■(1)役ノ行者
登山やハイキングのおり、山中の神社、山麓の寺院で、役ノ行者
(えんのぎょうじゃ)の石像や木像をみかけます。白いひげをたら
し、錫杖(しゃくじょう)という杖を持ち、一本歯の高げたをはい
ています。
役ノ行者とは奈良時代の山岳修験者で修験道の祖であります。大
和国(奈良県)南葛城郡茅原(ちばら)の出身とかで、本名は役ノ
小角(えんのおづぬ)。役ノ公(えんのきみ)、役優婆塞(えんのう
ばそく)、小角仙人などとも呼ばれています。
役ノ行者は、舒明(じょめい)天皇6年(634)の正月生まれ
だとされ、子どものときから神童といわれ、32歳のとき、葛城山
(いまの金剛山)に入り山岳修行。ついに思いのままに行動できる
呪術(じゅじゅつ)を得たといいます。
奈良時代の歴史書「続日本紀」(しょくにほんぎ)などの伝説に
よれば、役ノ行者は、前鬼(ぜんき)と後鬼(ごき・夫婦鬼だとも
いう)の2鬼神を使役して、水汲みから、まき取りをさせ、いうこ
とを聞かないと呪縛したというからモノスゴイ。そして吉野金峰山、
大峰山、高野山、箕面山などを開いていったというのです。
ところが、大陸の新思想をとり入れ、独自の修験道確立をねたん
だ、保守的な神道側のデマで伊豆大島に「島流し」になります。6
99年(文武天皇3年)のことでありました。
朝廷からゆるされて都に帰ったのは68歳、701年(大宝元)、
あの大宝律令の年でありました。そしてその年6月7日、摂津国箕
面(みのも)山から昇天したとも、肥後国平戸港から唐に渡ったと
もいわれ、いろいろな伝説が入り乱れて、その消息はナゾにつつま
れているのです。
時代は下り、修験道の活躍により、役ノ小角はますます神格化さ
れ、平安中期には、「役ノ行者」という語も熟し、修験道の開祖と
してまつられるようになります。さらに江戸中期には「神変大菩薩
(しんぺんだいぼさつ)」という諡号(しごう)までもらい、山岳
信仰のなかで、ますます伝説化されていくのでありました。
なお、役ノ小角については「日本霊異記」、「本朝新仙伝」、「今昔
物語」、「扶桑略記」など、たくさんの本に書かれています。
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■(2)弘法大師
弘法大師とは平安初期の僧空海の諡名(しごう)。真言宗の開祖
で、文学、美術、教育にも携わり漢詩や漢文など後世にも評価され
るお坊さんです。一方、各地を行脚し、いろいろな奇跡を起こし弘
法伝説として現代にも語り継がれ、お大師さんとして民俗神にまで
なっています。
弘法大師空海は774年生まれ、835年没だという。俗姓佐伯
氏。いまの香川県屏風浦で出生。18歳で大学の明経科入学。24
歳で名誉といわれる「三教指帰」を著し31歳で唐に渡り、高野山
で62歳の人生を閉じるまで、われわれには計り知れない、あれこ
れがあり苦行難行を乗り越え、その業績数知れず……なのでありま
す。
それ故に、大師講とも習合し、杖をさした地面から塩分を含んだ
水が出るという、塩井戸伝説、あるいは清水をもらったお礼に泉を
つくってやる弘法清水など、
弘法伝説は全国数限りなく伝わって
います。
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■(3)惟喬親王
お椀・お盆など丸いくりもの木地を作る工人を木地屋(きじや)
さんといいます。ロクロという特殊な工具を使うため、ロクロ師と
も呼ばれます。木地屋の祖神は惟喬(これたか)親王という。惟喬
親王がそのロクロを発明したというのです。
惟喬親王(844〜897・平安初期)は文徳天皇の第一皇子。
右兵衛督紀名虎(うひょうえのかみきのなとら)の女(むすめ)静
子を母としています。ところが皇后の藤原明子に惟仁(これひと)
親王が生まれ、その皇位争いは藤原良房などの陰謀うずを巻き、相
撲で決着させようとなどといい出す始末。
「位争ふ角力とは下卑(げび)たこと」、「御位はたった一番勝負
