■(1)井戸神
いま都市ではめったにみかれられなくなりました汲み上げ井戸。
それでも農村部へ行くと自家用ポンプを使い、井戸から地下水を汲
み上げているのをみかけます。
人の生活に切っても切れない大切な水を汲み出す井戸。ムカシの
人は井戸にも神がおわすと考えました。
井戸というと、ふつうは掘井戸を思いうかべますが、井戸(ゐど)
の「ゐ」はもと集(ゐる)、堰(ゐ)のいみだという。大ムカシは
泉や川をせきとめて用水として、水を汲み取る所を「井(ゐ)」と
いっていたそうです。井戸は水のとどまる所という意味なのだそう
です。
井戸のことを「かわ」とか「いけ」などと呼ぶ所があるのはこの
ためだとか。瀬戸内海の沿岸や島々では井戸を「かわ」、「のみかわ」、
「つぼかわ」といい、岡山県では井戸のことを「いけ」いい、池の
ことは「ゆつ」と呼ぶそうです。伊豆大島では共同井戸を「かあ」
と呼んでいるとか。
やがて、せきとめた水の使い場に木や石で、囲いを作るようにな
り、これを井筒や井桁(いげた)というようになります。この井桁
や井筒からあふれ出している様子は「扇面(せんめん)法華経冊子」
や「信貴山(しぎさん)縁起」などの絵巻物にも描かれているとこ
ろです。山里では、谷川の水を「かけひ」で引いたりもしました。
しかし、どこでもこのように自然に水の湧く所や流れを利用でき
る所があるわけではありません。そこで人々は、人工的に地下水を
利用する方法を考えました。それには横井戸の方法と、地面に縦に
掘る縦井戸があります。
横井戸は、山の端などに地下水をためて、まわりをらせん状に階
段を作る「まいまいず」。水源までグルグル回りながら水を汲みに
降りて行き水桶で運び出し方法です。
縦井戸は、地面を地下水のところまで垂直に穴を掘り、地下水を
汲み上げる方法。これは堅い土の層を掘り抜く方法で、千葉県の上
総堀りなどが知られています。これができるようになると、どこに
でも家が建てられるようになりました。
この方法は、奈良の平城京跡やその他数多く発掘されており、す
でに8世紀ころから利用されていたという。しかしその普及は遅く、
各地に本当に普及したのは江戸時代中期以後。それも共同井戸とし
て利用者から大切に扱われ、むしろ神聖視さえされていました。ム
カシ、七夕(たなばた)に行われたという江戸の井戸替え行事は、
一種の井戸神(水神)の祭事だと考えられています。
井戸にはいつも塩を供え、簡単な神棚を作り、水神と書いた紙や
板を貼ります。井戸神は水神の一種ですが独特の信仰を持っており、
禁忌もたくさんあります。
一つ、古井戸をみだりにふさぐべからず。耳目(じもく)にたた
ることあるなり(「家相一覧」)。
一つ、井戸の中の魚は井戸神としてのヌシなので、とってはいけない。
一つ、やたらに井戸の中をのぞきこんではいけない。
一つ、、夜、井戸水を汲むときは必ず手をたたくこと。などなど。
決まった日に行う井戸神の行事もあります。子どものお七夜には
井戸神にお参りする。1月3日は井戸のつるべの縄をなう日などと
きまっている。7月には幣束を立て井戸の水替えをするなどなど地
方によりさまざまです。
また、各地に弘法大師の井戸とか「姥が井」、「阿弥陀の井」など
が残っています。こんなことらもムカシの人々がいかに井戸を神聖
視していたかわかります。
そういえば、房総の丸山町(いまは南房総市)の御殿山のふもと
や、安房丸子町の塩井戸という所にも弘法大師の井戸伝説があって、
この山にテントを張りながら、集落の古老にたずねたずねて、苦労
してやっと見つけた思い出があります。
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■(2)氏 神
正月の初もうでや誕生後の宮参りには近くの氏神さまにお参りし
ます。氏神はもともと字の通り、氏の家で、たとえば大伴氏の神や
藤原氏の神、家々の神であり屋敷神でありました。
いまでも氏神を「ウチガミ」という所もあり、「家神」・「内神」
としてまつります。ウチガミがなまり「ウヂガミ」になり、氏神に
なったとする説があり、また「ウツガン」と呼ぶ地方も同様ではな
いかといわれています。
それが時代が下がるにしたがって一門一族の神となり、氏長(う
じおさ)を中心に祭祀(さいし)する同族神になっていきました。
これら古代の氏神がいまでいう氏神・ムラの守護神として考えられ
るようになると、産土神(うぶすながみ)や鎮守神と同一視される
ようになり氏子も一定地域の祭祀集団を意味してきます。
氏神という語は「古事記」や「日本書紀」にはなく、初めて文献
に出てくるのは「万葉集」(巻三)の大伴坂上郎女(おおとものさ
かのうえのいらつめ)という人の歌の注に「天平五年冬十一月供祭
大伴氏神之時」とあるものだそうです。
平安時代後期には祭祀構成員の氏人(うじびと)により、春、秋
