「第2章・道すじの神」

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▼目 次

・(1)石神 ・(2)姥神 ・(3)要石 ・(4)甲子 ・(5)庚申
・(6)金毘羅 ・(7)三十番神 ・(8)地神 ・(9)地蔵
・(10)青面金剛 ・(11)天社神 ・(12)道祖神 ・(13)馬頭観音

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■(1)石 神

 石神(しゃくじん)、高石神、石神井(しゃくじい)という地名
があちこちにあります。石神は「いしがみ」とも「しゃくじん」と
もいい、神の依代(よりしろ)として、また石そのものに霊力があ
るとしてまつります。

 石に霊力がやどるという信仰は、イニシエの時代からであり、「出
雲国風土記」には「……いわゆる石神はこれ多岐都比古(たきつひ
こ)のみ魂(たま)なり。ひでりに当りて雨を乞う時は、必ず零(ふ)
らしめ給う」とあります。

 「日本書紀」(垂仁紀)には任那(みまな)の村でまつる神は白
石で(「古事記」では赤玉)美女になって、ごちそうをつくってく
れるそうです。日本に渡って比売語曽(ひめこそ)社の祭神になっ
たと伝えています。

 石そのものに霊力があるとするものには生石、子産石、光石など
があり、石が年々大きくなる話があります。また、神の依代として
の石には、御座石や影回石、腰掛石、休み石などがあります。

 石神には、村や峠の境界で外からくる疫病を防ぐ神として、丸い
石や自然石をまつるもの、道祖神や地蔵などにつながる信仰と、石
の形から男女のナニをあらわし、その結合によって豊作を祈る、生
産の神としての信仰。これも道祖神につながっています。

 また、病気の箇所を、石でさわった手でなでて、治るように祈る
治病の神としての信仰があります。耳の病気を治すため、穴のあい
た石を奉納するものや、いぼとり、ぜんそくを石神の力で治したい
と考えたのはこの類いであります。

 石神が道祖神につながるものが多いのは、古事記に出てくる岐神
(クナドノカミ)が道祖神だとすることによるもの。イザナギ・イ
ザナミの二神が夫婦分かれの時、その間に置いた杖がその神。この
クナこそ、二神に和合の方法を教えたクナ(男根)であり、これが
なにあろう石神であります。

 

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■(2)姥 神

 全国各地に、姥神がまつられており、また、「姥なんとか」とい
う名の伝説も多くあります。たとえば姥石、たとえば姥権現、たと
えば山姥などといろいろ伝えられています。

 山形県と新潟県境にある飯豊連峰の主峰・飯豊山近くの姥権現も
その一つ。女人禁制だったムカシ、禁を破った羽前小松(いまの山
形県)の姥が、やっとっここまで登ってきたがとうとう石にされて
しまったというもの。

 姥とは文字では老女と書きますが、必ずしも老女に限定している
わけではなく、ただ漠然と目上の女性をいっているようです。ウバ
といえば乳母と書き、母親のかわりに赤ちゃんの面倒を見、オッパ
イを飲ませる女性。いにしえの、たっときお方がたの間では、子ど
もを生んでも、自分の乳を飲ませる習慣はなく、授乳から育児を乳
母にまかせたのでありました。

 「古事記」、「日本書紀」にも出てきます。彦火々出見尊(ひこほ
ほでみのみこと)・山幸彦が海神の娘豊玉媛命(とよたまひめのみ
こと)と結婚して鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)が
生まれました。

 この御子(みこ)を育てたのが、豊玉媛命の妹・玉依媛命(たま
よりひめのみこと)。これが乳母の第一号なのだそうです。

 これは単に母乳の不足の乳母ということではなく、母子神信仰に
基づいて神をまつり、赤子に生命を授けるもの、あるいは神の子を
育てることを役目とするある種の女性宗教者・巫女(みこ)のよう
なものであったと考えられています。

 民間でも以前は合わせ乳といい、母乳に他の者の乳を混ぜて飲ま
せ、2倍の乳力が子どもに加わって生長を高めさせようとする意味
の呪力的信仰もありました。

 そのような背景から姥神が生まれ、まつられ、伝説が発展してい
きます。全国にある姥神縁起の多くは乳母が死なせた子の後を追う
話や、身替わりになるというものが多く、子育ての神とされていま
す。

