■(1)阿弥陀
皆さんはあみだくじをしたことはありませんか。いまは人数分の
線を縦に引き、途中に横線で適当につなげてつくりますが、昔のあ
みだくじは人数分の線を放射状にひき、中心部に金額を書いて横線
をチョンチョンと描きました。その形が阿弥陀如来(あみだにょら
い)の後光に似ているというので、こんな名前がつきました。
阿弥陀如来は阿弥陀仏とも、略して弥陀ともいい、大乗仏教の仏
さまの中でも代表的な仏さまです。阿弥陀はサンスクリット語のア
ミダ(無量)。梵語(ぼんご)で「無量寿=無限の寿命をもつ者」・
「無量光=無限の光明をもつ者」の意味だそうです。「無量寿経」・
「観無量寿経」・「阿弥陀経」の三つのお経が根本聖典なのだという。
むずかしい話になりました。
昔、昔の大昔、世自在王(せじざいおう)という仏さまが現れた
とき、弥陀はまだ法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)でありましたが、悩
める衆生を救けるべく四十八願をたて、長い修行の末、西方十万億
土のかなたに極楽浄土を建立したといいます。
この仏の信仰を中心とした教えが浄土門というものだそうです。
お寺でよく言う浄土宗、真宗などはみなこの系統だそうです。
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■(2)韋駄天
速く走ることを「韋駄天(いだてん)走り」といいます。かつて
お釈迦(しゃか)さまが死(涅槃・ねはん)んで火葬したときのこ
と。人々が悲しんでいるすきをみて、捷疾鬼(しょうしつき)が仏
サマの歯を一対盗んで逃げ出したという。これを見た韋駄天が、一
瞬のうちに須弥山(しゅみせん)の頂上の三十三天まで追いかけ、
取り戻してきたいう。こらが「韋駄天走り」の由来です。
韋駄天は違陀天とも書き、仏さまではなく仏教を守護するための
天神。ヒンズー教の軍神が仏教に取り入れられて守護神になったも
のだという。インド神話ではスカンダとよばれ、塞建駄(そけんだ)
とも建駄(けんだ)ともいいます。この建駄の「建」の文字をいつ、
だれが書き間違えたか「違」と記すようになり、違駄天となりいつ
しか韋駄天になったというのですが、ホントかいな。
韋駄天はまた韋駄天将軍ともいい、宇宙世界を守る四天王、つま
り持国(じこく)、増長(ぞうちょう)、広目(こうもく)、多聞(た
もん)のうち、南方を守護する増長天王に属する八将軍の一人で、
三十二将軍の首長でもあるという。難しいですね。
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■(3)犬神
昔は犬神もいると信じられていました。生きた犬を土に埋めて首
だけを出し、腹がへったころ鼻先に飯や漁肉をおきます。犬が餌を
なんとか食おうとして首をのばし、精神を集中した瞬間に、その首
を打ちおとし、まつるとその霊は犬神となり主人の心のままになる
というスゴイもの。
この神はキツネつきなどと同じ、つきものの一種で、主人(犬神
使い)が他の人をうらんだりすると、すぐその人に取りついて病気
にさせたり、害を与えたりするという。ナンダカもはや……のたま
げものです。犬神は一度主人にまつられ、つくと子孫にも代々離れ
ず、伝わっていくといいますが、いまではこんな話、幼稚園児にも
笑われてしまいますよね。
一方、お犬信仰というものがあります。お犬さまとはオオカミの
こと。オオカミは大神(おおかみ)で神聖な動物として、埼玉県の
三峰山や静岡県の山住神社などのように神の使いとしてまつる所も
あります。
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■(4)宇賀神
街の中の寺院でも宇賀神堂(うがじんどう)と書かれた立札をみ
ます。「ウガジン?」宇賀神てナンダ?「宇賀神は穀物の神さ」。エ
ッ、コクモツ?。「だから福の神だな」ヘエ。「福の神なので七福神
のひとつ弁財天でもあり、また弁財天と夫婦神なのだ」????。
「その上稲荷と習合してキツネの神でもある」ときたもんだ。
こんなにワケのワカラナイ神さまもメズラシイ。なにがなんだか
神なのであります。そもそも宇賀神の宇とは梵語(ぼんご)の「宇
賀耶」を日本語に訳したもの。財施からきており福神とされるとか。
また日本神話の食稲魂命(うけのたまのみこと)や保食神(うけ
もちのかみ)と音が似ている(ほんとかいな?)ところから同じ神
だといわれているんだと。
食稲魂命は、スサノオノミコトの子で宇迦之御霊命(うかのみた
