ふるさと歳時記」【2月】

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 ▼この章のもくじ
 ・如月(きさらぎ) ・初ツイタチ ・2月1日の祝い ・節分
 ・焼いかがし ・追難 ・目突き柴 ・豆まき ・豆占(まめうら)
 ・立春 ・初午 ・目かご ・大まなこ ・こと八日(こと始め)
 ・野焼き ・雨水 ・春一番 ・うるう年

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▼如月(きさらぎ)

 如月(きさらぎ)とは陰暦の2月の呼び方ですが、いまの太陽暦
でも結構通用しています。なぜこの月に「如月」の字をあてるのか
は、如は「爾雅」、「釈天」に「二月を如となす」とあり、中国の二
月の異称であることから来ていると考えられるといいます。しかし、
きさらぎと「如」の文字とは、まったく関連がないというからむず
かしい。

 また2月を「きさらぎ」と呼ぶのは奈良時代からだそうで、「日
本書紀」(720年)にもあり、「二月」と書いて「きさらぎ」とよま
せています。

 きさらぎは昔は「衣更着」とも書いたという。これは平安末期の
歌人藤原清輔がその歌論書「奥義抄(おうぎしょう)」に、「正月の
どかなりしを、此月さえかへりて、更にきぬを着れば、きぬさらぎ
といふをあやまれるなり。按(あん)ずるに、もとはきぬさらぎ也」
とあります。

 まだ寒さが残っているので「更に衣を重ね着る」というのは「下
学集」、「二中暦」「滑稽雑談(こっけいぞうだん)」などにもがある
そうです。

 また「きさらぎ」とは木久佐波利都伎(きくさはりつき・草張り
月)の意味で、草や木が芽を張り出すころだとの説「語意考」(江
戸中期の国学者で歌人の賀茂真淵)もあります。

 そのほか、「類聚(るいじゅう)名物考」(山岡浚明著)という本
では、去年の秋に雁が帰っていったあと、ツバメが来はじめる月で
「来更来月・きさらぎづき」のことだといい、「和訓栞」では「(陽)
気が更にくる月」のことだとしています。陰暦2月はいまの3月ご
ろ。だんだん暖かくなり、陽気が盛んになる季節だというわけです。

  現代では、「萌揺(きさゆらぎ)月の略」(「大言海」)という説
や、「生更ぎ」の意、草木の更生することをいう。着物をさらに重
ね着る意とするのは誤り、とする説(「広辞苑」)もあります。しか
し、「広辞苑」の説も、次の月のやよいの語源と重なるところから、
どうも承服できないという意見もあります。

 なお、「きさらぎ」という菓子があります。愛知県岡崎市の名物
で、せんべいの一種。もと岡崎藩士の備前屋藤右衛門が、町家の片
餅(へぎもち)にヒントを得て1800(寛政12)年に創作した。糯米
の粉と上白糠を水でこね、搗き、蒸しを繰り返して弾力ある生地を
つくり、短冊形に切って八ツ橋のような形に天火焼きする。藤右衛
門は藩命で備前国岡山城下に潜入、隠密行動中に製菓枝術を身につ
けた。「きさらぎ」の菓名は、片餅作りが2月に行われるところか
ら名づけたという。
(01)

 

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▼初ツイタチ

 2月1日を初ツイタチ、太郎のツイタチ、次郎のツイタチなどと
いって祝います。太郎のツイタチというのは、最初のツイタチとい
う意味で初ツイタチのこと。

 昔の暦で、望の日(満月に当たる日)を正月とした場合、2月1
日は最初のツイタチにあたるからいった言葉なのだそうです。

 また、次郎のツイタチは2番目のツイタチの意味。いまの正月の
ように朔日正月制なら2月のツイタチは、2番目になるわけです。
このようなもとの意味がいつの間にか忘れられ、いまでもこの日を
次郎太郎の日などと呼ぶ地方もあるという。

