■(1)えんま大王
仕事とローンに追われてボロボロになった体を、あの世に運ぶと、
こんどは「えんまさま」が待っています。ギョロリの目ン玉、大き
な口をあけた威圧的な姿。大王とくるからビビります。
あの世には王が10人いるのだそうです。人間が死ぬと7日目ご
とにその一人ひとりの王の前にひきずり出され、裁きをうけるのだ
という。えんま大王は5番めなので五・七忌(三十五日忌)のとき
にどやされるわけです。
そして、この世に残っている人が、亡くなった人の罪が少しでも
軽くなるよう7日め、7日めに祈るのが逮夜(たいや)法要だとい
う。十王に「なにとぞ、お手やわらかに」とお布施をし「地獄の沙
汰も金次第……」のまねごと?
をします。
えんま大王はそもそもインドの古代宗教の神話に出てくる神でヤ
マといい、日神と速疾姫との間に生まれた子。妹のヤミーともに生
まれた双子だという。そして自分から死を望み、その世への道を見
つけ出します。世界最初の王で最初の死者。そして死者をつかさど
る天上楽土の王であったのだそうですよ。
それが、死という観念からヤマは地下にいると思われ、やがて生
前の人間の善悪を裁く恐ろしい神として仏教にとり入れられます。
それが中国に伝わる道教の思想と合わさり、王は10人いるとい
う考え(十王思想)が生まれ、その5番めに位置させられています。
十王とは秦広王(しんこうおう)・初江王(しょこうおう)・宋帝王
(そうていおう)・五官王(ごかんおう)・閻魔王(えんまおう)・
変成王(へんじょうおう)・太山王(たいざんおう)・平等王(びょ
うどうおう)・都市王(としおう)・五道転輪王(ごどうてんりんお
う)の王たちのことです。
えんま大王の本地(ほんじ・本元の仏)は地蔵菩薩だといい、地
蔵信仰が流行するとともに広まっていきました。いまでも村むらに
は十王堂が建っており、まん中にえんま大王がいばっています。
大王のまわりには鬼の獄卒と倶生神(ぐしょうじん)と闇黒童子
(あんこくどうじ)がいます。倶生神は、この世で常日ごろわれわ
れの肩にいて、その行為を木札に書きつけます。そしてあの世に行
ったとき、倶生神から届けられた「エンマ帳」を闇黒童子が一つひ
とつ読みあげ、その罪によって地獄へ行くか天国に行くかえんま大
王が決定するのだそうです。クワバラ、クワバラ。
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■(2)餓 鬼
ガキ大将などのガキといえば、いつも腹をすかせている子ども悪
くいう言葉です。餓鬼(がき)とは仏教で衆生(しゅじょう)が輪
廻(りんね)して住むといわれる六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、
人間、天上)の中の餓鬼道に住む者のことだという。六道のなかで
も餓鬼道は、地獄道、畜生道とならんで「三悪道」のひとつです。
餓鬼とはもともと、古代インドのサンスクリット語(梵語・ぼん
ご)のプレータの訳で「悲惨な状態の死者」をいうそうです。原語
は死者の霊をいう漢語の「鬼」に当たるものでしたが、仏教にとり
入れられ餓鬼道に住む者ということになりました。
餓鬼道に落ちた亡者たちの喉(のど)は針のように細く、いつも
腹をへらして食べ物を探しているという。体は骨と皮だらけになり
栄養失調で腹がふくれているのだそうです。「六道絵」によくみる
あの図です。
餓鬼道は生前、福徳をつまない者が落ちる所といわれ、ここに落
ちないよう施しをし、供養するのを施餓鬼(せがき)なのだという。
お盆にも精霊棚のほかに餓鬼棚をつくり供養します。
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■(3)河童神
とがったクチバシ、身長は4,5歳の子どもくらい。手足に水か
きがあり、背には甲ら、その他全身をおおうウロコ。キュウリと相
撲が大好きで、頭に水をたたえる皿があってイタズラもの。とくれ
ば、知らない人はいないあの河童(かっぱ)。河童も神さまだそう
です。
河童は陸上でも力は強いですが、水の中では特に強力で人間ナン
カはもちろんのこと、馬や牛でさえ引っ張り込んでしまうという。
そして肛門に手を入れ、尻子玉(どんな玉だか知りませんが)を抜
