第3章 就学期
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▼中 扉
この章の目次
・義務教育
・小学校(ランドセル、鉛筆・消しゴム、黒板・
チョーク、先生、教科書、通知表、
校長先生、PTA、夏休み、修学旅行、
教育委員会、テスト)
・初潮
・中学校(クラブ活動)
・入学試験(神だのみ、さい銭、絵馬、
かしわ手)
・進学塾
・高等学校
・大学校
・卒業式
・大学院−p39−
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・義務教育
小、中学校は義務教育です。義務教育のルーツは、ギリシャ時代から
の教育史にもみられといいますが、制度として確立したのはプロイセン
(かつて強力な王国だったドイツの一地方)の1763年の地方学事通則
や、1794年の普通法の規定が最初だそうです。
日本では1872(明治5)年8月3日、全国に公布した日本最初の近代
的学校制度を定めた法規「学制」で制定されました。それは「小学校ハ…
…人民一般必ス学ハスンハ アルヘカラス」というしろものです。
しかし第2次世界大戦前の義務教育は、国家に対する義務ばかり強
調され、教育を受ける権利の思想は認められていませんでした。国民の
「三大義務」は、義務教育と納税と兵役といわれていました。
昭和20(1945)年、新しい「日本国憲法」がつくられ、「教育基本法」
の制度で教育に対する国民の権利がはじめてはっきり示されました。
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・小学校
お父さんやお母さんなど保護者は、子どもが満6歳になったら小学校
に入学させなければならないと「学校教育法」で決められています。
小学校は、明治5(1872)年に、「学制」という法律でつくられ施設で
す。しかし当時は、「勉強なんかするとロクな者にならない」という風潮が
あり、入学者は男子40%、女子はたったの15%だったという。ちなみに
明治6年、全国の小学校数は1万2558校、先生の数2万5531人、生徒
は114万5802人。日本では昔から休日は1と6の日だったので明治9年
までは学校も一六休業体制をとっていたそうです。
明治19(1886)年には尋常(じんじょう)小学校が4年、高等小学校が
4年とという2段階に変わり、昭和16年には初等科6年、高等科2年の国
民学校になりました。その後、昭和22年の「教育基本法」、「学校教育
法」で、小学校6年、中学校3年のいまの「六・三制」ができました。
最近は、小、中一貫教育の公立小学校もあらわれ、8年生、9年生など
という耳慣れない言葉も聞こえはじめています。
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・ランドセル
ピカピカの1年生。まだ似合わないランドセルがならんで歩いていま |
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・鉛筆・消しゴム
古代ギリシア・ローマ時代にも鉛を原料にした鉛筆のような筆記具はあ |
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・黒板、チョーク
学校の教室といえばいつも目の前にある黒板が思い出されます。黒板 |
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・先 生
先生(教員)は、教育施設(学校など)で教育を担当する者をいう。百 |
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・教科書
教科書は「教科書の発行に関する臨時措置法」(二条一項)に「小学 |
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・通知表
ワンパク坊主もきょうはションボリしています。塾へ通っていてもサッパリ
な子もいます。気にしない、気にしない。そのおもな目的は、児童・生徒
の学習の状態や性格、行動、身体的状況や出欠状況などの資料が家庭
へ知らせることにあるという。通知票は指導要録に基づいて作成されては
いますが、教育法規上では義務づけられてはいないのだそうです。
日本最初の通知票は明治24年の「定期試験点数ならびに勤惰(きん
だ)行状表・生徒成績表」というなんともモノスゴイ名前だったそうです。
大正に入ると「児童手帳」と名を変え、廃止も叫ばれたそうです。昭和
になり第2次大戦へ突入。小学校は国民学校。通知票は「国民学校手帳
・児童手帳」と変わります。「甲・乙・丙・丁」などいまでは知らない人の方
が多くなりました。戦後は5段階相対評価が普通でした。いまでは発行し
ないところもあるとか。またITの時代、パソコンにダウンロードして、通知
票を自動印刷する「通知票作成システム」のソフトまであります。
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・校長先生
