「ふるさと歳時記」 【11月】
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▼この章のもくじ
・霜月(しもつき) ・イノコ ・トオカンヤ
・大根の年取り ・刈り上げ祭り ・かかしあげ
・(7)七五三 ・(8)千歳飴 ・(9)帯解き ・(10)夜なべ(わら仕事)
・(11)小春日和 ・(12)エビス講 ・(13)立冬 ・(14)勤労感謝の日
・(15)農業祭り ・(16)小雪 ・(17)笹立て ・(18)霜月がゆ
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▼霜月(しもつき)
霜月とは本当は旧暦の11月のことですがいまの暦でも通用してい
ます。
霜月の名の由来は文字通り霜が降りる月だからというのが有力で
す。平安時代の歌学書『奥義抄(おうぎしょう)』(藤原清輔著)に
は「霜しきりに降るゆえに、霜降り月というを誤れる」とあります。
しかしかつては稲作の豊穣が国家の盛衰を左右するといっても過
言ではない時代。1年12ヶ月の名は、すべて稲の成熟のなりゆきを
追ってつけられたものという説も根強く残っています。
それによるとこの月は、新嘗祭の行事があり民間でも新穀を食べ
はじめるため「食物月・おしものづき」を略して「しもつき」にな
ったものが霜月と当て字をしたのだという(「大言海」)。
霜月には収穫祭としての霜月祭りがあります。祭りの日にちは地
方によってさまざまですが、各地の神社では霜月神楽が行われます。
北九州では丑のどんといい、霜月に入って初めての丑の日に、家々
で臼の上にイネをのせ、それを田の神さまにみたて、供え物をして
祝います。
また中国地方から関東、東北にかけての霜月祭りはお大師さまが、
村々を訪れるためアズキかゆを供えたりします。
霜月について変わった説では、「凋(しぼ)む月」、「末つ月」が
転化したという
江戸時代の『滑稽雑談(こっけいぞうだん)』(其諺(きげん)著)
には「霜こもりの葉月、雪待月、神楽月」ともいうともあります。
「奥義抄・おうぎしょう」という本には「霜しきりに降るゆえに
霜降り月というのを誤れり」と記載されています。
農家は、稲のもみすり・袋詰め・出荷。冬季休耕田の雑草対策の
ための薬剤散布。水稲後作の野菜の定植。たい肥作り、春までの野
ネズミ退治などの作業が残っています。
この月は霜月のほか、建子月(けんしげつ)、子月(しげつ)、霜
降月、霜見月、達月(たつ月)、復月(ふくげつ)、神帰月(かみき
げつ)などの名もあります。(01)
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▼イノコ
農村では旧暦10月の亥の日に、収穫祭としてイノコ(亥の子)の
祝いをします。イノコの神を田の神といい、新米で餅をついたりぼ
た餅をつくります。イノコの神もまた春に来て秋に去る神と考え、
春秋の亥の子をイノコ神の去来を祭る日とする土地もあります。
かつて村の子供たちはこの日、「突き石」や「わらぼて」で地面
をたたいて廻りました。突き石は、丸い石に何本もの縄をつけ、み
んなで縄を引いて持ち上げては地面に落とします。
これは石やわらぼてに生産の力があると考え、地面に突き込む一
種のおまじないなのだそうです。この時、唱えごとをいってミカン
や餅、小銭をもらって歩きます。このほかイノコの行事には、さん
だわらで作った獅子頭をつけて舞うところもあるという。
そもそも中国では、陰暦10月の亥の日の亥の刻(午後9時から11
時)に餅を食べて、無病息災を祈る習慣があったそうです。これが
日本に渡来、朝廷では内蔵寮(くらりょう)から、猪子形に作った
「亥の子餅」を献上する儀式があったそうです。この餅を食べるの
は、イノシシの多産にあやかるためのものとか。
「十二支」を各月に割り当てると10月は亥の月にあたります。し
かし、亥の月亥の日亥の刻という理由ははっきりしません。さらに
亥の日には、上亥・中亥・下亥などの別があるそうで、平安朝には
上亥に行われたという。中世以後になると、武家社会では主に中の
亥の日を、宮中では上中下の3回行われたそうです。
この習慣が次第に民間にも普及していきます。イノコの祭りの時期
は、農村ではちょうどイネの取り入れ時期。そんなことから収穫祭
