▼【本文】
南アルプスの北部にある「北岳」・「間ノ岳」・「農鳥
岳」を白峰三山(白根三山)といっています。この三山
は、単に白峰(根)山(しらねさん)と呼ぶほかに、甲
斐白根山(かいしらねさん)・白峰山(しらみねさん)
・甲斐ヶ嶺(かいがみね)・白根三山(しらねさんざん)
・白峰三山(はくほうさんざん)とも呼ぶそうです。
白峰(根)山は三山のほかに、北岳から南にのびる小
太郎尾根の「小太郎山」・北岳から東にのびる池山尾根
の池山・また北岳と間ノ岳の間にある「中白根山」・農
鳥岳の西にある「西農鳥岳」・その南にある「広河内岳」
(ひろこうちだけ)などがあります。
白峰(根)とは標高が高く、まわりの山々より冠雪期
間が長く、峰が白くめだつためにつけた名前だそうです。
山名は『平家物語』(巻十)「海道下(くだ)り」にで
てくる平重衡(たいらのしげひら)歌から由来している
といいます。つまり平家の公達の平重衡が、源平合戦に
敗れて、捕虜になって鎌倉に送られました。
そして駿河の手越(てごし・いまの静岡市)のあたり
にきた時、雪の積もった山を見て「手越を過ぎていけば、
北に遠ざかりて雪白き山あり、問えば甲斐の白根とぞい
う」と詠んだのが「白根」の名のはじまりとか。また鎌
倉時代の『海道記』(作者不明)にも、同じような記述
が、さらに江戸中期の『裏見寒話』にも「富士山に続い
ての高山也、盛夏まても雪あり、其年中絶さるを以て、
白根ヶ嶽の名あり、此山を甲斐ヶ根とも云ふ」とあり、
どの歌にも「雪で白い山」が出てきます。
そんな大ざっぱな呼び方も、時代が経て知識が増すに
したがい、北にあるから「北岳」、間にあるので「間ノ
岳」など、三山の名も各峰ごとに細かくつけられはじめ
ます。そんな過度期には混乱もあり、「白根ヶ岳(中略)
一名甲斐ヶ根ともいふ 又農鳥山ともにいふ、是は夏農
の時期雪の消(きえ)方によりて、農具の形或は鳥の形
顕る」(『裏見寒話』)などと、白根山(白根ヶ岳)の異
名に農鳥岳をあげているものもあったそうです。
さて昔白根(峰)山の代名詞だった北岳は、白峰三山
の主峰で、富士山に次いで2番目の標高(3193m)です。
江戸時代の甲斐国四郡の地誌にも「一、白峯 此(ノ)
山(ハ)本州第一ノ高山ニシテ(中略)南北ニ連ナリテ
三峯アリ、其(ノ)北ノ方最モ高キ者ヲ指シテ今専ラ白
峰ト称ス」(『甲斐国志』巻之三十三・山川部)とあり、
やはり北岳を白峰といっています。
高山植物は、この山の名がついたキタダケトリカブト、
キタダケヨモギ、キタダケナズナ、キタダケソウなど特
産種や特産変種のほか、ミヤマキンポウゲ、シナノキン
バイ、ウサギギク、イワカガミ、ハクサンチドリなどな
ど図鑑がないともったいない位です。
北岳には、東面大樺沢に大樺沢に向かって高さ600m
の大岩壁(北岳バットレス)があり、山頂肩には瓢池と
も呼ばれる白根御池、また傾斜がきつい急登の「草すべ
り」もあります。なかでもバットレスの険しさは、山岳
宗教の修行の場に適しています。そんなわけか、江戸中
期には北岳山頂に「白根大日如来」がまつられていたら
しい。
先記の地誌『甲斐国志』に、「相伝フ山上ニ日ノ神ヲ
祀ル、其ノ像黄金ヲ以テコレヲ鋳ル長サ七寸許リ容(イ
ル)ル銅室ヲ以テス、高サ二尺二寸広サ方八寸其ノ四隅
ニ鈴ヲ掛ク、風吹ケバ声アリ」(巻之三十三・山川部)
とあります。
この一文、頂上には日の神をまつる20センチくらい
の黄金でつくった像があり、それを70センチくらいの
銅でつくった祠の中に納めてある。銅の箱は、四隅に鈴
がかけてあって、「風吹ケバ声アリ」としています。こ
の祠は明治時代まではあったらしく、明治〜昭和の登山
家・小島烏水はこの鉄板を見たといっています。これが
大日如来(大日如来、天照大神ともいう)のことでしょ
うか。
さらに『甲斐国志』は白根御池(瓢池)のことにも触
れています。「峯下一里半許リニ瓢(ヒサゴ)池ト云フ
アリ、長サ百五十歩広サ八十歩許リナルベシ、(2行:
又一説ニ大加牟婆ノ池廿八歩ニ十八歩許リト云フ是レト
異ナリヤ否ヤ未詳)、登拝ノ者米ヲ其ノ中ニ投ズルニ清
浄ノ人ナレバ其ノ米底ニ沈ミ不浄ノ人ナレバ浮ミテ沈マ
ズト云フ」とあります。
白根御池は、広河原から草すべり経由で登る途中、白