学校で一番エライのが校長先生です。日本では「学校教育法」という
法律で各種学校も含めて法律に基づいて設置される学校には、校長を
置かなければならないと規定されています。それも幼稚園の校長は園
長、小、中、高等学校、専門学校は校長、大学は学長と呼ぶようになって
います。
また校長先生は「校務をつかさどり、所属職員を監督する」職務がある
としています。校務とは児童・生徒に対する教育活動、それに付随する
すべての事務をつかさどるものというから大変です。
また、校長先生になるには教諭一級の普通免許状があり、教職経験
年数5年以上の者のうちから教育委員会が任命することになっています。
私立学校の場合は特例があるそうです。
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・PTA
「父母と先生の会」の英語の略。その歴史は1897年、アメリカのバー
ニー夫人とハースト夫人という二人の母親の提唱で結成された「全国母
親協議会」がもとになっているという。その後1924年、「全国父母教師協
議会」と改め、学校単位に、有志の父母と教師が、自由に参加する団体
になっています。
一方日本では、戦後占領軍がPTAづくりを奨励したのを受けて、文部
省が昭和22(1947)年、「教師と父兄の会−教育民主化への手引き」と
いうパンフレットを全国の都道府県教育委員会に配布しました。
それを契機に1年足らずで全国の小、中、高にPTAができました。昭
和27(1952)年には日本PTA全国協議会や、全国高等学校PTA協議
会(のちの全国高等学校PTA連合会)がつくられました。PTAは、実際
には学校の後援会のような形になっています。
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・夏休み
夏休みとは昭和22(1947)年につくられた「学校教育法施行令第三
〇条」の「夏季休業日」のことだそうです。その目的は、高温多湿な時期
に、児童生徒を正規の授業から解放し、心身に休養を与えるためなのだ
そうです。
したがって、夏休みの間、先生は勤務を必要としない休日ではなく、児
童・生徒に授業を行わない休業日なのだという。つまり、休日でないが仕
事をしなくていい期間であり、授業以外の学校の事務をすることになって
います。しかし、実際は自宅研修の形で出勤しなくてもよいことになって
いるのだそうです。いいな―。
国・公立の小、中、高校では、いつからいつまで夏休みにするかは、そ
の当該学校を設置してる教育委員会が決めることになっています。私立
はそれぞれの学校で決めていいるという。
夏休みの長さは、日曜日や冬休みなど1年間の休みを引いた授業日
数が、法律で定められている最低授業数より少なくならないようにしてお
り、冬休みの長い所では夏休みが短くなっています。
ちなみに林間学校や登校日は出欠授業日数とは関係ありません。
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・修学旅行
修学旅行は日本独特の学校行事で、外国ではあまり例をみないとい
う。そのルーツは、明治19(1886)年2月、東京師範学校(いまの筑波大
学)が行った11日間の東京と千葉県銚子間の徒歩での往復「大遠足」だ
といわれています。これは心身の鍛練と規律正しい集団行動を目指す訓
練、実物に触れることを重視する校外学習の要素、古くからの物見遊山
的な慰安と、親睦の要素を合わせて実施されたものといいます。
修学旅行という文字が教育法規に初めて使われたのは1888年の「尋
常師範学校設備準則」というもの、1900年代になると小学校の高学年に
も普及していきました。これは当時、日本鉄道会社が50人以上に団体割
引料金制度を導入したことが拍車をかけたものという。
最近の修学旅行は、とくに私立は目的地を外国にするなど、どんどん
ゴーカになりつつあり、各都道府県の教育委員会では宿泊日数、旅行先
を学校種別ごとに制限する実施基準が設けてあるそうです。
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・教育委員会
教育委員会は、都道府県、市(特別区)、町、村にある教育行政機関
(一部教育事務組合、共同設置教育委員会というのもある)です。これ
は、戦後アメリカ教育使節団の勧告に基づき昭和23(1948)年「教育委
員会法」の制定により発足しました。当時は都道府県と五大市だけが義
務設置でしたが、昭和27年、すべての市町村に設置されました。
教育委員会は合議制の執行機関で、委員会と執行機関と事務局から
なっていて、教育長が事務局を統括します。委員は5人(町村は3人でも
よい)。委員は「人格が高潔で、教育、学術及び文化に関し見識を有する
もののうちから、地方公共団体の長が、議会の同意を得て任命」するのだ
そうです。任期は4年。
その仕事は「学校その他の教育機関を管理し、学校の組織編制、教
育課程、教科書その他の教材の取扱及び教育職員の身分取扱に関す