いたり、生き血を吸うというからとんでもない妖怪です。
河童の伝承は全国にありその呼び方もいろいろです。西日本では
ガタロ(川太郎)といい、中国地方ではカワコ(川子)、エンコ、
エンコウ(猿候)、九州ではガワラッパ、やまわろ。東京地方では
メドチ、ミンツチ、能登のミズシン、そのほかカワランベ、ガメ、
カワシソウ、水虎などなどさまざまです。
河童は大ムカシは「ミズチ」と呼ばれていたそうです。ミズチは
水の霊のこと。すなわち水の神であり、農耕にかかせない神なので
あります。
あの「日本書紀」に、仁徳天皇11年(「日本書紀」の記述から
の換算では西暦314年)に備中川嶋河で、毒をはいて人を苦しめ
るミズチを退治したとあります。
ならば河童イコール水神かというと、そうでもないのであります。
河童は、豊かな実りと多産の力を持つ、母なる水神が下界に使わし
送られた悪童なのだという。
そういえば、河童の好きな相撲は、稲作儀礼のひとつで、お田植
え祭りや新穀祭などの行事には「一人相撲」なるものも催され、目
に見えぬ田の精霊を相手に相撲を取ります。テレビなどでもよく取
り上げられる行事です。
しからば河童とはいずこから来たのか。これには大きく分けて、
「人形(ひとがた)化誕(かたん)風渡来説」と、「牛頭天王(ご
ずてんのう)の御子(みこ)神説」、それに「水虎(すいこ)説」
の3つに分けられています。
昔は自分についた疫やけがれや難を人形(ひとがた)に託して川
などに流しました。いまの雛祭りのもとの形、流しびなの行事とし
て残っています。「人形化誕」とは、その流された人形が、川の中
で河童に化したのだという説です。
また神社築造の時、人手が足らず木片やわら人形に生命を吹き込
み加勢させ、一夜で建造。完工後、人形たちを川に捨てたという伝
説からこれが水中で河童になったともいわれています。
「人形化誕」に渡来説もくっつきます。河童はその昔、唐天竺(か
らてんじく)の黄河に大部族をなしていたという。その一部族が海
を渡り九州に。その族長は九千坊といい、その名のとおり、9千匹
に達する繁栄ぶり。田畑は荒らす、女子どもをかどわかすというイ
タズラのし放題。それを聞いて怒った肥後の守・加藤清正。サルを
使って責めたて河童は降参。わびを入れて水天宮につかえたといい
ます。
牛頭天王の御子神説。インドの祇園精舎の守護神だった牛頭天皇、
日本に伝来すると御霊信仰と習合し、疫病の神ともみられるように
なります。この御子神の系統に深淵之水夜礼花神(ふかぶちのみず
やれはなのかみ・水を司る神)という、なにやらイミシンなる名の
神が生まれます。これが水と穀物の神であり、河童なのだそうです。
もうひとつつは、中国から伝わった「水虎の説」も加わっています。
いずれにしてもこのイタズラ河童の十八番は、馬を水中に引き込
もうとする「河童駒引き」です。この話は全国にありますがそのほ
とんどは失敗談。逆に捕まって、わび証文を書かせられたり、特効
薬の秘伝を伝授させられたり、なんとなく愛嬌のある神サマではあ
ります。ちなみに嫌いな者は金物だそうです。
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■(4)鬼 神
冷血無情な人をよく「鬼のような人」などといいます。ではオニ
とは何か。鬼は、平安時代の分類体漢和対照辞書とされる「倭名類
聚抄」(わみょうるいじゅうしょう・源順<みなもののしたごう>撰)
に「或(ある)説ニ云フ於邇(おに)ハ陰者(おんじゃ)ノ訛(な
まり)ナリ。鬼物ハ隠レテ形ヲ顕(あらわ)スコトヲ欲セザルノ故
ヲ以(もっ)テノ称ナリ」とあり、「隠(おぬ)」から転訛したのだ
という。また、オは御で敬語、ニは尊敬畏怖をあらわすのだという
説もあります。
鬼は中国ではもともと死者の霊魂・亡霊のことだったという。漢
代の思想家・王充(おうじゅう)の「論衡」(ろんこう・30巻)
の(論死篇)に、「鬼(き)は帰(き)なり」「神(しん)は伸(し
ん)なり」とあるそうです。
「鬼は帰なり」とは、人間の魂はもともと天から与えられたもの
なので、死んだあとは肉体から離れて天に帰るという意味だそうな。
「神は伸なり」とは、万物を引き伸ばすような天の不思議なはたら
きを神というのだそうであります。
この鬼の観念も、後漢になるとインドから伝わった仏教に影響さ
