第6章・病気の神

▼目次

・(1)いぼ神 ・(2)咳の神 ・(3)とげ抜き地蔵
・(4)歯痛の神 ・(5)ほうそう神 ・(6)耳の神
・(7)目の神

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■(1)いぼ神

 手や足にできるいぼは、生命にどうのこうのというのではありま
せんが、やはり気になります。そこで昔の人は神さまに願をかけて
治そうとしました。

 いぼ神は、いぼとり神、えぼ神、いぼなおし神などの名で、いま
でも各地でまつられています。いぼ神といっても統一された神では
なく、石であったり、地蔵さまであったり、池の水であったり、そ
の地方地方でさまざまなようです。

 まず、いぼ地蔵。いぼの数だけ石をあげ、また借りてきた石でな
ぞるとなおるというもの。荒なわで道祖神をしばり、いぼがとれる
となわをほどいて、願ほどきするものなどがあります。

 イボといえば、タコのイボイボ。そんなことから、たこ薬師の境
内の石を拾ってなでるとか、やはりイボイボのあるヒキガエルから
の連想で……ご神体をカエルそっくりの「蛙石」とし、そこを流れ
る水で洗うとか、いぼ石をまつってそれで患部をこするなどいろい
ろな形があります。

 神奈川県山北町の丹沢湖からトンネル上の三神峠に登ると、草の
中に仏像が3体ならんでいます。右側の石像は前が割れている神像
が大道祖神(オオザイノカミ)と呼ばれるいぼ取りに効験ある道祖
神だという。

 この神に願をかけるには神像を荒縄でしばりあげ、イボがとれる
とほどくという。つまり神さまを脅かすわけです。いまでは人の通
りもなく、せいぜい大野山(724m)からのハイカーぐらいです
っかりさびれています。

 

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■(2)咳の神

 風邪やゼンソクで咳の止まらない子どもは苦しそうで、親として
は見るにしのびません。咳の神はせきと読める漢字に置き換えられ
ており、各地にある関、堰、石(せき)、尺(せき)などの字がつ
いている神さまはたいがいがそうだそうです。またほとんどが祠に
「シャモジ」を供えています。

 願をかける人はそれを借りてきて、自分ののどをさすります。咳
が出るのがなおったら新しい「シャモジ」を添えて返す習慣があり
ます。シャモジは食べるものを盛る道具なので、口を守り、のどの
咳をしずめるというわけです。

 江戸も後期、文政年間の本「野乃舎随筆(ののやずいひつ)」に、
「江戸葛飾の亀戸村に、<オシャモジ神>というホコラがあってその
前にシャモジがたくさん積んである。咳の神で祭神は石凝姥命(い
しこりどめのみこと)だという」とあります。石凝姥命は鏡を鋳る
石を司る神のこと。咳神が石神、音読みでシャクジン、なまってシ
ャモジ。そのため咳の神にはシャモジなのだそうです。

 ちなみに石凝姥命は「日本書紀」に出てくる神さま。「古事記」
では伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)と書き、(天石屋戸
の条)に「鍛人天津麻羅(かぬちあまつまら)を求(ま)ぎて伊斯
許理度売命に科(おお)せて鏡を作らしめ……」とあります。

 

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■(3)とげぬき地蔵

 木材のとげ、バラのとげ、これも簡単に医者に行けなかった昔は
神に、仏に頼るのでありました。その一つ、あまりにも有名な東京
・巣鴨のとげぬき地蔵があります。ここの本尊は延命地蔵菩薩です。

 縁起によれば、江戸時代の正徳3年(1713)5月こと、小石
川の田付又四郎の妻が怨霊にとりつかれ、25歳までしか生きられ
ないという。そこで夫は日ごろ妻が信仰していた地蔵尊に願をかけ、
妻の病気の治るのを祈り続けていました。ある夜、夢の中に不思議
な僧があらわれお告げをされました。

 目をさますと夢の僧がいったとおり、枕元に自然木の地蔵尊影が
おかれています。夫はお告げの通り、1万体の地蔵尊影を印肉で写
して両国橋から川に流しました。それ以来妻の病気は日に日に良く
なり、11月には床をはなれたという。