2回一定して、氏神祭が行われていたという。当時、氏人は全員そ
ろって祭りをすべきものだったらしく、その土地から離れている人
は、祭りのときは帰郷も認められていたそうです。
これは、春はその年の豊作を願う祭りであり、秋は実りを感謝す
る収穫祭でもあり、農耕儀礼と一緒になったものらしい。
こうした氏神信仰は、庶民の中にもあったかは定かではありませ
ん。たぶんに政治的に勢力ををもつ、氏族に信仰されていたのでは
ないかという。藤原氏の春日神社、橘氏の梅宮、秦氏の稲荷社など
はよく知られる氏神社です。
一方、室町時代以後からは、武家の間にも氏神信仰を行うように
なり、源氏の八幡社のように、他からの勧請(かんじょう)神も氏
神と呼ばれるようになります。その後、ムラの鎮守神や、産土神も
同一視されるようになり、いまでは大社、名社から個人の屋敷内の
小ホコラまでさまざまな氏神がみられます。
氏神を「一門氏神」、「村氏神」、「屋敷氏神」の3つに分類し説明
しているのは民俗学者の柳田国男。
1:一門氏神=本家・分家など同族、一族で構成されていた同族
神。本家が祭祀の中心となっています。いまでも同姓の一族が同じ
ホコラを信仰している所もあります。
その祭神はお稲荷さんであったり、古木や自然石そのものであっ
たり、樹木の根元にホコラをおいてあるものや、ワラで毎年ホコラ
を作りかえる地神のようなもあります。死後33年の最終年忌に、
墓に葉つきの塔婆をたてると亡くなった仏さまが地神になれるなど
ということも各地に伝わっています。この場合は氏神は、この地神
と同系統なのではないかとされています。
また、地方によっては荒神や、山陰地方では森神、北九州の小一
郎神、南九州ではウツガンなどなど同族神として一門がそろって信
仰している神もあります。
2:村氏神=一定地域の居住者が氏子となって氏神社をまつりま
す。鎮守とか産土、お宮など、昔でいう村社とされていた神社の大
半がこれに当たるというもの。元来氏ごとにそれぞれまつっていた
氏神を、寄り集まって合同でひとつの氏神をまつっています。
3:屋敷神=個人々々が屋敷内や、所有している山林にホコラを
おき、氏神としてまつります。かつては祭日に新ワラで仮屋をつく
っていましたが、次第に木や石でホコラを建てたようになったもの。
屋敷神の祭神も、一門氏神と同様に、稲荷、八幡、神明、秋葉な
ど大社から勧請したものが多いようです。
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■(3)えびす神
恵比須(えびす)・大黒といえば、は七福神の中でも財福をさげ
る福の神の代表です。恵比須・夷・戎とも書くえびす神は、烏帽子
(えぼし)をかぶり、タイと釣りざおをかついだ神さまです。えび
すは、恵比須、恵比寿夷、戎、蛭子などの字を当て、そもそもの語
源は“えみし”で異郷の人を意味したのではないかとされています。
かつて東北地方の蝦夷(えみし)が大和朝廷に従わなかったため、
「えびす」が蝦夷のように解釈されていたようです。しかし「一本
定家卿仮名遣」という本には、海辺人を「えびす」と読ませ、異民
族にかぎらず島や浦辺の辺境に住む人たちをも「えびす」と呼んで
いたようです。また中世には武士をも“えびす”といい、鎌倉武士
を京都では東夷(あずまえびす)と呼んだりしています。
これは「つわもの」とか「ますらお」、「もののふ」といった呼び
方と同意語で、異民族の捕虜や辺境に住む人たちを兵士に仕立てた
大昔の兵制のなごりなのだという。
えびす神は、ニコニコ顔に大きなタイをかかえ、釣りざおを肩に
した姿からうかがえるように、もとは漁民の間で広く信仰されてい
たものらしい。日本には海のかなたには神霊の国、常世(とこよ)
の国があるとする古い信仰があります。
だから漁村では浜辺に漂着したものは大事に扱い、丸い石はえびす
さまのご神体としてホコラに納め、大漁を祈る風習がありました。
それがいつのころからか、海産物の売買で市(いち)が立ち、そ
の市の神になり、商売繁盛の神として商人の家に入り込んでいきま
した。鎌倉時代の乾元元年(1302)、奈良の南の市を開くとき
に、えびすさまをまつったという記録があります。また鎌倉・鶴ヶ
岡八幡宮には建長5年(1254)、市場神としてえびす神を奉祀
(ほうし)したといいます。
このように市神になったえびす神は、市の発展、商業の発達にか
かわりあうようになり、商業の守護神、福神になって商家の信仰を
集めます。そして同業者や同じ地区の人たちが祭祀団体である「え
びす講」をつくるまでのなるのであります。
その後、えびす講は農民にまで広がり、山ノ神が山と田畑を行っ
たり来たりし、農耕の神である田の神になるという、いわゆる「神
去来の伝承」の山ノ神を「えびす」と呼ぶ地方もあり、その人気は