とイノコの行事が習合し、イノコの神は田の神といわれるまでにな
ったのだそうです。
イノコ祭の行事には、亥の子餅のほかに「イノコ突き」が行われ
ます。とくに西日本では子どもの行事です。丸い石(イノコ石)に
何本も縄をつけ、ひき上げては落として地面を突く方法と、わらで
作った筒「わらぼて」で地面を打つ方法があります。
これを持って村の家々の前で、地を突きながら歌や唱えごとを唱
えます。唱えごとには「亥の子もちをつかん者は鬼を生め、蛇を生
め、角の生えた子を生め」などと歌ってミカンや餅、銭などを貰う
います。
貰えれば「繁盛せえ、繁盛せえ」と祝いますが、貰えないと「貧
乏せえ、貧乏せえ」と悪口をいうそうです。なんともいま風にいえ
ば「悪ガキ」ですよね。亥の子に使う道具は、土地によってイノコ
槌・イノコばい・イノコすぼ・ぼてりんこなどと呼ぶのだそうで
す。
石やわらぼてで地面を打つのは、これらの道具に生産の力がある
として、大地にこれをつきこめる呪術なのだろうということです。
地方で行われた正月の嫁の尻たたき(いまやったら大変だ)や、果
樹責め、小正月のモグラ送りなどと同様なのだという。そのためか
行事をはじめる時、イノコ石に御幣を飾ったり、供え物をする地方
もあるそうです。
イノコの行事は、特に西日本で盛んに行われ、関東以北では武家
だけの行事だったという。関東での庶民の行事としてイノコの行事
にあたるのがトオカンヤ(十日夜)だそうです。イノコやトオカン
ヤの行事は、いまでは観光用の祭りとして残っています。(02)
わらぼてとイノコ石
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▼関東の収穫祭・トオカンヤ
秋祭りのひとつにトオカンヤという行事があります。山梨、長
野、埼玉、群馬県などでの呼び方で、漢字で「十日夜」と書きま
す。もとは旧暦の10月10日の夜の行事でしたが、いまは月遅れや
新暦で行われたりしていて所によりまちまちです。
春、農作業がはじまるころ山から降りてきた田の神が、農作物
の生長をつかさどり、秋の収穫を終えたいま、山に帰るのだとい
う。その田の神にことしの豊作を感謝し、来年の豊饒を祈るため、
ダイコンと餅を「箕」の上に載せて庭先に供えたり、ぼた餅をつ
くります。
トオカンヤはモグラの受難の日でもあります。わらを束ねたワ
ラヅトや丸い石に何本ものの網をつけた突き石で、地面を叩きま
す。作物に害を与えるモグラを追い払うのだそうです。関西では
イノコんでいます。
埼玉・群馬・長野県などでは、子供たちが新わらで太いわらづ
と(わら鉄砲)を作り、唱え言をしながら地面をたたき、作物に
害をおよぼすモグラを追う行事も残っています。このわらづとの
芯にイモの茎を入れると作物の実りがよいともいいます。
その時の唱えごとは群馬県甘楽地方では「トオカンヤ、いいも
んだ。朝そば切りに昼だんご。夕飯食ってひっぱたけ」とか「ト
オカンヤのわら鉄砲、餅を食ってひっぱたけ」(「柳田国男全集16」
十月十日の夜)。
埼玉県秩父地方でも子供たちがわら鉄砲を作り、数人で組にな
って唱え言をしながら家々の庭や門口をたたき、小銭やもちをも
らって歩く行事もありました。この日、畑の害虫や害獣に関する
行事をするところもあって、茨城県の北部では「むじなバッタキ」、
福島県では「虫供養」、新潟県では「ミミズ供養」などという行事
があるそうです。
関東から長野・福島県の一部では、10日の夜に月を祭る風習も
あります。群馬県利根郡では10日の夜「ニュウボッチ」(ニュウと
はニホのこと)といい、アワやヒエのかわの束の上にもちを出し
ておき、これを子供たちが取りにくるという。福島県いわき市の
平付近では、イモやエダマメを飯台にのせて窓ぎわにおいて月に
供え、それを子供や若者が盗みにくるという。
長野県北佐久郡では稲のニュウの上に盆にのせたお供えをあげ
て月に供える村があるという。長野県北安曇郡では旧暦8月15日
の夜・9月13日の夜・10月10日の夜を「三月見」といい、10日の
夜を特別に「稲の月見」といっているそうです。また、カカシの
神さまとお月さまとにひとつずつもちを供える村もあるという。
長野県東筑摩郡では、この日「案山子あげ」といって、田んぼ
から持ってきたカカシを庭に立て、カカシの笠を燃した火で餅を
焼いてふたつの枡に入れてさんだわらに乗せてカカシ神に供えた