れ、「鬼(き)は畏(い)なり、また威(い)なり……」と怪異な
性格も加わります。また、「世品」(せぼん)には「鬼は人間のひと
月を1日となし、その歳500年なり」とあり、半神半人の要素も
加わりながら次第に形がはっきりし、悪鬼の行動もそなわってまい
ります。そして日本に伝わってきます。
日本にも鬼の観念はありました。「日本書紀」(神代・景行の条)
では、鬼神(あしきかみ)・邪鬼(あしきもの)・姦(かだま)しき
鬼と記されています。これらは朝廷に従わず反乱する地方の人のこ
とをいっています。「倭名類聚抄」では隠れて人間に見えない精霊
だと考えられ、「万葉集」では鬼の字を醜(しこ)と訓じたりして
います。
そんなことから上代では鬼というと、こわい異族、異形で醜悪な
者、超人、亡者などをさしていたようです。それが仏教が伝わって
くるとその説話から餓鬼や疫鬼が加わり、平安時代には地獄の青鬼、
赤鬼、牛鬼、馬鬼などもあらわれるしまつです。
その後いろいろな英雄伝、昔話から次第に鬼の観念は固定し、陰
陽道の影響も受け、丑虎(うしとら)の方を鬼門とし、そこに悪い
鬼が集まるというので、鬼の頭を牛に、腰から下を虎の形にかたど
るようになります。
そういえばいまの子どもの絵本にも頭には牛の角が生え虎のパン
ツをはいています。このように鬼神は神でありながら、いつの間に
か悪のかたまりにさせられてしまったのであります。
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■(5)座敷わらし
だれでも聞いたことのある座敷わらしです。岩手、青森、秋田県
など東北北部で考えられている精霊であり、妖怪の一種です。
2,3歳から10歳くらいのおかっぱ頭で赤い顔をしているとい
う。ザンキボッコ、ヘヤボッコ、クラワラシまどいろいろな呼び名
があり、土地の由緒ある古い家の奥座敷や納戸、土蔵に住んでいる
という。
座敷わらしは家についた精霊なので、その家の者にしかみえない
といい、座敷わらしが家にいるあいだは、家が栄え、出ていくと衰
えるとされています。家の守護神として、座敷わらしがいることを
誇りにし、他の人もうらやましがり、尊敬する地方もあります。
座敷わらしは寝ている人の枕がえしのいたずらをするくらいで、
他に害はなく、村の川や淵から現れたりする例もあり、河童などに
混同されることもあるそうです。
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■(6)ショウヅカバアサン
お寺の本堂のすみに、エンマさまとならんでオッカナイ顔をした
お婆さんをよくみかけます。ショウヅカバァさんとも奪衣婆(だつ
えば)ともソウヅカババアともいい、山村では山姥(やまうば)と
もいっている鬼ババァです。
ショウヅカバァさんは葬頭河(そうづか)婆さんのなまったもの。
たかが婆さんなどとあなどってはいけません。あの世との境にある
葬頭の河のそばにいて、身の丈16丈というから約50m。ほんと
かいな。
河のほとりで立てひざをして、目を車輪のごとく見ひらき、口を
開き、怒る姿はまさに「この世のもの」ではないのであります。こ
の鬼ババァの仕事といえば、奪衣婆の文字のとおり葬頭の河を渡ろ
うとする亡者の衣類を奪うこと。
奪った衣類を木の枝にかけ、その枝のしない方で、生前の罪の軽
重を決めるというからランボウな話であります。「二七日のとまり、
初江王(しょこうおう・あの世にいるという十王のひとり)の庁に
つく。すなわち脱衣鬼をめして、罪人の衣を脱がしめ、衣類を木に
かく。枝の低昇に従って罪の軽重を定む。もし慚愧(ざんき)の衣
をきざれば身の皮をはがる。くるしみしのぶべからず」(「浄土見聞
集」)と、どこまでもオソロシクできています。着ているものはと
もかく身の皮まではがされてはたまったものではありません。
「地蔵菩薩発心因縁十王経」というお経の中にも、「葬頭河の曲、
初江(しょこう)のあたりにおいて官庁相連承する所に前の大河を
渡る。すなわちこれ葬頭なり。官前に大樹あり、衣領樹という。か
げに二鬼が住んでいて、一を奪衣婆、二を懸衣翁(けんえおう)と
いう。……婆鬼は衣をぬがし、翁鬼はそれを枝にかけ罪の低昴(て
いこう)をあらわすす」とあるそうです。