 またこの日には、山の太郎(山の神)が河の太郎(河童)と交代
する日だとする地方もあります。これは山の神が田の神となって降
臨するという信仰の変型だともいわれています。
(02)

 

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▼2月1日の祝い

 2月1日を祝う行事が全国にあります。かつて関東の米作地帯で
は、正月にはまだ秋の収穫の仕事が残っているため、2月の1日を
「二月正月」といい、休んで祝ったという。

 岩手県では「門松」に正月には松を立て、小正月(1月15日)に
は笹、「二月正月」には杉を立てたところがあったそうです。

 岩手県遠野地方では、2月1日を「二月の小松」といって、厄年
の人が餅をついて年祝いをしたそうです。秋田県でも「二度正月」、
青森県八戸では二月年、重ね正月、また山口県では「並び朔日(つ
いたち)」、鹿児島県では「年取り直し」などといい、厄年の人がこ
の日にもう一つ歳をとったことにし、災いから逃れようとしたそう
です。

 さらに熊本県では2月1日を「太郎の朔日」と呼ぶそうです。き
ょうは、山の太郎が河の太郎(河童)と交替するのだという。河童
は山に入ると山ノ神になり、河に降りてくると河太郎になるという
のです。

 これは春、山ノ神が里に降りてきて田の神になって稲作の様子を
見守り、秋、収穫が終わると山ノ神になって山上に帰るという「神
去来」の信仰の変形だといわれています。

 このほか、初朔日(長崎県)、次郎の朔日(静岡県・埼玉県)、送
り正月(中国地方)、一日(ひとひ)正月(兵庫県)、年重ねの祝い
(東北から関東地方)などの呼び方もあります。これらは旧暦から
太陽暦に変わって混乱した行事が、意味が不明になり、そのまま残
っているものだそうです。
(03)

 

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▼ 節 分

 節分は、季節の移り変わる時という意味で、立春、立夏、立秋、
立冬の前日をいい、1年に4回あります。昔の暦では、立春が年頭
にあたり、ときには正月と重なることもよくありました。そのため、
春の節分は特別大事な行事として、いつのまにか節分といえば立春
の前日をいうようになったという。

 節分には豆まきがつきものです。豆まきは、もともとは大みそか
に行われた追儺(ついな)の行事のひとつです。昔は新春には、神
が訪れるという信仰があり、神を迎えるための邪気ばらいをしなけ
ればなりません。

 たまたま正月と節分がよく重なることもあって、「悪い鬼がやっ
てくる節分に、豆をまいておいはらおう」と、大みそかの追儺の行
事の豆まきが節分のおはらいの行事に発展していったのだそうで
す。
 かつてはその豆を炒るとき、「焼嗅(やいか)がし」といって、
鬼や疫病神、悪魔を追い払うため、いろりの火の中に臭いネギやニ
ラなどを入れる風習がありました。そのとき唱える、唱えごとが地
方ごとにいろいろあったそうですが、いまではすっかりすたれてい
ます。

 また、イワシの頭をヒイラギや、豆がらなどに突きさして火であ
ぶる「虫の口焼き」ということも行いました。これは1年間、害虫
を封じ込めようというまじないです。火であぶったイワシの頭は、
勝手口などにさしたあと、しまっておいて子どもの「咳」の薬にす
るところもあったという。

 このような臭いものを燃して悪臭をだし、悪魔を追い払おうとす
る考えは、作物を食い荒らす鳥やケモノを追い払うまじないにも使
われはじめます。

 農家にとっては害鳥、害獣は悪魔のようなもの。はじめは田畑で
ものを燃していたのでしょうが、時がたつにつれものの形に発展。
次第にひと形のカカシに変わっていき、いまのようなカカシになっ
てきました。カカシは、焼嗅がしの「カガシ」からきているわけで
す。
 また、虫の口焼きでイワシの頭をヒイラギ、カヤやヒバなどにさ
したものを「目突き柴」といい、鬼の目を突くということで魔除け
として戸口にさします。いまでも節分間近に店頭で売られるヒイラ
ギや豆がらの目突き柴は、ここからきています。
(04)