まのみこと)とも書きます。「うが」は「うけ」に通じ、食の意味。
食物を司る神だといいますが、ちょっとこじつけのような気もする
よ。ムリムリ……。
保食神は大宜都比売神(おおげつひめのかみ)と同じ神です。保
食神は月夜見尊(つきよみのみこと)に口から食べ物を出してごち
そうしようとした。月夜見尊は「きたない!」と怒り、保食神を殺
してしまいました。するとその死体から五穀が生じたとするもので
あります。これも「うか」が「うけ」に通ずるところという。
また宇賀神さまは白蛇を神として祭つるともいい「宇」は宇宙の
宇で天のこと、虚空蔵(こくぞう)菩薩(すなわち父・金剛界)で
あり、「賀」は地のことで地蔵菩薩(すなわち母であり胎蔵界)、「神」
はどういうわけか観世音菩薩だといい、総じると弁財天になるのだ
そうであります。このような複雑怪奇(宇賀神サン、ばちあてない
で!)な神でも「宇賀神のようにとも綱まいて置き」という川柳が
あるように漁村にまで広く信仰される神であったのであります。
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■(5)産土神
産土神(うぶすながみ)はその字の通り、生まれた土地の神。人
々の産生した土地を領有し、守護する神サマであります。赤ちゃん
のお宮参りはこの産土サマに詣でます。
よくウジガミといっしょにされますが、ウジガミは氏の守り神で
あり、一族、同族の守護神のこと。同じ氏子がまつる神ながら、性
格がちょっとばかりちがいます。
産土神の名が最初に出てくるのは「日本書紀」。推古天皇三十二
年(624)の条にある「本居」とあるのがそれで、スブスナと読ま
せています。その後「六国史」のほかにも、産土、産生、生土の字
が使われ、どれも出身地、誕生地、郷土の意味になっています。
一方、よく似たものに産神(うぶがみ)があります。これは出産
の守護神で、子授けを祈願したり、安産、子育てを祈ったり、また、
昔は産室にまつったりし、やはり産土神とはちがいます。
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■(6)オビシャ
オビシャはお歩射(ぶしゃ)。歩いて射ると書きます。テレビな
どよく見る、馬で駆けながら、弓矢を射る流鏑馬(やぶさめ)に対
して、こちらは歩いて弓を射るため、この名があります。
主に正月に神社で行われる神事で、的に「鬼」または、鬼の字か
ら「ノ」を省いた文字を書いてこれを射抜いて魔を除く破魔矢の意
味をもつ性格のものと、的に当てても当たらなくても一応当たった
ことにして、今年も豊年だとする豊作占いの性格のものと二つにわ
けられます。
オビシャは歩射のほか、奉射、舞射、仏者、飛者(びしゃ)また
は備射、ムシャとも書くそうです。魔を除く意味の破魔と、その年
の豊作を占う年占いの意味を兼ねた大事な神事です。射手に選ばれ
た神官や若者たちは、祭日前から物忌みに入り心身を清め、身をつ
つしみます。
この神事は弓祈祷、御神事、蟇目神事、射去祭(いさりまつり)、
百手、的射(まとい)と地方によってさまざまに呼ばれています。
晴れて射手となった人は神社の斎場に立てられた的を弓で射るのが
役目です。
的は大蛇の眼をかたどったものなどもあります。射手がみごと的
を射抜けばその年は悪霊がいなくなり、病気も治り作物は豊年満作
だという。
また愛媛県では、280本もの矢を射たあと、射手の頭役がとど
めの矢を射る行事があります。それが失敗したりすると不吉な事が
おこるといわれ、初めからやり直したりするそうです。
ことは1年の吉、不吉、豊作、不作を占う行事、失敗は許されま
せん。かつて熱田神宮の法射行事は、放った矢が当たらなかったり
すると、その者の家は没収されたという。 古くから行われていた
行事で「日本書紀」の大化3年(647)正月に「朝廷に射す」と
あり、平安時代の文書にも、射礼(じゃらい)、賭弓(のりゆみ)
の記述があります。
千葉県などでは弓を射ることなどはせず、飲んだり食ったりだけ
の行事もあります。とくに市川市では、にらめっこをして、笑った
方が酒を飲まされる「ニラメッコオビシャ」というのがあり、毎年
盛況に行われています。
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■(7)過去七仏
神奈川県丹沢の塔ノ岳の名前の由来になっている尊仏岩。この岩
は拘留孫仏をまつってあったという。拘留孫仏は過去七仏のひとつ。
では過去七仏とは?
