「第1章・野山・田園の神」

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▼目 次

・(1)蚕神 ・(2)かかし神 ・(3)金精神 ・(4)さいの神 ・(5)水神
・(6)杉神 ・(7)田の神 ・(8)峠神 ・(9)水神社 ・(10)夜叉神
・(11)山の神 ・(12)山彦 ・(13)竜神

 

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■(1)蚕(かいこ)神

 ……スサノオノミコトに殺されたオオゲツヒメの体にいろいろな
ものが生え出しました……。「かれ殺されたまへる神の身に生(な)
れるものは、頭に蚕生(な)り、二つの目に稲種(いなだね)生(な)
り、二つの耳に粟生(な)り……」ご存じ「古事記」の五穀起源の
神話です。
 「日本書紀」にも、同じようなハナシが出てさます。「この蚕生
り……」とのごとく、ことほどさように養蚕は遠いムカシから行わ
れ、蚕を「オコサマ」と呼ぶほど日本の大切な産業でありました。

 これほど大事な「オカイコサマ」、養蚕農家は蚕神としてまつり
あげ、同時に豊作を祈り願います。反面、被害を与える病害虫やネ
ズミなどを嫌い怒りました。


 蚕(かいこ)神は、地方によりクワの枝を持った女神であったり、
猫であったり、オシラサマであったりします。

 茨城県筑波町の蚕影(こかげ)山神社もそのひとつです。言い伝
えによると「昔、北天竺・キュウチュウ国のコンジキ姫は、継母で
ある後妃にいじめられていました。父王は、もはや避けがたいこと
と考え、クワのうつぼ舟に姫をのせて海に逃がした」というのです。
この舟が流れついたのが常陸豊浦(いまの同県日立市川尻町)。

 コンジキ姫は、村人の権太夫に助けられましたが、間もなく病死
してしまいました。姫の死体は蚕になり、養蚕の方法を伝授、権太
夫は大金持ちになったという話があります。各地の道の辻に「蚕影
山」と刻んだ石碑も見受けられます。

 また「名馬が飼い主の長者の娘に恋をして殺されたが、馬は娘を
つれて天高く舞いあがる……。翌年、空から白い虫と黒い虫が降っ
てきて、クワの葉を食べはじめた。みると娘の顔と馬の顔をした虫
だった……」これは蚕の神のオシラサマの伝説です。

 その他、蚕を食べるネズミの天敵・猫をまつった猫神や、同じく
ネズミを食べるヘビ(特に白ヘビ)も、農家の人は蚕神として大事
にしたそうです。

 東京・奥多摩の戸倉三山の臼杵山(うすぎさん・842m)には、
養蚕の神を祭る臼杵神社があります。狛犬は、カイコを食べにくる
ネズミの天敵の猫の像。それが猫には見えず、どう見ても格好の悪
い犬かブタ。ハイカーはこれもご愛敬と笑ってさい銭を上げ、拝ん
でいきます。

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■(2)かかし神

 田ンボの中で、ポツンと立っているかかしもれっきとした神サマ
です。漢字では、なぜか「案山子」と書きます。中国では「老鴉」
「偶人」「藁人」などと書くそうです。

 それでは、かかしはなぜかかしというのでしょうか。古来、鹿を
おどし、野生の鳥獣から作物を守る「鹿驚(かがせ)」の意味だと
いわれてきました。しかしいまでは「臭(か)がせ」からきたとす
る説が一般的だそうです。

 臭がせとは、古わらじや毛髪 ボロ布、または肉などを焼いて悪
臭を出して、スズメなど鳥類を追い払おうというもの。鹿ではなく
スズメだったのですね。

 以前、節分の日に炉の火の中にネギやニラや生葉、イワシの頭な
ど悪臭を放つものをくべて焼き、その悪臭で鬼や厄病神、魔を追い
払おうとする「焼(や)いかがし」という行事がありした。

 これがまさしく「かかし」の語源なのだそうです。いまではヒイ
ラギの枝にイワシの頭をつけて、魔よけのおまじないとして戸口に
さしておくことだけが残っています。

 かかしには大きくわけて、3つの種類があるそうです。まず、田
んぼに注連縄(しめなわ)をを張り、竹やわらで神への依代(より
しろ)の人形をつくったり、神札を立てるもの。しめ、そめなどと
もいいます。