りするという。
また東北地方から中部地方にかけては、この日のことを「ダイ
コンの年取」といい、かつては、この夜はダイコンがうなりなが
ら生長(年をとって)おり、また音を立てて割れるという。群馬
県ではトオカンヤのわら鉄砲の音を聞いて育つともいいます。
東日本全体にわたって畑に入ってはいけないなどといいました。
「もし畑に入ってうなり声を聞いてしまうと命はない」といわれ、
この日が過ぎるまでダイコンを抜き取ってはいけないなどといっ
たそうです。これは、秋祭りや正月の神に供えるダイコンに、神
の霊が宿るのだという信仰によるものだろうということです。(「日
本年中行事辞典」)
なぜ10月10日を祭るのかははっきりしませんが、その前夜の10
月9日を祭日とする地方が多く見られるところから旧暦9月9日
の「オクニチ」などとの関係が考えられるいう。
東北・関東では「オクニチ」を三九日(みくにち)といって、
旧暦9月9日・19日・29日の3度に分けて祝う風があり、収穫の
時期の関係で暖かい地方に進むにしたがい、日にちが遅れ旧暦9
月29日の「乙九日(おとくんち)」という日を祝う村が多くなった
という。
旧暦10月10日の「十日夜」はそれより遅れた祭日で、関東や中
部、それに比較的温暖な福島県の1部などでこの日に収穫祭をす
るようになったのではないかという。
トオカンヤは関東以北の名称で、関西には同じような行事のイ
ノコがあります。(03)
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▼(4)大根の年取り
旧暦の10月10日(ことしは11月26日・新暦で行うところもあ
る)はダイコンの年取りといい、ダイコン畑に入ってはならぬとい
います。
これは東北地方から中部地方にかけてはトオカンヤ(十日夜)
の行事の一環のようです。ダイコンの年越し、ダイコンの年夜な
どともいっています。
トオカンヤの行事で、子供たちがモグラを追うためわら鉄砲で
地面をたたきます。
その音を聞いてダイコンが大きくなるのだという。一晩でダイ
コンがうなりながら大きくなり、また音をたてて割れるというの
です。
その音を聞いた者は死ぬという俗信もあります。そのため、ト
オカンヤが過ぎるまではダイコンを抜き取ってはいけないのだそ
うです。
トオカンヤと同じ行事で西日本で行われる「イノコ」がありま
す。こちらでもイノコの行事が終わらないと「ダイコンは実らな
い」といういい習わしがあるそうです。
これはこれから行われる秋祭りや正月の行事。その神へのお供
えものである大切なダイコンに、神が宿っているという考え方か
らきているのではないかという。
ちなみに新潟県では10月20日のエビス講の日をダイコンの年
取りという所があるそうです。鳥取県でも12月20日をダイコン
の誕生日といい、ダイコン畑に入ってはいけない日とするそうで、
これも秋祭りのエビスさま対しての物忌みなのでしょうか。(04)
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▼刈り上げ祭り
秋は秋祭り、収穫祭が行われる季節です。そのひとつに刈り上げ
祭りという行事があります。刈り上げ節供とか刈り上げの朔日、オ
カリアゲなどとも呼ばれ、この日までは田畑の収穫をすませ、祭り
の準備をします。
だいたい稲の収穫祭には、刈り入れ前に行わう穂掛け祭りと、実
の収穫した後の刈り上げ祭りがあります。穂掛け祭りは実際に稲穂
を収穫する前に、神に稲穂を供えて稲の無事を祈る意味があるそう
です。また、初穂の出来具合を見てその年の出来、不出来を占うも
ので、これも収穫祭のひとつです。
でも、やっぱり収穫祭の中心は、稲刈りのあとに行われる刈り上
げ祭りです。秋祭りは、たいていはその地方の氏神の祭りとなって
います。旧暦9月9日、19日、29日の「ミクニチ」を祭日にしてい
るところも多くあります。
東北の一部では旧暦9月のミクニチ(三九日)のひとつ29日を「刈
上げの節供」として稲を取り入れてしまう習わしがあるといいます。
収穫祭が村全体の行事として行われる場合は村の年中行事にもな
ります。また各家々の祭りとして行われることもあります。そんな
ことから刈り上げ祭りも村中で行うところと、各家で行う地方があ
ります。
新潟県では、村共同で行う刈り上げ祭りを「大刈り上げ」といい、