「世界人生の真理を悟り、完全な人格者となり、世人を指導救済
する」者を仏陀(ぶっだ)というそうです。いまから2500年前
にインドに現れたお釈迦さまは仏陀であります。
お釈迦さまが死んだあと、その業績が偉大であればあるほど弟子
たちにとっては、釈迦は偶然に生まれたのではなく、この世に送り
出した過去の因縁があるにちがいないと思われました。
そこで考えたのが過去の世にも未来の世にも仏陀がたくさん存在
するのだというもの思想。それによるとお釈迦さまの出生以前に6
人の仏陀がいて、いままでに計7仏がいたとするのが、この「過去
七仏」なのだそうです。
その名は毘婆尸仏(びばしぶつ)、尸棄仏(しきぶつ)、毘舎浮仏
(びしゃぶぶつ)、拘留孫仏または拘留尊仏(くるそんぶつ)、拘那
含牟尼仏(くなごんむにぶつ)、迦葉仏(かしょうぶつ)、釈迦牟尼
仏(しゃかむにぶつ)の7仏。この過去七仏は、古代インドのアシ
ョーカ王時代(紀元前3世紀中ごろ)の石柱にすでにあるという。
なお、アショーカ王の王子がスリランカ(セイロン)に伝えたパ
ーリ仏教では、七仏の前にさらに18仏を加え25仏との説もある
そうです。
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■(8)観 音
観音さまの本名は観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)です。仏教に
おける慈悲の精神・友情、また悩んでいる者に対する同情などを人
格化したものとあります。観世音とは「悩める世間の音声を観ずる」
の意味という。
この菩薩のことを説いているのが「観音経」です。一心に名を唱
えれば衆生の七難、つまり火難、水難、羅刹(らせつ)難、刀杖(と
じょう)難、悪鬼難、ちゅう械枷鎖(ちゅうかいかさ)難、怨賊(お
んぞく)難の七つを救うべく、33の姿に変身してあらわれるのだ
そうです。
この観音の絶大なご利益を望むあまりに、人々はいろいろな観音
さまもつくり出します。曰く、人の願い事をむなしくしない不空羂
索観音(ふくうけんさくかんのん)、思うことをかなえざるなき輪
をもてる如意輪観音(にょいりんかんのん)、十一面観音、馬頭観
音、准胝観音(じゅんていかんのん)、千手千眼観音などなどです。
人の欲望はかぎりなく、これでも足らず、雷除け、身代わり、夕
顔、汐干、子安と観音の字の前に勝手な名前がついて、仏さまの種
類はどんどんふえていきます。
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■(9)鬼子母神
鬼子母神(きしもじん)はインドの鬼女神だという。父母も鬼神
・鬼女で、夫も鬼神王という、レッキとした鬼系統というからもの
すごい。その鬼夫婦に子どもが1万人(千人だ、500人だ、9人
だ、なかには5人だといろいろな説あり)いたといいます。
これでは子どもを養うのもたいへんです。手っとり速いのは人さ
らい。毎日、王舎城(おうしゃじょう・インド古代マガダ国の都・
ラージャグリハ)から子どもをさらってきてはわが子に与え食べさ
せるという悪らつさ。城内は悲しみにうちひしがれ、まるで死んだ
ような街であったそうです。
それを伝え聞いたお釈迦さまは、鬼子母神の末っ子ピヤンカラを
隠してしまいました。一番かわいがっていたピヤンカラがいないと
いうので驚き悲しみ、鬼子母神は釈迦のところに相談に行ったとい
う。
そこでお釈迦さまにコンコンと戒め、さとされた彼女は鬼女を廃
業。三帰・五戒(仏法僧に帰依し、五つの戒めを身に保つこと)を
受けて仏弟子になったという。のちに安産、子育ての善神となった
のだそうです。メデタシ、メデタシ。
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■(10)子安神
子安神(こやすがみ)は子易神とも書き、子授け、安産、子育て
の神さまになっています。以前はよく子安講というものがありまし
た。集落や地域の産み盛り?の奥さん方が、産土(うぶすな)さま
やお堂に集まり、子安神をまって飲んだり食べたりしたアレです。
子安さまにみんなで子授けや安産をお願いしようというわけです。
この神の名は古く、平安時代の「日本三代実録」(貞観(じょう
かん)十八年(876)の条)に「美濃国児安神(みののくにこや
すかみ)」とあるのが最初だそうです。いまでも各地に子安神社が
あり、ふつうまつられている神は木花咲耶姫命(このはなさくやひ