 次は、悪臭で鳥や獣を追いはらおうとするもの。3番目はおどし。
目立つ色や形でおどしたり、大きな音をたてて鳥獣をおどすもので
す。

 もっともいまは風にゆられて絶えず動く装置やブリキ、銀紙、ハ
トをおどす大きな目ン玉の風船などさまざまで、ときには郷愁をさ
そうような「かかしコンクール」まで開かれています。

 では、「山田の中の一本足の案山子……歩けないのか山田の案山
子……」がなぜ神なのでしょうか。天気のよいのにみの笠つけて、
ただ立っている………それだけのことかと思ったら、ところがとこ
ろがなのであります。

 群馬県では、小正月にヌルデで作った「かかし神」を神棚に供え
たり、長野県では「カカシアゲ」といい、旧暦10月10日、田ン
ボからかかしをもってきて庭に建ててまつったりします。また、餅
をついて、長いダイコンをかかし様の箸(はし)といって、いっし
ょに供える所もあります。かかしを田の神の代表としているわけで
す。

 「古事記」にも出てきます。「大国主の神、出雲の御大之御前(み
ほのみさき=美保崎)にいます時に、波の穂より天の羅摩船(かが
みのふね=細長い実が2つにわれると舟の形に似ている多年生のつ
る草)に乗りて鵝(ひむし=蛾)の皮を内剥(うつはぎ)に剥(は)
ぎて衣服にしてより来る神あり。かれその名を問わすれども皆答え
ず。また所従(みとも=お供)の諸神に問わすれども皆『知らず』
と白(まお)しき」。

 「かれに多迩具久(たにぐく=ヒキガエル)白言(まお)さく『こ
は久延毘古(くえひこ)ぞ必ず知りつらむ』とまおせば、すなわち
久延毘古を召して問わす時に『こは神産巣日神(かみむすびかみ=
天地のはじめに生まれた3神の1神)の御子、少彦名命(すくなひ
こなのみこと)なり」と答白(まお)しき」

 「……中略……故其少彦名神をあらわし白(まお)せりしいわゆ
る久延毘古は、いまに山田の曽富謄(そほど)という者なり。この
神は足は行(ある)かねども天下の事を尽(ことごと)に知れる神
にもありける」と、あります。

 この曽富謄とは「そぼつ」、すなわち雨に濡れてそぼつの意味で、
田畑に立つ「かかし」のことなのだそうです。久延毘古も同じかか
しのことで、クエとは崩(く)ゆ、毘古は彦で男神をあらわしてい
るのだそうです。

 なお、石川県鹿島町の久??(氏の下に横一・?)比古(くでひ
こ)神社は、このかかし神・久延毘古神を祭神としているそうです。

 なるほど、かかしはそぼつ雨降る中に立つ男の神さまだったので
すね。

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■(3)金精神

 金精(こんせい)さまの石神も各地に見られます。金精神は金勢、
金生とも書き、地方によっては、こんせーさま、カナマラさまなど
と呼んでいます。金精の金は、金色に輝くようなリッパなもののこ
と。精は勢であり、精力絶倫の勢いをあらわしているとか。もちろ
ん男性自身のことであります。

 ご神体はやはり、アレに似た自然石か石、または木でつくったも
の。金精神社は全国に見られますが、特に東北に多いようです。有
名なのは、群馬と栃木の県境の金精峠にある金精権現、岩手県玉山
村の巻堀神社の金精大明神です。

 ことに巻堀神社のものはもと南部金精大明神と称され、そのご神
体は金属製のイチモツ。天保4年というから西暦で1833年に奉
納されたそれは、いまでも金色に光りかがやいているといいます。

 江戸末期の旅行家・菅江真澄は著書「さくらがり」の中で「南部
糠部郡巻堀という里に金勢神と申す神ませり。かねのみたけの金生
神とはここなるおん神にして、六、七寸の雄元(おはしかた・男根)
を銭(かね)に作り、鎖つけなどして二つ三つぞホコラに秘(ひ)
め置けり………」とあり、当時から知られた神社だったようです。

 金精神は、男女の縁結び、安産・婦人病の神。木や石でご神体と
同じ形のものを奉納して祈願します。山梨県の大菩薩峠の石丸峠近
くにも、石でつくったリッパなものがあり、突然あらわれるイチモ
ツに登山者は驚かされます。なぜこんな所に、もしか石丸峠の名は
もとは石マラ峠では、などといわれています。