ますます盛んになるのでした。
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■(4)おしら神
東北地方に残る有名な家の神です。オコナイさま(山形・岩手)、
オシンメイさま(福島)など同系統で、ご神体は30センチ位のク
ワの木で造った2体が対になったもの。馬頭や姫、男女、僧侶など
の顔を彫刻や墨書きしてあり、布を重ね着させてあります。
昔、長者の家に名馬が飼われていました。その馬が観音さまの申
し子である長者の美しい娘に恋をしました。それを知った長者は怒
って、馬の首をバッサリ、皮を川原に干しておいたという。
あわれに思った姫が供養すると、馬は姫とともに昇天。3月16
日のことだったという。すると翌年の3月16日、空から白い虫と
黒い虫が降ってきたという。クワの葉を食べ出した白い虫の顔は長
者の姫に、また黒い虫は名馬に似ていました。これが蚕のはじまり
で、長者はこの虫からとって富を築いたという。
そのため毎年3月16日(1月・9月もある)はオセンタクとい
って、オシラさまの命日にあたり、かごこ(信者)が集まってイタ
コが祭文を唱え、布を重ね着させます。
ちなみに姫の名は玉や御前といい、名馬の名はせんだん栗毛、長
者の名は満能長者とか金満長者というそうです。
オシラ神には個々の家でまつる氏神型、同族でまつる同族型、部
落全体の地縁型、、胴信者集団の講型のタイプがあり、古い形の家
の守り神、農神、作神なのだそうです。
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■(5)門 神
正月には年神の依代(よりしろ)として門松を立てます。門松は
松だけでなくサカキやシキミ、竹なども用いられ、愛知県などでは
これを「門神さま」と呼んでいるそうです。
門神とは、神社やお寺の門にまつられるものと、門松のように家
の門口に飾るもの、また門(かど)である、むらの小地域でまつる
神の3つに大別できるという。
神社の随身門にいます右大臣・左大臣。またお寺の仁王門を守る
金剛力士。右側を那羅延(ならえん)金剛、左側を密迹(みつしゃ
く)金剛というそうです。これらの神は門客人(かどまろびと)、
門守(かどもり)さまなどともいうという。
門神は片目だといい、弓矢を奉納したり、脛巾(はばき)を奉納
したり地方もあり、御霊や境の神の役目をはたしています。また、
これは客人神が境内で末社化したものだともいわれています。
2番目の家の門口に飾るものは、正月に門松(年神の依代)をと
り片づけたあとの1月13日、人形を魔除けとして門口に飾ります。
この人形は人の顔を墨で描いたもので、門入道(かどにゅうどう)
とか入道さまといっています。顔に「へのへのもへ」と描いて「へ
のへのもへいさん」(神奈川県の山間部)とか、「門のドウシン」、「お
つかど棒」(山梨県の山間部)などと呼んでいます。
この人形はニワトコやカツノキから作るという。顔になる部分だ
け皮をはいだり、または全体の皮をはいだものに、男と女の顔を描
き一対の人形を作ります。大きさは20センチのものから、大きい
ものは1mに近い人形をつくるところもあるという。
門入道の入道は巨人を意味し、外から入ってくる邪悪なものを追
い払う役目があるようです。この門入道は「二十日の風に当てては
いけない」とされ、1月19日に燃やしてしまうそうです。
また山梨の丹波山村でも同様の「カドウシンサン」をつくり魔よ
けにします。神奈川県・西丹沢の箒沢ではあずきがゆを「門入道」
の頭に供えるという。
最後の小地域の意味のカドを守る門神。その守護神は、「ウツガ
ンサァ」(内神様)と呼ばれ、鹿児島県地方でまつられているとい
います。この地方では小地域の単位を「カド」と呼んでいるそうで
す。
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■(6)カマド神
仁徳天皇の「民のカマドも賑わいにけり」の故事にもあるように、
かつてはカマドから立ち昇る煙で、家運を知ることができたという。
かつては家の戸数を数えるのに「幾竃(かまど)」(竃数・かまどか
ず)とか「何烟(えん)」という数え方をしたそうです。
そんな神聖な火どころ・カマドには神がいると昔の人は考えまし
た。カマド神の名はカマジン、カマガミ、オカマサマ、荒神さま(三
宝荒神)、土公神(どくうじん)、火の神などと地域によって呼ばれ、
カマドの近くの柱や棚の上にご弊やお札を納めてまつります。
宮城や岩手県では火男、カマ男などという土や木で造ったお面を
カマドの柱にかけてまつる風習があります。お面と言えば、口のと
がったヒョットコというものがあります。火を起こすとき、息を吹
きかけたり、火吹き竹を使う顔は、まさにヒョットコ。ヒョットコ
