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ヤマケイの本『日本百霊山』 陽気な妖怪ばなし
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岳みち里みち田んぼみち
▼山と田園の伝承神話(本文のページ)(05)
【とよだ時】(豊田時男)
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山旅【ひとり画ッ展】
▼青森県恐山と天狗伝説
【説明略文】
恐山は霊場の総称。日本三大霊場のひとつ。
ここは死者の魂が集まるとされ、夏には多く
の人がイタコの「口寄せ」を聞きに集まりま
す。ここには常陸坊海尊伝説があります。義
経が衣川で戦ったとき海尊は山寺に出かけて
いたという。その海尊が江戸時代になって姿
をあらわしたという。・青森県むつ市。
【説明本文】は下記にあります。
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(長文です。拾い読みしてください)
▼青森県恐山と天狗伝説
【説明本文】
修験道の最北青森県下北半島の霊山恐山
は、恐山火山を中心とする霊場の総称。於曽
礼山、鵜翻(うそれ)山、地獄山、焼山、釜
覆山などの異名もあり、死者の山として知ら
れています。日本三大霊場(比叡山・高野山
・恐山)(「日本三霊山」の富士山・白山・立
山は別)のひとつ。カルデラ湖である宇曽利
(うそり)山湖の北岸一帯は、硫黄や間欠泉
が噴出して草木も茂らない地獄の風景になっ
ています。
恐山は宇曾利山とも「おそれやま」ともい
っています。この「うそり」とか、「おそれ」
の語源由来は分からないそうですが、オソ、
アソはアイヌ語の噴火を表す語ともいいま
す。この山は、カルデラの周囲を蓮華八葉(れ
んげはちよう)の火口丘や外輪山が囲んでい
ます。「蓮華八葉」は、@剣山(400m)、A
地蔵岳(330m)、B鶏頭山(321m)、C円
山(まるやま・897m)、D大尽山(おおつ
くしやま・828m)、E小尽山(こつくしや
ま・513m)、F北国山(844m)、G屏風山
(628m)の8峰。さらに南には下北半島の
最高峰の釜臥(かまふせ)山(878.6m)が、
西には朝比奈岳(874m)がそびえています。
カルデラ中央には宇曾利山湖(恐山湖)が
あり、北東端から流れ出す川は、正津川(し
ょうづがわ・三途の川)と呼ばれています。
ここは死者の魂が集まるところとされ、夏に
は多くの人が死者の霊を呼ぶイタコの「口寄
せ」を聞きに集まります。ただイタコの「口
寄せ」が行われるようになったのは、明治末
年から大正初年ごろからだということです。
湖の北岸には女郎地獄とか血の池地獄、賽の
河原などが広がり、またそれらを背に極楽ノ
浜もあります。
この地獄と極楽を含む霊場全山をまとめて
「恐山菩提寺」と総称され、中心となってい
るのは地蔵堂です。本尊は、慈覚大師円仁(天
台宗)作と伝える地蔵菩薩で、江戸時代以降、
むつ市田名部(たなぶ)新町の曹洞宗円通寺
の支配下に置かれているといいます。外輪山
の南方に接して寄生火山の釜臥山があり、恐
山の奥の院になっています。
『奥州南部宇曾利山釜臥山菩提寺地蔵大士
略縁起』(『山岳宗教史研究叢書17』)(1810
年・文化7年に再刊)という文書によれば、
そのムカシ慈覚大師円仁が中国で修行中、「或
夜、霊夢あ利、一人の聖僧、忽然と現れ、大
師に告(げ)て曰(いわく)、汝本国に皈朝
(帰朝)の後、当東方而去其王城行程三十余
日許(ばかり)にして、乃在霊山。…」。つ
まり「帰国したら、京都の東方30余日の行
程のところに霊山があるので訪ねるべし」と
いう霊夢を見たのだといいます。
円仁は帰国後、夢のお告げどおり東国への
旅をつづけ、青森県下北半島まで行き、釜臥
山に籠もりました。ある日円仁は、鵜(う)
が両翅(りょうし)を翻(ひるがえ)して北
の山上に飛んでいくのを見ました。円仁がそ
こへ行ってみると、美しい湖があって後方に
山をひかえた森の前は「猛火?々(えんえん)
として、苦器相視(マノアタリ)に現じ」、
また、その前の湖畔の浜は「金砂涼々として
正に浄土を観ずるにあり」という、地獄と極