 ある年の夏、栃木県奥日光の奥白根山に登り、金精峠へ抜けたこ
とがありました。峠の下は長さ755mのトンネル。群馬県に抜ける
クルマの通りがはげしい道路です。

 降っていた雨もやみ太陽が顔を出してきました。金精権現の祠の
前でぬれた雨具を干し、早速コンセーサマにお目通り。銅にメッキ
を施されたご本尊は、祠の中で空をにらみ元気です。丁重にさい銭
をあげ、念入りにかしわ手を打ちます。雲間からさす日光が顔に当
たりまぶしく感じました。

金精峠:栃木県日光市と群馬県片品村との境 JR・東武日光線日
光駅からバス、金精峠から40分で金精神社 2万5千分の1地形
図「男体山」

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■(4)さいの神

 昔の人は、道の辻(つじ)や村の境などには、しばしば外部から
悪霊が入り込んでくると考えました。そんな悪霊などに大切な村を
荒らされてはかないません。

 そこで悪霊たちを追い払う神が必要になります。その神こそ集落
の入口や峠などで「境の神」としてがんばっている「さいの神」で
す。さいの神はサエノカミともいい、塞の神、幸の神、また妻、障、
歳の字をあてたりします。

 さいの神がはじめて記録に出てくるのは、あの「古事記」だそう
です。身は腐りとけ、ウジが群がり、そのまわりには八つの雷神が、
頭や胸、腹、手足などに取りついていました。

 黄泉(よみ)の国で見た妻・伊弉冉(いざなみ)の神の醜い姿に
驚いた伊弉諾(おざなみ)の神は、一目散に逃げ出します。自分の
姿を見られたと怒った伊弉冉は黄泉醜女(よみのしこめ)に追いか
けさせます。

伊弉諾は黒髪をとって投げるとそれが野ブドウになり、醜女がそれ
を食べている間に逃げ、また追いつかれるとこんどは櫛を投げると
それがタケノコになり、また食べている間に逃げ、黄泉枚坂(よみ
のひらさか)ではモモの実三個を投げて追い返します。最後には死
んだ伊弉冉の神自身が追ってきました。
 伊弉諾の神は千引岩(せんびきいわ)で、黄泉枚坂の入口をふさ
いでしまいました。(千引岩とは千人力でやっと動かせる岩)。この
岩を中にして二神は事戸(ことど)(離縁)のことばを取りかわし
ます。

 この岩を「道反大神(みちかえしおおかみ)」とも「塞生黄泉戸
大神(さやりますよもつどのおおかみ)」というという。おなじみ
「黄泉枚坂(よもつひらさか)の条」です。

 ここに出てくる「塞生黄泉戸大神(さやりますよもつどのおおか
み)」、これこそがさいの神自身なのだそうです。そのため大石をも
って象徴されているのだとか。

 また「道反大神」ともあり、みちの字から道祖神とも混同されて
いきます。「今昔物語」や「宇治拾遺物語(うじしゅういものがた
り)」(鎌倉時代初期の説話集)にも、「道祖神」と書いて「さへの
かみ」と読ませています。

 さいの神のサイは塞の河原のサイでもあります。塞の河原とは、
親に先だって亡くなった子どもが行くといわれる冥土(めいど)に
ある河原です。

 子どもたちは成仏できず、賽の河原で父恋し、母恋しと功徳(く
どく)があるようにと石を積み、塔をつくろうとします。しかし、
意地の悪い鬼たちが来てすぐ壊してしまいます。

 そこへお地蔵さんがあらわれ、鬼たちから救ってくれる……。鬼
ごっこの「子とろ、子とろ」の遊びはまさに、ここからきているの
だそうです。鬼から子どもを守る親は、実はお地蔵さまのことなの
だそうです。

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■(5)水 神

 水は日常生活はいうまでもなく、農業、とりわけ稲作にはなくて
はならないもの。いまでも水不足になるとダムの貯水量がどうのこ
うのとテレビや新聞で発表されます。当然、神としてあがめたくな
るのも道理というもの。