 夫がこのことをある家で話していると、そばで聞いていた西順と
いう僧がその御影(みえい)を欲しいとのたっての頼み。又四郎は
持っていた2枚を僧に渡しました。西順は大名の毛利家に毛利家に
出入りしている僧でした。

 正徳5年(1715)のある日、その毛利家の御殿女中が誤って
口にくわえていた針を飲み込んだ飲み込んでしまったから大変で
す。苦しむ女中に医者も手がつけられません。そこで西順が地蔵尊
のお札を飲ませたところ、女中は陰影と一緒に針を吐き戻したとい
う。しかも不思議なことにお札は針に刺し抜かれていたというので
す。それ以来、とげぬき地蔵は有名になり、庶民からとげ抜き、病
気が治る神として信仰されるようになりました。

 私の育った千葉県でも、近所の人たちが忙しい農作業の合間をぬ
っては東京・巣鴨におまいりに。いまから考えると、あれも娯楽の
少ない時代の楽しみの一つだったようです。

 

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■(4)歯痛の神

 虫歯の痛みもいかんともしがたく、その痛さは経験したものでな
いと分かりません。昔の人は痛みがうすれるのを神に祈り、ただ待
つばかりでありました。かつてはぐらついた虫歯を指で抜く職業の
人がいて村々をまわっていたという。

 虫歯の歯痛を治してくれる神は、土地々々の神社であったり、地
蔵であったり、稲荷であったりします。虫歯にかかると歯が茶黒く
なります。そこで歯黒(はぐろ)は羽黒で、山形県の羽黒山を本源
とする羽黒社が歯痛の神という。

 羽黒社の石碑や祠の前には楊枝や米を供えて祈り、痛みがとれる
と萩のはしや歯ぶらしでお礼まいりをします。このような小さなホ
コラや出羽三山(羽黒、月山、湯殿)と彫った石碑は全国にありま
す。

 また、長野県の戸隠神社も歯痛の神だという。願をかける人は梨
を供えます。そして3年間の梨断ち。こうして歯痛がなおったら、
梨を今度は川に流します。

 江戸中期の安永年間の本「譚海(たんかい)」(津村正恭著)巻2
に、信州戸隠明神の奥ノ院は大蛇がいるという。……戸隠へ歯痛治
癒の願をかけるには梨を奉納する。神主は手を後ろに回し、梨を折
敷(おしき・神饌の膳)に乗せて捧げ、後ろ向きにいざって後ずさ
りして奥ノ院に近づき、岩窟の前に梨をおいてふり返りもしないで
帰る。神主が岩窟から10間(18.18m)も離れないうち大蛇
が梨を食べる音が聞こえて来るという」と書いてあります。

 一方、梨を川に流すには、神饌の膳に梨を乗せて流すという。江
戸の両国橋や永代橋から流した梨がどういうわけか信州に流れつ
き、歯痛がなおるとまじめに信じていたようです。

 

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■(5)ほうそう神

 ほうそう(疱瘡)とは天然痘のこと。1980年に世界から撲滅
が確認されましたが、それ以前はもっとも恐ろしい伝染病でありま
した。

 疱瘡の日本でな最初の記録は「続日本紀」(「日本書紀」につづく
勅撰の歴史書)にある735年(天平7)流行。筑紫国太宰府で疱
瘡の患者が発生し、猛烈な勢いで広がり死者が多数でたため朝廷は、
諸国の寺々に金剛般若経を読ませ悪疫退散の祈願を命じたとありま
す。

 その後、何回も流行、その度に人々はただ神仏に祈り、ほうそう
神としてまつりあげて、鎮めさせ、おひとり願うため「ほうそう神
送り」の祭りをするのでした。

 ほうそう神は、きまった祭神とか本尊などはなく「疱瘡神」と彫
った石碑や、ホコラなどが神社の境内にまつられているものがほと
んど。また、ほうそうの瘡はかさと読むため、カサ神ともいいます。
 カサは笠に通じます。そこで、笠森寺や笠森稲荷はほうそうのか
みでもあり、皮膚病の神にもなっています。カサから守る、瘡守(笠
森)というわけです。そのほか、カサ大明神というのもあります。

