▼【本文】
★【鳳凰山とは】
南アルプスの北部、山梨県韮崎市と南アルプス市、そ
して武川村にまたがる鳳凰山は、鳳凰三山と呼ばれる3
つの山の総称です。北側から地蔵ヶ岳、観音岳、薬師岳
とならんでおり、さらに南には夜叉神峠があります。三
つの山ともに花崗岩でできていて、ともに風化されてで
きた真っ白な砂でおおわれ、夏などはその照り返しでま
ぶしいくらいです。
★【山名】
鳳凰山の「鳳凰」というのは奈良法王(法皇)から転
じたものだといいます。法王とは孝謙天皇(称徳天皇・
女帝)が道鏡のためにつくった官職のことですが、この
山の伝説では、孝謙天皇のこととか、天皇から寵愛され
た僧の弓削道鏡(ゆげのどうきょう)のことだとする説
もあります。
孝謙天皇は、第四十八代天皇。奈良時代(在位749〜
758)。在位9年。はじめ藤原仲麻呂を登用しますが、の
ちには僧の弓削道鏡を重用し、晩年には天皇から寵愛さ
れた道鏡が、帝の位をうかがう事件も起きたそうです。
その孝謙天皇が退位の際、奈良法皇と称し病気治療の
ため、山梨県早川町奈良田地区に滞在している間に、こ
の山に登り安産を祈願したため、法皇山(=鳳凰山)と
いうのだそうです。また異説もあって、法皇は法王でこ
の位をもらった道鏡だいう人もあり混乱しています。
また山ろくに清水山法雲寺というお寺があり、以前は
山号を鳳凰山といい、その寺に観世音菩薩・地蔵菩薩・
薬師如来を安置してあるため、それぞれの山の名前にし
たともいいます(『日本山名事典』)。そのほか、地蔵岳
にまつられてあったとされる大日如来像から、密教で大
日如来はあらゆる仏さまのトップ(法王)との考え方か
ら、法王=鳳凰になった説もあります。
さらにさらに、古書に、山上に金色のニワトリがつが
いで住んでいるとされたため、鳳(おおとり)にたとえ
て鳳凰山といったとあるほか、地蔵岳の姿を大鳥に見立
てての鳳凰説など切りがありません。
しかし、一概に鳳凰山というけれど、地蔵ヶ岳・観音
岳・薬師岳の三つのどの山をいったのかで論争が起きて
いるのだそうです。地蔵ヶ岳だけを鳳凰山とするという
のが一山説。それに対して、観音岳と薬師岳の二峰であ
るという二山説があります。そしていまふつうにいわれ
るのが三山説です。
★【一山説】
このなかの一山説は、江戸中期の『甲斐名勝志』や、
江戸後期の『甲斐国志』にも記載されています。『甲斐
国志』(巻之三十「山川部」)には、「州人多クハ誤リ認
メテ是ヲ地蔵ヶ岳ナリト云ハ非也、鳳凰山権現ノ石祠ア
リ祭日ハ九月九日ナリ神主小池氏柳沢村ニ住」とありま
す。
山上に立岩を屹立させる山を地蔵岳というのは間違い
だとしています。そして一山説の特徴、この山こそが鳳
凰山なのだとしています。いまでも山ろくの旧芦安村(い
まは南アルプス市芦安)や、武川村(たけかわむら)で
は、地蔵ヶ岳を鳳凰山と呼ぶ一山説をとっているそうで
す。
★【二山説】
これよりも古い江戸時代前半の『峡中紀行』という本
に記された「鳳凰」の項には「……又右、楢田(なら)
山、益コレヲ右スレバ、則チ農鳥・農牛(のうし)・鳳
凰・地蔵・駒嶽次第ニ逓列シ……」(『名山の文化史』)
とあり、三峰のうち地蔵を除いた山が鳳凰、つまり鳳凰
山とは観音岳と薬師岳の二峰を指すと判断できる記述に
なっています。
それは作者の荻生徂徠(おぎゅうそらい)が甲府方面
からこの山を見ているためだといいます。その見る位置
は、観音岳と薬師岳の区別が難しいというのです。幕末
に発行された甲斐国絵図などの各種絵図も二山説にもと
づいて描かれていますが、同じように絵図の作者、印刷
所ともに甲府にあったとのことです。
★【三山説】
19世紀に入ると、「一山説」での見方が一般的であっ
た山ろくでも、「三山説」を使うようになります。韮崎
市清哲町青木に残る19世紀初頭の「青木村神社明細?