 

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▼焼嗅がし

 2月といえば節分。豆まきの行事があります。かつて、その鬼を
追い払う豆を炒るとき、炉の中に臭いの強いものを入れて火で焼く
ヤイカガシ(焼嗅がし)という行事がありました。

 ヤイカガシはネギやニラ、ところによっては髪の毛までいろりの
火に放り込みます。そして唱えごとをいいながら鬼や疫病神、魔を
追い払おうとします。各地でヤキコガシ、ヤッカガシ、ヤッカガシ
ラなどといっています。

 また、「虫の口焼き」といて、イワシの頭をヒイラギや豆がらな
どにさして火であぶり、つばまで吐きかけ1年間害虫を封じ込めよ
うとする地方もありました。

 臭いものを焼くときの唱えごとは、やはり地域によりいろいろあ
って、静岡県の「ヤーカガシの候。西のばんばァ、東のばんばァ、
しゃらくさい、フフラフー」、「フンクサ、かまって候。蚕千反とか
まって候。米千石とかまって候」(八丈島)などさまざまです。臭
いものを焼いたあと、勝手口にさした後、しまっておいて子どもの
「咳」の薬にするところもあったそうです。

 このようなこっけいなきまり文句は、東海地方から茨城県水戸市
くらいまで唱えられていたというが、いまではすっかりすたれてし
まいました。

 このようにして、悪臭で悪魔を追い払うおまじないは、田畑から
鳥やケモノを追い払う方法にも利用され、やがて「山田のなかの一
本足のカカシ……」と歌われる「案山子」に発展していったのだそ
うです。カカシは、ヤイカガシの「カガシ」だったのようです。

 また、虫の口焼きでイワシの頭をヒイラギ、カヤやヒバなどにさ
したものを「目突き柴」といい、鬼の目を突くということで魔除け
として戸口にさすだけのところも多くあります。

 ヒイラギや豆がらの目突き柴は、いまでも店頭にも売られており、
わが家では毎年これを買ってきては、イワシの頭をつけて玄関にさ
して昔の行事を大切にしています。
(05)

 

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▼ 追 難

 節分には豆で鬼を追い払います。これは疫病を追い払う行事「追
儺」からきています。難はにんべんのない難と同じ意味です。

 中国では紀元前3世紀ごろからあった習俗で、日本には飛鳥時代
ころ陰陽道として渡来しました。慶雲・きょううん3年(706)は
疫病が大流行し、農民が次々にたおれ、あわてた朝廷は大みそか、
土牛を作り鬼やらいしたのが最初です。

 大舎人のうち背の高い物を方相氏という呪師とし、その音頭で鬼
を追いかけます。この行事はもともと大みそかに行われ、モモの弓、
アシの矢で逃げまわる鬼役を射たといいます。

 これがいつか節分の行事と合わさり「節分にあらわれる悪鬼を豆
で追い払おう」ということになり、いまの豆まきの形に変わりまし
た。

 なお、全国の神社仏閣でいまでも追儺、追鬼の式を伝えている所
があります。
(06)

 

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▼目突き柴

 むかし使っていた旧暦はいまの暦とちがい、正月が節分と重なっ
たり、連続してしまう年もしばしばあったという。そのため、長い
間に正月の行事がいつの間にか節分に移ってしまったものが多いと
いいます。

 いま節分に行われている「豆まき」もそのひとつだそうです。そ
もそも「豆まき」は、鬼やらい(追儺=ついな)の行事の一方法。
もともとは大晦日の夜、宮中で行われた悪鬼をはらい疫病を除く、
正月行事だったという。

