「第9章・神具・仏具・用語」

▼目 次

・(1)雨乞い ・(2)絵馬 ・(3)縁起物 ・(4)縁日
・(5)おはらい ・(6)お札 ・(7)お百度 ・(8)お守り
・(9)お神酒 ・(10)神楽 ・(11)鐘 ・(12)五重塔
・(13)ご弊 ・(14)護摩 ・(15)こま犬 ・(16)鈴・わに口
・(17)神仏習合 ・(18)鏡 ・(19)鳥居 ・(20)祭神・ご神体
・(21)廃仏棄釈 ・(22)みこし ・(23)木魚 ・(24)山宮・里宮

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■(1)雨乞い

 農耕生活にとって、水はなくてはならない大切なもの。日照りで
もつづこうものなら、農民はいても立ってもいられません。

 そこで神だのみ。昔はイケニエとしてヤギやウシを、また人間ま
でを神に捧げたりもしました。日本では和歌をつくり、神を感動さ
せて雨を降らせようとしたり、機内の神社に舞いや踊りを捧げて雨
になるのを祈ったことが古文書にみられます。

 古代メキシコのアステカでは、雨乞いの日、頭につむじがふたつ
ある子どもをたくさん殺したそうです。つむじから渦やたつ巻きを
連想したからだというのですが、なんともはやヤバンなことであり
ました。

 雨乞いにもいろいろな型があります。おこもりする型。神水をも
らってきて田畑にまく型。山頂で火をたく型。唄や踊りで神さまを
なぐさめる型。はてはわざと神を怒らせて雨を降らせようとする型
まであります。

 おこもりをする型は、「立ち待ち」ともいい、神社の神前で一日
中立ったまま祈願するもの。一睡もせずにつり鐘をならしたりして
「それ降れ、やれ降れ」と強制し、かみさまを根負けさせようとし
ます。

 もらい水の型は、神聖な池や水源地から水を受けてきて耕地や村
の神社や池にまき、それを呼び水にして雨を降らせようとするもの。
群馬県の榛名山・信州の戸隠山・房総の高宕山・遠く伯耆大山など
雨乞いの水をもらいに行くところは各地にあります。

 山頂で火をたく型は、大たき火の前で笛を吹き、たいこをたたい
て大騒ぎ、雨が降るまで泊まり込みます。千駄焚きとか千把焚き、
雲焙(あぶ)りとも呼ばれます。

 唄や踊りの型は、雷鳴に似たかねやたいこを打ち、雨乞い踊りで
神さまにゴマをすろうというものです。

 神を怒らせる型。神聖なものを冒とくしたり、聖池をわざと汚し
たり石や釣り鐘を放り込んで水神を怒らせて雨を降らせようとする
チャッカリ型。ときには地蔵さまをしばったり、神社にイタズラし
たりもします。神奈川県丹沢塔ノ岳の尊仏岩や、南アルプス北岳の
登山道にある白根お池、山梨県市川大門町(いまは市川三郷町)に
ある四尾連湖(しびれこ)などもこの形の雨乞いが行われたところ
です。

 このように神さまをなだめたり、すかしたり、怒らせたりしよう
と、人間のサル知恵に、神さまもさぞかし苦笑い。少し降らせてや
るか…… となるワケです。

 

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■(2)絵 馬

 受験のシーズンになると、神社やお寺は、希望校の名前を書いた
絵馬で埋まります。絵馬には小絵馬と額絵馬があるのだそうです。

 小絵馬は奉納者の性別、姓名、年齢、奉納年月日を書き、祈願の
内容を書きます。素朴な民間信仰がもとになっていて、もとは馬や
地蔵、天狗など神仏の像、また神仏の持ちもの、剣、宝珠、さらに
キツネ、ウナギなど神仏に関係のあるお使い、その他、眼病、乳し
ぼりなど願かけの内容を書いたものだそうです。

 次の額絵馬は専門の絵師に書いてもらうもので、病気回復祈願な
どではなく、社寺の氏子や信者が神仏に加護を祈り奉納するという。
絵馬堂や拝殿に掲げられます。

 これは中世以降次第に大型化してきたといい、社殿参詣図や境内
図、武者絵、船主が航海安全を祈り船を描いたものもあります。

 さて、馬は、精霊馬・道祖神送りの馬・産神迎えの馬などで登場
するように、古来から神の乗り物と考えられてきました。かつては
神への祈願がかなったときは、神の乗り物である生きた本当の馬を
神社に奉納していたものらしい。しかし馬は高価でどうも負担が大
きすぎます。

 そこで生きた馬のかわりになるものをつくるという考えがでてき
ます。沖の島遺跡から滑石製の馬形がたくさん出土しています。さ
らにもっと簡単な方法で、馬の絵を描いた板を奉納するようになっ
たのではないかといいます。