(ならびに)鳳凰山」には、「鳳凰山ハ観音地蔵薬師三
岳ヲ総称シ…」などの記述が見えはじめます。この絵地
図はのちの山岳界を中心とした、いわゆる山名論争に発
展していくのでありました。
★【地蔵ヶ岳】
さて一番北の地蔵ヶ岳は、地蔵岳ともいい、山頂には
高さが20mくらいある岩の塔(オベリスク)が立って
います。この塔を地蔵仏とか、大日岩、烏岩や、オオト
ンガリと呼んでいます。目につくその形から、かつては
山岳信仰の対象になっていたらしく、まわりから懸仏、
古銭、剣、鉾などがみつかっています。現に弘法大師も
黄金の仏像を納めるため登ったともいわれます。
岩塔の手前には、賽(さい)の河原と呼ばれる砂礫が
散らばっているところがあって、地蔵さまの石仏がなら
んでいます。ここには毎朝、7、8歳くらいの子どもの
足あとがたくさんついているという不思議な話もありま
す。
また子どもがいない夫婦が、賽の河原の地蔵尊を借り
てそっと家にもって帰り、まつっておくと子どもが授か
ると伝えられてもいます。念願がかなうと、そのお礼に
地蔵を2体にして返す習慣があって、一時は数百体もの
地蔵が建っていたということです。
その他にここには、平安時代、京の朱雀大路の公卿(く
ぎょう)・六ノ宮の娘で、春房卿の妻、都那登姫も登っ
たともされています(『甲斐の山旅・甲州百山』)。地蔵
岳岩峰には、鳳凰三山の開発に尽力した地元の山岳会白
鳳会の初代会長小屋忠子・歯科医師で後に県会議長)の
ブロンズ像が岩峰したの花崗岩にはめ込まれています。
さらに『甲斐名勝志』(巻四・鳳凰山の条)には、「絶
頂の岩の上に黄金で鋳た三寸ばかりの衣冠をつけた像が
あって鳳凰権現といい、これは奈良の法皇のお姿である
といわれています。昔から盗賊がこの像をねらって、何
とかして盗もうとするのですが、取ろうとすると盤石の
ように重く、どうしても動かすことができず、いまもな
お岩の上にある」というようなことも書いてあります。
★【観音岳】
まん中の観音岳(2840m)は中央線の韮崎駅の西13
キロにあって、毎年、5月上旬には、山頂東斜面に頭を
北につきだした格好の牛の形の雪形があらわれます。農
牛(のうし)といって、山ろくでは農作業開始の目安と
されてきたそうです。一方、白根三山の農鳥岳(西農鳥
岳)にも農鳥の雪形が出ます。この観音岳の雪形と農鳥
岳の雪形にまつわる伝説があります。
韮崎市の中央道・韮崎ICがある穂坂地区に伝わる話
です。穂坂地区は水の便が悪いので、村人が相談して鳳
凰山に雨乞いに行ったといいます。その願いを聞いた山
の神さまは、「農牛」と「農鳥」に池をつくるよう命じ
たそうです。その池が「牛池」と「鳥の小池」だったそ
うです。これらの池ができたおかげで、穂坂地区は干ば
つにならずに助かりました。その後、「農牛」は鳳凰の
観音岳へ移って雪形になり、「農鳥」は農鳥岳の雪形に
化したということです。両方とも昔は農作業をはじめる
目安にしていたそうです。
★【薬師岳】
薬師岳(2780m)は、中央線の韮崎駅の西13キロ、
ちょうど観音岳と横にならんでいます。別名乗鞍岳とも
いい、ここも信仰登山でにぎわったところ。この山は東
峰・西峰の2つの岩峰があり、北端の地蔵岳に負けない
花崗岩の岩峰です。両峰の間にある窪地は白砂で、その
中にハイマツや高山植物が茂ります。
★【奈良王伝説】
さて次は早川町奈良田地区に伝わる話です。奈良時代
の第46代天皇とされる孝謙天皇(女帝・一旦退位のの
ち、再即位して称徳天皇になる)が病気になり、占った
結果、甲州早川庄湯島郷に霊湯ありとの夢のお告げがあ
りました。そこで大和の吉野を出発、奈良法皇と称して
早川庄湯島郷に向かいました。
そして758年(天平宝字2)5月にいまの早川町奈良
田地区に到着しました。(この年の8月に一度退位して
います)。孝謙太上天皇は早速、仮の宮居をつくり住み、
温泉に入って療養したところ、効あって病気が全快しま
した。天皇はこの地が気に入り、この村を甲斐の四郡か
ら外して、一群一村の「山代郡奈良田村」としました。
そしておよそ7年間滞在しましたが、765年(天平神
護1)吉野へ帰っていきました。史実では孝謙天皇が、
称徳天皇として再び即位したのが764年(天平宝字8)