る事務を行い、並びに社会教育その他の教育、学術及び文化に関する
事務を管理し及びこれを執行する」(地方自治法一八〇条の八第一項)
なのだそうです。わー、こわッ。
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・テスト
学校では定期的にテストが行われます。学校教育でその意図された学
力が十分に子どもたちの身についたか測定するのです。
しからば学力とはなにか。「学習によってものにした生活力」だとか「現
実の生活をきり開いてゆく実力」などをいいます。昔から基礎学力とは読
み、書き、計算の三つとされていましたが、いまでは思考力、表現力、適
応力などだとの声もあります。
しかし、学習塾通いの子どもはテスト漬けの毎日。テントリ虫のテストず
れ、いまはただ偏差値の高い学校に入るのが学力のようです。
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・初 潮
体の生育が早い、今の子どもたちは初潮も早くなり、小学校の教育の
中で、早くから心構えや処理の仕方を指導しているそうです。
女性としての身体的な大人への区切りであり、家族は赤飯などをたい
て祝います。これは遠く江戸中期からのシキタリだそうです。
初潮を成女のしるしとして祝うのは世界的なもので、成女式(というのも
あるのですね)に抜歯(ばっし)、染歯(せんし)や入墨(いれずみ)をする
民族もあるそうです。
ムカシは生理は不浄のしるしとされ、期間中は別居させられるなど、い
まならつるしあげをくらうようなこともあったようです。
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・中学校
いまの中学校は昭和22年の新学制でできたものです。同じ名前の旧
制中学校は戦前にもありましたが、一部の男子が学ぶためのもので、い
まのように義務教育ではありませんでした。
現在の中学校は高等学校とともに中等教育で、小、中学校の9年間は
国民みんなが学ばなければなりません。その目的は、「中学校は、小学
校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、中等普通教育を
施すこと」(学校教育法第35条)となっています。しかし、実際には高校
の予備校化、受験戦争など問題がヤマ積み。いっそ高校まで義務教育
にしたらの声もあります。
以前の制度にあった国民学校高等科(国民大衆のためのもの)と国民
のなかでも上層部の子弟のための中学校、高等女学校、実業学校など
を昭和22年に統合しました。そして国民がみんなが学べるように新しい
中学校をつくったのがいまの中学のはじまりだそうです。
中学校のルーツは明治5(1872)年の「学制」にはじまり、明治9年の
「中学校令」で基礎がおかれたのだということです。
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・クラブ活動
小学校高学年、中学生、高校生はクラブに入り自主的に活動します。
クラブは文化的な活動、体育的な活動、工芸的な活動の3つからなって
いて、児童・生徒が、学級の所属を離れ、共通の関心や興味にもとづき、
集団的に行う趣味的レクリェーション的活動なのだという。なにがナンダ
か的活動であります。
昭和25(1950)年の調査でも全国のクラブ活動の種類は、小学校で1
91種類、中学校で282種類もあったそうです。なお選手制度と毎日の猛
練習を特色とする活動は、とくに部活動と呼んでいます。
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・入学試験
入学試験は高校、大学にかぎらず、私立小、中、幼稚園まで行われ、
合格だ不合格だと大さわぎです。そもそもこの試験は、学校への入学者
決定の資料を得るために行うものだといいます。でもいくら少子化社会だ
といっても、やはり受験地獄は試験地獄。そんなノンキなことはいってい
られません。
学校間格差をなくすため学校群制度や平常の成績を記録した内申
書、進学適性検査など試みられていますが、一部、私立高校などの経営
のための単願、偏差値至上主義に対する中学校側のかけ引きなど、ます
ます受験地獄はエスカレート。受験生たちの不安は増すばかりです。
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・神だのみ
受験シーズンになるとネコもシャクシも最後になると神だのみです。ど
んな神社にも合格祈願の絵馬が山のようにぶら下がっています。勉強の
神サマというと天満宮。ここにまつられている菅原道真(みちざね)は平安
中期の学者で政治家。5歳で和歌を詠み、12歳で漢詩をものにした天
才です。901年に天皇廃立をはかったということで、九州の太宰府に左
遷され、翌々年死亡しました。
その後、たたりが続いて起こり、おののいた人々は京都の天神サマの
そばにホコラをたて、道真の霊を慰めようと天満天神をまつりました。その