なり」という古川柳もあり、庶民からもからかわれれています。
結局皇位争いに破れた惟喬親王は、比叡山ろくに隠棲(いんせい)
します。その後、滋賀県小椋(おぐら)村(いまの東近江市)に移
って出家。しかし親王は、お寺で読経中に法華経の経軸からロクロ
を考えつき、その製造方法を従臣に伝えたという。
その後、ロクロ師となった従臣の子孫は、木地屋の許可証をもち
全国をめぐるのも山中に入るのもフリーパス。こうして各地に散ら
ばった木地屋たちは、山岳地で祖神惟喬親王の画像をまつり、朝晩、
その繁栄を祈ったということです。
ちなみに木地屋の本源とされる滋賀県旧小椋村の蛭谷集落に筒井
八幡神社が、君ヶ畑集落には太皇大明神と、その祖廟といわれる神
社が2社あるという。以前はそれぞれ木地屋の許可状や祖神の画像
の頒布していましたが、いまは神官もいないようなさびれた神社に
なっているそうです。
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■(4)実盛神
昔から稲にとりつく害虫は農家にとって憎っくきもの、そこで考
えだしたのが、「虫送り」という害虫を祭りすてる集団呪(じゅ)
法。いまでも6月ごろの行事として、観光のイベントとして行われ
ているようです。
この行事は、斉藤別当実盛(さねもり)と呼ぶわら人形をつくり、
これもワラで作った馬にのせて、カネやたいこでにぎやかしながら
田の中を練って歩きます。そして海や村境につくと、害虫が取りつ
いた人形をたいまつで焼き捨てたり、川に流したりします。 わら
人形はサネモリさんともいい、胴体には食べ物を入れる箇所をつく
ったり、また害虫を草の葉につつんで手に持たせる地方もあります。
斉藤別当実盛とは平安末期の武士の名前。1183年(寿永2)、
平維盛(これもり)に従って北陸に出陣、源義仲と戦いましたが、
加賀の篠原の戦いで手塚光盛に討たれてしまいました。当時73歳。
老人とあなどられないよう白髪を黒く染めて交戦したという。あと
で首を洗われて義仲をビックリさせたというオシャレ老人だったと
いう。
この実盛が、なぜ虫送りという行事の主「実盛神」になったのか
……。加賀篠原の戦いに敗れた平氏の軍勢はクモの子を散らすよう
に敗走。その中で1人とどまった別当実盛は、手塚光盛と一騎打ち
となりました。
しかし悲しいかな老齢の身、イネの切り株にけっつまづいて討た
れてしまいます。悔しい!実盛のその怨念がイネの虫になって稲作
に害を与えるという悪神説があります。
また一方、サノボリ(田植えが終わって田の神を山に昇らせる祭
り)がなまってサナブリになり、さらにサネモリと発音するように
なったとの説もあります。さらに、イナゴ類をベットウとも呼びま
す。虫送りで焼いた虫を埋めた塚をベットウ塚といい、それを斉藤
別当実盛の塚と勘違いした者が、各地に実盛伝説が伝えたという説
もあります。
またまた、サネモリとは女性のナニのナニが盛り上がったさまを
いう説もあります。サネモリ神は馬に乗ります。馬は男性の絶大な
モノを意味するという。このふたつを合わせて、イネの豊作(生産)
を祈り、予呪するのだという説。大変な話になってしまいました。
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■(5)猿田彦神
山里の村はずれに、猿田彦神(さるだひこがみ)と書かれた石碑
が建っています。
猿田彦…? その容貌はというと「ソノ鼻ノ長サ七咫(ななあた
・非常に高いこと)、背(そびら)ノ長サ七尺余リ。当(まさ)ニ、
七七尋(ひろ)ト言フベシ。且(また)、口尻(くちわき)明ルク
輝(て)レリ。眼ハ八咫(やた)ノ鏡ノ如クシテ、テリカガヤケル
コトアカカガチ(ホウズキのこと)ニ似レリ……」と「日本書紀」
に書かれています。
鼻あくまで高くして、口元明るく、目は鏡のように輝き、眼力に
優れ赤ら顔で相手をおびえさせる怪異な風貌…これが猿田彦の姿で