楽浄土が一体となったような場所でした。
そこで、こここそ夢のお告げの所である確
信し、地蔵尊像を彫り、お堂を建てて菩提寺
にしました。そこから自分が籠もっていた山
を見ると釜を臥せた形をしていたので、覆釜
山(釜覆山)と名づけ、菩提寺の山号にした
そうです。また、鵜が翻って飛んでいったこ
とからこの地を「鵜翻(うそれ)山」ともい
うようになりました。しかし困ったことにこ
の説には年代に無理があるのです。
円仁は中国で9年の留学を終えて帰朝した
のは承和14年(847)です。そして貞観(じ
ょうがん)2年(860)に出羽立石寺を開創
し、貞観4年(864)に恐山を開闢。貞観6
年(864)比叡山での示寂しており、帰朝以
後、17年間の事蹟は大体分かっています。
が、遠い陸奥の国までの行脚の暇はありませ
ん。そんなところから恐山の開山は怪しいら
しいとのこと。
「しかし恐山では1862年(文久2)に、
恐山開創1000年祭を盛大に厳修したれっき
とした記録が記録が残っています。こんなも
んで、蜂の巣をわざわざつついて騒ぎを起こ
すことはありません。この縁起はそのままそ
っとしておこう」(『図聚天狗列伝・東日本編』
知切光歳氏)とのことです。
さて、地蔵堂は、江戸時代以前は恐居山金
剛念寺という寺が守り「峰の寺」といってい
たといいます。ですが、その峰の寺は、中世
後期の康正年間(1455〜57)に、蠣崎(か
きざき)の乱のとき、滅んでしまったといい
ます。その峰の寺を、田名部(たなぶ)の円
通寺(曹洞宗)の開山聚覚(しゅうかく)と
いうお坊さんが、釜臥山菩提寺として再興し
ました。
そもそもここの開山は、慈覚大師円仁(天
台宗)ということになっているのにいまは円
通寺(曹洞宗)が支配しています。天台宗の
蓮華寺としては当然ながら面白くありませ
ん。そんなことから、曹洞宗の円通寺と、天
台系の蓮華寺の間で恐山の支配権をめぐり
100年近い抗争があったそうです。ですが、
安永(あんえい)9年(1780)、蓮華寺が争
いに敗れ、いまのように曹洞宗の支配となっ
たのだそうです。ありがたい仏教といえど権
利が絡むと難しくなるようですね。
この恐山に、武蔵坊弁慶などとともに源義
経の家来として活躍した、常陸坊(ひたちぼ
う)海尊の伝説があります。彼は東北各地で
は、海尊は仙人として語られており、長生き
して伊達政宗に会ったという話もあります。
また宮城県塩釜市南方岩切にある青麻(あお
そ)権現は海尊をまつった祠といわれるよう
に、海尊の仙人伝説は多く残っています。
しかし、恐山にいる常陸坊海尊は天狗だと
いうのです。海尊は、常陸の国(茨城県)の
鹿島神宮の別当寺で修行し、のち滋賀県大津
市三井寺(園城寺・おんじょうじ)に移った
といわれる僧です。園城寺で修行中、源義経
の従者になり弁慶とともに、平家と戦ったり
奥州落ちなどと、義経と一緒に行動してきま
した。
しかし、鎌倉時代の文治5年(1189)、義
経が「衣川の戦い」で敗死します。ところが
その日、「常陸坊を初めとして残り十一人の
者ども、今朝より近きあたりの山寺を拝みに
出かけるがその儘帰らずして失せにけり」
(『義経記』巻第八・衣河合戦の事・室町の
軍記物語)とんでもない行動をしてしまいま
した。
どうもこの海尊、そのほかでも評判がよろ
しくなく、『犬張子』巻之一のように「昔常
陸坊海尊とかや、源九郎義経奥州衣川高舘の
役に、族従類みな亡びけるに、海尊一人は軍
勢の中を逃れて富士山に登りて身を隠し、食
(じき)に飢ゑて為方のなかりしに、浅間大
菩薩に帰依して守を祈りしに、岩の洞より飴
の如くなるもの涌き出でたるを、嘗めて試む
るに味ひ甘露の如し。これを取りて食するに
飢ゑをいやし、……」などと書く本もありま
す。川柳にも「ひたち坊風来ものの元祖なり」
などと詠まれるしまつ。
この海尊が、江戸時代初頭になって姿をあ
らわしたという情報があります。このころの
書物には「残月」または「残夢」と名のる異
様な姿をした怪老人が「わしは不老不死だ」
といいながら、「源平合戦」の様子を当事者
のように細かく知っていて、人々に話してい
るといいます。不思議に思った人が、会って
いろいろ聞いてみると、どうも実の常陸坊海
尊らしいというのです。