地獄絵の亡者はどれも裸なのが不思議に思っていたがナルホド、
これで合点がいきます。しかし、もう一人の懸衣翁なる鬼はどこに
もみかけないそうです。
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■(7)天 狗
天狗といえば、鼻が高く赤ら顔、一本歯の高いげたをはいて羽う
ちわを持った修験者風のイメージが浮かびます。これを大天狗とい
い、とがったくちばしのあるのがカラス天狗、または小天狗です。
カラス天狗はふつう青色の顔をしています。古い川柳に「ありそ
うでないのが中天狗」というのがありますが、実際には中天狗もい
るそうです。
そのほか、木葉天狗、柴天狗、草天狗、金天狗、銀天狗というの
もあるそうです。天狗は天狐(てんこ)とか、外坊様(げぼうさま)
と呼び、背中に羽をもち、天かける妖怪であります。
ところが天狗の字は天の狗(いぬ)となっています。中国では元
来、天狗とは天かける星・流星やすい星を意味したのでありました。
中国の古書「史記天官集」(第五)には「テングは状大奔星の如
くにして声あり、その下りて地に止まるや狗に類すウンヌン」とあ
り、やはり流星をテング星と呼んでいます。
さてニッポン。「日本書紀」(舒明天皇(637)二月の条)に、
「大星、東より西に流る。すなわち音あり、雷に似たり、時人いわ
く、流星の音なり。またいわく、地雷なりと。これにおいて僧旻(み
ん)僧いわく、流星にあらず、これ天狗(あまつきつね)なり。そ
の吠える声雷に似たるのみ」と何やらコムズカシそうな言葉がなら
んでいます。
この時代にはいまでいうテングのイメージはうまれていないよう
です。平安に入り、だんだんはっきりした天狗像が生まれてきます。
「大鏡」、「宇津保物語」、「栄華物語」などに記載され、「今は昔、
天竺に天狗ありけり」と「今昔物語」にも出てきます。
鎌倉時代からは「平家物語」、「源平盛衰記」などにもゾロゾロ登
場。修験者もそのころ教義的完成をみたこともあって山伏姿がダブ
リ、だいたいいまの天狗ができあがったようであります。
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■(8)風 神
高気圧、低気圧、まして風速計などのなかった大イニシエには、
姿がなく突如として吹き荒れる風は神のなせるわざ以外のなにもの
でもありませんでした。
人々は超人的力をもつ暴風の前に、ひれ伏し、風の神をおだてた
りすかしたりして、祭りあげ、ご機嫌をとるのでありました。
あの「古事記」・「日本書紀」には「吹揆(ふきはら)ふ気化して
神となりし風神」とて、志那津彦命(しなつひこのみこと)と志那
津比売命(しなつひめのみこと)の男女2神を指しています。志那
とは息が長いという意味。昔の人は風は、神の息からおこると考え
ていたようです。
また「和漢三才図会」には「颶(ぐ=最大風速をもった強風の意
味)、按ずるに伊勢、尾張、美濃、飛騨の諸国では不時に暴風がく
ることを一目連(いちもくれん)という。神風となす」とあります。
天気図も気象衛星「ひまわり」もない江戸時代の本に、一目連と、
台風は一つ目だといっているのには、オソレ入ります。
さらに「万葉集」にも「…君が見むその日までには山下(やまし
た)の風な吹きそとうす越えて、名に負へる杜(もり)に風祭せな」
とあります。万葉の時代にも風神祭りがあったのですね。
風神とは、もと風伯または風師とよばれ、中国の古典「周礼」(し
ゅらい)にも、その祭礼を規定しているという箕(き)星のこと。
暦にある二十八宿のひとつで射手(いて)座にあたります。箕(き)
の星座が、農具の箕(み・風をおこして作物の実と殻を分けるのに
使う)に似ているために、風を連想し象徴としたのだそうです。
また、中国に疾風のごとく走る飛廉(ひれん)なる人物がおり、
秦の時代、漢の時代以後、この男を風伯と呼んだりもしたという。
ま、それはともかく、日本でこの風伯を祭った最初の記録は「吾
妻鏡」(あずまかがみ)のもほという。いまでは、ふつうに風神と
いえばあの、風袋を背負った風神サマや、奈良・竜田神社にまつら
れている志那津彦命(しなつひこのみこと)、志那津比売命(しな
つひめのみこと)を指しています。
悪い風をしずめて豊作を祈るため、風神祭や風祭りをします。前
