「第4章・むらの社・信仰」

▼目 次

 ・(1)愛宕信仰 ・(2)淡島さま ・(3)飯綱権現 ・(4)厳島神社
 ・(5)稲荷 ・(6)王子信仰 ・(7)温泉神 ・(8)春日神社
 ・(9)熊野信仰 ・(10)十二所神社 ・(11)神明社 ・(12)住吉神社
 ・(13)諏訪神社 ・(14)浅間神社 ・(15)帝釈天 ・(16)力石
 ・(17)茅の輪 ・(18)鎮守神 ・(19)八王子神社 ・(20)御子神社
 ・(21)三島神社 ・(22)妙見社 ・(23)明神社 ・(24)若宮

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■(1)愛宕信仰

 全国のあちこちに愛宕山(あたごやま)という山があります。た
いてい山頂に愛宕神社がまつられ、火伏せ、防火の神・愛宕さまと
してあがめられています。

 この本社は、京都市左京区嵯峨愛宕町の愛宕神社で、祭られてい
るのは伊弉冉尊(いざなみのみこと)、雷神(いかづちのかみ)、迦
倶槌神(かぐつちのかみ)など数神という。迦倶槌神は、火の神。
火の神を生んだ伊弉冉尊は大事なところを大ヤケドをして死んでし
まいます。

 怒った夫神・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、迦倶槌神の首を
斬り落としたというから神さまといえど、モノスゴイ。

 愛宕さまの「あたご」の意味は、この火の神が仇子(あだご)な
どでついた名だとか。また、名づけた者から見て反対側とか日陰と
いう意味をもつ地形語「アテ」からきたのだという説(柳田国男)
もあり。

 愛宕山はまた、神仏習合によって修験の霊場でもありました。祭
神は愛宕山権現太郎坊という大天狗。本地仏を勝軍地蔵(しょうぐ
んじぞう)とし、ここもまた武士の信仰をあつめたそうです。

 

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■(2)淡島さま

 婦人病の治療や、子授け、安産の神として淡島さまがあります。
全国各地に淡島神社や淡島堂としてまつられています。和歌山市加
太(かだ)にある淡島神社が根本社。古くは加太神社といい、まつ
ってあるのは、少彦名命(すくなひこなのみこと)、大己貴命(お
おなむちのみこと)、神功(じんぐう)皇后である息長足媛命(お
きながたらしひめ)の三柱。平安時代の「延喜式」にも載っていま
す。

 また淡島様は淡島明神とも呼ばれ、住吉大神の妃(きさき)神・
婆利塞女または頗梨采女(はりさいにょ・天照大神の6女)だとも
いいます。それが白血長血の病で、夫婦の道にさわりが出来たため
住吉神社の門扉にのせられ海に流されたという。

 そして流れ着いたのが紀州の淡島、3月3日のことでありました。
ここにまつられた淡島様は、神びなを作ってその病を託し海に流し、
婦人病で苦しむ人たちを救けることを誓ったという。

 そんなことから淡島さまはひな祭の神ともされ、女性の味方とい
うことで針供養の針を納めたりしています。

 

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■(3)飯縄権現

 長野県の飯縄山(1917m)の山頂付近には飯縄権現(いいづ
なごんげん)がまつられています。江戸末期までは信濃三大修験道
場の一つとして栄えたところ。いまはそんな形跡もなく、古ぼけた
トタン屋根の小屋に、キツネにのった荼吉尼天(だきにてん)を刻
んだ石碑があるだけです。

 荼吉尼天といえばお稲荷さんですが、ここ飯縄権現も同じもの。
「稲荷神社考後言」に「妖狐をあらわに祀るをおそれ、荼吉尼とと
なえ、摩多羅(またら)神ととなえ、飯縄権現ととなえ、夜叉神と
となえ……」とでています。

 ここは秋葉信仰の秋葉山三尺坊大権現(静岡県秋葉山神社)の出
地との伝説もあります。三尺坊の母は、観音が天狗に変身した夢を
みてみごもったとされ、三尺坊は火伏せの法に通じた観音の化身の
天狗だという。