 節分に行われる行事は「豆まき」のほかに、家の中に悪鬼を侵入
させないため、魔よけの意味でヒイラギの枝にイワシの頭を添えて
戸口にさしたり、糸でつりさげたりする行事があります。これが「目
突き柴」で、鬼や魔物たちに「ヒイラギのトゲで目を突いてしまう
ぞ」と脅かしているのだそうです。

 目突き柴に刺すものは、餅や塩魚、焼き豆腐を使うところもある
そうです。呼び方も地方により「年越しのヒイラギ」、「サシヒイラ
ギ」、「鬼の目突き」などいろいろです。

 なかにはトゲで目を突いて、悪臭を鬼に嗅がせるようとするとこ
ろもあります。その時、鬼が「痛い、臭い」と逃げるというので「ア
イタアンクサ」と呼ぶ地方もあるという。

 この悪臭を嗅がせて鬼や疫病神、悪魔を追い払うのは「焼嗅(や
いか)がし」という行事。豆まきの豆を煎るとき炉の中に臭気の強
いものをくべて悪臭を出し、唱え言をいいながら疫病神や害虫を追
い出そうとします。目つき柴は、この呪法を簡略化したものだそう
です。
(07)

 

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▼豆まき

 「福は内ィオニは外ォォ」節分の夜豆をまいて鬼を追い払う行事
は室町時代からすでにあり「看聞御記」応永32年(1425)1月8日
(節分)の条に「抑鬼豆打事近年」とでてきます。また「臥雲日件
録」の文安4年(1447)12月22日には各家々で「鬼は外」と唱えな
がら豆まきをしたと書いてあります。

 豆まきは節分にかぎらず大みそかに行うところもあちこちにあ
り、いつを1年の境とするのかの相違にすぎません。年の境には祭
りをうけるために年神サマがおりてくる。という。

 ところが年神に寄り集まってゾロゾロついてくる精霊がありま
す。この精霊たちへの供物を豆まきの形にしたのだそうです。それ
が大みそかに行われていた追儺(ついな−鬼やらい)の行事と習合
すると節分には悪い鬼がやってきますから豆をまいて追い払うのだ
となります。

 ここで変わった豆まきを二、三。大阪の旧家では主人が豆打ち役
で跡とり息子は豆男。そのあとからもう1人、「十能」をふりまわ
しながらついてくる男があり、豆男の「福は内」につづけて「ごも
っともサマ……」でとみんなの笑わし役。

 また大名の九鬼家では自分の姓と同じ鬼に「鬼は外」ともいえず
「鬼は内、福は外、富は内」といったといいます。

 年末のすす払いの時豆まきをするところ(青森、岩手)もあれば、
正月7日に行うところ(九州)もあります。
(08)

 

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▼豆占(まめうら)

 農家にとって新年があけると、その年のさくもつの出来不出来が
気になります。まだ気象が発達しないころは、占いで天候を占った
り、その年の気象にあったさくもつの品種を占ったりしました。

 年のはじめに占うこの行事を年占(としうら)といいます。地方
によって粥占(かゆうら)、置炭(おきずみ)、歩射(ぶしゃ)行事、
破魔(はま)打ち、綱引きなどの方法で占いました。いまは神社な
どの神事として残っています。

 節分に行われる豆占(まめうら)も年占のひとつです。この行事
は節分の行事と関連しているらしく豆を使い、それぞれを1年の各
月やさくもつになぞらえ、その焼け方で毎月の天候や稲の出来ぐあ
いを占いました。

 まず、大きさのそろった豆のを12粒選び出し、いろりの灰の上に
ならべます。豆を右から順に1月、2月、3月……として、火にあ
ぶった焼けぐあいを見ます。

 白く灰になった豆の月は、晴れが多い月とし、灰にならないでい
つまでも黒くなってくすぶっている月は雨が多い。早く焼ける豆の
月は干害があるといい、焼けながら息を吹いたりするのは、風の多
い月だとしました。