めのみこと)。木花咲耶姫命といえば、「古事記」に出てくる、火の
中で子どもを生み無事だったという神。そんなことから安産の神と
してまつられます。富士山にまつられる神としても有名です。
子安神はまた、仏教とも習合します。地蔵や観音に子安をつけて、
子安地蔵とか子安観音と申します。その他、子安石、子安清水など
というのもあり、妊婦は、産神(うぶがみ)の一つとして安産を祈
願するのであります。
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■(11)権 現
全国の各地に権現さまの社が、また山の名前にも権現山、権現岳
とよく登場します。
権現は権(かり)に現れると書きます。元来は仏や菩薩が民衆を
悩みから救うために、地上に姿を現わすという、ヒンズー教の神の
権化(ごんげ)の信仰からきているのだそうです。
この権現の信仰が、平安時代に日本の本地垂迹説(ほんじすいじ
ゃくせつ)と結びつきます。わが国古来から伝わる神々は、実は仏
さまや菩薩が、仮にこの世に現れたものだというように解釈します。
阿弥陀如来(あみだにょらい)は八幡神、大日如来は伊勢神宮など
という具合です。
やがてこの権現は神の尊号となり、神仏混交の神社の守り神にな
っていきます。日吉神社の神を山王権現(さんのうごんげん)、熊
野三山の神々を熊野三所権現、箱根神社を箱根権現、その他蔵王権
現、はては徳川家康をまつった日光東照宮まで東照権現という具合
です。
しかし、このような神も仏もゴッチャまぜはよくない、もう少し
はっきりさせるべきだと政府がいいはじめたのが慶応4年(186
8)3月。明治維新のまっただ中の神仏分離令でありました。さあ
そんな令がでると、ふだん仏教側といがみ合っていた神道派の「国
教イコール神道なり」の主張がはげしくなります。
そして廃仏毀釈(排仏棄釈・はいぶつきしゃく)の嵐が吹き荒れ
ます。文字通りの「仏教を排し、釈迦の教えを排斥せよ」との運動
です。暴徒によってお寺はやかれるわ、仏像はぶっこわされるわ。
「政府は仏教廃止を決定した」などという流言飛語が飛びかいます。
いまでも昔街道だった山中の登山道などには、首のない地蔵、肩
から上のない観音像などがたくさんみられます。このようにして権
現名は廃止はされましたが、民衆の心の中には、神社名、山の名前
としてまだまだ生きています。
ちなみにキリスト教の神が人類を救うため、イエスになりこの世
に現れたとする受肉、仏教では釈迦そのものが「永遠の理法」でこ
の世に出現したというのも権化というそうです。
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■(12)山 王
東京・永田町にある日枝(ひえ)神社の祭は山王祭(さんのうま
つり)。滋賀県大津市にある日吉(ひえ)大社の分霊をまつる神社
は、日枝だとか日吉といい、山王さまと呼ばれています。
山王とはもともと霊山を守る神霊をいい、山ノ神や山祇(やまつ
み)の神のことという。それが平安時代になると、神仏習合となり、
例の本地垂迹(ほんじすいじゃく)説が盛んになって賀茂・春日・
白山などの神々を末社に勧請して山王七社になり、さらに中七社、
下七社を加え、山王二十一社と呼ばれるようになっていきます。
またそれは天台宗の教理と結合し「山王権現」をまつるようにな
り、山王一実神道というものがうまれます。これは天台宗の教理を
「山王」の2字の形で説明しようというわけです。まず「山」とい
う字は、たてが3本で横が1本、「王」の字は横が3本にたて1本
の字画です。
それは天台教義の「三諦即一(さんたいそくいつ)」、「一念三千」
というムズカシイ思想に通じるのだそうな。この思想は鎌倉時代か
らあったようで、同時代末期の「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)」
という本に記載されています。
現在、全国に山王社は4000近くあり、猿を使いとしています。
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■(13)神農神
神農神(しんのうしん)は薬屋と香具師(やし)の祖神だという。
なぜ農の神と書く神が薬屋なのでしょうか。そもそも神農とは古代
中国の伝説の帝王の名前だそうです。
その名が最初に現れる文献は「孟子(もうし)」。戦国時代、、許
行(きょこう)という神農の教えを奉じる人物が「民も君主も共に
農耕すべきだと主張した」と載っています。やはり農業の祖神であ