とは火男のなまったものなのだという。
またカマド神は、火の神と同時に農作の神でもあり、子どもや牛
馬・家の守護神にもなっているそうです。カマド神は「今昔物語」
(巻三十)や「大和物語」(下)などにも登場しています。
こんな昔話も各地の伝わっています。ある福分のある女と貧しい
男が結婚をしたという。初めのうちは妻の福分のおかげで家は富み
栄えましたが、傲慢になった男は妻を追い出してしまった。男はた
ちまち貧乏に追い込まれたという。
妻はその後長者と結婚し幸せに暮らしました。別れた夫はその後
もとの妻に再会しましたが、妻の幸せに比べ自分の身をかえりみて
恥じて死んでしまったという。もと妻はあわれに思い、その男をカ
マドの後ろに埋めてまつりました。それがカマド神のはじまりだと
いう。
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■(7)荒 神
荒神には、火の神、カマド神として家の中にまつられる「三宝荒
神」と、屋敷神、同族の神、集落の神としてまつられるものがあり
ます。しかし、ふつう荒神といえば三宝荒神をいうことが多いよう
です。
この神は、荒ぶる神と書くとおり、どちらも怒りやすく、祟(た
た)りやすい神だという。屋外にまつられる外荒神に対して「内荒
神」とも呼ばれます。
三宝荒神は、三方荒神とも書かれ、三宝(三方)とは如来荒神、
鹿乱荒神、忿怒荒神の三身のことだという。本地仏(神に姿をかえ
ている仏)は大聖歓喜天、文殊菩薩または不動明王ともいわれます
が諸説あってはっきりしません。荒神は主として修験道と日蓮宗が
祭祀した神であります。
三方荒神は火の神としてカマドなどにまつられますが、同時に農
作の神でもあり、田植えのときに苗を植えたり、刈り上げのときに
初穂を供えたりし、農耕儀礼にもかかわっています。しかし、カマ
ド神もまつる地方では、カマド神は火の神、荒神は作神と区別して
いるそうです。
「荒神式」という本には「…いかれば八大荒神の大神……仏陀に
は大日尊と名づけ、薩た(さった)には観世音……天等には弁財天
…天神等には鹿乱神(そらんしん・荒々しい神)と名づけ、魔王に
は常随魔……鬼神には飢渇(きかつ)神、煩悩(ぼんのう)には根
本無名と名づく」とあり、変幻自在、さまざまな神、結局はなにが
なんだかなのであります。
また日蓮は「三宝荒神とは十羅刹女(じゅうらせつめ)のことな
り。いわゆる飢渇の神、貪欲の神、障礙(しょうがい)の神なり…
…」といい、十羅刹女説をとっています。
荒神は役ノ行者(えんのぎょうじゃ)が金剛山(こんごうさん・
奈良県御所市)で修行感得したとも、開成皇子が感得したとも伝え
られています。しかし、結局は古代からあった荒ぶる神、祟りやす
い神を修験者や、陰陽師たちが仏教の経典をもとにつくりあげた神
だろうとされています。
一方、野外にまつられる荒神は「外荒神」ともいい、屋敷の守護
神、一族の守護神、地域の守護神、ウブスナ荒神とかヘソノオ荒神
などと呼ばれ山麓などにまつられています。姓や地名をつけて「○
○荒神」と呼んでいます。
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■(8)皇大神宮
よく地方の旧家の床の間に「皇大神宮」(こうたいじんぐう)と
書いた掛け軸がかかっています。皇大神は天照皇大神(天照大神)。
皇大神宮とは、伊勢神宮の内宮(ないぐう)のことだという。
天照大神宮・大神宮などともいい、三重県伊勢市、五十鈴(いす
ず)川の上流に鎮座し、天照大神(あまてらすおおみかみ)をまつ
っています。相殿(あいどの)に天天手力男命(あめのたぢからお
のみこと)、万幡豊秋津姫命(よろずはたとよあきつひめのみこと)
をまつっています。
伊勢神宮は「お伊勢さん」で有名なところ。皇大神宮(内宮)と
豊受(とようけ)大神宮(外宮・伊勢市、山田原)の二つの正宮と
付属する宮社からなっています。
「古事記」・「日本書紀」によれば、天孫降臨にあたり、天照大神
(あまてらすおおかみ)から八咫鏡(やたのかがみ)を授かり、皇
居内で同床共殿(天皇とともにまつる)していました。
しかし、崇神(すじん)天皇(紀記の皇室系譜では第10代の天皇
・BC97年とも)は、それは畏れおおいこと、別殿にまつるべし
とて、大和(奈良県)の笠縫邑(かさぬいのむら)にまつりました
が、さらによい宮処(みやどころ)を求めて、三重県、滋賀県、岐
阜県、愛知県をまわり、垂仁天皇25年(26年とも)になってい
まの地に奉斎されたのだそうです。
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■(9)正月神
1月は1年のいちばん初めの月で正月です。正月は中国から入っ