各家々で行う祭りを「内刈り上げ」とか「かっきり」などといって
います。
また、刈り上げ祭りの日にもちをつき神棚に供え、田の神をまつ
ります。そのもちを田の神さまのお使いといわれるカエルが背負っ
て、田の神さまのお供して行くと言い伝えられている地方もありま
す。
また秋田県ではこの日を神刈り上げといい、もちをついて祝いま
す。刈り稲2把を箕に入れて、釜といっしょに神前に供えます。田
の神はこのもちを食べて天に帰るという。
南北に長い日本、当然ながら収穫の季節は地方地方の気候によっ
てずれていきます。
刈り上げ祭りの性質を持っている行事をならべてみると、仙台付
近では「刈上げの朔日」や10月の1日の行事。福島県や関東地方、
中部では10月10日ごろの行事。近畿、中国、四国地方では「亥子の
節供」、九州では11月に行われる「霜月祭」がこの「刈上げ祭」な
どがそうだそうです。(05)
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▼かかしあげ
旧暦10月10日の夜、十日夜(とおかんや)という行事が行われま
す。その日、カカシを田んぼから持ってきて、庭先に祭るところが
あります。長野県北安曇郡などの「カカシあげ」という行事がそれ
で、稲作を守ってくれたカカシを田の神のご神体と考えます。
春に山から降りてきて、農耕を見守ったのち、収穫を見届けた田の
神が、ふたたび山に帰るに際し感謝の祭りをします。
長野県などの風習は、カカシの笠を燃やした火で餅を焼き、二つ
の桝(ます)に入れ、「さんだわら」の上にのせて、カカシの神さ
まに供えます。同県の北佐久郡でも、旧暦の10月10日を「カカシ祭
り」といい、餅をついてカカシや作神に供えるという。同じ南佐久
郡もこの日に、田んぼからかかしをあげてきて、「カカシ餅」とい
い、臼に入れたままの餅をカカシに供えます。これに2本のダイコ
ンを添えて「カガシさまのお箸」というそうです。
同じ日を「ソメの年取り」というのは、南安曇地方。ついた餅を
ダイコンと一緒に桝に入れて月に供えます。このあたりではカカシ
のことを「ソメ」というのだそうです。またこの日は、カカシ(田
の神)が稲作の守護を終え、山に帰るため「山の神講」を行う村も
あるという。
諏訪郡には十日夜にカカシが天に帰り、お供のカエルがもちを背
負って行くなどといいます。上伊那郡では、「カカシ神サマ」とい
い、この日に庭の中に臼をおき、それに農作業の道具・鍬(くわ)
や鎌(かま)、熊手(くまで)、ほうきなどを集めて立て、それに蓑
や笠を着せてカカシの形を作って「つと」に包んだ餅を桝に入れて
供えたり、臼のなかに餅を入れて供えて祭るという。
新潟県でも南魚沼郡では、やはり同じ日にカカシを田んぼから取
り去り、餅をついて田の神さまを送る行事があるそうです。
カカシ祭りを神社の祭事として行う地方もあり、長野県の更埴市
屋代の須々岐神社というところでは旧暦10月10日から「案山子祭り」
を行い、農家が持ち寄るカカシを神社の拝殿前にならべて収穫祭り
を行い、りっぱなカカシを作ったものには金色の御幣を与え、カカ
シの行列を行うそうです。(06)
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▼七五三
11月15日に行われる七五三は、男子は数え年3歳と5歳、女の子
は3歳と7歳の祝い。華やかさを競って宮まいりするこの七五三は、
デパ−トなど商人の販売作戦にのせられたものであり、歴史はそん
なに古くないといいます。
そのもとである髪置き、袴着、帯解きの行事は古くからあり、そ
れをひとまとめにして11月15日に行います。とくに15日になったの
は徳川綱吉の子、徳松の祝いをこの日に行ったからだとも、また万
事が吉日の日である「鬼宿日」(二十八宿の一つ)にあたるからだ
ともいわれています。
「七つは神の子」ということわざがあり、昔は7歳になってはじ
めて子供の生存権が認められ、子供の遊びにも「つけひも」をおと
し、帯をむすぶようになってから正式に仲間入りすることができた
という。この行事が実際に庶民の間に広がり始まったのは江戸中期
以後のようで「増補江戸年中行事」に記載されています。
かつてはこの日の行事は地方によりいろいろだったようで、茨城
