第2章 生育期

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▼中 扉

この章の目次
 ・お食い初め
 ・初節供(桃の節供、端午の節供、菖蒲湯)
 ・初誕生
 ・七五三(ちとせあめ)
 ・習い事(珠算塾、書道)
 ・幼稚園
 ・保育所

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・お食い初め

 

 箸初めとか、百日(ももか)ともいい、赤ちゃんに初めてご飯を

食べさせる行事です。土地によっていろいろですが、生後100日目

か120日目が一般的なようです。歯が生えるくらいに成長したお祝

いと、一生食べものには困らないように願う行事なのだそうです。


 この行事は平安時代からあったらしく、「河海抄」という本に百

日祝いの様子が、また「吾妻鏡」に源実朝の生後110日目に御十日

百日(ごいかももか)の儀を行ったと出ています。


 また昔、生後20ヶ月目に魚を食べさせる魚味(まな)始めとい

う行事があり、これとお食い初めが一緒になって伝わっているとい
うことです。


 お食い初めには、堅い食べ物を赤ちゃんに食べさせるまねをしま

す。かつては祝い膳にならべるものまで決まっていたそうで、御飯

に尾頭つき、吸い物、梅干し五つをつけた一汁三菜、それに紅白も

ち五つを盛った二の膳をつけたという固苦しさです。赤飯やタイな

どのごちそうのほか歯固めといって石をのせたりする所もあるそう

です。

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・初節供

 

 赤ちゃんが生まれて初めての節供を祝います。節供は節句とも書

きますが、もとは節供の字を使っていたという。「供」に「句」の

字をあてるようになったのは江戸時代からだそうです。



 節供の節は特別のことだそうです。供は食物を供することだとか。

つまり特別に神と人とに食物を供する意味。これはムカシ、特定の

日に特別の料理をつくり、神に供えて共同飲食した習慣が残ったも

ののようです。



 節供というのは1年に5回あったという。つまり、人日(七草の

節供・1月7日)、上巳(桃の節供・3月3日)、端午(菖蒲の節句

・5月5日)、七夕(星祭り・7月7日)、重陽(菊の節供・9月9

日)の5つです。



 このうち、赤ちゃんが初節供を祝うのは、女の子では上巳(桃の

節供)、男の子は端午(菖蒲の節供)を祝います。昔ながらのこい

のぼりやひな人形を母親の里方から贈るどうのこうの……なんての

はカビの生えた昔の考え、いまは自分たちの生活様式にあわせて成

長を祝います。

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・桃の節供

 

 女の子の初節供は3月3日桃の節供です。上巳(じょうし)の節供ともい

います。この時期、モモの花など咲かないのに桃の節供とは変ですが、

もともとは旧暦のこと。いまの4月上旬くらいに当たります。



 古代中国に、3月上旬の「巳(み)の日」はなぜか恐ろしい日なので、こ

の日は酒を飲み、水辺でみそぎを行い、邪気を払う力があるというモモの

花を飾る習慣があったそうです。



 それとは別に聖徳太子の時代から、健康を祈り、わざわいを草やワラ

で作った人形(ひとがた)に託し、川に流す風習がありました。この日本古

来の風習と中国のモモの花を飾る風習がいっしょになって一つの行事が

できました。この時作る人形が次第に精巧になりひな祭りに発展していっ

たということです。



 上巳の節供で、ひなを飾って遊ぶようになったのは室町時代(14〜16

世紀)以降だそうです。また、ひな段が武家や商家で飾りはじめたのは江

戸時代(17〜19世紀)になってから。内裏びながあらわれたのは江戸時

代も末期のことであります。

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・端午の節供

 

 5月5日のこどもの日は端午の節供でもあります。端とは初めの意味だ

という。古代中国で5月の最初の午(うま)の日を端午といっていました

が、漢の時代になると5月5日に固定されたという。季節の変わり目、月の

初めの午(うま)の日を祝ったのでした。



 この中国の端午は、野外に出て厄払いなどをした行事でしたが、日本

に伝わってきて、これも古来日本にあった「さつき忌み」の風習といっしょ

になってできたのが日本の端午の節供だそうです。さつき忌みとは、大

切な田植えにそなえ心身を清めるため、早乙女(さおとめ)たちが一夜、

神社やお堂に「忌(い)みごもり」しました。そして身体を清めたあと、神聖

な早苗(さなえ)を手に田植えをしたのだそうです。



 このように端午の節供は本来、女性のものだったという。それが男の節

供になったのは武家の時代になってからというから驚きます。その後、武

者人形を飾るようになったということです。



 5月は田植えなど大切な月だったので昔は神の月と考えました。さつき

の「さ」は神のこと。早苗(さなえ)早乙女(さおとめ)、さのぼり、さおりなど

の「さ」はみな神のことだそうです。

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・菖蒲湯

 