 また長野県などでは「どんど焼き」火にアズキの入った袋をかざ
して家に持ち帰り、「どんど焼き」の燃え残りの火で、アズキを炒
るという。

 よく育つさくもつや品種を予想して選び出し、アズキをその作物
や品種になぞらえ、各さくもつについてふた粒ずつ炒ります。鍋の
なかでアズキが焼けながら3回グルグルまわれば豊作。1、2回ま
わるのは7、80%のでき、黒こげは凶作なのだそうです。

 豆占は節分の時ばかりでなく、小正月(1月15日)や歳末などに
も行うところもあるという。青森県では暮れの12月27日の煤掃きの
夜を「セツブン」と呼び、豆まきをした所があるという。

 子供たちがその豆をひろうのを「草とり」といい、やはり12粒
の豆をいろりで焼き、豆の焼け方で月々の天候を占うのを「畝なら
し」といったそうです。まさに稲作そのもの。いまのように品種が
発達していなかった昔の稲作づくりの苦労がうかがわれます。
(09)

 

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▼ 立 春

 中国では、冬至から45日目を立春とし、天子は群臣を引き連れ東
方の野辺に出て春を迎え、農作業開始を祝う行事がありました。民
衆も一門が集まり、女性は美しく着飾り、ご馳走を食べたそうです。

 この習慣が日本に渡り、お祝いの前日、節分を年越しと考えまし
た。だから正月は立春にあたります。今でも年賀状に新春、初春と
書くのはここからここから来ているのだという。

 立春は二十四節気の一つ。季節とずれてしまう旧暦には農作業の
目安が必要です。それが雑節で、八十八夜、入梅、半夏生、土用、
二百十日などはみな立春を基準になっていて、それぞれ立春から何
日目、何日目というようになっています。

 太陽の黄経が315度になり、春のはじめであり1年のはじめとも
考えられていました。
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▼ 初 午

 初午は2月の最初の午の日とその日を祭日として行われる神事の
こと。稲荷では京都伏見の稲荷神社や愛知県の豊川稲荷が有名だが、
各地の稲荷神社やそのホコラで初午祭が行われます。

 そもそも稲荷神社は711年(和銅4年)2月の初午の日に帰化人
の秦公伊呂具(はたのきみいろぐ)が伏見伊奈利山の三ヵ峰に社を
建てて祭ったのが起源。また稲荷は稲生(いなり)の意味で農業神
であり、弘法大師が初午の日にすれちがった稲を背負った老人を神
の化現として東寺の鎮にまつったものだともいいます。

 祭神は倉穂魂命(うがのみたまのみこと)・猿田彦命・大宮女命
(おおみやめのみこと)。それがだんだん仏教の荼吉尼天(だきに
てん)と習合。

 玄狐に乗った姿にもとづいてキツネを使者とする考えが生まれた
といいます。初午の早い年は火事が多いという所や2月5日前に来
る年は寝馬とか伏せ馬といい豊年だとか、6日以後なら不作だなと
いう俗信も少なくありません。

 また初午の日に道陸(ろく)神祭や東日本の観音詣、長野県のよう
に蚕神の祭をする所もあります。
(11)

 

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▼目かご

 農山村のお年寄りのいる家では、いまでも2月8日に目かごやざ
るを竿の先に立てているのをみかけます。2月8日と12月8日は、
事納め、事始め(逆の所もある)の「こと八日」で大眼(だいまな
こ)とか、目ひとつ小僧と呼ぶ地方があります。

