赤、いない人は白いカーネーションを胸につけました。これは1910年ころ、アメリカの女性が亡き母を思い、教会で白いカーネーションを配ったのがはじまりだそうです。

 これに、4月節の最初の日から4度めの日曜日に、両親の霊に感謝の祈りをささげる風習が合わさり、5月の第2日曜日が母の日に決められました。

 アメリカでは1915年、ウィルソン大統領がこれを制定、日本では第2次大戦後導入されました。いまではプレゼントのコマーシャルも手伝ってデパートからスーパーマーケト贈答品売り場はにぎわいます。

 さて日本で最初の母の日の行事は、昭和6(1931)年5月の第2日曜日(10日)「母をたたえましょう」街頭行進が東京で行われました。大手町、日本橋、銀座尾張町をそれぞれ出発、日比谷公園まで行進したそうです。

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・父の日(6月)

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 ふだんは忘れられているお父さん。父親の存在感は母親にくらべ、どうしてもイマイチです。きょうぐらいは、大いにいばりたいものであります。

 「母の日」があるのだから「父の日」があってもいいのではないか。そう思ったアメリカ、ワシントン州のジョン・ブルース・ドッドというご婦人が、1910年父親に感謝の気持ちを表そうと提唱したのが「父の日」の最初だといわれています。

 その後1934年ころになり、その行事は6月第3日曜日行うことに決められ、父親の苦労に感謝してプレゼントなどをするアメリカの年中行事のひとつに加えられました。

 日本では戦後、母の日に行事が行われるようになり、父の日は、それに少し遅れた昭和25年ごろから普及しだしたようです。

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・七夕さま

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 7月7日は七夕(たなばた)さま。短冊に願いごとを書いてササ竹につるします。子供たちもお手伝いして大喜びです。

 天の川の両側に牽牛(けんぎゅう)星と織女(しょくじょ)星があるという話は古くからあったらしく、中国最古の詩集「詩経」(紀元前11世紀〜6世紀と推測)にすでに載っています。その星が次第に互いが恋人同士だということになり、はては年1度デートするのだと話は発展していきます。

 これが乞巧奠(きっこうてん)という行事になります。これが691年というから飛鳥時代以前に日本に伝来しました。それに日本に古くからあった棚織津女(たなばたつめ)の信仰と合わさって七夕の行事になります。乞巧奠とは女の人が織女星にあやかり、裁縫の上達を祈る行事。おなじみのササ竹に願い事を書いてつるすやり方は、手習い、習字が普及してからのもので、江戸時代、寺子屋がはやりだしたからだということです。

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・お 盆

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 お盆には実家に帰って墓参り、迎え火をたき仏さまを盆棚にお迎えします。もともとお盆は旧暦の7月15日の行事でしたが、明治5(1872)年、旧暦の太陰暦から太陽暦に移行してから大混乱。いままで通り旧暦7月15日にやる所、新暦でやる所、月遅れでやる所、9月1日にやる所まであります。

 お盆とは盂蘭盆(うらぼん)を略したもので、インドの農耕社会の祖先をうやまう思想から発生したのだとか。子孫がいなく供養してくれる者がいない孤独な霊は悪所に落ちてしまうといい、これに食べ物を供えて救おうとするといいます。

 日本には仏教伝来とともに中国から伝えられ、606年(飛鳥時代)7月15日の斎会(さいえ・お坊さんを集め食事をふるまう法会)が最初だそうですです。

 かつてはお盆が終わると、農村ではマコモなどで作った精霊船や盆の飾りそのものを水に流して祖霊を送りました。

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・盆踊り

文章んが

 毎晩のように遠くから盆踊りのお囃子が聞こえてきます。盆踊り、これは元来年に一度、この世に帰ってくる祖先の霊をなぐさめるおどりです。

 盆おどりは遠く平安時代、空也(くうや)上人が創った踴躍(ゆうやく)念仏がもと。これが室町時代に盆おどりに発展し江戸時代にはいまの形になって定着したのだそうです。

 盆おどりには円舞式と行進式があります。円舞式は祭壇であるヤグラ中心のおどり。行進式はいくつもの組が町をねり歩くもの。四国の阿波踊りなどは行進式に入ります。これは霊を送り出す意味と厄神(やくがみ)を村境に追い出す意味もあるそうです。