 端午の節供には、菖蒲を屋根にのせたり、軒にさしたり、風呂に入れ

たりします。また地方によっては子どもたちが菖蒲で地面をたたいてまわ

る、菖蒲たたきの行事もあります。



 これは菖蒲に呪力があるという考えがり、それにより毒気や魔力を払お

うとしたわけです。菖蒲湯には、ヘビの子を身ごもった女が、これに入っ

て流産し、ヘビからの難を逃れたという伝説もあります。



 菖蒲はまた、「勝負」や「尚武」に通じます。端午の節供はもともと女性

のための節供でしたが、武家社会の江戸時代から、「ショウブ」の語呂合

わせの縁起を担ぎ、武者人形などを飾りだして、いまでは男のための節

供になってしまいました。



 菖蒲湯に入る習慣はすでに室町時代からあったそうです。これはヘビ

や虫の毒をさけるとも考えられていたといいます。ところによっては菖蒲の

かわりにヨモギのこともあります。

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・初誕生

 

 初めての誕生日を祝い、赤ちゃんのこれからのすこやかな成長を祈り

ます。年齢を「数え年」で数えていたころは、正月に誕生祝いをしました。

初誕生と正月が重なり、めでたさが2倍になるワケです。



 初誕生は「もち誕生」ともいって、かつては「立ちもち」、「力もち」という

もちをついたそうです。一升もちや一升米を背負わせる風習もありまし

た。これは健康で力持ちの子に育ってほしいという願いから行うのだそう

です。



 また誕生前に歩くような赤ちゃんは、大きくなると「家から遠くへ行って

しまう」などといい、もちを背負わせてわざと転ばせたりした時代もありまし

た。



 また子どもの前にいろいろな物をおき、最初にとったもので将来ナニに

なるか占う地方もあったそうです。

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・七五三

 

 七五三は、室町時代から宮中で行われていた「髪置き」、「袴着(はか

まぎ)」、「帯解(おびと)き」の行事を、ひとまとめにして祝います。



 その日を11月15日にしたのは、徳川綱吉の子、徳松がこの日に祝っ

たのがはじまりだといいます。また、この日が万事・物ごとが吉だとする

「鬼宿日(きしゅくにち)」にあたるからだともいわれています。鬼宿日は、

古代中国の星座「二十八宿」の23番目。二十八宿中、最大の吉日とされ

ています。



 古い時代には髪置き、帯解きなどを祝う年齢は地方によってバラバラ

だったそうです。江戸のように諸国から人々が寄り集まった所では不便こ

のうありません。そこで江戸中期ごろにこれらを統一、みんな一緒に祝い

はじめたということです。ただ江戸、明治ごろまでは七五三などといわず

ただ氏神にお参りするだけだったという。



 七五三の祝いが盛んになったのは大正以後のことで、とくに昭和にな

ってから盛大になっていったといいます。

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・ちとせあめ

 

 漢字で千歳飴と書きめでたい名前の飴です。お参りのときたいがいの

人は買っています。引っぱると長く伸び、長寿にあやかろうとみんなに分

け合って食べる縁起もの。文字通り千歳まで生きようと願います。



 ちとせ飴の由来は、江戸中期の元和1年(1615)大阪で水あめを発明

した平野甚左衛門という人が、江戸へ出て来て浅草寺境内で売ったのが

はじまりだといわれます。また神田明神社頭で売っていた、祝い飴がもと

だという説もあります。



 松竹梅や鶴亀のめでたい絵を印刷した長い化粧袋。紅白に染めた細

長いちとせあめは、いまでも近所に配ったりしています。

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・習い事

 