県鉾田町では14日に7歳から13歳までの子供たちが薬師堂に泊まり
こみ、翌日はだしで熊野神社に参拝したという。
鳥取県では男の子が7歳になると親の里から赤いふんどしを送っ
てもらい、かますに餅を入れて背負いました。女の子はおこしや布
団などを祝われたそうです。また静岡県磐田郡にはなぜか七五三の
行事をやらない所があるそうです。
長寿にあやかるための千歳飴はもと神田明神社頭で売っていた祝
い飴でした。それにしても年々派手になる宮参り、商業政策にはの
せられまいぞ、のせられまいぞ。(07)
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▼千歳飴
11月15日、七五三の宮参りに、ちとせ(千歳)あめをみやげに
買って、千歳という名にあやかってくれるよう、近所の人や親類に
配ります。
千歳飴は、1615年(元和1・江戸時代初期)、大阪で「平野あめ」
を売っていた平野甚左衛門という人が、江戸に出て浅草寺境内で売
り出したのが始まりだという。
また、元禄、宝永年間(1688〜1711)に、江戸の浅草のあめ売り
七兵衛が「千年あめ」とか「寿命糖」という名で売ったのが千歳飴
の最初だという説もあります。
千歳飴は、水あめを煮つめ、いく度もひっぱって伸ばして、あめ
のなかにあわを入れることで白くなり風味もよくなりかさも増える
という。赤く着色したものもあります。
この紅白の棒あめは、松竹梅やツル、カメなどの縁起の良い図柄
の化粧袋に入れられて新生児の宮参りの時も祝い菓子として買い求
め、神社によっては供せん(神に供える)菓子としてお守りがわり
に分ける所もあります。(08)
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▼帯解き
昔、ある程度生長した子どもは、付けひもの着物をやめ、帯を結
んで着物を着ます。その儀式を「帯解(おびど)き」といってお祝
いします。
ヒモオトシ、オビハナシともいうそうで、男女、地域によって違
いはありますが、9歳とか7歳、5歳、3歳の時、11月15日に行わ
れるので七五三と同じ意味にいわれるのでしょう。
室町時代、すでに上層階級で行われていたそうで、子どもが、一
人前の生長式を迎える前の、中間的な成長段階の通過儀式でありま
した。
公家の間では2歳または3歳で、初めて袴をはかせる「袴着(は
かまぎ)」の祝い、武家の間では3歳に、いままでそっていた髪の
毛をそるのをやめて伸ばしはじめる儀式「髪置き」を行いました。
これがシモジモにまで広まり、一般でも髪置きの祝いが行われるよ
うになり、大正時代まで残っていたそうです。(09)
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▼夜なべ(わら仕事)
いまではあまり見かけなくなった夜なべ仕事。以前の農家の夜な
べ、なかでも冬期の農閑期・暗い土間でのわら仕事は辛い作業でし
た。わらは昔から広く利用され、日本人の生活に深くかかわってき
ました。
わらはそのまま使われるほか、わら縄、むしろ、注連縄、こも、
かます、俵、ぞうり、わらじ、みの、もっこ、わら靴、畳床そして
わら布団にまで利用されました。水を含ませたわらを木槌でうち、
両手を合わせるようにしてなう縄。まねをするが、なかなかあの「シ
ョリショリショリ…」の音が出ません。
これがなかなかの手間仕事で、ひとり1日あたりわらじが15足、
あしなか足半ぞうりで20足、俵は編むだけなら1俵1時間程度です
が、わらをすぐり縄をないながら、編んだりすると日長1日3俵が
せいぜい。
みのにいたっては1着作るのに3から4日かかったという。それ
にしてもあのわらの独特の匂いからくるなつかしさは何なのでしょ
うか。(10)
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▼小春日和
小春とは旧暦の十月の別称だそうで、いまのこよみでは11月から
12月上旬にあたります。一名「小六月」ともいい、このころは農作
業も一段落。収穫を感謝して「農業祭」が行われ、また昔からの「霜
月祭り」「カカシあげ」「トオカンヤ」「イノコ」などの行事が行わ
れる季節です。
その晩秋から初冬にみられる暖かさのもどりが「小春日和」。霜
が降り、はだ寒さが増すころ、突然暖かな好天気が訪れ、まるで春