りました。
その後に出された「帝王世紀」では、神農は体は人間だが、頭は
牛あるいは竜というきっ怪な姿。民衆に農業や養蚕を教えたり、商
業の市場を作るほか、いろいろな草をかんで薬草をみつけ、五弦の
琴を発明、「八卦」を重ね「六十四卦」を占うという幅広さ。そん
なことから中国では農業の神であり、医薬、ト占、交易の祖神にな
ています。
それが日本に渡り、香具師(やし)と薬屋の祖神だけが目立って
しまったもの。中国の最古の薬物書「神農本草経」は彼が著したと
もいわれています。
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■(14)大 仏
大仏は文字の通りの大きな仏像。普通高さが1丈6尺(4.85
m)、坐像ではその半分以上の仏像を大仏というそうです。その姿
は、立っている像、坐像、台座に腰掛けている像、伏せっている像
などいろいろあります。
これは仏教徒が、仏陀(ぶっだ)の偉大さを、大きな仏像で表現
しようとしたものだという。現在残っているものでも、インドのカ
シアの涅槃(ねはん)像は5世紀に作られたといい、大きさ7m。
ビルマには40m。中国には50mの像が作られたという記録があ
ります。
さて日本。あの有名な奈良・東大寺の大仏は、8世紀に建造され
約15mの銅造の盧遮那仏(るしゃなぶつ)の坐像です。鎌倉・高
徳院の大仏は銅造製で阿弥陀如来坐像。約11.4m、13世紀の
建立でともに国宝。
その他、奈良県長谷寺の木造十一面観音立像や、京都方広寺の乾
漆盧遮那仏などが有名です。また各地に○○大仏なるもの多数あり。
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■(15)荼吉尼天
荼吉尼天(だきにてん)とはちょっと変わった文字です。茶では
なく、ハネのある「荼」です。これはもとはインドのヒンズー教の
女神カーリーの侍女で人肉をくらう夜叉(鬼神)だそうです。
荼祇尼などとも書き、大黒天に所属し、6ヶ月前から人の死ぬの
を予知し、その臨終を待って心(臓)をとって食らうというからお
そろしや。人体中の黄(心肝)を食べると力がグーンとつき1日に
4つの地域をめぐり、すべて意のままに成就できるというすごさで
す。
これを知った毘盧舎那仏(大日如来)が、降三世の(ごうさんぜ)
の法門を持って大黒神となり、曠野のなかに荼吉尼のものたちを集
めて真言を説いて改心させ、仏道に入らせて、善神として立ち直ら
せます。
これが平安時代ころから稲荷(いなり)と習合するようになりま
す。また真言密教で「荼祇尼天(だきにてん)の別号を白晨狐王菩
薩(びゃくしんこおうぼさつ)ともいい、稲荷の神体これなり」と
説いています。そんなことから稲荷の使いはキツネだとの説といっ
しょになり「荼吉尼天ーキツネー稲荷」の図式ができ、荼吉尼天は
稲荷の本地仏だとされ、豊川稲荷にまつられるようになったという
ことあります。
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■(16)七夕神
幼稚園から七夕(たなばた)さまの歌が聞こえ、園児たちが笹竹
を持って飛び出してきます。
ふつう七夕というと、織女(しょくじょ)と牽牛(けんぎゅう)。
この二つの星が年に一回、天の川を渡って会うというもの。これが、
女子の手先が器用になるように願う、乞巧奠(きっこうてん)とい
う行事になって中国から日本に伝ぱ。
一方、日本にも古くから神聖なる処女・棚機津女(たなばたつめ)
が水辺でハタを織りながら客神(まれびと)を迎えるという伝説が
ありました。
これが中国から入ってきた乞巧奠と結ぶつき ♪ささの葉サ〜ラ
サラ〜のいまの七夕の形になったのだそうです。両方とも7月7日
というのだからウソのような話です。
中国ではワシ座のアルタイル「牽牛星」と、コト座のベガ「織女
星」が、天の川を中にして向かい合うという伝説が古くからあった
らしく「詩経」という古い本にみえるそうです。
それが、後漢の時代(2世紀)には二つの星は恋人ということに
なり、六朝(りくちょう)時代(3世紀)には、年に一度、デート
するのだという話になっていきます。どうしてどうしてなかなかの
発展家なのであります。
乞巧奠(きっこうてん)の行事が日本に入ったのが少なくとも7
00年以前のこと。宮廷の行事として執り行われ、その様子が「万
葉集」にも詠まれています。
七夕の日にわずかでも雨が降れば、2人は会えないとする考え方