あります。よく神社の例祭のみこしを先導する鼻高で赤ら顔の神さ
まをみかけますが、あれが猿田彦神です。
今度は「古事記」でまいります。「古事記」(上巻)天孫降臨の条
に天照大神(あまてらすおおかみ)から「天孫日子番(ひこほ)の
ニニギノ命は、豊葦原中つ国(日本)へ降りよ」と命ぜられ、三種
の神器を携え、神々を従え、雲を押し分けて日向の高千穂の峰に降
臨します。
このとき天の八衢(やちまた・八方に道のある間違いやすい分岐
点)で高天原と豊葦原中つ国を明るく照らしている神がいるのが見
えます。猿田彦だったのです。猿田彦は使いの天鈿女命(あめのう
ずめのみこと)に「ニニギノ命のご先導を申し上げようと出迎えて
いたのだ」と答えます。
一行はこうして心強い道案内のお陰で無事、高千穂の峰に降りる
ことができました。このことから、猿田彦は道祖神にも通じ、また
庚申の申がサルとも読むところから、庚申さまにも置きかえられ、
村はずれで頑張っているのです。ゴクロウさまですッ。
「日本書紀」によれば、天鈿女命(女命)は分岐点で猿田彦に初
めて会ったとき、胸乳をあらわにし、裳帯(もひも)を臍の下に垂
らし…とキワドイことをしたらしい。そのせいかふたりは後に結婚
するのだという物語に発展していきます。
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■(6)聖徳太子
山村などで「聖徳太子」と刻んだ石碑を見かけます。聖徳太子は
574年(敏達天皇3年)に生まれたということになっています。
名を豊聡耳(とよとみみ)とも上宮(うえのみや)ともいい、厩戸
豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのおうじ)と呼ばれていました。
聖徳太子は日本で初めての成文法、十七条憲法を制定し、法隆寺、
四天王寺などを建立したことで有名です。また仏教にも帰依し「三
経義疏(さんぎょうぎしょ)」も著し、日本の釈迦と仰がれ民衆の
間にいろいろな伝説が生まれます。
富士山に最初に登ったのは聖徳太子だという伝説があります。甲
斐の国から献上された馬に乗り、空を飛び富士山に登り、三日後に
都に帰ってきたと平安時代の本「聖徳太子伝暦」にもあります。
聖徳太子は、飛鳥時代の政治家、宗教的思想家としてあまりにも
有名。622年皇太子のまま49歳で死去。
太子は寺院建築の祖神ともされています。太子が亡くなった日が
2月22日という伝説から、この日を「太子講」の日と定められ、
講の本尊・守護神として大工さんなど職人たちが営んでいます。
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■(7)為朝神
剛毅な性格、天下に聞こえた弓の達人、源為朝(みなもとのため
とも)も神さまとしてまつられます。源為義(みなもとのためよし)
の第8番目の子で鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)とい
い、保元の乱(1156)に父の為義とともに崇徳(すとく)天皇
方につき奮戦しましたが、後白河天皇方の夜襲に敗れ伊豆大島に流
されました。
しかし、この地もたちまち自分の配下におさめ、はては伊豆諸島
を略取、軍勢を整えるしまつ。そのため、1170年工藤茂光の追
討を受けて破れ、自刃するのでありました。
この超人的豪傑の死を惜しみ、いろいろな伝説、武勇伝がうまれ
ます。大島から逃れ沖縄へ行き、もうけた子供が沖縄王位の祖、舜
天(しゅんてん)王だという。また伊豆大島でつくらせた為朝の木
像が疱瘡のたたりをするというので、疱瘡神になった、などなど伝
説は全国的にあります。
ここ、山梨県大月市の滝子山(1590m)近くにも鎮西ヶ池と
いう為朝にちなんだ伝説の池があり、そばに白縫姫(しらぬいひめ)
をまつった神社があります。東麓の恵能野(えのうの)集落には為
朝の末裔と称する家もあり、為朝大神の祠に白縫姫や為若を祭って