になったようです。風がおだやかで日なたでは汗ばむほど。どこか
らきたのか、日光があたってまぶしい障子の上ににハエがとまって
います。しかし、日かげはひんやりとしていて、夜は冷えるので気
をつけなければなりません。
晩秋のころ、木枯らし前線が南下し、日本を通りこすと、大陸か
ら冷たい高気圧が張り出して、西高東低の気圧配置になり、冬の冷
たい季節風が吹きすさびます。しかし翌日はこの高気圧は移動性と
なり風が弱まり、暖かくおだやかな小春日和になるのだという。
しかし、これは何日も続くものではなく、3,4日から10日くら
いの間隔を置いて、思い出したように現れるものだという。
本格的に寒い季節に入っても時として、暖かい日があり、これを
「冬暖か」とか「冬日和」などと呼んでいるそうです。農家ではす
ぐやって来る厳しい冬に備え、庭の手入れをなどに忙しい。(11)
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▼エビス講
夷講(えびすこう)は恵美須講とも書き、その名のとおりえびす
神の祭です。えびす神は、七福神の中でも財福をさげる福の神の代
表です。恵比須・夷・戎とも書き烏帽子(えぼし)をかぶり、タイ
と釣りざおをかついだ像であらわされています。祭日は陰暦の10月
20日、11月20日、正月10日、正月20日と地方によってバラバラです。
エビス講の日には同業者や、同じ地域の人々が祭祀(さいし)団
体を作り、福神のえびす神をまつり、商売繁盛を祈りながら神とと
もに酒宴をはります。
ところがこの七福神の一神として有名なえびす神は、古くからは
異民族を意味する通称で、外国から来臨して幸いをもたらす客(ま
れびと)神なのだそうです。
また中世にも武士をも「えびす」といい、鎌倉武士を東夷(あず
まえびす)とも呼んだという。こんなことからえびすは武神として
あがめられていました。
それから13〜14世紀ごろ、市場の守護神としてまつりはじめられ、
商業が発達するにつれ、だんだん、福神信仰として盛んになってき
ました。
農村でもエビスッコなどといい、1月20日、10月20日の年2回え
びす様をまつります。とりわけ10月20日はえびす様が出かせぎから
帰ってくる日といわれ、神棚に画像や木像を飾り、カケブナ(掛け
鮒)といい、生きたフナを2尾供え、(東北、関東、中部)、タイや
二またダイコンを供えます。
なお、えびす様は神無月でも出雲へはゆかず、留守番をしなさる
という(神奈川)。(12)
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▼(13)立冬
毎年、立冬は11月8日ごろです。1年を24に分け、それぞれに季
節にふさわしい名前をつけた二十四節気の一つです。
太陽の視黄経が225度の時をいい、「朝の冷気にたき火の煙が昇り、
冬立つ」といわれる日なのだそうです。昔は立冬から、立春の前日
までを冬といいました。
二十四節気をさらに細かくし、1年を72に分けた七十二候(日本
の七十二候は江戸末期の読本作者・高井蘭山が中国の七十二候にな
らって作った)では、初候(8〜12日)はサザンカはじめて咲くこ
ろ。二候(13〜17日)は地はじめて凍るころ。三候(18〜22日)は
キンセンカ香るころだとしています。冬の気立ちいよいよ冷ゆ……
と解説されます。(13)
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▼勤労感謝の日
昭和23年に制定された国民の祝日です「勤労をとうとび生産を祝
い、国民がたがいに感謝しあう」という趣旨でつくられました。
戦前は新嘗(にいなめ)祭をいい、収穫感謝のならわしからいま
でも農業祭や農産物品評会が行われています。
新嘗祭は、天照大神や天稚彦(あめわかひこ)が行ったという神
話があるほど古いもの。飛鳥時代に中断、再開されたのが江戸も中
期になってから。明治になり、太陽暦に変わってからは11月23日を
旧制の祭日と定め国民も仕事を休んで祝いました。しかし、それら
はあくまで皇室儀礼中心の祝祭日。いまでは、国民がみんなで祝え
る日になっています。(14)
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▼農業祭り