 人間にはいろいろな天分がかくされているので、なるべく早くみつけて

伸ばしてやらなければと、世のお母さんはピアノ、バレエ、お琴とかわい

いわが子に習い事をさせようといっしょうけんめいです。



 6歳の6月6日に始めるのがいいとか悪いとか。遊びたい盛りの子ども

たちこそいい迷惑ではないでしょうか。ご自分だって、かつてはあれもこ

れもとおけいこごと、結果はどれもかじっただけの尻きれトンボ。それがく

やしくて夢を子どもに託す。託された子どももすぐあきて結局は……。そ

して夢をその子どもの子どもに託す。世の中順ぐりになっていくのでありま

すネ。

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・そろばん

 

 いまでも習い事にはまず珠算塾が出てきます。一口に珠算といって

も、そのルーツは紀元前5500年、ユーフラテス下流の古代神殿から出

土した計算タブレットというから想像以上です。



 ギリシャ、ローマ時代になり、線そろばんなるものがつくられて、中世に

ヨーロッパに伝えられました。しかし16〜17世紀アラビア数字が普及、筆

算にとって代わられたという。その後、中国に渡ったらしく、元や明の時代

の本に登場します。



 日本には室町末期に中国から貿易商たちによって長崎や堺に渡来し

ました。しかし本当に普及したのは江戸時代に入ってからです。パチパ

チ。珠算を勉強するとは暗算が上達し、頭の回転までが速くなるというの

で、いまでも結構盛んです。



 ところで、珠算をいう「そろばん」の語源は、中国語のスアンパンからソ

ロンパン、ソロバンとなまったものといいますがホントカイナ。



 大昔はやはり四つ玉だったそうですが、かつてあった五つ玉は日本で

作られたのでしょうか。そろばん塾は、江戸初期、毛利重能などが京都に

私塾を開いたのが最初なのだそうです。

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・書 道

 

 書道塾もけっこう繁昌しています。習字という言葉は、室町時代からあ

ったそうですが、当時は普通、手習いといっていたそうです。



 江戸時代になると、手習いが「筆道」というようになり、子供たちは寺子

屋で教わるようになります。その寺子屋設置の目的がふるっており、「文

字を覚え、正しく美しく書けるようになり、文章の型と内容を理解し、あわ

せて人格をみがこう」という堅苦しさ。さぞかし書く字もふるえていたかも

知れません。その後、明治5年の学制では学校に習字科という科目も登

場しました。



 いまでは毛筆で書くのは習字で、ペンや鉛筆でのものは書き方ち区別

して呼んでいるそうです。

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・幼稚園

 

 幼稚園は1837年、ドイツのフレーベルがつくったのが最初なのだそう

です。幼稚園は、キンダーガルテンという名で「子どもの園」という意味が

とか。その後、次第にヨーロッパ全土に広まってアメリカに渡り、児童心理

学と教育学の影響を受けて発展していったという。



 日本での幼稚園は、1876(明治9)年に設立の東京女子師範学校(い

まのお茶の水女子大学)の付属幼稚園が最初だったそうです。以後、19

16(大正5)年には665園、1935(昭和10)年には1890園と、幼稚園

の数が増えていきました。第2次世界大戦中一事激変はしましたが、194

7(昭和22)年「学校教育法」が公布され、幼稚園の地位が確立されま

す。いまは通うのが当たり前になっています。



 「学校教育法」第77条で、「幼稚園の目的」は、幼児を保育し、適当な

環境を与えてその心身の発達を助長するとされています。また、「幼稚園

教育要領」に基づき、「幼児の順調で調和的発達をもたらすよう保育して

いる」のだそうです。

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・保育園

 

 正式名称は「保育所」ですが、語感から多く「保育園」と称されることが

多い。そもそも保育所は1779年、フランスのアルザス地方の農村の子ど

もたちを集めたオーベルランの施設が最初なのだといいます。



 日本では江戸時代、農政学者佐藤信淵構想の慈育館や遊児廠(しょ

う)が先駆だそうですが、実際に活動した施設は明治23年、新潟市に赤

沢鐘美という人がつくったものが最初。その後、紡績会社や炭鉱など工

場内に託児所などつくられましたが、独立した保育所は1900(明治33)

年、東京市の私立二葉幼稚園(のちの二葉保育園)が最初だそうです。



 保育所はかつては託児所と呼ばれ、保育園、幼児園、愛児園などとも

いっていました。これらは「児童福祉法」(昭和22年法律第164号)によ

りつくられた児童福祉施設で、「日日保護者の委託を受けて保育に欠け

るその乳児または幼児を保育する」という難しい目的で設けられたものだ

そうです。

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(第2章「生育期」終わり)

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