なので、大体合致しています。天皇が吉野に帰ったあと
も村人はその徳を慕って、孝謙天皇が住んでいた皇居の
跡に神社をつくり、天皇の像を彫刻してまつり、いまも
奈良王さまと呼んで、まつっているということです。
★【奈良田の七不思議】
孝謙天皇(奈良王)が滞在したという早川町奈良田に
は、天皇にまつわる七不思議というものがあるそうです。
それは、(1)御符水の不思議:奈良王が掘った用水地
は、どんな干ばつや豪雨になっても、水の量は増えたり
減ったりせずいつも一定で、しかも飲むといろいろな病
気に効くといわれています。(2)塩の池の不思議:こ
の地は塩なかなか手に入らず不便でした。そこで奈良王
が八幡神社に不便を解消するよう祈願。するとお手水池
から塩水が湧きはじめ、喜んだ里人はこの水を使うよう
になったそうです。
(3)檳榔子(びんろうじ)の染池の不思議:鉄分が
含んでいる湧水池。奈良王が村人のために祈ると茶褐色
の染料水が湧き出し、奈良王も自分の白妙の衣を染めま
した。村人もコウゾで織った布(タホ布)で仕事着をつ
くり染めたということです。
(4)二羽ガラスの不思議:当時、奈良田にはカラス
が多くすみ、村人がつくった畑の作物を食い荒らして困
っていました。ある日奈良王は、カラスたちを集めて「こ
れからは、作物をむやみに食い荒らしてはならぬ」と厳
重にいいました。十日ほどしてから、またカラスを集め
て何を食ったか調べたところ、2羽を除いたほかのカラ
スは同じように作物を食っているのがわかりました。怒
った法王は、約束を守った2羽以外を鎮守の森から追い
出しました。そのため、奈良田にはカラスが2羽しかす
まなくなったということです。
(5)洗濯池の不思議:奈良田地区の冬は寒く、洗濯
するのに苦労します。困った奈良王は、八幡神社に祈願
して泉を掘ったところ、温かい水が湧き出し、村人は喜
んだといいます。(6)七段の不思議:奈良王が住んで
いた「王平」から「早河原」までは地面が階段状になっ
ていて、不思議なことに奈良の都の「七条」と同じにな
っているといいます。
(7)片葉のアシの不思議:奈良王が都へ帰る時、村
人はみんな跡を慕って悲しい思いをしました。同じよう
に草地に生えるアシもいっしょになって、奈良の方角に
なびき片葉のアシになったということです。
★【琴路のがれ伝説】
そのほか早川町の奈良田にはこんな伝説があります。
昔、25歳の曲げ物職人で吾平が保村(ほむら)という
部落に巡回の仕事に行き、定宿した家の娘の琴路(こと
じ)という19歳の娘と恋仲になりました。仕事が終わ
り吾平が家の帰っても、琴路は山道を越えて毎日吾平に
逢いにやってきます。ひとり息子の吾平の父親は、よそ
者との結婚にはとくにうるさく小言をいいます。
吾平は琴路とのうわさが立つことを恐れ、奈良田と保
村との中間にある別当代(べっとうじろ)峠というとこ
ろで逢うことにしました。しかし父親の目があり、なか
なか夜に出かけられません。いくら待っても来ない吾平
にしびれを切らし、琴路はまた奈良田まで通ってくるよ
うになりました。このような女の情熱が怖くなった吾平
は、恐ろしいことを思いつきました。峠に丸太の一本橋
がかかっています。その丸太に鋸を入れ、そこに乗れば
谷底に転落するようしておいたのです。
琴路はその夜も吾平に逢いにやってきました。峠にさ
しかかり、丸太橋を渡ったとたん丸太は折れて断崖を落
下、琴路は谷底へ消えて行きました。一方、吾平も死は
覚悟、遺書を残して村はずれの断崖から、下を流れる早
川に身を投げたのでありました。吾平の遺体は早川の水
に流され、別当代峠(べっとうじろとうげ)の下まで運
ばれ、峠の橋から落ちた琴路の遺体といっしょになれた
のです。
それを見た里人は、ふたりをあわれんで碑を建てて供
養しました。それからというもの、この峠を琴路峠(こ
とじとうげ)と呼び、琴路が落ちた高い崖を「琴路のが
れ」というようになったということです。
★【夜叉神峠の伝説】
南アルプスの入口・夜叉神峠は白根三山の展望台にな
っています。峠には夜叉をまつる石祠があります。夜叉
とは神通力を自由にあやつるインド古代ヴェータ聖典以
来の半神半鬼。その性格は烈しく、信仰心のないものに