 飯縄とくれば管狐(くだぎつね)を使う法術の飯縄法が有名です。
おじいさんから一度は聞いたことあると思います。これは巫者や修
験者など飯縄使いが、管狐(子猫ぐらいともネズミほど、またマッ
チ箱位の大きさともいう)を使って人の将来を占ったり、神からの
お告げなど、託宣や呪法を行うもの。近世には邪法とか魔法とされ、
世間をこわがらせてすっかり滅亡してしまいました。

 

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■(4)厳島神社

 農山村をはじめ、都会の路地にも厳島(いつくしま)と書かれた
神社が建っています。この神社は伊都伎島(いつきしま)神社とも
いい、本社は広島県の安芸の宮島(日本三景のひとつ)にまつられ
ています。

 社伝では推古天皇1年(593)の時、広島県佐伯郡の住人佐伯
鞍職(さえきくらもと)という人が、神のお告げによって社殿を造
りまつりはじめたのが最初だとされています。

 平安時代末期、平清盛が安芸守(あきのかみ)として安芸国に在
国中、霊験に感じてのち、家門が栄えたというので、本来の氏神・
平野神社をほっぽらかして、厳島神社を守護神にすべく、デッカイ
社殿を造営してから「厳島大明神」の名は高まったという。

 祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と田心姫(たごり
ひめ)命、湍津姫命(たぎつひめのみこと)。大昔は周囲が約31
キロmの島そのものが神とされ、人も住むこともゆるされなかった。
中世以降、住めるようにはなりましたが、耕作はゆるされず死者も
埋葬しない風習で、いまも葬式をする時は他の町でやるという。

 厳島神社は、各時代々々の権力の保護のもとで維持発展、各地に
もどんどんまつられ海上守護の神として、系統の弁天社を含め全国
に6000社にものぼります。

 

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■(5)稲 荷

 2月の最初の午(うま)の日は「初午」というお祭りをします。
お稲荷(いなり)さんに油揚げを供えたり、笛やたいこのはやしに
のって、ヒョットコやオカメの面をつけて踊ります。

 かく申す私めも幼少のころ、ご幣(へい)を持ったキツネや、ヒ
ョットコの面をつけた上級生のあとを、オカメの面をつけて「悪魔
っぱらい、悪魔っぱらい」ととなえ、踊りながら家々の玄関を3回
まわって、小遣いや米、お菓子などをもらったものでありました。

 初午は稲荷大明神の祭日です。「伊勢屋稲荷に犬のくそ」といわ
れるほど、お稲荷さんのホコラは全国津々浦々に、立派な社殿のあ
るところはもちろん、山村の氏神に屋敷神に神棚の隅、はたまた、
田んぼを見下ろす突っ端などにと、数多く見受けられるのでありま
す。

 そもそもこのお稲荷さんは「稲荷=いねなり」からきたといわれ、
イネナリがイナリになり「稲成」・「飯成」とも書かれます。その神
像の多くは、稲を荷(にな)なった農民の姿で表現されています。
このようにお稲荷さんはあきらかに農業神です。

 春、田の神となって山から降り、子孫の農耕を見守り、秋の収穫
をみとどけ、山に帰って山ノ神となる。稲荷はこの田の神と同一だ
ともされています。

 このお稲荷さんの総元締めは、京都伏見のごぞんじ伏見稲荷大社。
これは711年(和銅4年)2月の初午の日に、帰化人である秦公
伊呂倶(はたのきみいろぐ)が伊奈利山の三ヶ峰に社を建てたのが
起源とされています。

 「山城風土記(古)逸文」にも「風土に曰(いわ)く、伊奈利(い
なり)と称(い)うは、秦中家忌寸等(はたのなかいみきら)が遠
つ祖(おや)、伊呂倶(いろぐ)の秦公(はたのきみ・秦氏の祖先
で氏神的存在の人)稲梁(いね)を積みて富み裕(さきは)いき、
すなわち餅を用(も)ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び
翔(かけ)りて山の峰に居り伊弥奈利(いねなり)生いき。