 さらには、馬に神への供え物を運んでもらおうともします。山形
県小国町のある家では、鎮守まいりの時は馬の形をした神に供

物を包んで持っていく風習があったという。まさにその一例です。

 こうした形が発展して「供物」が「願い事」に変わり、馬に神の
もとへ運んでもらおうとなります。そうして現在のような絵馬にな
ったのだというのです。

 絵馬を神社に奉納するという風俗は、すでに平安時代からあった
といい「類聚符宣抄」という本の天暦2年(948)5月に「降雨
祈願のため黒毛馬二頭を貢納すべきところ、繋飼料(エサ代)がな
いので板馬にせよ」と載っています。いつの世も予算不足でタイヘ
ンなのですね。

 

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■(3)縁起物

 神社やお寺のお祭りのとき、境内で縁起物といって熊手やまねき
猫などを売っています。縁起というのは、本来、因縁などと同じく
仏教の教理から出たもの。神社やお寺の由来をしるした文書を「…
…縁起」と題して、これらを縁起モノといっていたという。

 それが室町時代あたりから「もののきざし」を意味する語になり
「縁起をかつぐ」「縁起がよい」などというように使われだしまし
た。そうなると商人や芸人は、神棚のほかに縁起棚をつくり、縁起
直しにいろいろなものを飾り、おまじないなどするようにもなり、
日本人に深く入りこんできます。

 さらに神社やお寺の参拝日・縁日には、おもちゃに似た呪物(じ
ゅぶつ)を売ることが盛んになり、いまではそれを由来書とは別の
意味で「縁起物」といっています。

 縁起物で有名なのは東京・浅草の鷲(おおとり)神社の熊手やお
多福面。毎年11月の酉(とり)の日の「酉の市」に売り出され、
とくに客商売の参詣者がもとめていきます。

また安芸(あき)の宮島(広島県)の杓子(しゃくし)、大阪市道
場町の神農さん(少彦名神社)の笹につけた厄病除けの張り子の虎、
奈良法華寺のお守り犬などがあります。その他、達磨(だるま)・
招き猫・撫で牛なども売られています。

 

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■(4)縁 日

 縁日に神仏にお参りすれば、特別のご利益があるといい、寺社は
にぎわいます。それを目あてに市がたち、かつては見世物小屋も立
ってもりあげたという。

 縁日とは、神仏の降誕日とか示現日、また神社やお堂の創建のよ
うな、この世に縁をもつ日、または衆生が特定の神仏に縁を結ぶ日
のことだという。むつかしくいえば神仏との有縁日、結縁日の義と
いうことになるそうです。縁日には、お寺の本尊や境内仏を公開す
る所もあります。

 縁日はすでに平安時代からあったらしく、「今昔物語」に「きょ
うは十八日、観音のご縁日なり」と出ています。さらに鎌倉時代中
期の「古今著聞集」には「十五日、十八日ハ阿弥陀、観音ノ縁日」
あります。

 縁日には、縁起伝説伝説によるもののほか、開山開宗の祖師が月
の何日ときめたもの、単に十二支によるものがあるそうです。縁日
のおもな日は、8日の稲荷、10日の金比羅、12日の薬師、13
日の日蓮、15日の阿弥陀や妙見、18日(または19日)の観音、
21日の大師(空海)、24日の地蔵、25日の天神(官公)、28
日の不動のほか、子(ね)の日の大黒、巳(み)の日の弁天などが
あります。

 

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■(5)おはらい

 お宮参りや七五三などのとき、神社で「おはらい」をうけます。
おはらいは祓(はら)いと書き、祓えともいい罪や穢(けが)れ、
災厄を除くために行います。昔流では「はらひ」とか「はらえ」と
いい、罪やけがれを払って心身を清めます。

 「はらひ」は「はらふ」(他動四段)の連用形の名詞化で、みず
からすること。「はらへ」になると「はらふ」(他動下二段)の連用
形の名詞化で、人をして科せしめることになるのだそうです。

 日本神話で、伊弉諾尊(イザナギノミコト)が黄泉(よみ)の国
で死のけがれにふれ、筑紫の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小
戸(おど)の檍原(あはぎはら)で、禊(みそ)ぎ祓いをして身を
清めます。

 一方、素戔嗚尊(スサノオノミコト)は神聖な神事を邪魔をし、
千座置戸(ちくらおきど・台に乗せた多くの罪の償いもの)を科せ
られて追放されます。穢れと罪を祓う最初の記録だそうです。

 この祓いの料として償いものを神に供えるなごりは、いまもお祓
いの時サカキの枝のご弊にたらした麻のシデの形になって残ってい
るそうです。

 お祓いの方法には水を使用する禊ぎと、祓麻(はらえぬさ)で祓
う方法に分けられるという。いずれも罪穢(けが)れを地下の世界
である「根の国」、「底の国」に追いやろうとするのだそうです。嫌
なことを「水に流す」というのは祓えの思想だといいます。

 6月と12月の末日や特別に罪穢れにあった時行うものに「大祓
え」があります。これには人形(ひとがた)や茅の輪などを用いま
す。6月の大祓えは「夏越しの祓え」。その他、巳日(みひ)の祓
え・万度(まんど)祓え・六根清浄祓えなどがあるそうです。