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■(3)要 石

 よく肝心要(かんじんかなめ)と申します。広辞苑には「極めて
肝要なこと」と出ています。要石(かなめいし)とはそんな石のこ
とであります。

 「地震、雷、火事、おやじ……」。昔からいわれたこわいものの
順番です。おやじの威厳が消滅したいま、一番こわいものやはり地
震。地震といえば連想されるのがナマズ。ナマズにはグラリとくる
のを予知する能力があるといわれ、「地震の前に起こる地電流の変
化にナマズが敏感に反応する」という学者の論文も発表されていま
す。事実、ナマズを水槽で飼い、朝夕観察、記帳し、地震との関連
を調べている地方自治体もあるとかないとか。

 こんな事から、地震がくるからナマズが騒ぐ。地震がくるときは
ナマズが騒ぐ。ナマズが騒ぐから地震がくる。ゆえに地震はナマズ
のせいだと昔の人は考えました。

 地下にいる、この地震ナマズの首根っこをおさえつけられたらど
んなに安心できるだろう。そこでナマズのいそうな所に大きな石釘
を打ち込み、動けなくしようとしたのが要石です。つまり地震除け
の神さまなのであります。

 この石は全国各地の神社にありますが、なかでも有名なのは茨城
県鹿嶋市の鹿島神宮の境内にある要石。高さ15センチの丸い石で
地中深く根を張っているという話です。

 鹿島神宮のいい伝えによると、日本の国土の地下には地震を起こ
す大ナマズが横たわっていて、どういうわけか首と尾が、ここ鹿島
神宮の下で合わさっているというのです。それをこの要石が押さえ
つけている、まさに肝心要の要石なのであります。

 そして「ゆるぐともよもやぬけじの要石、鹿島の神のあらんかぎ
りは」と三度唱え、災害除けを祈願します。「鹿島宮社例伝記」で
は鹿島の大明神が降臨したとき、この石に座ったとあり、古くは御
座(みまし)の石と呼ばれていたということです。

 

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■(4)甲 子

 畑の農道わきなどに「甲子」と書かれた塔を見かけます。これは
「きのえね」と読み、甲子講にまつられる神の石塔です。

 甲子講は、甲、乙、丙(へい)、丁(てい)、……と続く十干(じ
っかん)の甲と、子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)……
と続く十二支の子(ね)にあたる日(60日に1回)に、子の刻ま
で起きていて大黒天をまつる行事です。よくカレンダーや暦に書い
てある「きのえね」や「きのとうし」、「ひのえとら」などのあれで
す。

 甲子講は甲子待(まち)ともいう行事で、床の間に大黒天の掛け
軸をかけ、二股ダイコンやダイズ、クロマメを供えます。これは現
世の福を得るためだそうです。かつては60日ごとに来る甲子(き
のえね)の日のなかでも、記念すべき特別の講のときには「甲子」
とか「大黒天」と刻んだ石塔や、福神の姿をした像を建てたりしま
した。

 大黒天はインドでは憤怒の形相のこわーい神でしたが、日本では
大国主命(おおくにぬしのみこと)と音が似ているために混同され、
すっかり福の神になっています。

 

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■(5)庚 申

 街道すじや路傍などで、いまでもけっこう庚申塔(こうしんとう)
を見かけます。庚申の文字を刻んだもの、青面金剛(しょうめんこ
んごう)像だったり、見ざる、言わざる、聞かざるの三猿像をほっ
たもの、たなびく雲といっしょに日月を刻んだものまでいろいろで
す。庚申とはそのムカシ、かのえさる(庚申)の日に行った、忌み
禁じの行事を中心とする信仰。

 ものの本によれば「そもそも人間の体の中には、上尸(じょうし)、
中尸(ちゅうし)、下尸(かし)の三尸(さんし)の虫がすんでい
るという道教の思想があります。上尸の虫は人の頭に宿り、眼を暗
くし、面皺(しわ)をたたみ、髪の色を白くし、中尸の虫は腸(は
らわた)の中に住み、五臓を損なわしめ、悪い夢を見させ、飲食を
好む。下尸の虫はというと、足にいて命を奪い、精をなやます」と
あるから厄介です。