ついに神の名と為しき。その苗商(すえ)に至り、先のあやまちを
悔いて、社の木を抜(ねこ)じて、家に殖(う)えてのり祭りき(根
のついたままぬいて植えイナリ神の顕現の木とした。のち「験の杉」
と呼んで禍福を占った)。いまその木を殖えて蘇(い)きば福(さ
わい)を得、その木を殖えて枯れば福あらず」うんうんと、イナリ
社の由縁が書かれています。

 稲荷社の祭られる神は、主祭神の宇迦之御魂神(うかのみたまの
かみ・倉稲魂命)のほか、猿田彦神、大宮女命(おおみやめのみこ
と)。このうち宇迦之御魂神の「うか」は「うけ」と同意で食物を
表し、「大殿祭祀詞(おおとのほがいののりと)に宇賀能美麻(う
がのみたま)を稲霊(いねのみたま)と記し、また「神代記」に倉
稲魂(うかのみたま)とあるように「うか」は稲をさしており、や
はり稲荷は稲の神なのであります。

 稲荷神社はその後、仏教の荼吉尼天(だきにてん)と習合して、
玄狐に乗ったその姿にもとづき、キツネを使いとする考えなども出
てきて稲荷信仰はますます盛んになるのであります。荼吉尼天をま
つるものに豊川稲荷が有名です。

 このように稲荷神は平安時代初期、教王護国寺(東寺)と結託し、
その鎮守神とした京都伏見稲荷大社が各地に信仰組織をつくってい
ったり、「稲荷念持(ねんじ)」や「おだいさん」のような民間布教
者が広めます。

 また田の神の神まつりに乗じて広まり、とくに江戸時代中期から
は飛躍的に発展していきました。

 このように全国的に広まった稲荷神、「稲荷神社略」によると分
祠(ぶんし)の神社は30750社あまり、その他会社内、ビルの
屋上、氏神、屋敷神、田畑の高台のホコラなどを入れればまさに数
えきれないぐらいなのであります。

 稲荷神社の鳥居はまた特別で赤く、台輪があり特に目立ちます。

 

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■(6)王子信仰

 王子、八王子、若王子などの地名があるように、かつては王子信
仰もかつては盛んで、王子権現の社があちこちあったそうです。王
子信仰というのは、神が王子の姿のかたちでこの世に現れるという
信仰です。

 王子神の中でも有名なのは熊野の若一王子(にゃくいちおうじ)
権現、祇園(ぎおん)や日吉(ひえ)の八王子権現です。祇園信仰、
日吉信仰、熊野信仰が広がるとともに、全国に王子社が勧請(かん
じょう)されていったという。

 八幡神もその一つ。この神が応神天皇であるとされるのは、応神
は王神で神の子を意味するとか。八幡宮の本源地・大分県宇佐市の
「宇佐託宣集」にも鍛冶の翁が幼童になって竹の葉の上に現れたと
あります。そしてその幼児の言葉から神意を伺おうとします。

 また、王子神の母も巫女(みこ)的性格をもつとか、巫女の託宣
により生まれるということから、母子神としてもまつられています。

 

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■(7)温泉神

 近ごろの温泉ブームで温泉地はいま華やかです。こんな温泉地に
きまって立派な温泉神社がまつられています。また、登山者が多い、
山奥のひなびた温泉の裏山にも小さなホコラがまつられています。

 温泉に入ると病気が治る……その霊力は、湯神とか温泉神として
神格化され、大昔から崇敬の対象になってきました。

 「出雲国風土記」出湯に「一たび濯(すす)げは、形容端正(か
たちきらきら)正しく、沐すれば万の病ことごとく除ゆ」とありま
す。

 また「伊豆国風土記」にも、「大己貴(おおなむち)と少彦名(す
くなひこな)とわが秋津州に民の天折(あからさまにし)ぬること
をあわれみ、始めて禁薬(くすり)と湯泉(ゆあみ)の術をさだめ
たまひき」とあります。

 その他の風土記にも「オオナムチ、スクナヒコナ」の名が登場、
多くは温泉神の祭神は大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(す
くなひこなのかみ)としています。