てきたことばだといいます。正月には、正月さまとか年神さま、オ
バイさん、歳徳神と呼ぶ神さまをまつります。
正月は、もともと年の初めにあたって、家々の祖先である神をお
迎えして、盆と同じようにおまつりし、その年の豊かな実りを祈っ
たものだったという。
ムカシは正月神は、ふだんは山ノ神として山の上にいて、春のは
じめ正月神になって人里に降りてくると考えました。だから、その
依代(よりしろ)として門松をたてます。人々は正月の神を迎える
ため、天井のすすをはらい神棚にサカキを飾り、お供えの餅をつき
ます。
♪お正月さま、どこまでござった、○○山(土地の山名)のすそ
までござった……。かつて子どもたちは、歌をうたいながら正月の
来るのを指折り数えたものでした。
正月の神は女性だといいます。だからおつかえするのは年男です。
若水をくみ、「三ヶ日」は、ご飯のしたくは年男の役目。家にいる
“ヤマノカミ”を休ませました。
正月は、元旦中心の大正月と、15日中心の小正月がありました。
暦がまだ普及していなかったムカシ満月の15日の方が正月として
わかりやすく、一般庶民は正月といえば小正月で行い、1月1日の
大正月は公家や武家の正月だったそうです。
いまは正月は太陽暦の1月1日を中心になりましたが、旧暦の正
月はしばしば節分の頃になることもあったそうです。だから正月は
初春という言葉や、ウメの花がピッタリだったのです。いま、暦な
どで旧暦の1月1日を調べてみると納得できます。
正月ということばの使い方も、いつの間にか変わって、楽しく喜
ばしいときにもいうようになり、いいものを見たとき「目の正月」
とか、体裁のいいことばを「正月ことば」などともいうようになり
ました。
正月神の別名、年神のトシは古語では“米穀”のことだそうです。
だから、正月に出す「お年玉」は昔は米であり、オニギリであり、
団子であり、モチでありました。
さて、正月神の降りてくる目印(依代)の門松。門松は、中国の
唐の時代の風習が日本に伝わったものだという説や、貧しい家がき
たない所をかくすために立てたものがル−ツだとか、皇居の門前に
鉾(ほこ)をたてていたものが変化したのだという説。まだまだ、
そのムカシ、スサノオノミコトが巨旦将来(こたんしょうらい)を
殺したとき、お墓に立てたものが門松のもとなのだとか、まァ、い
ろいろな説がフンプンなのであります。
大ムカシは松のかわりにサカキをたてていたという。所によって
はシキミという木をたてたそうです。それが平安時代の延久・承保
年間(1069〜77)ころから、どういうわけか松に変わってい
ったのだそうです。いまでは紙の門松も貼らない家が多くなってし
まいました。
注連縄(しめなわ)も正月にはかかせません。これは神の前や神
聖な所にかけ渡して、内と外を区別して、けがれたものを遠ざける
しるしです。天の岩戸の神話で、岩戸の中にかくれてしまった天照
大神(あまてらすおおかみ)を、やっと外に出した神々が、また大
神が岩戸にかくれたりしないよう、大あわてでなわを張りました。
これがしめなわだという。
その時、あまりあわてたので、わらの尻の方を切るのを忘れてし
まいました。だから今でも、しめなわは尻の方がたれているのだそ
うです。「古事記」には尻久米縄(しりくめなわ)と出ています。
門松をたて、お飾りもかざり、鏡もちを供え、除夜の鐘を聞いた
人たちは、近くの神社に初詣(はつもうで)に行きます。社務所で
おみくじを引き、破魔矢(はまや)を戴いてことしの幸運を祈りま
す。
なお、正月料理に使うクロマメ、カズノコ、タツクリマメ(ゴマ
メ)は「くろぐろとまめで数々の田をつくる」の縁起だそうです。
面白いことを考えるものです。
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■(10)鍾馗神
5月5日は「子供の日」。端午の節供で男の子の祭です。子ども
のころ、床の間にかけた掛け軸が、私のもので、義経の壇ノ浦の合
戦、弟のものは鍾馗(しょうき)の絵でした。終戦直後で粗末な掛
け軸でしたが、それでも子どもから見れば迫力は十分です。弟はそ
の絵を見るたびに泣いていました。
鍾馗はもともと中国の厄除(やくよ)けの神。唐の玄宗皇帝(6
85〜762)がマラリアで苦しんでいたとき、夢の中に小さな鬼
があらわれ、楊貴妃(ようきひ)の宝の香袋と、皇帝の大事にして
いた玉笛を盗んで逃げ出しました。
皇帝が兵士を呼ぶと、突然大きな鬼があらわれ、小鬼をつかまえ
て食い殺し、香袋と玉笛を無事に取り返したという。名を聞くと、
大きな鬼は「自分は終南山の鍾馗という者。役人の採用試験に落第
して自殺したが、ていねいに葬られた恩に感じて、天下の害悪を除
く誓いを立てた」といったという。
夢からさめた皇帝は、不思議にも熱がさがり、病気もケロリ。そ