ため本来別の天神と天満宮はいまでは同じように思われています。
この信仰は、大昔からあった天神、地神の信仰に、菅原道真の霊廟の
天満大自在天(てんまだいじざいてん)の信仰が結びついているのだそう
です。
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・さい銭
神だのみにはさい銭がつきものです。これは供え物の意味と、罪をは
らい清めるための科料の意味をもっているのだそうです。
米を紙に包んでおひねりにし、また散米(うちまき)といい、米をばらま
いて神に捧げるのが本来の形。さい銭はこれと同じように銭のおひねりを
さい銭箱に入れたり、ばらまいたた銭を散米の変形したものではないかと
もいわれます。
さい銭は、銭が一般に使われだしてからの形であり、そう古いものでは
なく、いまでもさい銭箱のない神社やお寺があるのはそのためです。
さい銭をあげる風習は銭が民間に出回るようになってからです。鶴ヶ岡
八幡宮にさい銭箱が置かれたのも室町の終わりに近い天文年間といい
ます。ムカシは新貨ができるとまず神にささげたという。
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・絵 馬
神社やお寺に絵馬がたくさんかかっています。見るとあそこの大学に、
ここの高校に入学したい、第一志望、第二志望など願い事が満載です。
ムカーシは、神社などに祈願のときや願いがかなった時など、お礼に
生きた馬を奉納していたのだそうです。しかし、毎度生き馬では贈る方は
たまりません。また奉納される方も馬の世話ばかりしていられません。そこ
で土や木、紙で作った模造馬が使っていたのだそうです。そのうち次第
にいまのような板に絵を描いた絵馬になっていきました。
この手の絵馬は、平安時代からすでにあったらしく、「類聚符宣抄」と
いう本に、天暦2年(948)5月に「降雨祈願のため黒毛馬2頭を貢納す
べきところ、繋飼料がないので板馬でせよ」とあります。やはりふところが
大変だったようです。
また、絵馬のルーツについては、先述の神馬として本物の馬の代用に使
いだしたいう説のほかに、いま民間信仰として社寺に奉納される絵馬は、
広い意味をもっているともいわれれています。
絵馬には板絵馬、小絵馬のほかに、大形の額絵があり、これには著名
な画家が描いたりしています。
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・かしわ手
かしわ手は「拍手」でしょうか、また「柏手」と書くのでしょうか。
大ムカシ、朝廷で儀式をする時、拍手(はくしゅ)をする(打つ)習慣が
あったそうです。儀式のほか、賜物、捧物(ほうもつ)する場合や、食べた
り飲んだりする時も拍手をしたといいます。
そのころは、植物のカシワ(柏)の葉っぱを食器のように使っていたとい
う。そんなことから中世(鎌倉時代あたり)になると、食べたり飲んだりする
時の「拍手」を「カシワ手」ともいったと当時の本に書かれています。
一方語源については、拍手を柏手に、てへんを木へんに書き間違え
たと説と、宮中や寺院の食膳調理係を、膳夫(かしわで)といっていたこと
から、木偏の柏と混同したとの説があります。
その後、有力な神道の一つである吉田神道では、神サマを拝む作法
の拍手はいろいろあるとして、開手(ひらて)などいろいろな形の口伝をつ
くり出しています。
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・進学塾
学習塾や進学塾はいつも盛んです。いわゆる学習塾が社会問題にな
りはじめたのは、昭和30年代から。高学歴化、学歴主義を背景にして市
街に全国に波及していきました。
初めは高校入試の準備の意味あいでしたが、年を追うにしたがって塾
に通う子どもも低年齢化。いまでは一部私立中学の入試のための進学塾
は当たり前になっています。
最近は進学塾も子どもの能力差に応じ、多様化、専門化され、系列化
も進んでいき、人気進学塾先生まであらわれ、タレント化。また、有名進
学塾に入るための塾まで出現するしまつです。
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・高等学校
高等学校には、昭和22(1947)年の「学校教育法」で「中学校におけ
る教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、高等普通教育及び専門教
育を施す事を目的」としてつくられました。
高校には普通教育を主とする学科と、農業、工業、水産、商業、家庭
など専門教育を主とする学科があります。また普通課程には就職と進学
の進路別コースを制を導入しています。
高校は大学進学が目的の準備教育の中間学校であり、また、完成教
育のための最終学校でもあります。いまの制度の前にも旧制高校があり
ました。いまはコースも多様化しています。
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・大学校