出の竜田神社の風神祭は有名です。台風の通りみちの日本では、か
つてはあちこちで風の被害をしずめようと風祭りが行われたようで
「風祭」という地名が各地にあります。
屋根の上に長い竹ざおをたて、その先に大きな袋をとりつけて、
風の神を袋の中につかまえ、封じこめようとする行事や、竹ざおの
先に鎌をしばり屋根にとりつけて、風神の風袋を切りさいてしまお
うとする「風切り鎌」の行事もあります。
立春から数えて210日目の「二百十日」と旧暦8月1日の「八
朔」(はっさく)は、荒れ日とされ、とくに恐れる日でした。八朔
は農事にも大事な日。せっかく丹精した稲作も、風の神のごきげん
いかんでたちまちのうちに水のアワになってしまいます。
そこで人々は、赤飯をたいてお日待ちしたり、「八朔ぶるまい」
という行事をしてみんなで供食したそうです。なかには餅をついて
祝う所さえあります。
農村に伝わる「獅子舞い」の祭りも風祭りに関係のあるものが多
いという。とりわけ、栃木県の獅子舞いは「千早(ちはや)振る神
の感得があるなれば、あらしするとも作にあたらじ、この獅子は悪
魔はらいの獅子なればあらしするとも作にさわらん」と歌いながら
舞うといい、まさに風害除けのお祭りです。
幣束(へいそく)を神社の境内や、山頂の大木の先端に結びつけ
て、風害よけのまじないをするところもあります。また富山県には、
「ふかぬ堂」という風神堂があとこちにあります。ここは大風が吹
かぬように祈るためのお堂だったといいます。
そのほか、風神をまつる神社は長野県・諏訪神社、風間神社、奈
良県・広瀬神社や、各地にある穴師神社があります。
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■(9)厄病神
厄病神(やくびょうがみ)や貧乏神はみんなのきらわれもの。だ
れだって仲良くしたくはありません。ところが、こ厄病神をりっぱ
な社に鎮座させ、厄神大権現としてまつってある所があります。神
奈川県は秦野市寺山。丹沢ヤビツ峠への登山口、蓑毛(みのげ)の
手前、鹿島神社の末社です。
厄病神は疫病神、行疫神などと同意語として使われ、ほうそう、
麻疹、咳病、赤痢など疫病を流行させる恐ろしい神とされています。
そんな恐ろしい神さまは、手厚くまつり、しずめさせ、厄病神送り
の祭りをして、村から体よく追い払おうとします。
「古事記」(崇神天皇の条)に、多数の人が死んだというのが疫
病流行の最初の記録だという。以後、次々書ききれないくらいの記
述がでてきます。原因は古くは神の祟りとされていましたが、後に
は非業の死をとげて、この世に恨みを残した者のなせるワザとされ
ました。そのうち中国の考えが入り、疫病は、鬼神、疫神、厄病神
のしわざということに落ち着きました。
中世になると、この厄病神は擬人化され、青ざめた、しらがの老
人あるいは奇怪な老婆などの形であらわされます。近世には「餓鬼
草紙」に描かれたやせた裸の鬼の形であらわされ、その形が一般に
定着していきました。
疫病流行には古代から頭を悩ましていました。はやりだすのは春
で、花が散る時、花びらとともに疫病が分散するのだとされ、花が
散らないように鎮花(ちんか)祭をしたそうです。
また疫病は外部から侵入するとも考えました。村境で祈祷(きと
う)をして、しめなわを張って村の中に侵入をふせぐ「道切り」の
行事。あるいは集落のはずれの木にデッカイぞうりをかけて、こん
な大きな者(強い者)がここに住んでいるんだゾと疫神たちをおど
し、退散させようと試みる行事も生まれました。また個々の家では、
社寺から頂いた守り札などを貼り、厄病神の侵入を防ごうとする習
慣もあります。
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■(10)山 姥
山姥も妖怪の一人です。山中に住み、山母(やまはは)というこ
ともあります。山爺、山丈、山父、山童などの山人といわれる一種
です。
そもそも深く高い山は、里の人たちとは別の人種が住み、想像も
できない生活があると思われていました。その人たちを山人といい、
それは山窩(さんか)や木地屋(きじや)などのイメージがダブっ
ていたのだろうと考えられています。
山姥は人を殺して食うというコワーイ者として語られます。道に