 

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■(6)お 札

 お寺や神社でお札をもらいます。お札は護符(ごふ)の一種で、
お守り札のこと。神棚や仏壇に納めたり、門口や柱に貼って神や仏
の加護を願うわけです。お願いする内容は、火難、虫除け、開運、
家内安全から交通安全までいろいろです。

 また、「蘇民将来(そみんしょうらい)之子孫也」と書いたお札
もあります。これは蘇民将来が神(牛頭天王ともスサノオノミコト
だとも)に一夜の宿を提供したので、茅の輪を貰い、子孫が災害か
ら免れるという話に由来しており、これを貼る地域も多い。

 お札は中世以降、紀伊熊野神社の御師(おし)をはじめとし、有
力な社寺の御師や先達(せんだつ)が、諸国を回って効用を説き広
めたらしいという。

 お札のもとは、祈祷のために読経の回数を書きつける「巻数(か
んず)」というものだといわれます。もともと神符とか霊符・宝印
とかいうものは仏教系統に属していたという。はじめは望まれてか
らつくる注文品でしたが、いつか既製品になりいまでは大量に用意
されています。

 時代が経つにつれ、お札を出すのは神社が中心になり、次第に神
符、神札とよぶようになっています。いま「神符」といえば肌身に
つける小形のものをいい、お守りと呼ばれています。一方「神札」
は、柱に貼りつけたり神棚に供えたりするやや大きいものをいい、
ふつうお札といっています。

 

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■(7)お百度

 おばあさんがよく「お百度をふむ」などといいます。百度参りと
もいい、神仏に祈願のため、一定の距離をはだしなどで100回往
復して祈願します。受験シーズンになると、家の近くの神社でとき
どき子どものためにお母さんが、「お百度」をふんでいるのを見か
けたりもします。1日に100回も祈願することで身体を苦しめ、
神仏に願いを聞き入れてもらおうというわけです。

 「永昌記」、「中右記」などの本に、賀茂や春日の百度参りの記事
があります。平安時代には京都の発展に伴って社寺参りが流行。次
第にお参りした数を競争するようになって、貴族・市民の間でお百
度参りが発生したという。なかには百社詣で・千社詣で・千度参り
(お千度)というのもあらわれるしまつ。

 お参りした数を間違えないよう、小石や小枝を100ほど用意し
て拝むたびのひとつずつ置いて来るという素朴なやり方や、竹べら
を移しながら数えるもの、そろばんに似た形の道具がおかれている
場合もあります。

 鎌倉時代の「吾妻鏡」には、奥州追討の祈願に、女房たちを「鶴
岡八幡宮」に百度参りをさせた記述もあります。お百度参りは江戸
時代には大いに流行したそうです。

 

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■(8)お守り

 神社やお寺のお守りを身につけて悪霊や邪霊から防ごうとしま
す。交通安全や厄除けなど多方面にわたることは、お札と同じです。

 そもそもお守りは、髪や骨、石、鏡、剣など、神秘的な力が宿る
とされるものを用いていたものと、神職や僧侶が作ったものを、神
前・仏前で祈願、霊威を分け与えて配布する場合があります。

 いま、ふつうのお守りは、神職たちの作ったもの。お守り袋に入
っていて腰などにさげたりします。かつてはお守りは竹の筒の中に
入れ、両端にふたをしてひもをつけた「筒守」(つつまもり)とい
うもので、外出する時は傘などに結びつけたりしたそうです。また
セマモリ(背守り)といって子どもの背中に背守り袋をつけるつけ
たりしたという。

 和歌山県の淡島神社から頒布される「守り雛」は、小さな立ち雛
ですが、武運長久・海上安全のお守りとして知られています。

 もともと、悪霊から身を守るためという、消極的なものだった「お
守り」も、時代の流れとともに、商売繁盛、延命長寿、合格祈願、
はては株で儲かるようになどと積極的に働きかけるようになってい
くのでありました。

 

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■(9)お神酒

 神社にお神酒(みき)を供えます。本来、神酒というのはその年
の新穀を醸すのが正式なやり方で、それを担当した頭屋が酒のでき
の善し悪しに苦労したものとあります。

 お神酒を神や天皇に供えたことは「日本書紀」や「万葉集」など
に記載されています。神酒、御酒(みき)、大神酒(おほみき)な
どとも書かれます。「おほ」も「み」も美称をあらわす接頭語。た
だただ有り難くもったいない酒なのであります。

 いまお神酒といえば清酒を供えますが、もともとは「にごり酒」
のこと。白酒(しろき)と黒酒(くろき)があり、黒酒は常山(く
さぎ)の灰を入れて作るのだそうです。 また白酒・黒酒の代わり
に清酒とにごり酒をあてることもあるという。時には醴酒(こさけ
・一夜酒も)もお神酒として供えられることがあるという。伊勢神
宮の祭祀(さいし)には昔からこの白酒と黒酒が供えられています。

 酒は元来、神と人との交歓を円滑にするために飲まれたもの。ひ
とつのかめで醸した酒を神に献じ受けることで一体感を深めたとい
う。

 いつか、近所の神社で高校生がたむろしていました。その中のひ
とりのロレツがまわりません。へんだなと思いよくみたら、神社に
あげてあったらしいワンカップのお神酒が3つばかり空になって転
がっていました。神様と一体感を深めたな!