 昔は、この日はなぜか危険な日として警戒しました。関東地方一
帯では、この夜、大目玉やひとつ目の怪物がやってきて、家の中を
のぞきこむのだと信じられていました。

 この怪物を「ひとつ目小僧さま」といい、目ひとつのおそろしい
姿をしているといいます。怪物にはわざわざ「さま」の字をつけて
呼んでいます。

 この晩、下駄や草履を忘れて外に出しておくと、「ひとつ目小僧
さま」に焼き印を押されてしまい、その持ち主が病気になるといい
ます。

 そこで庭に目かごやざるなど、目の数の多いものを高い竿の先に
つけて立てます。怪物はこれをみて、自分より目の多い者が中にい
るのだと思い、逃げ出すだろうというわけです。西の方ではその竹
かご八日の餅を入れて上げていますが、東京近くではたいていかご
の中は空っぽなようです。

 これからみると「ひとつ目小僧さま」は疫病神と想像していたの
でしょう。奥羽地方越後では、「疫神除け」といって、この日いろ
いろの行事があります。

 信州北部では、トウガラシとかサイカチのさやとか、グミとかナ
スの木とかの、変わった植物を門口で燃やしたり、南の方へ行くと
わら人形を作ったり、または御幣を立てて、コトの神を村境まで送
り出します。「こと八日」のコトというのはこの日の式のことだと
いう。

 栃木県の東部では、一つ目を大眼(だいまなこ)ともいって眼か
ごの数以外に八日塔といって、クマザサで祭壇を組んでその上にそ
ばをそなえます。

  節分と同じょうに、目かごの竿にヒイラギをつけたり、ニラや
トウガラシをいぶして、悪魔を追い払う所もあります。この日は大
切な事の神をまつるため、悪神や鬼を追い払らわなければならない
と考えたものだそうです。
(12)

 

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▼大(だい)まなこ

 2月8日と12月8日の「コト八日」の日を「大(だい)まなこ」
といいます。大まなこを「デェマナク」となまる地方が多い。この
日は物忌みの日で、ヒイラギなどを添えた目かごやざるを、竿の先
につけて庭に立てます。

 関東地方・中部地方ではこの晩、大眼または一つ目の怪物がきて
人里をうかがうという。しかし、庭に立てられたかごの目の数の多
さに、人間の家にはこんな目の多いものがいるのかと、驚いて逃げ
ていくという言い伝えがあるそうです。

 長野県ではネギやトウガラシやサイカチのさや、グミ、ナスの木
など変わった植物を門口で焚いて悪臭を放って追い払おうとする所
や、わら人形や御幣を立ててコトの神を村境まで送る所もあります。
コトとはこの日の式のことだといいます。

 栃木県の東部では目かごのほか、「八日塔」というクマザサで組
んだ祭壇の上にソバを供えたりしたそうです。

 この日にもし履き物をしまうのを忘れて外に出しておくと、怪物
に焼き印を押されて、その主が病気になると言い伝える地方もある
という。

 卯月八日、てんとう花という、先に花をつけた竿をやはり庭に立
てる行事がありますが、これは形式だけは同じ形を伝え、その説明
をあとから変化させたものだそうです。
(13)

 

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▼こと八日(こと始め)

 「こと八日」は、2月8日と12月8日のことで、「こと」はもと
もと祭り・祭事の意味。こと八日は本来、神を迎えたり、送ったり
した祭の日なのであります。

 各地でこと始め、こと納め、八日待といろいろに呼びます。2月
8日をこと始めと呼ぶ所では12月8日をこと納め、また、逆に呼ん
だり、片方に重点をおく所もあります。

 こと八日には、一つ目小僧、一つ目の鬼や疫病神、みかわりババ
アがくるので、家の軒に目かごやざるなど目の多いものを高くたて
たり、戸口にヒイラギ、ニンニク、イワシの頭をさしたり、また、
もちやダンゴを木にさして門口に供えたりもします。

 所によっては農の神が訪れるともいい、神を迎えるにあたり、物
いみするというのがこの「こと八日」の本当の意味のようです。(14)

 