(中国流)と、雨が3つぶでも降らないと、七夕さまが天の川を渡
ってしまい、2人の間に疫病神が生まれてしまうという、祓(はら)
いの行事としての考え方(日本古来のもの)があります。これはい
までも農村地帯に残っています。
有名な青森県の「ねぶた」や、秋田県角館の「竿灯」や七夕祭。
これらは七夕神を迎えるにあたり、「ねぶたく」なる睡魔を人形に
託し、持ち帰ってもらおうとする行事。
牽牛と織女の出会いは農作物の受粉期と生産とに結びつけ、豊作
の願いをこめてまつる人々の祈りなのだそうであります。
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■(17)天 神
高校や大学の受験のシーズンも、せっぱつまってくると、もう神
だのみです。さい銭持ってかけつける所といえば天満宮・天神さま。
♪ここはどこの細道じゃ、天神さまの細道じゃ……のあれです。
そして天神といえば菅原道真(すがわらみちざね)です。弘法大師、
小野道風、とともに書道の三聖と仰がれ、いま勉強の神としてまつ
られています。
ところが昔は天神イコール天満宮・菅原道真ではなかったのだそ
うです。平安時代の「延喜式」の神名帳には「布多天神」・「大麻止
乃豆乃天神」・「阿豆佐味天神」・「穴沢天神」・「物部天神」などが天
神として記されているそうです。
これらの天神は、天上神と地母神的な性格を持つ神で、イニシエ
には天から降臨して、その地方に恵みをほどこす神で全国各地にま
つられていたそうです。しかし、いまはダレが何といおうが天神さ
まは菅原道真の天満宮なのであります。
道真(みちざね)はご存じ、平安前期の学者で政治家。5歳で和
歌を詠み、12歳で漢詩をものにしたという天才です。醍醐天皇の
時、右大臣になりました。ところが左大臣藤原時平の陰謀により天
王廃立の罪で、901年(延喜元年)九州の太宰府に左遷、翌々年
死亡という悲運さ。
しかし、あちこちの神官や坊さんの夢まくらに道真の霊があらわ
れだします。その上、時を同じくして都に疫病がはやり、雷まで落
ちるという始末。恐れおののいた人々は京都の天神サマのそばにホ
コラを建て、道真の霊をなぐさめようと天満天神をまつったという。
その効がなしてか、以後たたりはピタッとやんだという。こうし
て天神と天満宮の「ごちゃまぜ信仰」は全国的に広がり、本来の天
神信仰は次第にうすれ、名前も天満宮に変わっていきました。
しこうして天満宮信仰は、室町時代に全盛、学問の大祖神、特に
文学、詩歌、書道の神としてあがめられているわけです。
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■(18)天王さま
農村の集落のはずれに天王(てんのう)さまのホコラがあります。
天王さまの祭りは7月に行われます。最近は下火になったとはいえ
祭りの日には、近所の村人を招待しごちそうをふるまい、山車(だ
し)や屋台をくり出します。
天王とは牛頭(ごず)天王のこと。インドでは武塔太子(むとう
たいし)と呼ばれ、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神です。
武塔太子は旅の途中、裕福な弟の巨旦将来(こたんしょうらい)の
家に一夜の宿を請いますがあっけなく断られます。しかし、貧しい
兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は歓待してくれ、こころよく太
子を迎えます。武塔太子はそんな蘇民将来に「茅の輪」を与え、子
孫の無病息災の加護を約束したという故事があります。
この話から牛頭天王は、いつの間にか疫病除けの神になってしま
いました。そんなことから、食中毒、流行病、稲の害虫の多い旧暦
6月(いまの7月)に天王さまの祭りをして、牛頭天王の力で疫病
を退散させようと願います。
また、牛頭天王は大変な荒神(あらがみ)の性格を持っているこ
とから、乱暴者の神スサオノミコトとも習合しています。
天王さまは京都祇園八坂神社の祭神で、本地(ほんじ)仏は薬師
如来になっているそうです。この神は各地に祇園社として祭祀され
ており、祇園祭、天王祭、津島祭などはみなこの祭りです。
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■(19)仁 王
お寺の門の金網の中で仁王(におう)さまが、全身をふんばらせ
てにらんでいます。そばにわらじがたくさんつるされています。仁