 

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■(10)神 楽

 天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸に隠れたとき、天の
岩戸の前で、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が神がかりして空
き樽の上で踊りだしました。「古事記」、「日本書紀」でおなじみの
「天の岩戸伝説」が神楽の起源だという。

 神楽は神座(かむくら)がなまったものといいます。招魂、鎮魂、
清め、祓いなどのため神前で行う舞楽。これには宮中の御神楽と、
民間の里神楽がありますが、この本は、あくまでも民間路線。民俗
・土俗いっぽんやりです。

 民間の神楽は全国各地に分布し、その内容も多種多様です。形態
により4種に分類する研究者もいます。

 巫女(みこ)神楽=神に仕える巫女が舞うもの。手に鈴や扇、ま
たはサカキなどの枝を持って順めぐり、逆めぐりに旋回して舞いま
す。もとは巫女が神がかりする前に舞う清めの舞いでしたが、いつ
か洗練され様式化したものといわれます。

 出雲流神楽=島根県鹿島町佐太(さだ)神社で行われる七座の採
物舞いと神能(しんのう・仮面の舞い)の型。神話や神社の縁起を
能風に仕組んだ余興的な仮面の舞い。

 伊勢流神楽=伊勢神宮で行われる湯立て神楽が代表的。湯釜にた
ぎらせた湯を振りかけることによって、けがれを清めようとする呪
法を神楽に取り入れたもの。

 獅子神楽=権現としての獅子頭を回しながら悪魔はらい、火伏せ
などを祈祷。山伏神楽、番楽(ばんがく)、太(だい)神楽はこれ
に入るのだそうです。

 

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■(11)鐘

 一口に鐘といっても、お寺の鐘楼の大鐘(梵鐘・ぼんしょう)・
仏堂の軒に吊された喚鐘(かんしょう・半鐘)・堂塔の軒の角に下
げる風鐸(ふうたく)などがありますが、ここでは、あの「ゴーン
ンンン」という除夜の鐘の梵鐘のお話です。梵とは梵語で神聖とか
清浄の意味だという。

 梵鐘(ぼんしょう)は、ただ「カネ」とか「ツリガネ」とも呼ば
れ、突く時は鐘楼につりさげた撞木(しゅもく・突き棒)を用いて
ならします。青銅でつくられていて普通の大きさは高さ1.2〜1.
5m、直径約60センチ前後。上端にあるつり鐶(かん)を竜頭(り
ゅうず)と呼んでいるそうです。

 上の方にあるボツボツは飾りではなく、乳(ち)の町といって音
響効果をよくする働きがあるのだそうです。下の部分に突き棒で突
く部分の鐘座を2ヶ所つくり、そこを十字になるように模様をつく
ってあります。それを「袈裟襷」(けさだすき)というそうです。

 その様式で和鐘、朝鮮鐘、シナ鐘にわけられ、なかでも朝鮮鐘が
好まれ古くから輸入されていたといいます。鐘は元来、民衆を呼び
集める合図につかわれうものでしたが、後には時刻を知らせる目的
で鳴らされました。

 日本で一番古い鐘は京都右京区妙心寺のもの。もとは嵯峨浄金剛
院のあったもの。698年(文武天皇2)の鋳造だそうです.

 

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■(12)五重塔

 お寺で五重の塔が目立ちます。五層建ての仏塔で、普通木像だが
石でつくられた小さなものもあります。

 仏塔は古代インド語のストゥーパの音訳・卒塔婆(そとば)、塔
婆(とうば)の略した物で、もともと仏陀の霊をまつった廟(びょ
う)だったといいます。ストゥーパは墳墓の形をあらわし、円筒形
の台基の上に墳丘をかたどった伏鉢(ふくばち)があり、その頂き
に平頭(へいとう)と傘蓋(さんがい)を受ける傘竿(さんかん)が
たてられます。

 仏教がインドから中国に伝わり、台基が楼閣に変化、伏鉢・平頭
などが相輪(そうりん)に発展していきます。そして楼閣も三重や
五重につくられはじめました。

 日本にいまある最古のものは、奈良・法隆寺の五重の塔。中心の
心柱(しんばしら)は根元が地中に掘り立てられているそうです。
最大の五重の塔は京都・東寺のもの。高さが55.7mもあるそう
です。

 三重の塔や五重の塔だけでなく、七重の塔、九重の塔もあるそう
で、なかには十三重の塔もあるとか。こうなれば数で勝負でありま
す。

 五重塔の頂上を飾る相輪の部分を「九輪」といいます。サクラソ
ウ科の野草「クリンソウ」は初夏、太い花茎を中央から出し数個ず
つ何段にも花を輪生し、そのさまが五重塔の九輪に似ているためそ
の名がつけられたそうです。