 この虫が、かのえさるの夜、人が眠っている間につま先からひそ
かにぬけ出し、天にのぼり、天を支配する玉皇天帝(北極星)の所
に行き、その者の悪事罪科を報告します。それを聞いて天帝は鬼籍
という台帳に記録。天帝は記帳した罪の重さ軽さでその人の死期を
決めるという。

 いつまでも長生きしたいのはドナタさまも同じこと。そこで考え
たのは、この夜眠らないで三尸の虫がぬけ出すチャンスをなくし、
また三尸の名をたたえて有頂天にさせ、天帝に密告させないこと。
そこで「庚申待」とか「庚申講」という仲間が集まり、徹夜でごち
そうを食べたり飲み明かします。そして庚申塔に彫ってある三猿の
ように三尸の虫に、自分たちの罪科を見ざる、言わざる、聞かざる
でよろしくたのむヨと、ムシのよいことを祈ります。

 庚申の日には身を慎み、特に女性を避けるという習慣があるそう
です。もしこの夜、ナニがナニして、できたりしょうものなら、生
まれた子は盗っ人になるといい、「庚申は“せざる”を入れて四猿
なり」という川柳もあるほどです。

 庚申の日、夜を徹して身を慎むという行事が、道教や仏教の神々
を複合して庚申信仰をつくりあげてしまったからややこしくなりま
す。

 たとえば青面金剛(しょうめんこんごう)の像がなぜか庚申塔に
刻まれています。仏教の青面金剛法は伝尸病を除く秘法といわれ、
「陀羅尼集経」(第九青面金剛呪法)に「若し、骨蒸伏連伝尸気病
を患ふる者、呪を誦すること千遍せば、其病即ち愈ゆ」とあります。
この伝尸(でんし)が道教の三尸(さんし)と語呂が似ており、そ
こから青面金剛が庚申と結びつけられたのではないかといわれてい
ます。

 さらに、庚申の申は「さる」と読みます。申年のさる(猿)です。
猿は帝釈天(たいしゃくてん)のお使いです。また帝釈天は仏教で
天帝にあたります。そして日吉山王七社のお使いも猿というので庚
申の本源は比叡山の守護神、日吉神社だというふうになっていきま
す。さらにまた猿ということから猿田彦神とも結びつき、猿田彦は
道祖神であることから庚申と道祖神がごっちゃになるという複雑
さ。

 庚申信仰の最初の記録は平安時代にさかのぼるという。中国の風
習に「庚申の日、徹夜して三尸の名前を称えれば、禍いを転じて福
となす……」というのがあるそうです。中世、この風習が日本に伝
来、貴族社会に強く信仰されます。平安から鎌倉時代までは貴族社
会の間で行われていた庚申待の風習も、中世も末になると次第に庶
民の間に広がりはじめます。江戸時代にはもう全国的になるという
早さです。いつの世も上流社会のマネをしたがる者はいるものです
よね。

 庚申待の供養塔を建てることがハヤリはじめたのは室町時代末期
からだそうです。そしてこれも同様に全国的に広まっていったので
あります。ところで庚申塔によく彫ってある見ざる、いわざる、聞
かざるの三猿(さんえん。さんさるともいう)。伝教大師または天
台大師が天台の不見・不聞・不言の三諦を猿の形に託して表したの
にはじまるとの説があるそうです。一方、三猿の発生はインドだと
され、中国から朝鮮経由で日本に伝来したという説もあります。ネ
パールの寺院やヒマラヤ、また12世紀竣工とされるあのアンコー
ルワットの古寺の彫刻にも目、耳、口をふさいだ三猿があるそうで
す。海外のものはどんな意味があるのでしょうか。

 

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■(6)金毘羅

 金毘羅(こんぴら)サンとは香川県琴平町の金刀比羅宮(ことひ
らぐう)を中心とした金毘羅権現の信仰です。

 そもそも金毘羅はサンスクリット語の「クンピーラ」(ワニのこ
と)から出た名前だとか。つまりガンジス河にすむワニなのであり
ます。これがいつか釈迦が修行した王舎城内「ヒフラ山」の守護神
になり、その山がゾウの鼻に似ているというので「象頭山(ぞうず
せん)」といったのだそうです。