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・月 見

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 夜も明るく照らす名月。お月見も日本に昔からある行事、子供たちに伝えて行きたいものです。満月は旧暦の15日の夜の月。1年12ヶ月と毎月ある十五夜のお月さんの中でも中秋・陰暦8月15日の夜の月は、出てくる時間もちょうどよく、気候も心地いい時期です。昔からゆっくり月を見て楽しむ習慣がありました。

 陰暦8月15日の月を「中秋の名月」ともいいます。日本で最初に行われたのは平安時代、909年(延喜9)8月15日。庶民の間で盛んになったのは江戸時代になってから。ダンゴ、サトイモ、クリ、カキなどを供え、ススキと秋の草花を生けるようになりました。おイモを供えるので「芋名月」ともいいます。

 中秋に月を愛でて宴を催す月見の習慣は、中国から輸入されたものだそうです。中国では立秋を過ぎたあたりからどんどん降水量が下がるため、このころはほぼ間違いなく美事な月が鑑賞できるのだそうです。
 十五夜には、サトイモの茎をワラやナワで巻いた「ワラ鉄砲」で地面を打ったり、綱引きをしたり、相撲をとったりお祭りをする所もあるそうです。

この芋名月に対して、陰暦9月13日の夜を十三夜といい、豆名月、栗名月ともいってやはり月見をします。

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・クリスマス(12月25日)

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 クリスマスツリーにケーキにプレゼント。これも子供たちが待ち遠しがる日のひとつです。クリスマスはキリストの降誕祭です。

 しかし、はじめキリスト教にはクリスマスなどはなかったというからびっくりです。キリスト教で降誕の祝日として最初に祝われたのは西暦200年の5月20日だったという。12月25日ではありませんでした。

 西暦300年ころになってカトリック教会がはじめて12月25日をクリスマスと定めたという。しかし、実際にキリストがこの日に生まれたという証拠はないそうです。逆に12月は、生誕地のユダヤは雨の季節で、聖書に載っているキリスト誕生の時の気候の様子とは違ってしまいます。

 このころにキリストの降誕祭・クリスマスとしたのは、この時期は1年の節目であり、新しい活動の準備をする冬至の日に合わせたのだといわれています。

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・大みそか

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 大みそかには除夜の鐘を聞きます。除夜は夜を除く……夜がないこと、寝ないことなのだそうです。いまでこそ、海外旅行や家族旅行などいろいろな形で過ごすようですが、昔は大はらいをし、物忌(い)みをして、一晩中起きて正月さまを迎えたそうです。

 大みそかの夜にはそばを食べます。そばのように長く幸せにと縁起をかついだものだとも、金箔師(きんぱくし)が金や銀の粉が散らばった時そば粉のこねたもので集めることから、金銭をかきあつめる……意味ともいわれています。つごもりそばとか運気そばとも呼ばれています。

 大みそかは除夜の鐘を突きに行く人もいるでしょう。除夜の鐘は108回突きます。それは修行に専念する時、心をしめつけて妨げる無慚(むざん)、無愧(むき)、嫉(しつ)、慳(けん)、悔(げ)、睡眠(すいみん)、掉挙(じょうこ)、?沈(こんちん)忿(ふん)、覆(ぷく)というものの10種と、人々を迷い結びつける「九十八結」の98を加え、合計108だとする説。

 また六根と六境との関連から六塵(じん=穢れ、煩悩)が生じ、そのそれぞれに好・悪・平(非好非悪)の3種があって6×3で18。そのおのおのに染(せん)・浄(じょう)があり、その2をかけて36になります。さらにそれぞれに過去、現在、未来があるため、36に3をかけると108になるのだという説もあります。ムズカシイことになりました。

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(第8章「年間行事」終わり)

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