 

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■(13)ご 幣

 道路や山道のわきの小ホコラにも、ご弊があがっています。山歩
きのたびに、「何んだんべェ」と思っていました。

 ご弊は、幣帛(へいはく)、幣束(へいそく)に御をつけて敬っ
ていったもので「みてぐら」・「ぬさ」・「しで」・「にぎて」などの呼
び方があり、弊という漢字は財物を献ずるという意味があるそうで
す。

 御幣・幣・幣帛はいずれも「みてぐら」と読むそうで、語義は、
手に持って捧げる御手座(みてぐら)、また、絹織物の御妙座(み
たえぐら)、さらにたくさん供えることの充座(みてくら)などの
説があるそうです。

 だから、ご弊はもともと神へ奉納する物でしたが、次第に神が降
臨する依代(よりしろ)として、またご神体としてまつられるよう
になりました。結婚式で供える玉串も、もとをただせば、「みてぐ
ら」の変形したものといいます。

 ふつう見られるご幣は、紙か布帛(ふはく)を串にとりつけた形
が多い。厄神には赤い弊(ぬさ)、大がかりな祭りには五行思想の
影響で5色の弊をつけたりするという。土地により神によりさまざ
まな様式があるそうです。

 

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■(14)護 摩

 護摩(ごま)は真言宗の秘法のひとつで、不動明王や愛染明王な
どの本尊を安置し、その前につくった護摩壇で護摩木を焚(た)い
て祈ります。これは、密教で知恵の火で煩悩の薪(まき)を焼きつ
くそうとする修法だという。

 護摩はサンスクリット語のホーマで、焼くとか焚くの意味からき
た言葉だそうで、インドバラモン教の祭祠(さいし)法。もとは供
物(くもつ)を祭壇の火の中に投げ入れ、火天アグニの手で火災に
なって天に昇り、天の神々の口に達し、それにこたえて神は人間の
願望をかなえてくれるとの信仰に基づいて儀式。

 護摩には法が外護摩(げごま)と内護摩(ないごま)の2種ある
という。外護摩、は壇の前の炉に護摩木や五穀の供物を焚く形式(事
護摩)、内護摩は、自分の煩悩を仏の智火で焼き尽くし浄菩提心を
成(じょう)使用とする形式(理護摩)です。しかし、外護摩でも
仏と行者とは、平等の観に住するので、外護摩はただちに内護摩に
一致するという難解な相伝なのだそうであります。

 また、その目的から、息災法、増益(そうやく)法、調伏(ちょ
うふく)法、敬愛法それに鉤召(こうしょう)法があり、天変地異
を消滅し煩悩を除去するとか、地位福徳を増進し菩提心の福と智を
増進するなど、それぞれにムツカシイ理由がならべられています。

 

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■(15)こま犬

 神社の鳥居の両わきに、社殿の前にこま犬が置かれています。ふ
つうは神社にあるものですが、お寺にある場合もあります。

 こま犬は獅子(しし)に似た像で、狛犬、胡麻犬とも書かれ、そ
の昔、高麗の国から伝来したので「高麗犬」の意味だという説もあ
ります。また魔除(よ)けとして置かれているので拒魔犬の字も使
われます。

 こま犬は、向かいあわせになっていて片方は口を空き、もう片方
は閉じるという阿吽(あうん)の一対となっています。しかし、両
方とも口を開けているもの、閉じているものなど例外もあるようで
す。

 こま犬の起源はペルシャやインド。日本に伝来し人々は妙な動物
に目を白黒。結局、高麗の国の犬だろうということで落ち着いたよ
うです。いまはこま犬は獅子ということになっていますが、「禁秘
抄」という本によれば、平安時代の清涼殿の御簾(みす)や、几帳
(きちょう)の裾に、鎮子(ちんし)として口の開いたのを「獅子」
として左に置き、口が閉じ頭に一本角を生やした「こま犬」右にを
置いたとあり、当時はこれらを区別していたようです。

 こま犬は石でつくられたものがふつうですが、木製のものや金属、
陶製のものあるそうです。国の重要文化財に指定されているものも
多く、木製では東京都府中市の大国魂(おおくにたま)神社など、
石造では京都市左京区の由岐(ゆき)社など、陶製では千葉県佐原
市の香取神社などがあるそうです。

 

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■(16)鈴・ワニ口

 お寺や神社に参拝するとき、なげしや梁(はり)からたれさがっ
た布なわで、大鈴やわに口を鳴らしてから神さまや仏さまに手を合
わせます。鳴らし物のひとつ。

 鈴とは、江戸後期の国語辞書「和訓栞(わくんのしおり)」には、
すんだ涼しげな音からついた名と出ています。鈴の音には悪魔を払
う力があると信じられ、神事の祭の道具としても使われたそうです。
それがさらに魔除けの装身具として発達。手や足につけたり鏡など
にもつけたりもしたという。これは古墳時代のハニワの土人形に見
られます。