こで画家の呉道子に命じ、夢で見た姿を描かせたのが鍾馗像。年の
暮れ、門にはり出して邪鬼悪病除けをしたのが鍾馗神のルーツだと
いう。
また一説には、鍾馗は「終葵(しゅうき)」とも書き、椎(つち
・邪悪を祓う槌)を人格化したのだともいう。
それがいつか、端午の節供に飾るようになって日本に伝来。室町
時代から鍾馗に対する信仰がはやりだしたという。鍾馗は、悪魔や
疫病を払う神ということから、最も恐ろしかった疱瘡除(ほうそう
よ)けに、鍾馗の顔を赤くぬって貼ったりしたという。
また、玄宗皇帝の夢のなかで鍾馗に食い殺された小鬼を貧乏神だ
として、貧乏除けの神として信仰する家もあったそうです。
静岡県の御前崎地方には、白羽神社で頒布する鍾馗神のお札を魔
除けとして門口に貼つ習慣があります。
この鍾馗さまは腹ばいになった鬼を踏みつけています。新潟県の
阿賀町には鍾馗神社が2社あり、3月2日と3月8日が祭日になっ
ているそうです。
なお、鍾馗がコウモリ(蝙蝠)を打ち落としている図があります
が、これは蝠の字が福に通じるため、福を得たい気持ちを表してい
るのだそうです。
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■(11)大黒天
エビス・大黒といえば福の神の代表で、それぞれ「七福神」に数
えられています。大黒天は、左手で袋を背負い右手に槌を(つち)
を持ち、米だわらに座るおなじみの姿。
そもそも、大黒天とは、サンスクリットのマハーカーラ(摩詞迦
羅)といい、カーラは黒を意味し、「偉大なる黒いもの」というと
ころから大黒と漢訳されたという。
黒は暗のこと。もともと古代インドでは闇黒の神であり、戦闘の
神だったそうです。「隠行飛行」の術にすぐれ、人間の生血をとる
などともいわれたそうです。それが仏教に取り入れられ、毘盧遮那
(びるしゃな)の化身として鬼神・荼吉尼天(だきにてん)を降伏
せしめる忿怒(ふんぬ)神になりました。
大黒天はある日、荼吉尼天を呼び、「おまえは人間の肉を食らう
という。それならワシもお前を食ってやる」といい、のみこんでし
まいました。荼吉尼天はすぐさま謝り、「恐れ入りました。以後は
絶対に一切の肉は口にいたしません。約束します」てな具合。
その大黒天が、どこでどうわかれたのか、厨房の柱にまつられ、
金の袋を持つ福の神として姿をあらわします。それが中国に伝わり、
当時遣唐留学僧だった最澄が、日本にもたらし京都比叡山延暦寺に
まつります。
平安時代以後、天台宗をはじめとする諸寺院にひろまり、厨房に
まつられるようになりました。こうして大黒天は、どのような僧の
食事にもこと欠かないようにと台所の守護神になっています。僧侶
の妻を「大黒さん」と呼ぶのはここからきているのだそうです。
♪大きな袋を肩にかけ、ダイコクさまが来かかると…。ごぞんじ
因幡(いなば)の白ウサギであります。ここに出てくる大国さまと
大黒さまの音が同じことから、この神々は混同されてますます福々
しい姿に生み出されます。
また大国主命がネズミ
を救ったという神話から、大黒天とネズ
ミの関係ができ、「子ノ神」(ねのがみ)の信仰にネズミ、またその
文字から甲子(きのえね)の夜に大黒天をまつったりしています。
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■(12)だるま
願いごとをかけられ、片目を入れられるおなじみのだるまも神さ
まだという。だるまとは達磨(だるま)禅師のこと。円覚大師とも
よばれ、中国禅宗の祖で生没年は不詳なり。インド・バラモン国の
王子として生まれ、インド名はボーデイダルマ。詳しくは菩提(ぼ
だい)達磨で、普通は達磨と書いています。
般若多羅(はんにゃたら)に仏法を学び、はじめは大乗に志をお
いていましたが、のちに辺地の布教を思いたち中国地方の魏におも
むいたという。それは475年ころであろうといわれています。
各地で禅を教えたのち、嵩山(すうさん)少林寺で、壁観(壁に
向かって座禅)すること9年、ついに悟りをひらき禅宗の「第一の
祖」と仰がれ、ここから「面壁九年」の座禅伝説が生まれます。
のちに「第二の祖」となる慧可(えか)に会います。慧可は達磨
のもとに入門を願いましたが受け入れられず、両腕を刀で切りおと
してやっと弟子になれたという伝説があります。
「九年間壁」に向かい、本来清浄な自性を悟ったことといい、慧
可との安心問答といい、ボンクラな私には何がなんだか手も足も出
せない世界であります。
その問答は「私は心が落ちつきません、どうか落ちつかせてくだ
さい」「君の落ちつかぬ心を、ひとつオレに見せてくれ、そうすれ
ば落ちつかせてやる」「それはどこを探してもみつけられません」「オ
レはいま、君の心を落ちつかせ終わった」うんぬんなり。???