 

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■(6)耳の神

 同じ年齢の人が死んだりすると、耳をふさいで死の感染から逃れ
ようとするおまじないがあります。また、おない年の人が死ぬと耳
鳴りがするとか、片方の耳がかゆいときはだれか悪口をいっている
といい、両方がかゆいとほめられている…。はては耳の中がかゆい
とお金が入ってくる…などともいいます。

 耳は五感を受けもつものの中でビンカンな聴覚の一つ。それだけ
に人々は耳の神を大切にし、耳の病いをなおすため、神さま願をか
けて祈るのでありました。いまなら、、眼が悪いのなら眼科、耳な
ら耳鼻科と医者通い。しかし昔の人はそうはいきません。あっちの
ドウロク神がご利益あらたかと聞けばとんで行き、こっちの耳地蔵
が効くといわれれば、はせ参じるのでありました。


 この耳の神、全国にいろんな形でまつられています。ある地方で
は薬師堂であったり、幸神、耳塚、耳明神社、ミミゴさま、耳吹地
蔵、立聞きさま、耳の神さんなどなどの名でまつられています。

 これらの神への祈願の方法は、耳に穴をあければものが聞こえる
ようになるだろうというところから、おわんに穴をあけて糸を通す。
底の抜けたひしゃくを奉納したりします。なかでも多いのは、平た
い丸石に穴をあけて供えるもの。またどういうわけか、カタツムリ
をあげたり、自分の年の数だけセミの殻を供えるもの、わらじ、火
吹き竹を奉納するものまでありさまざまです。

 ここ千葉県の市川市では、底に穴をあけたおわんにナワを通して
ホコラに供え、耳の病いの治癒を祈ります。そばにワラジもかかっ
ています。また神奈川県・裏丹沢ふもとの津久井郡では、さいの神
のホコラに平べったい小石に穴をあけて奉納してありました。時を
越えて昔の人の祈りが伝わってくるようです。

 

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■(7)目の神

 11世紀(平安時代後期)の「後三年の役」で、左の眼に敵の矢
がささったまま、その相手を倒したという豪傑・鎌倉権五郎影政。
また伊達政宗、森の石松、架空ではありますが丹下佐膳。

 これらはみな片目の英雄。昔から片目のものを尊ぶ習慣により、
尊敬されついに祭神にまで奉られるのであります。なかでも鎌倉権
五郎は鎌倉・御霊(ごりょう)神社にまつられているほどの信仰の
され方です。

 片目の神の伝説も各地にあり、箱根の権現さまは松葉で片目をつ
ぶしたといい、箱根神社の付近には松の木が一本もないというナハ
シまであるとかないとか。また片目の魚は神の使いとし、また神饌
(しんせん)として供えたりもします。医学が進歩して、本気で参
詣する人は少なくなったけれど、それでも古くから信仰される眼の
神にはいまでもお参りをする人が絶えません。

 目の神と名のつくものに、いわく、薬師さま、いわくたにし不動
尊、薬王院、こんにゃくえんま、豆の木地蔵、目なし地蔵、めがね
弘法、生目神社、盲神祠などなど各地にも眼の神がたくさんありま
す。

 そのなかでも、昔からおまいりされてきたのが薬師さま。薬師如
来で有名な寺院には「め」の字を書いた絵馬や穴あき銭で「め」の
字をつくった絵馬が奉納されているのをよくみかけます。薬師堂の
境内の影向石のくぼみにたまる水を眼薬にしたという記録や、境内
に湧く清水で眼を洗うとよいという信仰もあります。

 絵馬のかわり半紙に「め」の字を書いて薬師堂に願かけをすると
ころもあります。一枚の半紙に「め」の字や絵を八つ。これは病眼
(やんめ)の意味。九つの「め」の字を書いたり、その他、半紙の
中に5字ずつ、2列、計10文字を書いたのは鳥眼(とりめ)が遠
目(とおめ)の人と、判じもののような願掛けまであります。

 

 

 

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第7章妖怪・悪神・地獄