 この「ワニ神」が日本に渡来します。ワニ神は水に住む神という
のでいつの間にか海上の守護神、海難救済の神になっていきます。
またそれとは別の性格もあって、金毘羅サンは薬師如来のけん属で
ある「十二神将」の一人でもあり、「般若守護十六善神」の一人で
もあるという。

 そしてまた、竜王、夜叉神王とも名のり、多くの夜叉をひきいて、
さらにはみずからが大夜叉となって、仏法を守護するのも任務です。
金毘羅サンも忙しい。一方、いまの金刀比羅宮の境内にあった松尾
寺は本尊が釈迦サマです。そこで釈迦に関係のある金毘羅をお寺の
守護神として勧請(かんじょう)します。ついでに裏山を「ヒフラ
山」にちなみ「象頭山」と名づけるというあんばいです。

 時が経るにしたがい金毘羅(金刀比羅宮)は、神仏習合・本地垂
迹説(ほんじすいじゃくせつ)の影響をうけ、「象頭山金毘羅大権
現」と呼ぶようになりました。室町時代に入り、海上交通が盛んに
なると、豊漁・海上安全の神としてあちこちに信仰が広がり各地で
神社を建立されます。

 また水神・雨乞いの神として農村にまで伝播し、金毘羅参りに行
くのは伊勢参りとならんで一生に一度の庶民の願い。あの♪こんぴ
ら船々、おいてに帆かけて……と、あとからあとからお参りの船が
つづきます。このように金毘羅信仰が盛んになるにつれ、逆に釈迦
を本尊としている松尾寺は見向きのされなくなったのか、廃絶に追
い込まれてしまったという。

 やがて明治。廃仏毀釈(きしゃく)の嵐が吹き荒れます。どこか
の国の「文化大革命」のようなもの。権現など神仏混淆のものは破
壊されるという暴挙です。時の金刀比羅宮の別当松尾宥暁(ゆうぎ
ょう)は、この嵐から逃れるため、あわてて祭神を金毘羅大権現か
ら大物主命(おおものぬしのみこと)と崇徳天皇に変更します。

 しかし庶民は相変わらず金毘羅サンとして信仰し続けます。この
ように廃仏からまぬがれた金刀比羅宮の金毘羅サンは、祭神(大物
主命・崇徳天皇)とは関係なしに、いまでも海運の神としてますま
す隆盛していくのであります。

 

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■(7)三十番神

 日本には三十番神(さんじゅうばんしん)という神もおわします。
よく日蓮宗のお寺などにある番神堂というあれです。

 三十番神とは、1ヶ月30日間、毎日交代で法華経を守護すると
いう「三十柱」の神のこと。これを略して番神ともいうそうです。

 このように毎日、神が番がわりに守ってくれるという思想は、古
代中国五代のころに五祖山(ごそざん)戒禅師が制定した三十日仏
名(さんじゅうにちぶつみょう)が最初のおこりだそうです。これ
が日本に入り天台宗にとり入れられ、のちに日蓮宗の間に盛んにな
ったものという。

 三十番神は法華経守護のほか、それぞれの神の置き方で、天地擁
護、内侍所(ないしどころ)、王城守護、吾が国守護、禁闕(きん
けつ・宮廷守護)、如法守護、法華守護、仁王経守護、如法経守護
と、計10種類もあります。

 毎日、順番で交代しながら国家、人民を守ってくださる神サマた
ち。ごくろうさまですッ。

 

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■(8)地 神

 あっちの道ばた、こっちの十字路とお地蔵さまが建っていて、昔
から地蔵信仰が盛んだったことをうかがわせます。地蔵がいれば天
蔵がいるのがあたりまえ。しかし天蔵信仰というのは日本ではイマ
イチ見あたらないようです。

 天神に対しても、地神がなくてはおかしいのであります。この地
神も天蔵と同じく信仰がもう一つという感じです。天神にくらべる
と天と地の違いってわけか?。しかし、関東ではチジン、静岡あた
りでは地の神、、関西、四国から九州にかけては地主(じぬし)サ
マと呼び、農民の間で根強く信仰されているようです。

 古くは屋敷の西北の隅にホコラを建ててまつる屋敷神であったら
しいのですが、次第にムラや集落の共同のものとなり、田や畑のす
みや、辻にまつるようになったのであります。

