【日本百名山の伝説・神話】

▼(083)悪沢岳「山名の混乱と先達たち」

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▼【本文】

【悪沢岳とは】
 荒川岳は、南アルプスの主峰赤石岳の北方にそびえる
山で、西から前岳と中岳、東岳(悪沢岳)の三山の総称
です。どれも標高3000mを超す山。三山とはいいます
が、実際は前岳と中岳は一つの山になっていて、東岳だ
けが東側に突きだしています。そのため東岳をとくに区
別して「悪沢岳」と呼ぶ人も多いようです。

 ここ東岳(悪沢岳)山頂からの展望はバツグンで、富
士山、赤石岳、塩見岳などが心ゆくまで展望できます。
この山の北面には小さなカールがあり、南アルプスでは
珍しく9月ごろまで雪が残り、雪食地形として雪窪がみ
られていました。しかし、1995年(平成7)ごろから
姿を消してしまったといいます。地球の温暖化はこんな
ところまで影響しているのでしょうか。

【山の呼び方】
 かつてはこの三つの山の呼び方がばらばらで、長野や
静岡県で違っていたというのです。その上にこの山に接
していない山梨県までが入り込んできますからこんがら
かります。(1:まず西ろくの長野県側の呼び方は、い
まの前岳のことを「荒川岳」、中岳を「中岳」、いまの
東岳を「東岳」と呼んでいます。東岳と呼ぶのは、山岳
宗教敬神講の先達(せんだつ)が、長野県側から前岳に
登った時、一番東にある山を見て「東岳」と呼んだから
との説もあります。

 次は(2:東ろく静岡県側の呼び方は、前岳のことを
「荒川岳」、中岳を「奥西河内岳」、東岳を「地蔵岳」
と呼んでいたといいます。東岳を「地蔵岳」と呼ぶのは、
は静岡県葵区井川地区の田代集落の猟師たちが、遠くに
見える山を「地蔵ヶ岳」と呼んだところからきているら
しい。

 またまた山梨県側では、前岳のことを「奥西河内岳」
・中岳を「魚無河内岳」・東岳を「悪沢岳」と呼ぶとい
うのです(『角川日本地名大辞典・静岡県』)。これはこ
の山に接していない山梨県(甲州)側からも、山岳宗教
の講の先達が登ったり、猟師たちが大井川源流のあたり
に猟に入ったりして、この山は人々に関係の深い山だっ
たようです。

 これでは混乱が起こるのは当たり前で、村人たちの間
では、この三山の呼び方がバラバラだったようです。し
かし、1904年(明治37)に測量登山が行われ、臼井由
清という人がこの山に登り三等三角点を設置。国土地理
院の地図に、西から前岳・中岳・東岳(悪沢岳)と表記
してからは山の呼び方がいまのように定着。混乱はなく
なったそうです。

【荒川岳の山名】
 さて荒川三山といいますが、荒川とはこの山(前岳)
が西ろく長野県側(信州側)の大鹿村の呼び方。荒川(前
岳)が、大鹿村を流れる小渋川の支流「荒川」の源頭に
あるためだとか、また同じ荒川(前岳)の西側が大崩壊
地で荒れているからともいいます。

 荒川の名は、先の地形図作成時に命名されたといいま
す。実際記述どおりで、高山裏避難小屋から、ダケカン
バの間のキツイ登りをたどり、ハイマツの斜面を経て前
岳へ登りつめます。このあたりからの崩壊のすさまじく、
その荒れたさまを見ると納得させられます。

【悪沢岳の山名】
 次ぎに悪沢岳(東岳)の悪沢の名は、「駿州田代山奥
横断記」(荻野音松著)に由来するそうです。同書によ
れば、甲州の漁師が「此(こ)の山より出づる溪流の西
俣に注ぐもの甚(はなはだ)険悪なれば之を悪沢と呼び、
此の山すなわち悪沢岳と云ふなり」(『新日本山岳誌』)
とあることに由来するといいます。そういえば、東岳北
側から流れ出る沢には、悪沢、蛇抜沢、新蛇抜沢など、
いかにも「たちの悪そうな」名前の沢が、西俣に流れ込
んでいます。

【荒川四山】
 また荒川岳といえば、さらに地図をよく見ると、ここ
荒川三山から北方に遠く離れた、塩見岳の北側に「北荒
川岳」という山があります。それでは「荒川四山」にな
ってしまいます。北荒川岳の名は塩見岳の北側から突き
上げる川の名前からきています。長野県側天竜川に流れ
込むのが三峰川、その支流が荒川で、さらに南荒川、北
荒川に分かれます。

 南荒川の源頭にある山が荒川岳(塩見岳の昔の山名)。
そして北荒川が突き上げる山が北荒川岳というわけで
す。明治時代、信州側では「塩見岳」を荒川岳と呼んで
いましたが、紛らわしいというので、大正時代の初めに
塩見岳に統一しました。北荒川岳というのはそのころの
山名がそのまま残ってしまったということです。それに
しても荒川というのはあちこちにありますが、暴れ川と
いう意味でしょうか。