 温泉神は、ところにより、「うんぜん」、「とうせん」、「ゆぜん」
などとも呼んでいます。ちなみに文字の意味からか病気に御利益の
あるという「薬師如来」を祭るところも多く見受けます。

 

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■(8)春日神社

 春日神社と書いた鳥居のある社もよく見かけます。これは奈良市
春日野町にある春日大社を根本とするもので全国に1300を越え
る分社があるといいます。

 根本社は、春日大明神ともいい、第一殿に茨城県鹿島町の鹿島神
宮の祭神・武甕槌命または建御雷命(たけみかづちのみこと)、第
二殿は千葉県佐原市の香取神宮の祭神・経津主命(ふつぬしのみこ
と)、弟三殿には東大阪市の枚岡(ひらおか)神社の天児屋根命(あ
めのこやねのみこと)、第四殿におなじ枚岡の比売神(ひめのかみ)
の4神をあわせてまつる複合的組織の神社だという。

 もともと、鹿島・香取の神宮は、藤原氏と関わりのある神社で、
枚岡はその祖神をまつる社。そこから藤原氏がこの4神を、一門の
氏神として三笠山の頂上に勧請し、奈良時代、神護景雲(767〜
770年)のころ、いまの位置に移し南向き四殿を建てたという。

 その後、法相擁護(ほうそうようご)の神として伊勢、石清水(い
わしみず)とともに日本の三社(さんじゃ)として庶民に信仰され
ていきました。

 

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■(9)熊野信仰

 昔から和歌山県の東牟婁(ひがしむろ)郡・西牟婁郡、三重県北
牟婁郡・南牟婁郡あたりの熊野の地は、地形がけわしく神秘の霊地
とされ、宗教的な豪族が居住していたところという。「日本書紀」
にも伊弉冉尊(イザナミノミコト)を葬ったとされている所。

 平安時代初期に、奈良県の金峰山(きんぷせん・吉野山から山上
ヶ岳までの峰々)から熊野まで山々(大峰山・おおみねさん)に修
験の道場が開かれました。

 一方、宇多法王が907年、熊野本宮、新宮に詣でて以来、代々
修行などをするようになり、経済的援助も得て熊野三山信仰は隆盛
を極めました。

 熊野三山とは、和歌山県本宮町にある本宮(熊野坐<にます>神社)
と、同県新宮市にある新宮(熊野速玉<はやたま>神社)、同県勝浦
の那智(熊野那智神社)をいい、あわせて熊野三所(さんじょ)権
現とも呼ばれました。

 本地仏(神としてあらわれる元の仏)は、本宮は阿弥陀、新宮は
薬師、那智は観音といいます。民衆の信仰はいやが上にも盛り上が
り、「蟻の熊野詣で」の言葉ができるほど参詣のため、列をつくっ
たということです。

 

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■(10)十二所神社

 農山村を歩いていると十二所神社というのもよく目につきます。
所とは柱(神を数える単位)の意味だそうです。だから12柱の神
々を祭る神社のことであります。名称は、十二神社とか、十二社神
社、十二祖神社ともいい、十二所の読みも「じゅうにそう」とか「じ
ゅうにそ」という所もあります。

 十二の神々は、しばしば熊野三山の祭神であることがあり、熊野
本宮の家津御子神(けつみこのかみ・スサノオノミコトのこと)、
新宮の速玉男神(はやたまおのかみ・イザナギノミコトのこと)、
那智の熊野夫須美神(くまのふすみのかみ・イザナミノミコトのこ
と)のほか、忍穂耳尊(おしほみみのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎ
のみこと)、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)、鵜萱々不合命
(うがやふきあえずのみこと)、軻遇突智命(かぐつちのみこと)、
埴山姫命(はにやまひめのみこと)、弥都波能売命(みづはのめの
みこと)、稚産霊命(わくむすびのみこと)という印刷屋サン泣か
せの神々がならびます。

 これを熊野十二所権現と呼んでいるそうです。その他、天神七代
と地神五代の計12柱(また難解な字がならぶので省略します)だ
という神社も多くあります。

 