 一口に水神といっても、まつられる場所などでいろいろ区別され
ているようです。川にあるのは川の神、、滝にあるのは滝の神、泉
の神、井戸神、池の神などなど。神社としてまつられている水神社、
水天宮なども水神の一つです。水神はまた、水田稲作での水の必要
性から、しばしば田の神と同じ性格と考えられたりもしています。

 「古事記」や「日本書紀」に出てくる「みずち」。これは水神そ
のものであり、みずちの「ち」は霊力あるものをさした言葉だそう
です。水神の姿はヘビやウナギ、竜だとされ、そこから「みずち」
はヘビのような形だと信じられました。

 また、カッパも水神の化身と考えられ、めどち、みんつち、みず
しんと呼んだりします。カッパをやまわろという所もあり、秋に山
に入り、春、川に降りるといい伝えられています。まさに田の神が
秋に山ノ神になり、春、田の神になって里に降りてくる「神去来の
伝承」にピッタリであります。

 神社としてまつられる水天宮。本来は川のほとりにあった水神な
れど、中国の天妃の信仰と結びつき、水天宮というようになったの
だそうです。

 水天宮の祭神は、源平合戦壇ノ浦の戦いで平氏一門と入水した安
徳天皇とその母建礼門院(高倉平中宮)とされています。安徳の安
は安産の安、そこで安産の神になっています。全国の水天宮の元じ
めは福岡県久留米市瀬下町のもの。

 壇ノ浦の戦いのあと、母の建礼門院に仕えていた按察使伊勢局(あ
ぜちいせのつぼね)が安徳天皇の霊を奉じて瀬下町まで逃れてきて
鎮めまつったのが最初だそうです。

また東京・日本橋の水天宮は1818年(文政元年)三田赤羽の有馬
藩の邸内に遙拝所として勧請、明治5年にいまの所に移したものだ
そうです。

 ちなみに安徳天皇は、死んだと見せかけて実は生きていて、ひそ
かに壇ノ浦から脱出し、四国から中国、九州、対馬、硫黄島にまで
訪れているという伝説があります。

 奥秩父、笠取山直下にも水神社のほこらがあります。ここに降っ
た一滴の雨が、ミズヒ沢に落ち、丹波川から奥多摩湖、多摩川を通
り、えんえん138キロの旅をし、東京湾に流れ込みます。

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■(6)杉 神

 まっすぐに生長し、巨木になった杉は、なんとなく神さびた感じ
がするため多くの神社やお寺の境内に植えられています。杉の大木
に囲まれた神社やお寺は人を威圧し、畏敬の念をおこさせます。

 神木としてあがめる社も多く、大杉神社、杉山神社など杉の名の
つく神社もあちこちにあります。杉はイニシエの昔から日本人にと
って必需品であり、また親しまれた木。

スギとははスグのことで、スグは直(す)ぐの意味。スクスクとま
っすぐ伸びるからなのだそうです。

 なかでも杉山神社は平安時代の初期の本「続日本後紀(しょくに
ほんぎ)」に「武蔵国都筑(つづき)郡杉山神社霊験を以って官幣
ウンヌンカンヌン……」とあり、また「延喜式」(神名帳)にも「武
蔵国都筑郡一座、小社杉山神社」と記載され、いまの東京、神奈川、
埼玉県あたりにはその名の神社の多いことをうかがわせます。

 杉は「万葉集」にもうたわれ、「神南端(かんなび)の三諸(み
もろ)の山に斎(いわ)ふ杉」など神としての杉の歌があり、また
これらにさわるのを禁じたりしていました。

 神木として有名なものは、京都伏見稲荷神社の「験(しるし)の
杉」があります。お参りする人はこの杉に礼拝し、境内の杉の苗を
引き抜いて帰り、家に植え、つけば福があるといい、枯れれば神の
加護がないなどといったそうです。

 奈良県桜井市の三輪山の杉も有名で、「万葉集」や「古今集」に
歌われています。そのほか三重県伊勢市の豊受大神宮の五百枚(い
おえ)の杉や福岡市香椎宮の綾杉(あやすぎ)茨城県の鹿島神宮の
神木杉が有名だそうです。

 杉はまた、酒とも関係が深く、崇神天皇の昔、活目(いくめ)と
いう酒造りが三輪大神の加護により、一夜のうちに美酒をかもした
という伝説があります。酒屋の看板杉玉を掲げるのはそこからきて
いるそうです。