 村の辻にまつるというので、あの世とこの世の境に立つという勝
軍地蔵(しょうぐんじぞう・地蔵信仰のひとつ)とも習合します。
勝軍地蔵は悪疫、悪神を防ぐといい塞(さい)の神とも結びついて
います。

 宮崎県では田や畑を最初に開拓した人を地主さまとしてまつるそ
うです。静岡では人が亡くなって33年経つと地の神になるといい
ます。

 地神とは祖霊信仰がもとになった田の神、作神、農業神だとも考
えられています。田の神といえば、冬の間は山ノ神としており、春、
山を降りて田の神になる。そして作物の育成をつかさどり、収穫が
終わるとまた山へ帰っていくという言い伝えのある神です。日本の
民俗神というのはあっちに結びつき、こっちに習合していきます。

 また、地神の地は痔に通じます。小田原にある痔神社は、初めか
ら尻の方ではなく、地神から来ているそうです。

 地神講というものもあります。これはお彼岸前後の社日の日に行
われ、建立される塔には地神塔、堅牢地神や土后神と刻まれた石塔
もあります。

 

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■(9)地 蔵

 お地蔵さん。なんとも親しみのある菩薩です。地蔵菩薩は釈尊の
死後、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の出現までの56億年7千万年の
仏のいない期間、人々に法を説くためこの世に現れた菩薩だといわ
れます。

 地蔵はもともと仏教以前の古代インドの大地の神、万物を包蔵し
生育する母なる神として農耕民族の大地信仰につながった原始母神
でありました。これが仏教に取り入れられ、地蔵菩薩となり、死後
の世にも救済の手を差しのべてくれるという。

 人間はこの世での行いの報いとして、死んだのち、地獄、餓鬼、
畜生、修羅、人間、天上の6つの世界に生まれかわるという。人間、
修羅界ならまだしも、地獄、餓鬼、畜生の世界などに生まれちゃっ
たらエライこと。苦しみの責め苦にあわねばなりません。

 しかし、こんな世界でもちゃんと担当の地蔵さまが現れ、救って
くれるという。なにしろバックに釈迦仏がおわすお地蔵さま、閻魔
大王(えんまだいおう)もうかつには手が出せないのであります。
どうだ!

 仏教と共に中国に渡った地蔵信仰が、日本に伝わったのは奈良時
代ということになっています。地蔵三経(「十輪経」・「地蔵菩薩本
願経」・「占察善悪業報経」)が中心経典。737年(天平時代)の
「金剛三昧」・「占察善悪業報経」(略称「占察経」)・「大方広十輪経」
などに名を出します。

 地蔵信仰が盛んになったのは平安時代からといいます。はじめは
貴族の間で流行していましたが、鎌倉時代になると、次々におこる
戦乱で人心は不安と動揺の連続です。そこで庶民は地獄でも救って
くださるという地蔵さまにすがるような気持ちで祈ります。

 飢えと病気、間引きと娘売りとつづく貧の庶民生活。抵抗力のな
い子どもたちは相次いで死んでいきます。葬式も出せない、供養も
できない貧しさ。あの世へ行った子どもたちは成仏できず、賽の河
原で父恋し母恋しと石を積みます。

 そこへ鬼たちがあらわれ「やれ汝等なにをする。シャバに残りし
父母は追善作善の勧めなく……」と、せっかく積んだ石を容赦なく
打ち壊し、子どもたちをばせっかんざんまいィ……。(賽の河原地
蔵和讃)。

 そんな所へ出てきて救ってくれるのが地蔵菩薩です。「地獄に仏」
とはこのことであります。子を思う親にとっては身のちぎれる思い。
いやがうえにも地蔵信仰は盛んになります。こうして地蔵さまは庶
民のものになり、身近な道や村や路傍に石のお地蔵サンとなって建
てられていったのでありました。

 これほど親しまれたお地蔵さんはまた、次々と変わった願い事を
かけられる対象になります。曰く、子安地蔵、曰く、子育て地蔵、
はたまた延命地蔵など、その他、身代わり、歯痛、せき止め、とげ
抜き、安産、毒味、雨乞いまで、お地蔵さまは医者から気象庁の分
野まで受け持つことになります。