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■(11)神明社

 神明社(しんめいしゃ)もよく見かける神社です。神明とは、政
治家が疑惑を受けた時決まって使う「天地神明に誓って……」の神
明です。昔は神一般の意味だったそうです。

 ところが平安時代ころより、伊勢の神宮神領として荘園が各地に
できはじめ、付属して伊勢神宮の分霊を勧請(かんじょう)した神
社がまつられました。それを一般に神明社と呼ぶようになり、鎌倉
時代には神明といえば伊勢神宮の分霊をまつった社のことをいうよ
うになり、いまでは神明信仰・伊勢信仰といっています。

 文献に一番早く出てくるのは「吾妻鏡」(鎌倉幕府が編纂した幕
府の歴史書)。文治2年(1186)の条に鎌倉の甘縄(あまなわ)
神明宮のことが書いてあります。

 源頼朝が、鎌倉に入居してから、伊勢神宮をことに崇拝し、荘園
など寄進しました。以来、それをまねる領主が続出し、どんどん明
神社が各地に建立されていき、現在全国に約1万8千社といいます。

 なお、大神宮、皇大神社、豊受神社などはみな伊勢神宮にかかわ
りをもっているのだというから驚きます。

 

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■(12)住吉神社

 町かどに住吉神社のりっぱな社が建っています。まつってある神
は底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつおのみ
こと)、表筒男命(うわつつおのみこと)の筒男3神です。

 この神々は別名住吉神(すみのえかみ)、墨江神、住吉(え)大
神、墨江三前大神(すみのえのみまえのおおかみ)ともいうそうで
す。

 「古事記」や「日本書紀」によると、この3神は伊弉諾尊(イザ
ナギノミコト)が黄泉国(よみのくに)に行った時のけがれをはら
うため、筑紫でみそぎをした時に生まれた神だという。

 いまの福岡市住吉に鎮座しています。その後、神功皇后の新羅へ
出兵の時、功を立てたとし、荒魂(あらみたま)を下関市楠乃にん、
また和魂(にぎみたま)を大阪市住吉町にまつったという。

 もともと住吉神は、海路の守護神として漁業者や航海業者の間に
は厚い信仰があり、全国に約2千100の神社があります。大阪、
住吉は景色のよい名所。文人詩客がよく来訪するところから、いつ
しか住吉神は和歌の神としても知られ、紀伊の和歌浦の玉津島明神
などとともに「和歌三神」といわれているそうです。

 

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■(13)諏訪神社

 諏訪神社もりっぱな社(やしろ)です。この神は長野県の御柱(お
んばしら)の祭りで有名な諏訪大社を総本山とする神社。上下の二
つの神社を合わせて1社を形づくっています。

 分社は全国に約5千社もあり、合祀、相殿、境内末社をいれると
1万社を越えるという大大社であります。

 諏訪は諏方、周方、州方とも書いてみんな「すわ」。この意味は、
洲端(すわ)の文字をあてるのが本当で諏訪湖の浅洲の端にまつっ
てあるのでついた名だろうといわれています。

 諏訪の神は、勇猛な地方神で簡単に中央権力(ヤマト朝廷)に屈
しなかった根性神。古くから朝野の人たちにあがめられたというこ
とです。祭神の建御名方神(たけみなかたのかみ)は建御雷神(た
けみかづちのかみ)に抵抗しましたが破れてしまい、諏訪湖まで逃
げのびて降参。

ここから出ないことで許されたと「古事記」の国譲りの神話があり
ます。この神は諏訪神社上社の主祭神になっています。古くは狩猟
の神とされていましたが次第に農耕の神に、また武神としても信仰
されていたそうです。

 

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■(14)浅間神社

 ご存知、富士山頂に鎮座ましますのが浅間神社。本来は「あさま
じんじゃ」が本当だというけれど、そんな学者用語はおいといて、
ここはまず庶民の「せんげんさま」でまいります。