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■(7)田の神

 いま当たり前になってしまっている稲作の転作による田んぼの荒
廃、一時のように余った米を産業機械のみがき粉に使うありさま。

 かつて米はすべての価値の基準になっていました。稲作の出来、
不出来はその村の存亡にもかかわる一大事。それだけに、豊かな実
りをもたらす農神、田の神は民俗信仰として古代から受けつがれて
きたものでした。

 田の神。それは地方によって、農神、さく神、作り神、さんばい、
亥の神などとも呼ばれ、一般的に春になると山ノ神が里に降り、田
の神になって稲作を守り、秋になると山に帰るとされています。い
わゆる「神去来の伝承」です。

 神が山から里に降りることを「さおり」、山に登っていくことを
「さのぼり」といいます。「さおり」や「さのぼり」の「さ」は神
のこと。早苗(さなえ)も神聖な田植えをする早乙女(さおとめ)
の「さ」も同じ「さ」なのだそうです。

正月神もなにあろう農神さま。農民の正月である小正月にヌルデ、
ミズキなどの枝にもちやだんごをさらせたりする「物作り」や、雪
の上にもみがらをまき、マツの葉やわらを苗にみたててさし、田植
えのマネをする正月田植え、またあちこちの神社で行われる田植え
神事など、みんな田の神への願いをこめた予祝行事です。

 苗代(なわしろ)に、もみをまいたあと、田んぼの水口にお神酒
(みき)や花、かゆを供え、水口(みなくち)まつりをしたり、焼
き米をつくり田の神に供えます。

 田植えはじめは「わさうえ」とか「さいけ」、「さびらき」、「さ
おり」などといい、まず田の神を降ろしてから田植えを行いました。
家ではアズキ飯をたき、田んぼの片すみにお神酒を供えて初田植え
を祝います。

 また若苗の根の泥をよく洗い、これを3把(ば)にわけて神棚、
またはかまどを祭壇として臼や箕(み)、枡(ます)などといっし
ょにまつったりします。

 本田植えが終わると、仕事を休んで田の神をまつります。東日本
では「さなぶり」、西日本では「しろみて」といい、2、3日から
かつては1週間も休む所もあったといいます。

 「さなぶり」や「さのぼり」は田の神が田植えが終わって帰る日
だとする地方もあります。さなぶりの日には、ボタモチをつくり、
苗を神棚や荒神さまに供えたりしました。

 稲が実りはじめる前、まだ未熟な稲穂を刈って神前に供える行事
があちこちにあります。これは収穫の際、まず田の神に初穂を献じ
てから稲刈りにかかった昔の名残りだそうです。

 稲刈りがおわると「刈り上げ祭り」で祝います。刈り上げの節供
(せっく)などともいって、もちをついで稲を田の神に供えます。
田の神はこの収穫祭で肩の荷をおろし、もちを食べて山の上に帰る
のだそうです。

 また、10月10日に行われる「イノコ」という行事も刈り上げの
祝いだといいます。山に帰る神に、使いのカエルがもちを背負って
お供をするという地方もあります。

 北九州で行われる「田の神むかえ」の行事は、わざと刈り残して
おいた稲をその日に刈り取ります。それが来年の種もみとなり、そ
の米は田の神祭りにも使われるという。

 能登半島での収穫祭は「あえのこと」といい、田の神を風呂に入
れたあと、座敷でお膳を供えてごちそうするマネをする行事があり
ます。

 家の主人がかみしもをつけ、風呂のかげんや、食べものをすすめ
るなど、いちいち声をかけ接待します。「あえのこと」は、相嘗(あ
いなめ)祭り(上代、11月の卯の日に、その年の新穀を神に供え
る儀式)の意味なのだそうです。

 しかし、米が余り、使い道をムリヤリ考えなければならない時代、
田の神サマもきっと目をシロクロ、山の上で小さくなっているにち
がいありません。

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■(8)峠 神

 山へんにに上下と書いて峠(とうげ)。峠という字は漢字ではな
く日本で作った文字だそうです。山を越えてとなり町に行く道は、
いまでこそトンネルを掘って道路を造りますが、ムカシは山と山の
鞍部(あんぶ)に道をつけ、そこを越えて向こう側へ出かけます。