11月23日は勤労感謝の日。1948(昭和23)年に「勤労をたっと
び生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」という趣旨で制定され
た国民の祝日のひとつです。
その勤労感謝の日を中心に、各地で「農業祭」が行われます。こ
れは1962年(昭和37)から「農林省」と、農林漁業団体と都道府
県によって組織されている「日本農林漁業振興会」の主催で実施さ
れるもの。
当日は式典、農林水産物展のほか技術研究発表会などが行われ、
地域住民に農業の大切さを大いにPRしています。
勤労感謝の日を中心にしたのは、この日はかつては「新嘗祭(に
いなめさい)」という皇室儀礼がありました。これは天皇が収穫さ
れた新穀を食べ、天神地祇にすすめる収穫収穫感謝の儀式だったそ
うです。
それを皇室儀礼中心だった祝祭日を改め、平和憲法にのっとり自
由と平和を求める国民がみんなで祝える日にするため、勤労感謝の
日として、勤労をたっとび生産を祝い、収穫を感謝する日にしたの
だそうです。
1966年(昭和41)になり、さらに建国記念日、敬老の日、体育
の日の3祝日を追加。いまは、元日、成人の日、建国記念の日、春
分の日、みどりの日、憲法記念日、こどもの日、海の日、敬老の日、
秋分の日、体育の日、文化の日、勤労感謝の日、天皇誕生日、それ
に国民の休日や昭和の日というのまであります。
このような祝祭日は奈良時代にはすでにあったのだそうです。718
(養老2)年、元正天皇の「雑令」に「正月の1日、7日、16日、
3月3日、5月5日、7月の7日、11月の大嘗(おおにえ)の日
はみんな節の日である」とあるのがそれだそうです。(15)
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▼ 小 雪
毎年11月23日ごろは小雪です。これも二十四節気の一つ。まだ寒
さもそれほどではなく、雪もさほどでないというのだそうです。
「年浪草」という本には「小雪……天地の積陰温なるときは雨と
なり、寒なるときは雪となる。小とは寒がいまだ深まらずして、雪
いまだ大にならざるなり」とあります。
小雪は太陽の黄経が240度の時をいい、立冬から15日め。それぞ
れ季節にふさわしい名前をつけた二十四節気を、さらに三つずつに
分けた七十二候では、虹かくれて見えなくなるころ(23〜27)、北
風葉を払うころ(28〜12月2日)、ミカンが黄ばむころ(3〜6日)
としています。(16)
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▼笹立て
ビニールハウスやトンネルの普及したいまでも時おり、霜よけの
「笹立て」のしてあるのを見受けます。
以前は、寒さの害から防ぐための、この笹立ては、冬の畑の風物
詩の一つでした。笹立てをした所は、風当たりが強く地面付近のあ
たためられた空気が風でとばず、日当たりのよい日など他の所より
グンと暖かく、また夜も、熱の夜間放射を防ぎ、温度を下げません。
またこのササは、ゆれる時にそこに発生する渦が、地面近くの温
度の低い空気を吸いあげる作用がはたらくのが、低温防止に役立つ
のだろうという人もいます。昇温効果を測定すると0,5以下ながら、
これが積み重なり大きな効果をあげるのだろうということです。(17)
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▼(18)霜月がゆ
旧暦11月23日の夜、家々を訪れるという大師さまに、アズキがゆ
やだんごを供える大師講という行事があります。
この風習は、近畿地方から関東、東北地方にまでおよぶといいま
す。アズキがゆは、大師がゆ、霜月がゆともいい、また『丹後峯風
俗問状答』という本には、旧暦11月23日に食べるが大師がゆ、11月
の中(月の後半)の不定日、または中のうちの卯(う)の日に食べ
るアズキがゆを霜月がゆというとあります。
大師がゆを食わぬうちはハエがいなくならないとも、霜月がゆを
食べれば川に落ちないなどともいいました。大師は貧乏の子だくさ
んで、大勢の子供に長いはしで食べさせるため、かゆといっしょに
長いはしを供えるのだそうです。(18)
(11月終わり)
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