達磨はさらに日本に渡ったとされ、聖徳太子と問答したともいわ
れます。そして平安末期に達磨宗が起こるほどになります。達磨禅
師が死んだのは534年あたり、年齢ざっと150歳あまりだとい
われています。
この達磨大師の「面壁九年」の姿から、あの「だるまさん」の人
形が生まれます。そのもとは起きあがり小法師。室町時代につくら
れてから次第に全国的に広がります。
だるまの像が赤く塗られているのは高僧が着る緋の衣をあらわし
たものだという。また疱瘡(ほうそう)には赤いものがよいという
ので、昔は疱瘡やはしかにかかった子どものためにだるまをまつっ
たり、お見舞いに贈ったりしたそうです。いまでは正月など神や仏
閣に露店も出され、また郷土玩具としても売られています。
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■(13)貧乏神
わが家の祖神「貧乏神」であります。よほど住みやすいとみえて
古くから居ついており、家族ともすっかり仲よしになりました。
文献上の記録でみると貧乏神は、近世以後の貨幣経済の発達で、
都会地から生まれたとされているという。愛知県では貧乏神はイロ
リの火をたやしたり、またそこをやたらと掘ると出てくるというそ
うです。
新潟県朝日村(いまは鶴岡市)では年夜にイロリの火を勢いよく
燃やすと、貧乏神が暑がって逃げていき、その代わりに福の神がや
ってくると言い伝えています。福の神は小さい子どもの姿をしてい
て、イロリの隅にちょこんと座っているという。
また「薩藩年中行事」(伊地知峻)には、年の暮れに貧乏神を「火
吹き竹」に封じ込め、紙栓をしてまじないが鹿児島県薩摩地方にあ
ったことが書かれています。
貧乏神は「焼きみそ」のにおいを好むという。かつて大阪のある
富豪の家では、毎月月末に貧乏神送りという行事を行ったという。
それによると、焼きみそをふたつつくり、家の中や店などをまわっ
てにおいをまき散らしたあと、川に流して貧乏神を送り出したとい
う。
貧乏神の姿は、押し入れにいる小さいやせた爺さま、豆のような
小男、杖をついた汚い爺だといい、怠け者の家を好み、だんだん体
が大きくなっていくという。
しかし、大事にもてなされると、家の神として福運をもたらす神
に転化するとともいわれます。貧乏神も福の神も、まつり方によっ
ては両方に転換可能であり、この神たちはひとつの神の両側面だと
も考えられているそうな。そういえば神はみな、相反する属性をも
っているという。なるほど、なるほど、もっと大事にしよう。
ちなみに相撲界では、幕下や十両の筆頭を貧乏神といっているそ
うです。
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■(14)便所神
農村へ行くと正月やお盆に便所に青柴をあげたり、年末にご弊(へ
い)を供えたりしているのを見かけることがあります。またトイレ
の隅に小さな神だなをつくり女の人形をまつる所もあります。神だ
なだけでご神体のようなものはなにもない所もあります。昔の人は
便所にも神さまがおわすと考えていました。
便所の神は、厠(かわや)神、セッチン神、カンジョ神などとも
呼ばれます。ひと昔前までは便所は外に、それも川などの流れの近
くに建ててありました。だから厠は川屋です。川屋でありますから、
川の流れに向かって用を足す、水洗トイレだったのです。
「古事記」にあります。伊弉冉尊(イザナミノミコト)が火の神
を生んだ時、陰所(みほと)に大やけど。苦しみながらもいろいろ
な神を生みました。「……ついで、その屎(し・くそ)から生まれ
たる神の名は、波邇夜須毘古神(ハニヤスヒコノカミ)、次ぎに波
邇夜須毘売神(ハニヤスヒメノカミ)、それから尿(ゆまり)から
生まれた神の名は、弥都波能売神(ミヅハノメノカミ)、次ぎに…
…」と続きます。さっすがはイザナミノカミ、無駄はありません。
こういうイキサツにより、「日本神話」にも便所神がおわすことに
なりました。
仏教にもトイレの神はおわします。……修羅と梵天・帝釈天が戦
った時のこと。「仏の弱点は臭気にある。糞の城を築けばこっちの
もの」と修羅の鼻息は荒い。しかし梵天・帝釈天の援軍不動明王は
少しもひるまず、糞の城を食い破ってしまったというからモノスゴ
イ。
さすがの阿修羅も腰を抜かしたと抜かさないとか。ところで不動明
王の化身は烏蒭沙摩明王(うすさまみょうおう)という忿怒で火炎
を背負い、北方を守護する仏さまだとされています。そんなことか
ら、不動明王の化身ウスサマ(烏蒭沙摩)明王は厠神になっている
のだそうです。
茨城県明野町(いまは筑西市)では6月26日を「チョウズバギ
オン」といい、うどんをつくって便所に供えるという。その時紙で
女の人形をつくり供えるという。また宮城県ではホウコウサン(奉
公さん)という人形(堤人形)をつくって便所の隅に供えておくと
便所をいつも清潔にしてくれると信じられているそうです。
ま、それはともかく、民俗神としての便所神はお産の神さま。お
産の時に産神の手伝いをする神であり、トイレをいつもきれいにし
ておけば美しい子が産まれるなどと、地方によりいろいろな民俗が
伝わっています。
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■(15)箒 神
掃除をするとき、掃除機をかけます。いまでこそ掃除は「かける」