 その一方、路傍や道ばたに立っていることが多いことから、道祖
神とか賽の信仰と結びついていきます。そこから境神としての地蔵
信仰が生まれ、将軍地蔵とも呼ばれました。

 これは現世と冥(めい)界の境に立って守ってくれるという考え
方からきているもので、その思想は京都の街を守護する愛宕山が本
源ともいわれています。

 六地蔵というのもよく見かけます。それは人間が死んでから生ま
れかわるという「六道」の世界を担当するお地蔵さまだそうです。
日本で平安時代から信仰されはじめたという。

 その名前や像の形は諸説があって一定せず混乱しています。大体
の区別として「世界大百科事典」(平凡社)によれば
(1:地獄道担当・檀陀(だんだ)地蔵:手に人頭の標識を持つ
(2:餓鬼道担当・宝珠地蔵:宝珠(ほうしゅ)を持っている
(3:畜生道担当・宝印字蔵:如意宝の印相をむすんでいる
(4:修羅道担当・持地地蔵:大地を持っている
(5:人間界担当・除蓋障地蔵(じょがいしょうじぞう)
(6:天上界担当・日光地蔵

 また民間信仰辞典」桜井徳太郎(東京堂出版)によれば
(1:地獄道担当・大定智悲地蔵:左手に宝珠、右手に錫杖を持つ
(2:餓鬼道担当・大徳清浄地蔵:左手に宝珠、右手に与願印
(3:畜生道担当・大光明地蔵:左手に宝珠、右手に如意
(4:修羅道担当・清浄無垢地蔵:左手に宝珠、右手に梵篋(ぼん
きょう)
(5:人間界担当・大清浄地蔵:左手に宝珠、右手施無畏印
(6:天上界担当・大堅固地蔵:左手に宝珠、右手に経巻
 その他持ち物としては錫杖、念珠、合掌、柄香炉、などなど無数
にあるようです。

 

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■(10)青面金剛

 道ばたに青面金剛(しょうめんこんごう)と字の入った石塔が建
っています。下の方に「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿が彫
られています。庚申(こうしん)の供養塔です。セイメンともショ
ウメンとも読む青面金剛は、もともとは帝釈天の使者だという。顔
の色が青い金剛童子のこと。六臂三眼の憤怒相(ふんぬそう)をし
ていて病魔や病鬼を払い除く神とされています。

 仏教の青面金剛は伝尸(でんし)病を治す秘法といわれ「陀羅尼
(だらに)集経」の青面金剛呪法に「若し、骨蒸伏連伝尸気病を患
ふる者、呪を誦すること千遍せば、其病即ち愈ゆ」とあります。

 この伝尸(でんし)が道教での三尸(さんし)と語音が似ている
ので庚申信仰と結びつけられたとされています。その結果、人間の
体にひそむ三匹の虫(三尸の虫)の本体は青面金剛だということに
なります。

 この三尸(さんし)の虫というのは、ふだんは人間の中にいて、
その人間を監視。「何月何日、どこで浮気、ホテル代、○万円也」
てな具合に手帳にビッシリなのであります。

そして人間が寝ている間に体から抜け出し、天に昇って天帝(帝釈
天)に報告。この罪の重さによりその人間の寿命が決まります。

 スネにキズを持つ人間としてはそれでは困ります。三尸の虫が天
帝に報告に行かせないよう考えたのが「庚申待」。ごちそうを食べ
ながら徹夜して、三尸の虫が体の中から抜け出すスキをつくらない
ようにしようというわけです。

 三尸の虫とは上尸、中尸、下尸の三匹の虫。上尸は顔のしわを作
り、髪を白くします。中尸は命を奪い精を悩ますのだということで
す。病魔を追い払う青面金剛も、いつの間にか悪い虫に変わってし
まいます。庚申の申はサル、だから猿。どんどん変わっていくのが
日本の神のユニークなところなのであります。

 