迷った牛飼いをとって食おうとした「牛方山姥」の話、飯を食わな
い女というので喜んで妻にしたら、実は山姥だったという「食わず
女房」の話などがそれです。
また、歳末の市がたつ日には、山姥が買い物に現れ買いものをす
るという。この山姥から貰った銭には福があるという。また山姥が
持ってきた徳利に酒をついで売ったものがそれにあやかり、大金持
ちになったなど、福の神のような話も伝わっています。
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■(11)雷 神
雷……強い上昇気流によって発生した積乱雲に伴っておこり、雲
と雲との間、雲と地物との間に生ずる放電現象をいう。上昇気流を
おこす原因の違いによって熱雷、界雷、渦雷などに分けるが、実際
にはこれらの原因が複合する場合が多い……。
百科事典をひくと、このくらいはスラスラと出てきます。こんな
科学的に解明されたキョービでも、雷はこわいもの。ゴルフ場のよ
うな原っぱ、山のてっぺんでもゴロゴロやられたらもう、熱雷もヘ
チマもありません。ただ逃げまわるだけ。毎年何人かは亡くなって
いる始末です。
ましてや何も知らないムカシの人たちは、ただひたすら神の怒り
として恐れおののき、畏怖したにちがいありません。
雷は神鳴りの意味。「古事記」の中に伊弉冉尊(いざなみのみこ
と)が亡くなり、夫の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉国(よ
みのくに)に妻に逢いにいき、その死がいを見て驚きます。
その姿は「蛆(うじ)たかれ(肉が)とろぎて、頭には大雷居り、
胸には火(ほの)雷居り、腹(みはら)には黒雷居り、陰(みほと)
には折(さく)雷居り、左の手(みて)には若雷居り、右の手に伏
(ふし)雷居り、併せて八(やくさ)の雷神(いかづちがみ)成り
居りき」というものすごさ。荒ぶる神なのであります。
雷を「いかづち」とも読ませます。「いか」とはイカメシイの厳。
「づち」は「みずち」のづち、すなわち蛇の精霊のことだという。
そういえば「日本書紀」、雄略天皇の小子部連螺?(ちいさこべの
むらじすがる)という人が、大和三山の雷神をつかまえて天皇にみ
せたところ、その神体は大蛇であったと出ています。蛇が長じて竜
となり、竜神となったのがイカヅチだとも思われていたようです。
また雷光を稲妻(いなづま)といいます。雷の持ってくる雨は、
稲の生育にかかせないもの・雷は作神であり、雨乞い神として信仰
されたのであります。一方、雷は獣の仕業と考えられたこともあり
ました。「今昔物語」に、越後の国の神融聖人が雷を捕まえ、かん
がい用の水を送れば天に帰してやるといった。そして良水を得たな
どと出ています。昔は雷は雷獣で、狸、狢(むじな)、狼、狐、猫
のようなものを連想していたようです。
江戸時代の国語辞典「倭訓栞」(わくんのしおり)には雷獣を「名
和乙酉二年(1765)の七月に、相州雨降山(神奈川県丹沢の大
山)に落ちたるも猫より大きく、ほぼイタチに似て、色、イタチよ
り黒し。爪五つありて甚だたくまし。先年岩附に落ちたるもほぼ似
て胴短く色灰色也といい、又尾州知多郡の寺に落ちて塔にうたれ死
にたるもネズミにて犬の大きさ也といえり」と表現しています。
これらの雷獣は、秋に穴に入って眠り、春には穴から出てきて活
動する……雷獣は冬眠すると考えていたのですね。
落雷のあとは神聖な場所として扱い、落ちた木は神秘な木とされ
注連(しめなわ)を張り、そこが田んぼならモリ(塚)として、畑
なら作物をつくらなかったという。
雷が落ちるとその高圧の電流で砂がとけて塊(かたまり)になり
ます。この塊を雷石(ファルグライト)といい、ご神体とする所も
多いそうです。
トツゼン登場するのは菅原道真公。左大臣藤原時平におとしいれ
られた道真が雷神となってたたり、京都の街では、あちこちでピカ
ッ、バリバリ、ドーンというすさまじさ。しかし、道真の邸があっ
た桑原だけは一度も落雷しなかったという。そこで人々は雷が鳴る
と雷よけに「くわばら、くわばら」といって逃げたといううそのよ
うな本当の話です。
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