王さまのように筋肉隆々の体、丈夫な足腰でいられますようにと願
ってのことだそうです。
真夜中、ドロボーがお寺に入りました。ひと仕事おわり、仁王門
を出ようとしたとたん、うしろからものすごい力でおさえつけられ
ました。「だれだッ」と思った瞬間、お腹のガスがブワーッ。「……
ムムム、におうか」落語に出てくるお話です。
2体の仁王さまのうち、口をあけている像がもっているのが金剛
杵(こんごうしょ)。これで物をぶちこわすように、金剛の知恵で
煩悩(ぼんのう)を打ちくだくようにとの願いです。
インドの神話では、かつて勇郡(ゆうぐん)という王に1000
人の太子のほかに、法意、法念という3人の王子がいました。その
うちの法意王子が金剛力士となり、仏法を守護することになったの
だという。だから仁王はもとは一体のはずです。
ところが、お寺の門の両側にいるところから二体必要となり、二
王、仁王とも書くようになりました。一体は口を大きく開け「ア」、
あとの一体はキッと口を結び「ン」の像になっています。ご存知、
陰陽阿吽(あうん)をかたどっているのだそうです。
阿(あ)は字音の初めであり、吽(うん・ん)は字音の終わり、
つまり、物事の初めから終わりまでいっさいの存在を象徴している
わけなんでありますと。
仁王像がまつられはじめたのは中国唐のはじめといい、中央アジ
アの敦煌(とんこう)の194窟にもすでにあり、日本では飛鳥時
代の文武2年(698)につくられたという、長谷寺の法華説相図
の下方左右に裸形の仁王像が彫られているものが最初だということ
です。
日本一の仁王は東大寺南大門のもので8.4m。この2体の金
剛、左を密迹(みつじゃく)金剛、右は那羅延(ならえん)金剛と
も呼んでいます。
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■(20)八幡神
村道のわきの高台に八幡宮と書いた鳥居が建っています。地元の
人は八幡(はちまん)さまと呼びます。
八幡神は八幡大菩薩ともいい、本元は九州の宇佐八幡宮。祭られ
ている神は応神天皇、比売神(ひめがみ)、大帯姫命(おおたらし
ひめのみこと)とか、また応神天皇、玉依姫、住吉神の三神とする
説もあります。
その名についても諸説があって、応神天皇降誕のとき、天から八
枚の幡(はた)が降りてきたという伝承に由来し、ハチマンと呼ば
れたとする説(「八幡愚童訓」)。八幡はヤハタ(畠)で地名だとい
う説、またイヤワタ・ワタツミの神(海神)だ、いや帰化氏族の秦
氏に関係した神だとにぎやかです。
この神はもと、豊前宇佐地方(大分県宇佐市)に勢力のあった旧
国造家宇佐一族や大神氏一族の氏族神、郷土神らしいといいます。
それを神威がたかいとかで大和朝廷の守護神になります。
その後清和源氏の氏神になって、源頼義や義家・頼朝らによって
各地に分霊勧請(かんじょう)されました。鎌倉幕府が開かれると
鶴岡八幡宮が勧請。弓矢八幡などと呼ばれるように、武家の守り神
として全国に広がっていきました。
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■(21)毘沙門天
毘沙門(びしゃもん)天も身近な神さまです。もとはインド古来
の宗教の神だったが、仏教にとり入れられて仏法の守護神になった
もの。
サンスクリットのビヴァイシュラバナの発音から「ビシャモン」。
多聞天(たもんてん)とも呼ばれます。仏教では世界の中心に須弥
山(しゅみせん)という高山がそびえているという。
その頂上は平になっていて、そこを刀利天(とうりてん)といい、
善見殿なる宮殿があり、帝釈天(たいしゃくてん)が住んでいると
いいます。
この帝釈天には四天王の家来がおり、それぞれ東西南北の方角を
守っているそうです。東が持国天、西が広目天(こうもくてん)、
南は増長天(ぞうちょうてん)、そして北を守るのが多聞天、つま
り毘沙門天なのです。
かつて聖徳太子が、物部守屋(もののべのもりや)を討つべく四
天王像をつくって祈願しました。戦いに勝った聖徳太子は願にした
がい、四天王寺を建立しました。その後、毘沙門は足利尊氏、上杉
謙信、楠正成などに崇められ、次第に戦勝の神になっていきました。
このようにいま七福神の一人である毘沙門天は、かつては軍神と
して武士たちに信仰されていたのでした。ちなみに上杉謙信の旗印
「毘」の文字は毘沙門天から来ているそうです。
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■(22)びんずる尊者