 その鞍部が峠。「とうげ」はタワゴエのなまったものといわれま
す。タワは地形がたわんでいるところをいい、地図にも「○○のタ
ワ」と記入されています。山歩きの時よく耳にする言葉です。

 つまり山と山の鞍部や尾根上の鞍部のことで、そこを越えるのが
タワゴエ。これが時代がたつにしたがいタワゴエ、タウゲエ、タウ
ゲ、トウゲに変化したのでありますと。

 かつて人々は、この峠にも神がおわすと考えました。峠神は柴折
り神、柴神ともいい、峠に祠(ほこら)を建てたりしてまつります。
山を歩いていると、まして峠付近では、時どき急に冷や汗が出て、
極度の疲労やお腹のすくことがあります。

 これはヒダル神という神にとりつかれたためとムカシの人は思い
ました。ヒダルのヒは疲労の疲。ダルはタルミのタルでだるさのダ
ル。いや、これはでたらめ。

 この悪霊を追い払うには、柴を折って峠神に供えます。峠神は祠
であったり、古木であったり、自然石のときもあるようです。柴を
手向けるので、手向けがなまって「とうげ」になったという説もあ
ります。

 また峠神・柴神は次第にいろいろな祈願の対象ともなり、こども
の機嫌の悪い時や腫傷疾の病の治癒に祈るようになります。地蔵や
観音、薬師などにも柴折り地蔵、柴とり観音、柴折り薬師の名前で
信仰している所もあるそうです。

 峠でヒダル神にとりつかれると腹がへりはじめ、手足がしびれて
歩けなくなるという。そういう時は「米」という字を手に書いて食
べるまねをするとなおるという言い伝えもあります。

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■(9)水 神

 水は 日常生活はいうまでもなく、農業、とりわけ稲作にはなく
てはならないもの。いまでも水不足になるとダムの貯水量がどうの
こうのとテレビや新聞で発表されます。当然、神としてあがめたく
なるのも道理というもの。

 一口に水神といっても、まつられる場所などでいろいろ区別され
ているようです。川にあるのは川の神、、滝にあるのは滝の神、泉
の神、井戸神、池の神などなど。神社としてまつられている水神社、
水天宮なども水神の一つです。水神はまた、水田稲作での水の必要
性から、しばしば田の神と同じ性格と考えられたりもしています。

 「古事記」や「日本書紀」に出てくる「みずち」。これは水神そ
のものであり、みずちの「ち」は霊力あるものをさした言葉だそう
です。水神の姿はヘビやウナギ、竜だとされ、そこから「みずち」
はヘビのような形だと信じられました。

 また、カッパも水神の化身と考えられ、めどち、みんつち、みず
しんと呼んだりします。カッパをやまわろという所もあり、秋に山
に入り、春、川に降りるといい伝えられています。まさに田の神が
秋に山の神になり、春、田の神になって里に降りてくる「神去来の
伝承」にピッタリであります。

 神社としてまつられる水天宮。本来は川のほとりにあった水神な
れど、中国の天妃の信仰と結びつき、水天宮というようになったの
だそうです。

 水天宮の祭神は、源平合戦壇ノ浦の戦いで平氏一門と入水した安
徳天皇とその母建礼門院(高倉平中宮)とされています。安徳の安
は安産の安、そこで安産の神になっています。全国の水天宮の元じ
めは福岡県久留米市瀬下町のもの。

 壇ノ浦の戦いのあと、母の建礼門院に仕えていた按察使伊勢局(あ
ぜちいせのつぼね)が安徳天皇の霊を奉じて瀬下町まで逃れてきて
鎮めまつったのが最初だそうです。

また東京・日本橋の水天宮は1818年(文政元年)三田赤羽の有
馬藩の邸内に遙拝所として勧請、明治5年にいまの所に移したもの
だそうです。

 ちなみに安徳天皇は、死んだと見せかけて実は生きていて、ひそ
かに壇ノ浦から脱出し、四国から中国、九州、対馬、硫黄島にまで
訪れているという伝説があります。

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■(10)夜叉神

 夜叉(やしゃ)。なんとも不気味な響きです。古代インドのベー
ダ聖典に初めて人を害する鬼神として登場。半神半鬼の性格を持ち、
醜怪な姿をしており、人の肉を食うとされています。