 浅間さまは、富士山の神々(こうごう)しさをまつる神社です。
富士宮市の富士山本宮浅間神社を中心に、だいたい富士山がながめ
られる所に建てられている神社です。祭ってある神は、木花開耶媛
命(このはなさくやひめのみこと)という有名な神さま。

 神社の名は、富士神社、富士山神社、富士嶽神社、富知神社など
となっている所もありいろいろです。「あさま」とは神威の高い霊
山のことだという。

 長野県の浅間山、伊勢の朝熊(あさま)山のようなもの。その中
の代表である富士山に特別に使われるようになったのだという説も
あります。

 江戸中期から盛んになった富士講の登拝の碑が各地に建てられ、
登れない人のためにミニ富士を築きました。いまでも町の中に一合
目から九合目、頂上と階段をつくってある富士塚をよくみかけます。

 

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■(15)帝釈天

 ♪見上げたもんだヨ、屋根屋のフンドシ……。映画「男はつらい
よ」でおなじみ、寅さんがよく使うのたんかであります。その寅さ
んで、これまたおなじみの帝釈天(たいしゃくてん)というお寺が
あります。

 帝釈天は、宇宙の最上界にある須弥山(しゅみせん)の頂上にあ
る刀利天(とうりてん)の喜見城に住む天部の仏さま。四天王を従
えて人間界を監視しています。

 これは仏教の世界観で、この須弥山のまわりには七重の海と山が
とり囲み、そのいちばん外側の海の南方にある洲が南閻浮提(なん
えんぶだい・洲)といい、人間の住んでいるこの世なのだそうです。

 喜見城には、7万7百の部屋があり、その部屋ごとに7人の天女
がいて、みんな帝釈天の正妃だという。計算すれば49万4千90
0人の女房持ち。タマゲタだあッ。羨ましいというか、気の毒とい
うか。

 帝釈天のもとの名のインドラの別名は「千眼」。体に具わった千
の知恵の眼は女陰の形でもと姦淫の罪で身体中につけられたあと。
のち功徳で知恵の眼にかわったものだという。なんだかスゴイ話に
なっちゃったなあ。

 

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■(16)力 石

 神社の境内で「力石」と書いた立て札のそばに丸い石がころがっ
ています。これは昔、若者たちが力試しや力競べをするために使わ
れた石で、それを記念して奉納したもの。よく見ると石の重量や、
持ち上げた人の名前を刻んだりしています。

 大昔、むらに病人が出たとき、病気が治るかどうか石で占ったと
いう。定まった石を持ちあげられれば全快、持ちあがらなければ病
人は治る見込みなしというわけです。

 また、この石を持ち上げられるか否かで、ことしの豊作を占った
りもしました。石に神意を伺おうとする信仰の一つです。

 農村ではかつて米俵を担げるのが、青年として一人前になれるか
どうかの資格になりました。農家生まれの私なども担がされました。
そんなことから若い衆は神社の境内でよく力競べをしたのだそうで
す。

 この他に、弁慶や為朝、清正など英雄の力だめしの伝説と結びつ
いているところもあります。

 

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■(17)茅の輪

 6月30日の夏越(なご)しの祭りには、チガヤで作った大きな
輪・茅(ち)の輪をくぐります。茅の輪は、神社の鳥居の下や境内
に置かれ、それをくぐると身のけがれがはらわれるといいます。

 「備後国風土記」(びんごのくにふどき)にはこんな話が載って
います。北海にいた武塔(むとう)の神が南方に行く途中、夜にな
ってしまった。そこで宿を請うべく2人兄弟の門戸をたたきます。
弟の巨旦将来(こたんしょうらい)は金持ちにもかかわらず、武塔
の神の宿泊を断り、兄の蘇民将来は貧しいけれど快くもてなしたと
いう。

 兄の歓待を喜んだ武塔の神は、茅の輪をつくり腰に下げれば災い
を免れることを兄の蘇民将来に教え、それをつけた蘇民将来の一族
以外の人々を疫病で殺してしまったという。

 茅の輪は初めは腰にぶら下げるものだったらしいですが、室町時
代の「御湯殿上日記」(ごゆでんじょうのにっき)には茅の輪をく
ぐったとすでにあり、このころはくぐるものだったようです。