のでありますが、以前は箒(ほうき)で「はく」ものでありました。
いやな客や長居の客を早く帰したいとき、箒を逆さに立てて、手
ぬぐいでほおかぶりさせます。客をはき出したいという気持ちの表
われです。もっともいまは、そんな手ぬるいことをする奥さんはお
りません。さっさとたたき出してしまいます。
昔の人は箒にも神がおわすと考えました。謙虚だったのですねェ。
だから掃除のとき、箒の先に居てはいけないとか、子どもがひきつ
けを起こしたとき、箒で招くとよいなどともいいました。
箒神はお産の神であります。だから箒を踏んだり、またいだりす
るのはとんでもないこと。そんな女性は箒神の怒りに触れ、それは
難産するするのであります。お産も一種の「はき出し」だと考えた
のでありましょう。
お産の神…ウブ神は箒神のほか山ノ神、便所の神(または杓子神)
の3神だとしています。これらの神々がそろわないとお産が始まら
ないといわれます。だから産婦人科の病院は便所神やら、山ノ神、
箒神が「押すな、押すな」とにぎやかなのであります。
この中で、いつも遅れて来るのが箒神。とくに箒をまたいだりし
た女性のときは、わざわざ遅れてくるというからオソロシイ。箒神
は産道を開く役目らしいのであります。
お産は女性にとって一大事業。安全であるよう、箒で産婦のおな
かをなでたり、枕元や床に箒を祭り、お神酒をあげて、ただひたす
ら祈るのでありました。
箒で「はく」の名詞形は「ははき」。「ははき」は「古事記」にも
ある「母木」「妣木」のことで、生命の木のこと。箒がウブ神とさ
れるのは、こんなところからきているのだそうです。
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■(16)まねき猫
よく、好きなペットとして犬がいいか猫がいいかと論争していま
す。「頭が良くて、主人のいうことが聞くから犬の方がいい」、「い
や、人の機嫌をとらないあの態度がなんともいい」などといって両
者ともゆずりません。
ことわざでは「犬は3日飼えば3年恩を忘れない」といいますが、
「猫は3年飼っても3日で恩を忘れる」とは情けない。また「猫に
小判」、「猫の眼のようにクルクルかわる」と、まず猫に関してはロ
クなものがありません。
しかし、まねき猫となれば話は別です。八百屋、魚屋などの商店、
いっぱい飲み屋など客商売の店には必ず飾ってあります。
猫が前あしをあげて頭をかく動作が、人を招くように見えるとい
うので神棚などにおいて縁起をかつぎます。正月に招き猫を買って
きて商売繁盛を願います。これもだるまや福助と同じように、前の
年のものより大きめのものを買うものだそうです。
招き猫は初め、東京・浅草の今戸焼などの簡単な陶製だったそう
ですが、いまでは陶のもの、張子製、塩化ビニール製やねりものな
どいろいろあるようです。
有名なところでは、東京・今戸のほか、東京世田谷豪徳寺、埼玉
・鴻巣、大阪住吉神社の招き猫が知られています。なかでも豪徳寺
のまねき猫についてはこんな話が伝わっています。
昔、彦根藩主(いまの滋賀県)・伊井直孝がある寺の前を通りか
かると、猫が招いています。ついていくと寺の中へ入っていきます。
それが機縁で豪徳寺は伊井家の菩提寺になったという。以来、豪徳
寺は繁盛したというもの。境内には猫塚招福殿や、招福猫供養塔が
あならんでいるそうです。
ちなみに、まねき猫の右手をあげたものは客を、左手は金を招く
といわれています。また、農家では養蚕のネズミ除けのおまじない
として飾られます。
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■(17)屋敷神
農山村へ行くと、広い庭の隅に屋敷神の小さなホコラがまつって
あります。屋敷神は庭だけでなく、屋敷に付属した所、または少し
離れた所に所有している山などに、木や石または、わらの仮宮をつ
くったりしています。
屋敷神といういい方は学術用語だそうで、地方によりウチガミ、
ウジガミ(東北から北関東)、ウッガン(南九州)、イワイジン(長
野県・山梨県・中国・九州)、ジガミ、チジンと(西日本)と、さ
まざまな呼び方があるようです。
呼び方がウジガミ(氏神)、イワイジン(祝い神)、ジガミ(地の
神)などになってはいますが、まつられる神は、山ノ神であったり、
お稲荷さん、神明さま、熊野、天神さま、天王さま、八幡、若宮、
白山と種々雑多なようです。
屋敷神には、各家々でまつる型(各戸屋敷神)と、特定の旧家に
限ってまつる(本家屋敷神)、それに本家屋敷神を同族でまつるも
の(一門屋敷神)の3つの型があるそうです。
この中で、最後の一門屋敷神がもっとも古い形とみられ、同族結
合のゆるみや分家の脱落で、本家屋敷神がおおくなり、さらに分家
が流行して次第に個々の屋敷神へと移っていったのだとされていま
す。
屋敷神の祭日は旧暦の2月と、旧暦の10月か11月と春秋の2
回のところが多いようです。春は農作業開始、秋は作物の収穫の時
期にあたります。日本には昔から春、山の上から山ノ神が田の神に
なって降臨し、収穫が終わると再び山ノ神になって山上に帰るとい
う「神去来」の信仰があります。屋敷神の春秋の祭日はその神去来
信仰に基づくものとされています。
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