 またわに口は、金口(こんく)・金鼓(こんく)・打ち金などとも
いい、雅楽に使う鉦鼓を(しょうこ)をふたつ合わせたような扁平
な円形で、下の部分がワニの口のような裂け目が上方両端の丸い目
まで裂けています。

 中は空洞で、前の垂らした綱で中央の撞き座を打ち鳴らします。
その裂けた口がまるでワニのようなのでその名があるという。朝鮮
の禁口というものに関連あるものと考えられていますが、起源につ
いてはイマイチはっきりしないという。

 一番古いわに口は、長保3年(1001)の刻名があるのもので
長野県松本市から出土、次いで奈良県長谷寺の長久3年(1192)
の銘があります。いずれも鋳銅。

 銘文には金・金口・金鼓などと記したものが多く、鰐口とあるの
は陸前大高宮の正応6年(1293)のものが最初だそうです。

 

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■(17)神仏習合

 仏教はかなり古い時代から朝鮮半島から伝わっていて、渡来人を
中心に信仰されてはいたという。しかし公式には552年(欽明天
皇13)、百済から伝えられたのということになっています。

 この仏教に日本に以前あった神道はなんらかの形で調和をはかろ
うとします。最初は、仏は番神・他神・仏神・他国神などと呼ばれ
ていましたが(「日本書紀」)、伝来当初から神仏の接近はすでにお
こっていたという。

 また、多神教的性格をもつ神道は仏教と衝突をすることは少なく、
むしろ積極的に取り入れていたという。仏教を厚く保護した推古天
皇の「神祇(じんぎ)を祭り祀(いわ)うこと、豈(あに)怠りあ
らんや」との記述が「日本書紀」にもあります。また646年、大
化改新に貢献した中臣鎌足も神祇伯から仏教の信者にもなり、仏教
・神道は合致するものとしていたという。このように伝来当初から
飛鳥時代を通じ神仏は、接近調和の過程をたどります。

 奈良時代になってもますます緊密になっていき、神前で読経(ど
きょう)や写経がふつうに行われ、日本の神は仏教に帰依(きえ)
し、修行したがっているとして神社の中に神宮寺を建てたりもしま
した。

 平安時代になると、神を「権現」という号で呼ぶ本地垂迹説(ほ
んじすいじゃくせつ)まであらわれます。これが神仏習合で、神仏
混合とも神仏混淆(こんこう)とも書かれます。

 本地垂迹説は仏や菩薩が、衆生(しゅじょう)を救うために神に
姿を変えて日本に現れるという思想。つまり仏(本地)が神(垂迹)
になってあらわれるという考えです。たとえば八幡大菩薩という神
(垂迹)になっているのは、阿弥陀如来という仏(本地)だと定め
ます。また、伊勢大神の本地は大日如来だとしています。

 本地垂迹説の文字が最初にあらわれるのは石清水(いわしみず)
八幡宮所蔵の文書の中の承平(しょうへい)7年(937)10月
4日付けの太宰府牒(だざいふちょう)のなか。筥崎(はこざき)
宮、宇佐宮の祭神に関して「権現菩薩垂迹」とあるのがそれ。

 鎌倉時代には神社の祭主や禰宜(ねぎ)が出家をしてお寺を建て
るような者まであらわれます。しかしなかには「日本は神国なり」
とか、仏を本地とする本地垂迹を逆にして神を本地にする「神本仏
迹」説もあらわれてはいたようです。しかし、全体的には神仏の関
係は教理的にもますます親密になっていったという。

 江戸時代、幕府が儒学を奨励、ことに宋学を推したことから神仏
の関係は急変、仏教排斥の気運が高まります。その陰に当時の神道
家の林羅山や平田篤胤・本居宣長などのあったといわれています。
そして明治初年の神仏分離令につながっていきます。

 

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■(18)神 鏡

 神社にご神体として鏡がまつられています。日本神話で、天照大
神(あまてらすおおかみ)が天の岩戸にかくれて世の中が暗闇にな
った時、思兼命(オモイカネノミコト)が伊斯許理温度売命(イシ
コリドメノミコト)のつくった鏡を岩戸のなかに差し入れて天照大
神の出現を願ったという。

 また天照大神が孫ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)を大八洲(おおや
しま)の国につかわす時この鏡を渡し、専らこの鏡をわが魂として
わが前にいつくがごとく、斎(いつ)きまつれと勅したと「古事記」
や「日本書紀」の説話にあり、八咫鏡(やたのかがみ)としていま
も伊勢神宮にまつられているとされています。

 鏡は物を映すという神秘感から古代より神聖視されたという。そ
の光沢から魔を払い、妖怪変化の正体を映し出すといいます。山岳
修行者も背に鏡をかけて入山したそうです。年月を経た獣が人間の
姿に化けていても、鏡はすぐその正体を暴いてしまうため、化け物
も近づくまいというわけです。

