山頂に必ずといっていいほどあるあの祠はなんだ?
▼山の伝説伝承【本文】のページ(03 【とよだ 時】

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▼山梨県三ツ峠山・だるま石とクモイコザクラ

【略文】
三ツ峠山のふもとに「とよ女」という美しい娘がいまし
た。ある時娘に恋狂った若者が火をつけ、とよ女を焼き
殺してしまいました。春がくると、とよ女が死んだ場所
に、サクラソウが一斉に花を開きました。人々は「クモ
イコザクラ」と呼び、美しさをたたえたという。いまも
春になると岩肌に咲くという。
・山梨県西桂町、富士河口湖町と都留市との境。

▼山梨県三ツ峠山・だるま石とクモイコザクラ

【抜粋文】
 富士山をながめながらのロッククライミングでおなじ
みの三ツ峠山。神鈴峰、仙泉山の異名もあります。山頂
からの富士山の眺めが良く、大勢のハイカーが訪れます。
古くは三嶺山、三峰山ともいわれ、3つのトツケ(突起
=峰)のことで、3つの峰をいうのだそうです。


1814年(文化11)編纂の『甲斐国志』(かいこくし)
にも、「峰ハ奇岩峨々トシテ三峰ニ秀ヅ故ニ三峰ト云フ」
とあります。3つの峰とは、屏風岩のある「開運山」、
北側の「御巣鷹山」、西方の「毛(木)無山」の3峰。
御巣鷹山の山頂直下には、かつて水が湧く場所があった
といい、そこから「水峠」といったとの説もあるそうで
す。


開運山・御巣鷹山・毛(木)無山の3つの山名のうち、
御巣鷹山が一番古くから名前がついていたらしい。その
山名は早くも、戦国時代前期の延徳元年(1489)あたり
から記録があるという。甲斐武田氏が、鷹狩り用として
白鷹を足利将軍に献上したというのです。ちなみに、そ
の鷹を捕らえて訓練したのは、このあたりの住民だった
そうです。

この中の開運山は、ロッククライミングの岩場のある
山。山頂には、石祠や石碑があって三都峠本社石尊大権
現(いまは神鈴権現・三峰権現)をまつってあります。


三ツ峠山はもともとは奈良時代、役行者小角によって
開かれたと伝えられる霊山で、山伏たちの道場でした。
その後、この山は一時衰退しましたが、江戸後期の天保
(てんぽう)3年(1832)、善応空胎上人という人が、
神鈴峰(三ツ峠)に登り、この山の再興を決意、3年後
本宮を再建し、参道なども整備しました。


また「法華経」、「仁王護国般若経」、「金光明最勝王経」
などの護国三部経の一字一石(いちじいっせき・経典を
小石に1字ずつ書写したもの)を完成させ、三ツ峠山山
頂はじめ付近の山々の山中に埋めて塚としました。

以来ここを一生の修行の場と決め、毎月8日、17日、28
日を護摩修行の日とし、精進に励んだといいます。空胎
は武蔵国の生まれ、天台宗弾誓派の本山として開山以来
木食寺院であった浄発願(じょうほつがん)寺(現神奈
川県伊勢原市)で修行を重ねた僧だそうです。


この善応空胎上人が、三ツ峠山に入山以来、観誉豊恭
信阿、信盈(えい)安西栄阿、修善大道浄阿、明善和尚
の5代にわたって、近郷近在の農民の信仰を集め、出世
と蚕の神として信仰されました。しかし、明治中期につ
いにその法灯は絶えてしまったということです。


さて、三ツ峠山表登山道の途中にダルマの形をした石
碑・ダルマ石や八十八大師があります。ダルマ石は1m
位の高さ、幅85センチの自然石。アークという梵字が顔
に彫られています。アークとは大日如来を意味するとい
う。


この太陽を意味する大日如来は修験道では本尊として
います。このあたりはかつては7丈敷くらいの平らな石
のならんだ畳石と呼ばれた所でした。それが洪水のため、
一瞬のうちに埋まってしまったという。

こんな悲惨な災害が二度とおこらないよう、水難防止
の祈願をこめて信徒たちが建てたのがダルマ石。空胎上
人の後継者である3代目の安西栄阿和尚の時(幕末期)
でした。


表登山道をさらに登っていくと、八十八大師という石
仏がたくさんあるところに出ます。これは四国八十八霊
場めぐり(四国遍路)を模したもの。四国八十八霊場は、
弘法大師42歳の厄年に四国の修行地を一巡して定めた
とされ、江戸時代中期に四国遍路が著しく流行したもの。