びんずる尊者(おびんずるさん)とは、オモシロイ名前です。び
んずるは漢字で賓頭盧(びんずる)、正式には賓頭盧頗羅堕(びん
ずるはらだ)というそうです。びんずるは跋蹉(ばっこ)国拘舎弥
(くしゃみ)城の大臣の子で、もとは医者でしたが、仏道に入って
釈迦の弟子になり、十六羅漢(らかん)の第一人になりました。
羅漢とは悟りをひらいた人のこと、阿羅漢(あらかん)というの
が本当で「供養するに値する人」という意味だそうです。かつて飢
えに苦しむ末法の人々のため、食事を供給した故事により、お寺の
食堂にまつったりします。また、びんずるは神通力にすぐれていた
という。
ある時金持ちが托鉢(たくはつ)の鉢を象の牙にぶらさげ「ハシ
ゴや杖をつかわずにとった人にあげます」。そこで、びんずるが得
意の神通力で一気にとびあがりとってしまった。それを聞いた釈迦
は「神通力は見せ物ではない」と叱り、それがもとで、びんずるは
ひとり、堂の外にまつられるようになったてしまったということで
す。
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■(23)不 動
不動は正式には不動明王。不動さま、お不動さんと親しまれてい
るわりにはオッカナイ顔で、左目半眼、右目を見開き。下の歯で右
の上くちびるをかみ、まさに目くじらをたててにらんでいます。
本来はインドのシバ神の一名で、密教に取り入れられ「大日経」
では大日如来の使者で教令輪身(きょうれいりんじん・菩薩心をも
とめるときの障害を打ちくだく、大力威猛の力を示す明王)と考え
られています。
つまり、ただ説教しただけでは聞き入れようとせず、反抗ばかり
しているツッパリの心には、憤怒の姿をし、おどしつけ、その威力
で説き伏せようとするわけです。背中の火災は、人々の迷いや欲望、
またすべての災難のもとを焼きつくすという願いが込められている
そうです。
もともと不動明王は、ドラヴィダ族というインドの原住民が、西
方から侵入してきたアーリヤ族に攻められ占領されたときの苦難を
象徴していているという。髪をたばねて左側にたらし、目や歯が不
ぞろいでスゴイのはそのためだという。
不動の名がはじめて出てくるお経には「不動使」、「不動如来使」
とあり、はじめは他の明王たちと一緒に大日如来のわきに仕え、む
しろ地位としては最も低いものだったという。その後、次第に明王
の代表として不動明王が主になり、いまでは五大明王の代表格にな
っています。
五大明王とは不動明王、降三世(ごうさんせ)明王、軍荼利(ぐ
んだり)明王、大威徳(だいいとく)明王、金剛夜叉(こんごうや
しゃ)明王の五体をいいます。
平安時代以降、修験者(しゅげんじゃ)の間では、入峰修行で不
動明王と一体になると説かれ、行者たちの崇拝の中心だったという。
民衆の間でも、無病息災、長寿、正邪曲直、諸魔降伏のご利益あり
と人気上昇。
高野山の波切不動、赤不動、京都青蓮院の青不動、滋賀園城寺の
黄不動、千葉・成田の身代わり不動、その他、眼力不動、たにし不
動、なんの不動、かんの不動といまでも信者の層の厚さは群を抜い
ています。
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■(24)弁 天
池のほとりに弁天さまのホコラがまつられています。弁天さまは
弁才天・弁財天(べんざいてん)ともいい、もとはサラスバティと
いうインドの神話に出てくる大河の神だという。やはり水の女神で
あります。その大河の水の音にちなに、音楽の神になり、弁舌(知
恵)の神にもなっています。妙なる音は川面の波の音だったのです
ね。
仏教のお経には、知恵、財福、解脱(げだつ)を求める功徳あり
とありますが、一般には技芸の神として信仰されています。日本で
も代表的な美女神・市杵島(いちきしま)姫命と習合して、容色う
るわしい琵琶(びわ)をひく天女像としておなじみです。
中世も末期になると、弁才のザイは財ではないか。弁財天なら金
もうけにも功徳あるはず……という考えもおこり、われもわれもと
お参りにいくようになります。そのうち、とうとう七福神の仲間に
もとり入れられました。弁天さまはまた、お使いがヘビだというと
ころから、同じヘビを神使とする宇賀神(うがじん)とも混同され
ています。このようにいろいろなものへ習合し発展して行くのが日
本の神さまのようであります。
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