 鏡は、ガラスが発明されるまでは金属製でした。しかも貴重品、
鏡研師(とぎし)がくもりを研き、庶民には手が届かぬ品。人々は、
水面に姿を写す水鏡でありました。鏡池などという名で伝説に残っ
ています。また岩を研いて姿を映したという鏡岩、鏡石もあちこち
にあります。

 

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■(19)鳥 居

 鳥居も神社にはなくてはならないもの。社の入口を示す門です。
鳥居とは古代インドの塔のかこむ垣(かき)の門・トラーナからき
ているという説があります。2本の柱の上にしめ縄を渡したしめ柱
がそれだという人もいます。

 また鳥居の語源は、「とりい」は「通り入る」のなまったものだ
という。また鶏が止まる意味だとして「鶏栖」の文字をあてて鳥の
居るところと説明するもの(「倭名類聚抄」の説)、門居(かどすえ)
から転化したものだという説もあります。

 日本では、日本神話にある天照大神が天の岩戸に隠れたとき、岩
戸の前に木を立てて常世の長鳴鳥をとまらせて鳴かせたのが鳥居の
はじまりともしています。

 その他、中国の華表が原型だとも、朝鮮の紅箭門、満州やボルネ
オの門などの関連づける説もあり、いろいろな説がゴッチャゴチャ
です。

 鳥居の最初の記録は、771年(宝亀2)の太政官符だといいま
すが、これは偽物だという説もあってイマイチ信用できません。平
安時代の「延喜式」には鳥居の制式を定めてあります。

 鳥居は神社のほか陵墓や一般の墓、一部の寺院にも鳥居があった
りするのを見かけます。わが家に近い千葉県市川市にある日蓮宗中
山法華経寺の荒行が満行になった時にでてくる門は鳥居形でしめ縄
まで張ってあります。

 鳥居は、2本の堀立柱とその上に笠木を横にのせ、その下にもう
一本貫と呼ばれる横棒からなっています。神社によって形にそれぞ
れ特徴があります。

 神明鳥居は、2本の垂直の掘立て柱と笠木、貫の4本の丸太だけ
でつくられているもっとも素朴な鳥居です。

 鹿島鳥居は、貫の両端2本の柱と外に突き抜けていて「柱外」の
部分ができていてくさびが打ち込まれています。その他八幡鳥居、
明神鳥居、春日鳥居、住吉鳥居、宇佐鳥居、山王鳥居、稲荷鳥居、
靖国鳥居、両部鳥居、大神(おおかみ)鳥居、三輪鳥居などがあり
ます。

 

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■(20)祭神・ご神体

 神社にはふつう複数の神がまつられています。最も中心となって
いる神を主神とか、主祭神といい、ほかの神を相殿神(あいどのか
み)といっています。

 祭神には「古事記」や「日本書紀」に出てくる神々のほか、歴代
の天皇、歴史上の偉人たちがなっているようです。

 しかし、実際の人間を祭神としたのは明治以後のことだという。
その他の神々も古い文献では必ずしも祭神となっているわけではな
く、平安時代の「延喜式」(えんぎ)の「神名帳」にある3132
座の祭神もほとんどが地名をもってする地神(じがみ)だという。
元来、まつる神というのは地域の守護神だったり、氏神であったよ
うです。

 ご神体は神殿の奥深くまつってある神聖な物体をいっています。
昔は岩や石、樹木、高山などを神とし崇拝しました。神社建築が発
達するにしたがい、鏡や玉、剣や鈴のほか弓、矢、剣、釜、枕など
も用い、木札に神名を書いて神体にする場合もあります。

 全国で一番にまつられる神さまは誰でしょうか。それは全国で一
番多い神社は稲荷神社、そのためその主祭神の倉稲魂命(うかのみ
たまのみこと)が最も多くまつられている神ということになるわけ
です。

 

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■(21)廃仏棄釈

 仏教伝来以来つづいてきた神仏の習合も、1868年(慶応4)
に出された「神仏分離令」で終わりを迎えます。仏教伝来以来、培
われた神仏の親密な関係も終止符がうたれます。

 幕末、強くなった国学、儒学者は仏教を異端視し、邪教視して神
道の国粋性を高揚しようとします。この仏教排斥の思想が下敷きに
なり、維新政府は宗教政策を施策、仏教を神体とすることの禁止な
どの「神仏分離令」を布告しました。

 分離令が出ると「政府は仏教廃止を決定した」などというウワサ
が広がり、廃仏棄釈の嵐は全国に広がりました。とくに「敬神廃仏」
思想の強かった「水戸学」や、平田篤胤の影響が強かった藩は神道
国教の主張が強く、こぞって仏教排斥(はいせき)に傾き撞鐘・半
鐘・鰐口などを大砲の材料にされたという。

 さらに林羅山・藤原惺窩(せいか)・熊沢蕃山(ばんざん)らの
思想が追い打ちをかけます。お寺は焼かれ、経巻は破られ、仏像・
仏具はたたきこわされ、隠岐の島などは全島のうち、ひとつの寺も
残らなかったといいます。まるでどこかで聞いた「文化大革命」の
ような暴動です。