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■(11)天社神

 丹沢といえば、ハイキングから登山、沢登りと、子どもからお年
寄りまですでにおなじみの所。その丹沢山塊のふもとの集落にはち
ょっと変わった神さまがおわします。

 天社神と書かれた石碑で、塔の前にはさい銭があげられ、くだも
のなどが供えられています。天社とは天赦(てんしゃ)日で、暦の
天赦のことだという。この日は何をしても大丈夫な日で、天から地
まで平和に満ちあふれ、災いをいっさい除く、いちばんの吉日とさ
れています。

 これは、中国の戦国時代から漢の時代にできた「五行説」にもと
づくもの。数少ない吉日の天赦が発音によって天社になり、天社の
神になったのだろうという。

 五行説とは、天地、宇宙から人間の現象や運勢は、木、火、土、
金、水の循環、消長によりきまり、水は火に勝つとか相生(相勝)
がどうのこうのというむずかしい説のことです。

 天社とはまた、田の神を山から上げ降しする(神去来の伝承の)
社日と結びつけたという説もあります。

 

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■(12)道祖神

 いなか道を歩いていると、村境や道路の辻、はたまた峠などで道
祖神の石像やホコラをみかけます。

 道祖神は元来、外からくる邪悪なものや疫病、悪霊を村境で「さ
えぎり」、村を守ってくれる神です。だから別名、塞(さい)の神
または「さえのかみ」とも呼ばれています。

 また「さい」は幸(さい)に通じ、人間に幸いをもたらす神とし
て男女円満、縁結びの神、そして旅人の安全を守る神としても信仰
されます。

 関東から中部地方では道陸神(どうろくじん)ともいっており、
あの「古事記」、「日本書紀」には、岐神(ちまたのかみ)ふなどの
神、塞(さえ)大神などの名で出てきます。

 道祖神の石像の形はいろいろで、これは江戸も中期以後、世の中
が落ち着いて、また大名たちの城もひととおり完成してしまい、失
業した石工たちが地方の村をめぐって、それぞれ思い思いの構想を
ねって彫ったのだろうといわれています。

 その形は丸石をまつるもの、地蔵さまに似た石像、石祠、変わっ
た形の石、男根女陰をまつったもの、道祖神の文字を刻んだもの、
双神像、単神像、単僧像などなど。

 双神像のなかには女神が子どもを抱いているものや、まゆ玉、幣
と鈴、銭袋を持っているもの、もちをついているもの、またまた男
神が女神の胸に、女神が男神のイチモツに手をおくもの、接吻して
いるもの、和合しているものなどさまざまです。これは男女円満の
姿を示すことは邪悪者を尻込みさせるという考え方からつくられた
ものだとか。

 道祖神の文字が本に出てくるのは、平安初期「続日本紀(しょく
にほんぎ)」という本。同じ平安期の「新撰姓氏録」には道祖とあ
り、フナドと訓じられています。また934年「倭名類聚抄」(平
安・承平4年)には道祖の字に対して「和名、佐倍乃加美(さへの
かみ)」と訓読しています。

 道祖神は猿田彦神(さるだひこがみ)の神話とも習合しています。
これは「古事記」天尊降臨の条、天照大神(あまてらすおおかみ)、
御孫ニニギノ尊を日本国土に下した際、上は高天ヶ原から下は豊芦
原の中つ国(日本本土)まで照らしている神を見つけます。「なに
者だ。名をなのれ!」との問いに、かの神「自分は国津神、猿田彦
神、天尊降臨を伝え聞き、道案内をしようと出迎えているのだ」と
のこと。

 こうして猿田彦の先導で無事、高千穂におりることができたとの
伝説があります。猿田彦神が道を照らしてニニギノ尊一行を先導し
たことから道祖神にも通じるようになったのであります。

 猿田彦は鼻が高く、目は鏡のようで、赤顔だったといわれ、天狗
の「祖」として「山ノ神」の信仰も受け、また庚申の申をサルと訓
ずるところから、庚申信仰にも流れます。

 ところで道祖神のお祭りは普通1月14、15日ころの小正月に
行われます。お祭りには道の辻に竹やわらや、家々の門松や正月に
飾ったご弊や供物を積み上げて焼くこのとんど、左義長の火祭りの
形で行われます。

その時、モチなどを持ち寄りその火で焼いて食べ、無病息災、家内
安全、五穀豊穣、交通安全などを祈ります。

 また千葉県印旛郡周辺にはこんな話が伝わっています。
 「足の悪い道陸神が、弁天さまに思いを寄せていました。ところ
が、弁天さまは何が気に入らないのか、橋を渡って逃げていってし
まいました。足の悪い道陸神は追いかけることができません。