根御池小屋近くにある直径20mくらいの小さな池。当
時は瓢(ひさご)池と呼び、白根山(北岳)に登る人は
米をこの池に投げる風習があったようです。ここは雨乞
い信仰の池で、干ばつがつづくと国中地方(笹子峠から
西)の村人は、講を組んで参詣登山、池の中に牛馬の骨
を投げ入れたという(「芦安村誌」)ことです。
このようにふるくから山の中の池には神がいると信じ
られ、いろいろな供え物をして神の意向を伺おうとする
習慣はあちこちにあります。ほかの地方にも、ゴミや汚
いものを神聖な池に投げ入れて、わざわざ神を怒らせて
雨を降らせる例はよくあります。こうなれば人間が神を
手玉にとっているわけですよね。
北岳の開山は、1817年(文化14)ころで(または明
治2(1869)年との説も)、山梨県芦安の行者名取直衛
という人が、郡役所に「開闢願書」を提出して、広河原
・白峰御池・北岳のルート開いたそうです。そしての北
岳山頂に「甲斐ヶ峰神社」の本宮を、白根御池の下方に
中宮を、また夜叉神峠入口に前宮を建立しました。ちな
みに夜叉神峠は、この白根三山の展望台になっています。
しかし、詣でる者もなく、せっかくの名取の努力もむ
なしく、各社は荒廃してしまったといいます。それから
33年後、ウェストンが登ったときにはその残がいが残っ
ていたということです(「極東の遊歩場」)。
また『白根山脈縦断記』小島烏水)に、「小さい石祠
がある、屋根には南無妙法蓮華経四千部と読まれた、大
日如来だいにちにょらいと書いた木札が建ててある、私
たちの一行より、二十日も前に登山した土地測量技師や、
昨年登山した東京の人たち、山麓蘆安あしやす村でよく
聞く名の森本某、名取某の名刺が散らばっている」あり
ます。
この文に関連して『甲斐の山旅・甲州百山』の中で、
蜂谷緑氏が書いておられた、「以前山頂の石祠で写真を
撮った、それから十数年後、その屋根のかけらを確認し
た」との一文を読みました。「ン!もしかしたらわが家
の写真にも、もしかするかも……」。
早速北岳山頂の古い記念写真をひっぱり出し、ルーペ
で探しました。細かい岩だらけの写真の一枚の隅に、確
かに祠の屋根らしいものがあります。だがしかし、なん
てことだ、脇に足を組んで座っている人のデカイ登山靴
がジャマになって……、う〜ん、どうしても確認できま
せん。いまとなっては、アア。残念。
▼北岳【データ】
★【所在地】
・山梨県南アルプス市芦安(旧山梨県中巨摩郡芦安村)。
中央本線甲府駅の西30キロ。JR中央本線甲府駅から
バス、広河原から歩いて7時間45分で北岳。三等三角
点と標高点がある。
★【地図】
・2万5千分の1地形図「仙丈ヶ岳(甲府)」or「鳳凰山
(甲府)」(2図葉名と重なる)
▼【参考文献】
・『甲斐国志』(松平定能(まさ)編集)1814(文化11
年):(「大日本地誌大系」(雄山閣)1973年(昭和48)
所収
・『甲斐の山旅・甲州百山』蜂谷緑ほか(実業之日本社)
1989年(平成元)
・『角川日本地名大辞典19・山梨県」磯貝正義ほか編(角
川書店)1984年(昭和59)
・『白峰山脈縦断記』小島烏水:「山岳紀行文集 日本
アルプス」岩波文庫、岩波書店1994(平成6)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005
年(平成17)
・『中世日記紀行集』福田修一ほか校注(岩波書店)1990
年(平成2)
・「旅と伝説」三元社(1942年(昭和17)1月号)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年
(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年
(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平
成4)
・『日本歴史地名大系19・山梨県の地名』(平凡社)199
5年(平成7)
・『名山の文化史』高橋千劔破(河出書房新社)2007年
(平成19)
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