 武塔の神とは素戔嗚尊(スサノオノミコト)だといい、また牛頭
天王(ごずてんのう)と同一人であるともいわれています。

 

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■(18)鎮守神

 ♪むーらの鎮守の神さまのォ、きょうは楽しいお祭り日ィ……な
つかしいドンドンヒャララ……の歌であります。鎮守神(ちんじゅ
がみ)は、その歌詞のとおり、土地や村の守り神。氏神や産土(う
ぶすな)神と同様に使われているようです。

 鎮守神は本来は一国の守り神として、その国の代表的な神をあて
るのが普通だったという。一宮や王城、荘園を守護する神として伊
勢神宮など「二十二社」をあてたり、徳川家康が江戸城内に勧請し
た山王権現(のちに赤坂山王、現在の日枝神社を建立)なども鎮守
神としてあてたものといいます。

 もともと鎮守神は仏教を守るための神。中国の寺院の伽藍神(が
らんじん)が起源だそうです。その土地に寺院を建てたとき、在来
の土地の神霊を屈服・服属させるため、強力な霊威を神格化してま
つったものという。

 ……ということは、鎮守神とは元来、建物とか土地を鎮め守る神。
そこに住む人間を守護するためにまつった神ではないのですねエ。
 しかしいまでは氏神や産土神、地主神などと同様に考えられてし
まっています。

 

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■(19)八王子神社

 東京や埼玉、新潟県などあちこちに八王子という地名があります。
文字どおり8人の神の王子ということだそうです。

 この神は八王子権現とも呼ばれ、神仏習合(神の信仰と仏教とを
調和させようとする説)をとなえた両部(りょうぶ)神道の思想に
もとづく本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)の神。つまり神と仏
とを結びつけた考えで、八王子権現は牛頭天王(ごずてんのう)は
素戔嗚尊(スサノオノミコト)に結びついているとしています。

 仏教の中で、牛頭天王(武塔天神)が薩迦陀(さつかだ)をめと
り、8人の王子を生んだという話があります。また「古事記」、「日
本書紀」の中の天照大神(アマテラスオオカミ)がスサノオノミコ
トと誓約したとき、5男3女を産んだとする話があり、これに先の
話を付会させて、牛頭天王はスサノオノミコトで、8人の王子は5
男3女神として配したのだそうです。

 だから、とうぜん武塔の神はスサノオノミコトということになり
ます。武塔の神とはあの「茅の輪」の神さまです。

 八王子の神は、八王子権現ともいい、各地にあります。しかしそ
れぞれの神社の由緒により、この八神にかぎらず別の神をまつる所
もあるようです。

 

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■(20)御子神

 山村などの村はずれに御子神社(みこがみしゃ)という神社もま
つってあります。どんな神さまなのか土地の人に聞いてもなかなか
要領を得ません。家に帰り、図書館に行き、百科事典、神社辞典な
どで調べてみます。

 御子とは神の子のことで、他をも服従させる強力な祖神の子をま
つるとあります。とくにはげしく祟(たた)る神があると、民衆は
その霊をしずめるために力のある神に、その神の子としての御子神
をつくり系譜関係を結ばせました。こわい神と親子関係にある御子
神をまつる氏子には、たたらないだろうというわけです。

 こういう考えから多くの御子神が生まれ、房総には御子神という
地名まであります。これは巫女(みこ)の活動に基づく神の信仰発
展の古い方式とかで、神に仕える巫女が神聖視されて、神の妻とあ
がめられるようになると、これを母とし、その子と共にまつる、つ
まり母子神信仰が根底にあるのだそうです。

 

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■(21)三島神社

 先日、神社の境内で野外のマンガ展を開きました。神社の名が三
島神社。山ノ神(大山祇神)をまつってあると聞きました。

 三島神社は、静岡県三島市にある三島大社、または愛媛県大三島
町の大山祇(おおやまつみ)神社に関連する神社で、ほぼ全国的に
分布しています。主祭神は、大山祇神(山ノ神ともいう)、あるい
は事代主神(ことしろぬしのかみ・大国主命の子)で、両方まつっ
てあったりします。その他、大山祇神の妃神だという伊古名比盗_
(いこなひめのかみ)や、その娘神の木花咲耶姫神(このはなさく
やひめのかみ)などをまつる所もあります。