 悲嘆にくれる道陸神……しかし気をとりなおし、弁天さまは必ず
戻ってくることを信じ、きょうもまた、村はずれで待っているので
す……」。

 

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■(13)馬頭観音

 田園風景を楽しみながら農道を歩きます。道ばたに馬の顔を彫っ
た石像がこけにまみれています。なかにはかたむきかけて建ってい
るのもあります。馬頭観音と文字を彫ったものもあります。

 いまでこそ、農村では耕うん機だ、田植え機だ、コンバインだと
田んぼより大きな農業機械を使っていますが、かつては農作業とい
えば馬、物の運搬もまた馬。お馬サマサマなのでした。

 トーゼン、農家はお馬サマをそれは大事にし、家づくりは自分た
ちの住まいといっしょに厩舎(うまや)がつくられ、馬は家人と共
に寝起きし、家族の一員として扱われたのでありました。

 1馬力、2馬力という力の単位にもなり、人間サマにも「あいつ
は馬力がある」等と使われます。また農家では馬を持っているかど
うかが、貧富をはかるモノサシでもあり、武士は「槍一筋は百石の
侍、馬一頭は二百石の侍」といわれるほど馬は人間の生活の主要な
部分を占めていたのでした。

 ハレの日の行事には馬は腹掛けなどで着飾り、祝いの列に加わる
ハレ姿。労力以外にもそれなりの待遇を受けていたのですね。

 だから死んだ飼い馬には供養したしるしに供養塔を建て、路傍に
は馬頭観音をまつって馬の安全と成育を祈ったのでした。

 大事な馬への思いが馬頭観音の信仰になり、また飼い馬の無病息
災をも祈りました。

 馬頭観音は馬頭観世音の略。馬頭菩薩、馬頭大士、馬頭明王とも
いい、六観音の一つであり、また八大明王のひとつでもあります。
梵語でHAYAGRIVAといい、魔障(ましょう)を払い、慈悲
を給う菩薩だそうです。

 馬頭の名は、この神サマは馬のように濁水を飲み、馬が食う雑草
を食べるので名づけられたそうです。

 馬頭観音像には人身馬頭の形と、人の形の頭上に馬頭をいただく
ものとがあります。また馬頭冠の憤怒の形相をしたものもあります。

 これはインド古代聖典「リグ・ベーダ」にでてくるペードゥ王の
神話に関係があるといわれます。いつも毒蛇に苦しめられていたペ
ードゥ王が司馬双神からバーイドウという駿馬をたまわり、この馬
の力で悪蛇をみごと退治。この時の奮闘の姿をあらわしたのがもと
でこの憤怒の形相といいます。馬頭観音の像のなかに、首に蛇をか
けているいるのがあるのはここからきています。

 馬頭観音は悪人をこらしめたり、いろいろの病をとり除き、天変
地異を防ぎ、悪人との論議得勝を祈るためにまつります。また天台
大師の「摩詞止観(まかしかん)」第二では師子無畏観世音と名づ
け、六観音のひとつ、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)
の中の畜生道の救済にあたる仏尊になっているのであります。

 しかし、こんな小ムズカシイことはさておいて、農山村の馬頭観
音は、あくまでもわが家の労働力であり、働き手である馬の安全と
健康を祈ったもの。

 この信仰が日本に伝わったのは平安時代。弘法大師が入唐してか
らのことだそうです。鎌倉時代になり、武家社会、ことに武士にと
って馬は大事な武器でもあったことから、馬頭観音信仰が流行しま
す。そして比較的平和な江戸時代になると、馬頭観音信仰は民間入
り込みすっかり神さまとして定着。次々に馬頭観音の石碑が建てら
れるようになったのでありました。

 また、馬とならんで人間の役に立ったのがお牛サマ。馬ばかりで
は片手落ちです。そこで牛頭観音というのを作り出しまして同じよ
うに道ばたにまつってあります。まれには牛馬一緒の石碑も見られ、
牛馬観音と書かれて、牛、馬の絵が彫られています。

 

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第3章里の神仏