 のちに八部衆「天竜八部衆・仏法を守護する天、竜、夜叉、乾闥
波(けんだつば)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら)、緊那羅
(きんなら)、摩?羅伽(まごらか)の八部の衆類」に入ったという。

 夜叉は毘沙門(びしゃもん)天の従者で神通変化の力を持つとさ
れ、人を助け、利益を与え、仏法を守護する半面、知恵や信仰のな
い人間には害を加えるという、あまり付き合いたくない神様ではあ
ります。

 南アルプスの入り口に夜叉神峠があります。昔、御勅使川(みだ
いがわ)源流に荒ぶる神がおり、悪疫、洪水、暴風雨と暴れ放題。
困った村人がこの峠にホコラを建てしずめたという。夜叉神峠小屋
の前はヤナギランがまっ盛り。ホコラはさい銭を前に山の神となら
んでいました。

夜叉神峠:山梨県南アルプス市 JR中央本線甲府駅からバス、夜
叉神峠入口から歩いて1時間15分で夜叉神峠(1760m) 2万5
千分の1地形図「夜叉神峠」

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■(11)山の神

 山ノ神はコワイもの。これは家で亭主のたづなを握るヤマノカミ
も同じこと、大昔から変わりません。

 徳島県では山ノ神は醜いという。その上ヤキモチやきで、どうい
うわけかオコゼという、これまた醜い魚が大好きなのだそうであり
ます。

 また、宮城県の山ノ神は、3歳くらいのオンナノコだと言い伝え
られています。細い小さな体から「ホーイ、ホーイ」とか細い声を
出すといいます。

 一方、山ノ神は弁財天にダンナをとられ歯ぎしりしているとする
のは岐阜県地方の話。それゆえ、木を切って弁財天を追い出してく
れる山仕事の人たちの守り神になっているのだそうな。

 ことほどかように、山ノ神はヒドイ女神のように感じるのであり
ますが、では山ノ神とはなんぞや?ということになりますと、これ
がサッパリ「?」の神サマなのです。

山神峠:神奈川県山北町 小田急新松田駅からバス、玄倉停留所下
車、さらに歩いて2時間で山神峠 2万5千分の1地形図「中川」

 神社道の山ノ神は、富士山の木花開耶媛命(このはなさくやひめ)
や摂津、伊豆などにある三島神社での大山祇命(おおやまずみのみ
こと)、比叡山の守護神・大山咋命(おおやまぐいのみこと)など
個有の神を主祭神にしています。

 ところがです。民間信仰での山ノ神とくると、醜い女神だったり、
逆に男神だったり、年に12人も子どもを産む女神だったり、夫婦
神、はては天狗だったりなどなどエトセトラ。

 その呼び名も所によって十二サマ、お里サマ、さがみサマ、さん
じんサマといろいろに変化。祭日にいたっては2月と10月、3月
と11月、または毎月7日、9日、12日、あるいは正月、5月、9
月の16日とか、12月と正月などと、それは雑多なのであります。

 冬の間山にいて、春、里におりて田の神に変身、農作物の実りを
手伝い、秋のとり入れが終わるとまた山ノ神になってお山に帰って
いく……。これは農民の考える山ノ神であります。

 それに対して山村の人の考える山ノ神は、けものや樹木を支配す
る神であり変身はしないという。そのご神体は、時には老木だった
り、巨石だったり……。

 どういうわけか漁民の山ノ神というのもあります。志摩半島や九
州では「漁の神」として信仰しているそうです。新しい船を海に入
れるとき、山ノ神の管轄から切り離す儀式を行うとからおもしろい。

 山ノ神の祭日には酒をあげ、もちをついてお祭りをしますが、東
北地方では祭日の12月12日は、山ノ神が木の本数を数える日だと
し、山仕事を休まねばならないといいます。

 もし、山に入ると木の中に数えこまれるとされ、木材関係者はも
ちろん、営林署までが休むならわしになっているとかいないとか。

東北飯豊連峰門内岳の山ノ神:山形県小国町と新潟県新発田市・黒
川村(いまは胎内市)との境。JR米坂線小国駅から小国町営バス、
天狗平6時間で門内岳(1887m)。2万5千分の1地形図「飯豊山」

 三重県の伊賀地方には正月7日、山ノ神祭りのカギヒキ(鍵引き)
神事があり、名物になっています。ウツギの木のふたまたになった
大枝を男の数だけ束ね、シメナワにひっかけて、ホコラの前で引っ
ぱりあいます。増産された富を自分の村へ引き込む祭りだそうです。