日本の大学のルーツは飛鳥時代にあった大学寮だといいます。大学
寮は、唐の影響を受た律令制度の一環としてつくられた貴族官僚の子弟
のための養成機関。その後も貴族、武士、僧侶などを対象にしたレベル
の高い修学の場がありましたが、大学とは呼ばれなかったといいます。
江戸時代になると全国に藩校を設立、その中心として江戸に幕府直
轄の昌平こう(學の子の部分が黄・しょうへいこう)なるものがつくられま
す。明治に入って昌平こう(學の子の部分が黄・しょうへいこう)を中心に、
西洋の学問の開成所、医学所をいっしょにして大学校を設立(1869年)
しました。が、国学者と漢学者間にいざこざが生じ、まもなくパーになった
という。
しかし、その分局の大学南校が開成学校となって発展しました。1977
(明治10)年、開成学校は、医学所の後身である東京医学校と合併し、
法・文・理・医の4学部からなる東京大学になりました。その後、帝国大学
と名を改め、「国家の須要(しゅよう)に応ずる学術技芸を教授攻究するこ
とを目的」とし、唯一の官学として明治政府の官僚養成所の役割を担うこ
とになりました。そのため欧米の大学とは比べものにならないくらい国家
権力との結びつきが濃かったという。
一方、明治のはじめから民間には福沢諭吉の慶應義塾、新島襄の同
志社、大隈重信の東京専門学校(いまの早稲田大学)など私立高等教
育機関が生まれ、特色ある学風と建学の精神発展していましたが、政府
は大学としての制度的地位を、認めなかったそうです。やっと認めたのは
大正7(1918)年。「大学令」発布により公立・私立の大学のほか単科大
学も公認され、以後大学は急増することとなりました。
第二次大戦後、新学制の実施で4年制のいまのような大学になりまし
た。その大学の目的は「学術の中心として、広く知識を授けるとともに深く
専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させる
こと」なのだそうです。(分かりました?)
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・卒業式
最近は、我が師に恩を感じなくなったせいか、「仰げば尊し」を歌う中
学校や高校の卒業式はメッキリお目にかかれなくなりました。
でも「螢の光」の歌はけっこう歌われているようです。これはもとスコット
ランド民謡による唱歌。原題は「久しき昔」という名だそうです。1799年に
作曲され、日本では明治14(1881)年、当時の文部省の音楽取調掛
(おんがくとりしらべがかり)というところが編集した「小学唱歌集」の初編
に「蛍」の題で載って以来、歌われつづけてきたのだそうです。それにし
てもすごい部署あったものですね。
卒業式には盛装でと、花の女子大生たちはいまが盛り、親にねだって
和服と袴を新調。脳ミソとは関係なく着かざって街をカッポします。帰りは
居酒屋にくり込み、イッキ、イッキで経済効果に寄与してくれています。
小学校全科終了卒業式第1号は、1878(明治11)年の卒業生。当時
の小学校は下等4年、上等4年の四・四制。明治5年の学制発布で男女
とも満6歳以上を対象とされました。ところが8年かかる全課程を6年後の
明治11年、早くも卒業者が登場しました。そのころは成績次第でどんど
ん上級の試験が受けられ、進級できたのだそうです。
この秀才たちは東京港区の鞆絵(ともえ)小学校の梅田みち、坂部こ
ま、宮崎政吉、和田萬吉と台東区の育英小学校の瑳が公勝(さがきんとう)
の5人でした。
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・大学院
百科事典をひくと「大学院は大学の学部卒業生またはこれと同等以上
の学力があると認められたものが精深な学術を探究するところ」とありま
す。大学院は、明治19(1886)年、帝国大学令公布のときに成立。当時
大学は文科大学と大学院で構成され、大学院は「学術の蘊奥(うんのう)
を攻究する場」で、分科大学を卒業したものが入学して博士の学位を授
ける機関でした。
大正7(1918)年、大学令で引きつづいて大学には大学院が設けられ
る制度になりましたが、十分な運営がされていかったという。
いまの大学院は第2次世界大戦後の学制改革で新しい形になったも
の。その目的は「学術の理論および応用を教授研究し、その深奥を究め
て、文化の発展に寄与すること」と「学校教育法第65条」にあります。
新制大学院は2つの課程に分かれ、1つは修士課程で、2年の教育を
受け研究論文を提出、卒業試験に合格すると修士の学位を与えるという
もの。他の1つは博士課程。5年ですが修士課程を終わっていれば3年。
卒業すれば博士の学位を授けるというものだそうです。あッたま、いいん
だろうなァ。
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(第3章「就学期」終わり)
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