あまりの評判に徳川家康の側近の天海(て
んかい)という人が、その老人に会って確か
めたところ、海尊に間違いないということに
なりました。この怪老人が不老不死なのは、
クコや赤魚の肉、それから富士山の岩からわ
き出る飴のようなものを食べているからだと
いうのです。家康の側近の天海もこれをまね
た食事をとったところ、108歳まで長生きで
きたということです。
海尊の出身地の茨城県桜川村(いまは稲敷
市桜川地区)。その村の鎮守である大杉神社
にはこんな伝説があります。「伝教大師の弟
子の快賢が年を隔ててのち、仮に常陸坊海存
(海尊)となって義経を助け、平家追討して
のちにこの地に帰り、大杉大明神の像を彫刻
し大杉殿に納め天下太平五穀豊登などを願っ
て、彩雲に乗りたちまち消え失せ給う」と話
を広めているとのこと。地元はやはりひいきしますね。
一方、海尊は北陸福井県荒島岳にも現れた
ことがあったらしく江戸時代の『帰雁記』(正
徳2・1712年)には「荒島嶽には餐霧(さん
む)という仙人の住居せる山といへり、これ
は常陸房(ひたちぼう)が事なりと言う者あ
り」という記述も残っています。
▼恐山(釜臥山)【データ】
★【所在地】
・青森県むつ市。大湊線大湊駅の西3キロ。
JR大湊線下北駅からバス、恐山停留所下車。
一等三角点(878.2m)がある。釜臥山へは
むつ市スキー場から3時間。釜臥山の頂上に
は航空自衛隊のレーダーサイトが設置されて
おり、許可が必要。山頂には岳主神社奥社な
ど3つのお堂がある。
★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWe
bシステム」から
・釜臥岳等三角点:北緯41度16分42.6615
秒、東経141度07分12.0515秒
★【地図】
・2万5千分の1地形図:むつ、恐山。
▼【参考文献】
・「奥州南部宇曾利山釜臥山菩提寺地蔵大士
略縁起」:『山岳宗教史研究叢書17』「修験道
史料集1・東日本編」五来重編(名著出版)
1983年(昭和58)
・『角川日本地名大辞典2・青森県』竹内理
三ほか編(角川書店)1991年(平成3)
・『帰雁記』(正徳2・1712年)、松波伝蔵
・『義経記』作者不明。室町初期・中期の成
立?の軍記物語:(日本古典文学大系37『義
経記』岡見政雄校注 岩波書店)1959年(昭
和34)
・「恐山信仰」楠 正弘:『山岳宗教史研究叢
書7・東北霊山と修験道』(名著出版)1977
年(昭和52)
・『山岳宗教史研究叢書7・東北霊山と修験
道』月光善弘編 (名著出版)1977年(昭和52)
・『山岳宗教史研究叢書17』「修験道史料集
1・東日本編」五来重編(名著出版)1983
年(昭和58)
・『修験道の本』(学研)1993年(平成5)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ
出版)2005年(平成17)
・『図聚天狗列伝・東日本』知切光歳著(三
樹書房)1977年(昭和52)
・『図聚天狗列伝・西日本編』知切光歳著(三
樹書房)1977年(昭和52)
・『仙人の研究』知切光歳著(大陸書房)1989
年(昭和64・平成1)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975
年(昭和50)
・『東北の山岳信仰』岩崎敏夫(岩崎美術社)
1996年(平成8)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平
凡社)1992年(平成4)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平
凡社)1992年(平成4)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004
年(平成16)
・『日本伝奇伝説大事典』乾克己ほか編(角
川書店)1990年(平成2)
・『日本歴史地名大系2・青森県の地名』虎
尾俊哉ほか(平凡社)1982年(昭和57)
・『名山の文化史』高橋千劔破(河出書房新
社)2007年(平成19)
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