 かつて三島神社の祭神は大山祇神とされ、一般的にも通っていた
という。しかし祭神は事代主神であるという平田篤胤(ひらたあつ
たね)の説によって、明治6年(1873)、祭神を事代主神に変
更されてしったという。以後、それにならう分社があらわれ、そん
なこんなで三島神社の神さまは、大山祇神か事代主神かで混乱ぎみ
です。

 ちなみに源頼朝は、三島大社を深く崇敬し、鶴岡八幡宮に分社を
作り、武神としても信仰したということです。

 

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■(22)妙見社

 妙見社(みょうけんしゃ)というのもよく見かけます。妙見とは
妙見菩薩の略で、北極星を神格化したものという。この神は国土を
守り、災いを消し、敵をしりぞけ、人の福寿を増益しようと誓願し
たと伝えられ、北辰妙見、尊星王などの別称があります。

 昔の人は満天の星が、北極星を中心に回っているのを見て、北極
星はこの無数の星の王であると考えました。北極星を探すには、北
斗七星の柄をのばしてみつけます。そんなことから北斗七星は北極
星の眷属(けんぞく)だとして信仰します。

 中世以降、千葉氏、相馬氏など地方豪族・武士の間で妙見が崇拝
されます。これは北斗七星の7番目の星を破軍星と呼んだことから、
妙見を弓箭(ゆみや)の神としてあがめ信仰したという。また、日
蓮が読経中に北辰を感得したというので、日蓮宗の守護神と結びつ
き、お寺に多くまつられています。

 

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■(23)明神社

 明神は大明神ともいい、「名神」の転化したもの。名と明が同じ
ミョウなので9世紀ごろ(平安初期)から使われだし、いまでは「な
んとか明神」「かんとか大明神」というように使われています。

 明神とは名社の明神の意味。名神高速のことではありません。名
門校とか名所などの名で、たくさんある神社の中でも歴史が古く、
霊験あらたかな由緒正しい神のことをいうのだそうです。

 記録では、「続日本紀(しょくにほんぎ)」(天平二年十月の条)
に出てくるのが最初だそうです。その後927年にできた「延喜式
(えんぎしき)」の臨時祭式によると、名神祭にあずかる神は諸国
を通じて285座・203社(306座・224社の誤記らしい)
とありすでにランクづけされています。神さまの世界も競争社会で
たいへんのようです。

 なお、「名」と「明」の字については、「明神」は明御神(あきつ
みかみ)の意味で祭神の称号、「名神」は社をさす語だとする説も
あります。

 

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■(24)若 宮

 若宮とは本宮や、親神に対し新宮、御子神の意味だという。昔で
いう本家から独立した新宅の神のことなのですね。八幡若宮や春日
若宮が有名で全国に分布。また地図など見ると各地に若宮の地名も
あります。

 しかし時を経るにつけ次第に内容が複雑になり、こうした親子の
意味からはずれ、非業の死を遂げた人の霊や、まだ完全に昇天しき
れない霊魂までを「若宮」としてまつるようになっていきます。な
るほどあの世では若いものね。

 八幡若宮の祭神は仁徳天皇。「日本書紀」からの換算では313
年〜399年の在位の第16代天皇。平安時代の康平6年(106
3)、鎌倉鶴岡八幡宮の創設とともにここにも勧請(かんじょう)
され、武士たちの信仰で全国にまつられ、ついに若宮八幡なる社号
まで生じます。

当時は新しい土地に分霊するには、必ず大神の御子神を勧請しなけ
ればならないとされていたようです。

 しかし、勧請するには、巫女の託宣が必要、神の意志を伝える巫
女は神の子として、崇められはじめ、平安時代の社会不安をともな
い、御霊、怨霊信仰とも重なっていきます。

 

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第5章偉人・英雄神