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▼野焼き

 春を前にして野や山、畑、農道、牧草地などを焼く野焼き、山焼
き、広い田園からたなびく煙も風物詩のひとつです。

 このような野焼きは、草の中でも冬を越した害虫を焼死させて一
掃し、灰が肥料になり、芽生えの助けにもなるという。またワラビ
やゼンマイのためによく、昔は早く生えるよう野や山を焼きました。

 いまは芝や牧草がよく生え、また茂るために焼いています。かつ
て私たちの祖先が行っていた原始農業の焼畑式農業も、野焼きの方
法を利用した無肥料農法であるわけです。

 そのその昔のその昔、日本武尊(やまとたける)が野火に囲まれ
てあわやの時、草薙の剣を抜いて襲いかかる火の手を逆に利用して
敵を打ち負かした神話があります。このことは古事記の昔から人々
によって野焼きが行われていた証拠なのだそうです。

 箱根山仙石原の野焼き、奈良の若草山の山焼きなどは有名で観光
化されています。俳句などの春の季語になっています。たき火によ
って発生するダイオキシンがどうのこうので田園のこんな風物詩さ
え消えかかってしまう地球はどこまで汚染されているのでしょう
か。

古き世の火の色うごく野焼きかな(飯田蛇笏)
野火ゆきて萱倒れゆくあはれかな(星野立子)
(15)

 

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▼ 雨 水

 毎年2月20日ころは雨水です。立春から15日目にあたり、太陽の
黄経が330度になります。このころは雪や氷がとけはじめ、またい
ままで降っていた雪も雨に変わる季節の意味。

 これは二十四節気の一つ。昔の旧暦の時代、季節と暦がずれてし
まい、不便なため考え出されたのが二十四節気。それぞれの季節に
ふさわしい名前がつけてあります。

 雨水のころから雨や水もぬるみはじめ、草木の発芽を促します。
農作業の準備もそろそろ始まります。

 雨水から3月6日ころの啓蟄までの14日をさらに三つに分けた七
十二候では第四候(土脈起)、第五候(霞始靆)、第六候(草木萌動)
のころだとしています。陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となる、
とも解説されます。
(16)

 

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▼春一番

 西高東低の冬型の気圧配置がくずれ、発達した温帯低気圧が日本
海を通過すると、強い南風が吹き込みます。これを春一番といい、
気温が上昇した山は荒れ、雪崩を起こして遭難者を出したりします。

 春一番ということばは、もと九州や瀬戸内海沿岸の漁師の間で使
われていたもので、昭和34年(1959)、民俗、生活学者宮本常一が
歳時記に解説して以来、テレビや新聞に盛んに使われ普及、いまで
はすっかり浸透しています。

 春一番というからには、二番、三番があるわけです。サクラの花
の咲くころの強い南風を春二番、散るころの南風を春三番などとい
っています。
(17)

 

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▼うるう年

 1年は厳密には、365、24220日です。この端数の時間は、4年で
だいたい1日になるため、蓄めておいて、4年に1度366日にしま
す。西暦紀元年数が4で割り切れる年をうるう年としています。

 日本で明治5年まで使っていた暦(旧暦)・太陰太陽暦(太陰暦
のひとつ・月の満ち欠けを基準にした暦に季節を調節したもの)は、
月の満ち欠けを基準にしていた暦のため、1年が354日しかありま
せんでした。

 そのため、季節とのずれが生じて農作業などをはじめる時期が分
からず、不便で仕方ありません。それを解決しようと暦を調節する
ため、19年に7回の「うるう月」をおきました。

これは1年を13ヶ月にしようとするものです。正月が2回ある年も
あったといいます。

 うるう年のうるう日がなぜ2月においたのか。それは古代ローマ
の暦法は、1年がマルチウス(3月)からはじまり、フェブルアリ
ウス(2月)に終わるようになっていたそうです。

 そこで年の終わりにうるう日をおいたのがはじまりで、それがい
までも続いているのだそうです。
(18)

 

(2月終わり)

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【3月へ】