 滋賀県の山ノ神祭りは、男神、女神を結婚させる豊作の予祝(よ
しゅく)行事。1月6日、山ノ神のオン(男神)、メン(女神)と
称する人形の依代(よりしろ)をつくります。7日の祭日には仲人
を立てて、ことしの行司と来年の行司がオン、メンを持って向かい
あい「ホイホイホイ」かけ声ヨロシク歩みよります。

 そして見物人の爆笑のなか、オン、メンの下腹部につくってある
イチモツを和合させるのであります。その後酒をくみかわし、大シ
メのおカギをゆすり「カギヒキ」をして、五穀豊穣を祈ります。昔
はおおらかだったのですね。

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■(12)山 彦

 山彦とは山の男のこと。オーイと呼べばオーイと返ってくる、い
まならエコーとしてだれでも知っているヤマビコも、昔は山中に声
を発する何物かがいると考えました。それは人間の言葉を口まねす
る「アマノジャク」だとも、ヤマノババアだといっていた地方もあ
ります。

 これとは別に、ヤマビコは山の中の何かの霊のしわざではないか
とも考えました。そしてそれを木霊(こだま)と呼びました。木霊
はいうまでもなく樹木に宿る精霊。♪こだまが呼ぶよ、ヤッホー…
…のあれであります。

 木霊の記録が最初に出てくるのは「古事記」で、ククヌチの神(久
久能智神・くぐのちのかみ?)がそれだとされています。また「箋
注倭名類聚抄(せんちゅうわみょうるいじゅしょう)」には樹神の
和名「古多万(こだま)」と出ているとか。また、山彦は山響き、
山鳴りなどともいい、山ノ神、山男、天狗の仕業とも考えられてい
たそうです。

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■(13)竜 神

 ♪……助けたカメにつれられてェ、竜宮城に来てみればァ……。
おなじみ浦島太郎のハナシ。浦島太郎が3年間楽しく暮らした竜宮
城こそ、竜宮の住む城。ここから竜神とは海神であることがわかり
ます。

 また、ヘビが長じて大蛇になり、大蛇が年をくって天に昇り竜に
なるといわれます。ヘビは湿地を好むことから水の神とされます。
そんなことから竜神は水の神でもあります。

 そういえば、あちこちの漁村に竜神社や竜神祠がまつられて船の
安全や豊漁を祈願されています。また池や淵などでは水神としてま
つられ、かつては雨乞いの祭りが行われたりもしました。

 さて、胴がヘビ、角はシカ、目は鬼、耳は牛に似た巨大な、は虫
類とされる竜は、4本の足、体には堅いうろこをもっているという。

また中国では角はシカ、頭はラクダ、目は鬼、耳がウシ、ひげがコ
イ、首はヘビ、腹はワニ、足がトラ、爪はタカの姿とされています。
そして天をかけ、雲をよぶという。それに手には如意珠を持ってい
るというのです(インド流)。

 また水神には竜王がよくまつられています。竜王とは竜族の王だ
とする中国の考えかたがあります。これが仏教の八大竜王に結びつ
いてきます。八大竜王とは、法華経にも出てくる八種の大竜王のこ
とだそうです。それは難陀(なんだ)、跋難陀(ばつなんだ)、娑羯
羅(しゃがら)、和修吉(わしゅきつ)、徳叉迦(とくしゃか)、阿
那婆達多(あなばだった)、摩那斯(まなし)、優鉢羅(うはつら)
の竜王たちのことだそうです。

 娑羯羅(しゃがら)は娑伽藍とも書き、雨乞いの本尊になってい
ます。和修吉(わしゅきつ)は頭がいくつもある竜王で、徳叉迦(と
くしゃか)は舌が何枚もあり、その上、視線に毒がありにらまれる
と人や家畜たちどころに死ぬというから恐ろしい。阿那婆達多(あ
なばだった)は馬の形をした竜で、摩那斯(まなし)はヒキガエル
の形の竜王です。

 雲をよび、雨を降らせ、稲妻っを走らせる竜王は雷神とも結びつ
き、いまでもホコラの前はヘビの好きな卵や線香が絶えません。

 

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第2章道すじの神