は害をおよぼすたたり神だそうです。
大昔、桃ノ木鉱泉のそばを流れる釜無川の支流、水出
川(いまの御勅使川・みだいがわ)の上流に、身の丈20
数m、眼は爛々と輝かせる暴れん坊の神(夜叉神)がす
んでいたといいます。この神は疫病をはやらせ、暴風を
自由にあやつり、洪水を呼んで悪事悪業の仕放題。平安
時代のはじめ天長2(825)年の洪水は下流の釜無川、
甲府盆地を越えて一宮まで被害を与えました。
見かねた甲斐の国造(くにのみやつこ)・文屋の秋津
は、この惨状を朝廷に奏上しました。淳和天皇は心を痛
め勅使を送り、水難防止除けを祈りました。そのため、
水出川は御勅使(みだい)川と名を変えたそうです。
これとは別に村人たちは、はじめは恐れおののいてい
たものの、ついに我慢できなくなりお互いに相談。夜叉
神をまつりあげ、御勅使渓谷を一望できるこの峠に石の
祠を建て、念入りに祭祀しました。それからは災害はな
くなり、いまは豊作の神、縁結びの神になっているとい
います。
祠はいまも夜叉神峠小屋の北側に祭られています。ま
た夜叉神峠名の由来には異説があって、かつてこの峠付
近には、床柱や挽き物細工に使うヤシャブシという木が
たくさん生えていたという。ヤシャブシは漢字で夜叉五
倍子。ハンノキ科のハンノキ属の落葉小高木。このヤシ
ャブシ林の「りん」が「ジン」になまってヤシャジンに
なったともいわれているそうです。
▼地蔵ヶ岳【データ】
★【所在地】
・山梨県韮崎市と同県南アルプス市芦安(旧山梨県中巨
摩郡芦安村)、同県北巨摩郡武川村との境。中央本線韮
崎駅の西13キロ。JR中央本線韮崎駅からマイクロバス、
青木鉱泉から歩いて6時間30分で地蔵ヶ岳。写真測量に
よる標高点(2764m)がある。山頂直下に賽の河原があ
る。地形図に山名と標高点の標高のみ記載。オベリスク
標高点より南方向90mに賽の河原がある。
★【位置】(標高点、三角点)(電子国土ポータル)
・標高点:北緯35度42分43.28秒、東経138度17分55.37
秒
★【地図】
・2万5千分の1地形図「鳳凰山(甲府)」
▼【参考文献】
・『甲斐国志』(松平定能(まさ)編集)1814(文化11
年):(「大日本地誌大系」(雄山閣)1973年(昭和48)
・『甲斐伝説集』(甲斐民俗叢書2)土橋里木著(山梨
民俗の会)1953年(昭和28)
・『角川日本地名大辞典19・山梨県』磯貝正義ほか編(角
川書店)1984年(昭和59)
・『甲州の伝説』(日本の伝説・10)土橋里木ほか(角
川書店)1976年(昭和51)
・『続日本紀』(全3巻のうち中巻)宇治谷孟「現代語
訳」講談社学術文庫版(講談社)1992年(平成4)
・『新稿日本登山史』山崎安治著(白水社)1986年(昭
和61)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005
年(平成17)
・『続日本紀』(全3巻のうち中巻)宇治谷孟「現代語
訳」講談社学術文庫版(講談社)1992年(平成4)
・『世界大百科事典10』(平凡社)1972年(昭和47)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992
年(平成4)
・『日本山岳風土記2・中央・南アルプス』(宝文館)1960
年(昭和35)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年
(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平
成16)
・『日本大百科全書8』(小学館)1986年(昭和61)
・『日本伝奇伝説大事典』乾克己ほか編(角川書店)1990
年(平成2)
・『日本登山史・新稿』山崎安治著(白水社)1986年(昭
和61)
・『日本歴史地名大系19・山梨県』(平凡社)1995年(平
成7)
・『日本霊異記』中田祝夫校注訳・「日本古典文学全集
・第6巻」(小学館)1993年(平成5)
・『名山の文化史』高橋千劔破(河出書房新社)2007年
(平成19)
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