 あわてた政府は、神仏分離の実施には慎重を期する通告を出しま
が、一度火のついた廃仏棄釈の勢いはとまらず、苗木・なえぎ藩(岐
阜県)や富山藩や政府の直轄地では地方官までが通告を無視、18
74年(明治7)ごろまで騒動はつづきました。仏教にとってはた
いへんな法難だったわけです。

 

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■(22)みこし

 お祭りに「みこし」はつきものです。漢字で神輿と書き「しんよ」
とも呼ぶという。

 みこしは神が祭りの場所に渡御(とぎょ・おでまし)したり他の
所へ移動するとき、ご神体または御霊代(みたましろ)が乗る神座
のことだという。神社を小型にした形で、神紋や鳥居、高欄などを
とりつけ、4角形から6角形、8角形の豪華なものまであります。
屋根の上には鳳凰(ほうおう)または葱華(そうか)を立てていま
す。

 原型は、昔の絵巻などにある鳳輦(ほうれん・屋根に鳳凰のある
天皇の乗り物)だといわれます。749年(天平勝宝1)奈良・東
大寺大仏建立の際、大分県の宇佐八幡の神霊を迎えた紫色の輦輿(れ
んよ)が、みこしの最初の記録だといいます。

 もともと神霊の巡行は深夜に行われるものだったという。平安時
代になると京都あたるでは昼に祭りが行われ、一般化します。昼の
祭りが多くなると見物人が多く集まり、見る祭り・見せる祭りへ変
化。いきおい神幸の行列もきらびやかになり、中心である神霊の乗
り物にみこしを使用するようになったと考えられています。

 みこしは街を練り歩き、もみ合い振り立てます。これは神の威力
を見せつける意味と、みこしかつぎの特権をあらわしているという。
そのもとは平安末期、僧兵たちがみこしをかついげ入京、朝臣を恐
れさせたことに由来しているそうです。

 みこしが海の中に入る祭りも多いですが、これは禊(みそぎ)ぎ
の行事と結びついたものという。最近は女性がかつぐみこしがあっ
たり、人手不足のためトラックに乗せて走るところもでてきました。

 

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■(23)木 魚

 山寺でポクポクポク……とくれば木魚です。竜の形のものもあり
ますが、もとは文字通り魚の形だったという。魚は昼も夜も目を開
けているところから、不眠勉学をさとし、怠惰をいましめたものだ
そうです。そういえばお経は眠気をもよおすものなァ。

 クスノキなどを材料にして、球形の内側をくり抜いて空洞にし表
側の一部に、魚のうろこの彫刻を施してあります。それを小さな布
団の上に置いて、先端に布をまいた棒で打ち鳴らします。

 中国では北宋(9〜10世紀)にはすでに魚形のものがあり、細
長く木魚鼓(もくぎょく)、魚板、魚?(ぎょほう)などと呼んで、
人々を集めるとき鳴らしたという。明の時代になると丸い形の魚に
変わり、さらに一身二頭の円形竜頭になり、お経をとなえるときに
使われるようになります。魚形から竜形になったのは「魚が化して
竜になる」という古い故事からきているようです。

 日本では室町時代のものが残っていて、当時から使われていたら
しいですが、江戸時代前期の承応年間(1652〜55)、黄檗(お
うばく)禅の渡来とともに、隠元(いんげん)和尚が持ち込んだと
いう説もあります。

禅宗・天台宗・浄土宗などが使用しています浄土宗では一時宗義に
反するという理由で禁止されていたそうですが、現在は念仏を唱え
る時になくてならないものになっているそうです。いまは木魚と魚
鼓や魚板は区別し、魚鼓は行事や儀式の合図に使っています。

 

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■(24)山宮・里宮

 ひとつの神社で、山の上と人里の2ヶ所にお宮があります。山宮
(奥宮)と里宮です。里宮は大きな社(やしろ)で、山上や山腹の
山宮は祠(ほこら)だったりすることが多い。

 宮とは御屋(みや)、社は屋代(やしろ)でともに神をまつって
ある所。祠は神庫(ほくら)から転じた小さな社のことだそうです。
山宮・里宮は土地によって、春宮・秋宮、下社・上社、前宮・本宮
と呼ぶ所もあります。

 ふだん山の上にいる神が、春になると里におりて田の神になる。
秋、また山に戻るという信仰から、神聖な山の上に神がおりその神
を日常的に礼拝するため、人里にむかえまつったのが里宮だという
説があります。つまりいちいち山の上に行くのはシンドイ。もっと
簡単にお参りできる里にお宮をつくろうじゃないかというわけで
す。

 一方、村人の生活の場でまつられていたものが、神は天上から降
りてくるという考えから、次第に生活中心である里から離れた山上
や山腹にまつられるようになったのだという説があります。

 しかし神社の成立上から見て、はじめに人々の生活の場でまつら
れていた社(やしろ)が、山上にまつられるようになったというの
が定説になっています。

 

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参考文献