【千枚岳の山名】
 さらに荒川三山のすぐ東に千枚岳という山がありま
す。東側は大井川支流の上千枚沢の源頭の千枚ガレにな
っていて、崩壊が進んでいます。この山の名は千枚沢か
らつけられました。千枚沢とは伐採した木材を川へ降ろ
す時、木材を半円形に多数ならべ、滑り台のように伐木
を川へ落とします。これを「修羅千枚」と呼び、千枚岳
の命名の由来になっているそうです。

【歴史・開山】
 荒川岳の開山は、やはり山岳修行者の先達たちです。
山梨県芦安村の修験者・名取直衛(直江とも)という人
が、明治19(1886)年前岳と東岳に登ったといいます。
また同じ年に、長野県下伊那郡河野村(いまの豊丘村大
字河野)の信州の先達堀本丈吉(敬神講)が大鹿村から
広河原を経て、三山(前岳・中岳・東岳)に登ったとさ
れています。もっとも、堀本丈吉行者は、開山する以前
から三峰講社を結成し、何度か講社員登拝の案内をして
いたとも伝えています(『信州山岳百科2』)。

 名取直衛先達は、北岳山頂に「甲斐ヶ峰神社」の本宮
を、白根御池の下方に中宮を、また夜叉神峠入口に前宮
を建立した人でもあります。また、堀本丈吉先達は、名
取直衛と同じ明治19年(1886)、それぞれに赤石岳に登
頂して祈祷しているそうです。この明治19年はふたり
とも、荒川岳・赤石岳と忙しく登りくらべをしているよ
うです。

【三ッ峠】
 この悪沢岳にはこんな話もあります。「赤石山ハ絶頂
三岐シ、荒川・鍋伏・赤石岳ノ三連峰ヨリ成レル故二、
旧名ヲ三ッ峠ト言ヒ、絶頂二祀レル山神ヲ、三ッ峰神ト
言ヘリ」との記録があるそうです(『日本百名山』)。こ
の中の「鍋伏」というのが悪沢岳らしく、赤石岳から見
ると鍋を伏せた形に見えるそうです。

 この記述から「赤石山」は山頂が三つ峰になっている
ので、三ッ峠(峰のこと)といい、山頂に「三ッ峰神」
をまつっているといいます。三ッ峰神は、堀本丈吉行者
の三峰講と同じ三峰(三ッ峰)でしょうか。私が登った
1984年(昭和59)8月にも悪沢山頂に、こわれた木祠
がころがっていました。これは山梨県側の名取直衛(江)
・長野県側の堀本丈吉両先達のどの神のものでありまし
ょうか。

【紀伊国屋文左衛門】
 この大井川の源流の原始林に、みかん船で有名な紀伊
国屋文左衛門が関係しているそうです。♪火事と喧嘩は
江戸の花……、といわれるほど火事が多かった江戸の町。
火事が起こるたびに必要なのが材木です。当然材木商は
大繁盛で財をなし、豪商にのし上がったものも多かった
そうです。

 そのなかでも紀伊国屋文左衛門は、江戸中期の元禄11
年(1698・寅年)に、上野東叡山根本中堂の建設木材を
一手に引き受けました。そしてこの大井川源流、荒川岳
の森林を中心にして伐採をすすめたのでした(井川集落
『海野古文書』)。

 材木はなによりも輸送手段が問題。切り出してから大
井川へ落とし、筏(いかだ)で流していくのはいいもの
の、さらに焼津の和田港への12キロの運搬をどうする
か。文左衛門は考えた末、この距離に運河の開拓をはじ
めたのです。材木を運河で流せば、材木に傷をつけなく
てすみます。その上運賃が半減しました。それよりも喜
ばれたのは、このおかげで地元の新田開発にも利用でき
て、村々は豊かになりました。



▼荒川三山東岳(悪沢岳)【データ】
★【所在地】
・静岡県静岡市と長野県下伊那郡大鹿村との境。JR静岡
駅からバス、畑薙第一ダムから送迎バス、椹島から歩い
て9時間30分で荒川三山東岳(悪沢岳)。写真測量によ
る標高点(3141m)がある。地形図に東岳(悪沢岳)
の文字と標高点の標高の記載あり。

★【位置】(電子国土ポータル)
・標高点:北緯35度30分02.61秒、東経138度10分
56.73秒(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」
から検索)

★【地図】
・2万5千分の1地形図「赤石岳(甲府)」or「塩見岳(甲
府)」(2図葉名と重なる)(国土地理院「地図閲覧サー
ビス」から検索)



▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典20・長野県』市川健夫ほか編(角
川書店)1990年(平成2)
・『角川日本地名大辞典22・静岡県』小和田哲男ほか編
(角川書店)1982年(昭和57)
・『信州山岳百科2』(信濃毎日新聞社編)1983年(昭
和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005
年(平成17)
・『日本山岳ルーツ大辞典」村石利夫(竹書房)1997年
(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年
(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平
成16)
・『日本百名山』(新潮文庫)深田久弥(新潮社)1979
年(昭和54)
・『名山の民俗史』高橋千劔破(河出書房新社)2009年
(平成21)
・『山の伝説・日本アルプス編』青木純二(丁未出版)1930
年(昭和5)

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