あるという。土地の人は滝子山を鎮西ヶ山と呼び、為朝にちなむ故
事も伝えています。
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■(8)将門神
「胎内の子は将来、天下に災いをなす」という占い師の言に、く
りぬき舟に乗せられ海に流された平良将(たいらのよしまさ)の妻。
それが海岸に流れつき、村人の手当てで生まれたのが平将門(まさ
かど)だとする千葉県九十九里浜の伝説があります。
ここが将門のとりでの跡で、将門の影武者7人がいた所だとか、
将門をうらぎった愛妾・桔梗をきらって、キキョウを植えない地域
など、将門伝説も多く分布、将門神社やマサカドサマというホコラ
もあります。
平将門とはご承知のように平安中期の関東の武将。出生年不明。
940年没。上総介(かずさのすけ)として東国に下った桓武(か
んむ)平氏高望(たかもち)の孫。鎮守府将軍良将(よしまさ)が
父。下総北部(茨城県結城・猿島郡地方)に根拠を置く豪族だった
が若い頃父を失い上洛、藤原忠平に仕えます。
ところが、おじに領地を奪われてアタマにきた将門は、豪族常陸
大掾(ひたちだいじょう)源護(まもる)の娘むこである国香(く
にか)、良正、良兼などのおじと戦い、源護と平直樹の争いにまき
込まれていきます。
天慶(てんぎょう)2年(939)11月、常陸の国司を攻撃し
国府を焼き払い、つづいて下野(しもつけ)、上野(こうづけ)の
国府も占領、同盟者を国司に任じ、自ら新皇と称して関東自立の構
え。
こうなればもうりっぱな中央政府に対する反逆者。翌年2月、藤
原秀郷(ひでさと)らの連合軍に討たれ、新皇将門の関東支配はわ
ずか数カ月で幕を閉じます。(承平・天慶の乱)。
しかしながら、中央政権に反旗をひるがえす将門の反逆精神は、
関東民衆の共感を呼び、英雄視する傾向は時代とともに強まります。
中世には千葉氏が妙見信仰とからめて、将門の後継者と自称する
説も出現、将門をまつった塚だという将門塚もあります。東京・神
田明神や各地にある将門神社なども将門をまつります。
奥多摩一帯・秩父一帯に山にも将門にちなんだ山が多くありま
す。東京都奥多摩町、JR青梅線鳩ノ巣駅の近くには将門神社、奥
多摩山中、雲取山(2017m)東南にある七ツ石山(1757m)
は将門と6人の影武者の伝説もあります。
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■(9)頼政神
源氏だ平氏だとつづくようで恐縮です。今回はヌエ退治で有名な
源頼政神(みなもとのよりまさ)であります。首都圏のハイキング
コースとして人気の丹沢・神奈川県山北町丹沢湖へ向かうトンネル
手前の山村神縄集落に頼政を祭ったその名も「頼政宮」があります。
「新編相模国風土記稿」(足柄上郡神縄村の条)に、「頼政社、村の
鎮守、神体は木造長五寸……」との記事もあります。
さて、夜ごとに近衛天皇をおそう「ものの怪」の黒雲。警護の源
頼政が矢を放ってみると落ちてきたのはナント、頭がサルで体はタ
ヌキ、尾はヘビ、手足はトラで鳴き声はヌエという化けもの。「平
家物語」に出てくるお話です。
源頼政は源平争乱時代の武将。「平治の乱」には同族の義朝をす
て、平清盛方につきました。「平家にあらずんば人にあらず」の時
代、源氏の身ながら従三位(じゅうさんみ)という破格の待遇を受
けます。
1180年(治承4)源氏の世にするため、以仁王(もちひとお
う)にすすめ平家討伐をはかりましたがばれてしまい、平家の追撃
にあい、あえなく自害をします。
それをあわれみ種々の伝説が生じます。茨城県古河市には、家臣
の河辺三郎行吉が山伏姿になり、頼政の首をこそり運び出してつく
った頼政の墓と祠があるという。その他、各地に頼政塚、その他神
社に、祭神にと数多くまつられています。
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