しかし、遠隔地で思うように出かけることができない
ところでは、「新四国八十八所」といって、その写しが
各所でつくられました。ここもそのひとつで、88体の
弘法大師像をあてたものがあり、それを「八十八大師」
と呼んでいるそうです。


かつては88体の石仏が全部揃っていたそうですが、い
つしか盗難にあい、いまでは数が減ってしまいました。
また「八十八大師」の中に「遍照金剛八十八体世主現当
二世安全」という碑も建てられています。


一方、明治のはじめの廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)
の嵐が、この地にも吹きおよび、付近にはその当時、頭
を打ちわられた石仏が目につきます。頭や手足のない石
仏を見ながら、そんな暴徒にも手足を出ざず、ましてだ
るま石。よくぞガマンを…と、妙な感心をした次第です。


ちなみに廃仏棄釈とは、幕末、勢いの強くなった国学、
儒学者が仏教を異端視・邪教視しはじめます。この思想
が下敷きとなり明治維新政府は、仏教を神体とすること
の禁止などの「神仏分離令」を布告しました。これによ
り「政府が仏教を廃止した」というウワサが広がりまし
た。

そしてもともと「敬神廃仏」思想の強かった「水戸学」
や、平田篤胤の影響が強かった藩がこぞって仏教排斥(は
いせき)に突進します。さらに林羅山・藤原惺窩(せい
か)・熊沢蕃山(ばんざん)らの敬神思想が追い打ちを
かけ廃仏棄釈運動(釈は釈迦の教え)が渦巻きます。


お寺は焼かれ、お経は破り捨てられ、仏像・仏具はた
たきこわされ、暴徒は暴れ放題。こうして日本伝来の貴
重な文化財は失ってしまったのでありました。


このような三ツ峠山が、広く世間に知られるように、
なったのは、文豪大町桂月が大正13(1924)年ここに
登山、世間に紹介してからだという。


さて三ツ峠山にはこんな伝説があります。屏風岩の下
を通り、開運岳と木無山の鞍部に出ると、石尊大権現(神
鈴権現・三峰権現)がおわします。これは空胎上人が三
ツ峠山を再興する以前からある古い社。蚕の神さまとし
てお猫さんのお札が、山梨県国中地方で尊ばれていまし
た。


国中の八代郡に「とよ女」という美しい娘がいました。
彼女は三ツ峠の権現さまを篤く信仰していました。美し
いとよ女に村の若者はみな、あこがれていましたが、と
よ女はだれにも心を許しませんでした。


ある年の5月5日の権現さまの祭りの日、とよ女に夢
中になった一人の若者が、お参りに行くとよ女を待ち伏
せ、自暴自棄の果てに、枯れ草に火をつけたのでした。
風にあおられた火は燃え広がり、逃げまどう彼女はとう
とう炎の中に追い詰められ、焼死してしまいました。


厳しい冬も過ぎ、三ツ峠にも春がやってきました。す
ると、あの「とよ女」が死んだ場所一面に、かわいいサ
クラソウが一斉に花を開いたのです。紫紅色の花が一帯
を埋め尽くしました。人々はその花を「クモイコザクラ」
と呼び、美しさをたたえるようになったという。


いまも権現さまのお祭りのころになると、クモイコザ
クラが岩肌に咲いています。(【とよ女の伝説】西桂町
役場・広報「にしかつら」)。


クモイコザクラは、サクラソウ科サクラソウ屬。高山
の岩場に生える小形の多年草。漢字では「雲居小桜」で、
雲居は雲がすぐそばにあるような高地にある小型の桜草
の意味。コイワザクラの亜種と考えられているそうです。


また三ツ峠山一帯は、四季を通じて高山植物の宝庫。
アツモリソウや、ミツトウゲヒョウタンボク、またカイ
フウロ、コウシュウヒゴタイ、グンナイキンポウゲ、ク
サタチバナ、シモツケソウなど、現地の名のついた貴重
な植物がたくさん生えています。アツモリソウなどの貴
重な植物は、盗掘があとを絶たないという。

▼三ツ峠山【データ】
【所在地】
・山梨県西桂町、富士河口湖町(旧南都留郡河口湖町)
と都留市との境。富士急行三ツ峠駅から歩いて1時間10
分でダルマ石、さらに3時間20分で三ッ峠山。

【位置】
・三角点1785.2m:北緯35度32分57秒、東経138度
48分33秒

【地図】
・2万5千分の1地形図「河口湖東部(甲府)」


▼【参考文献】
・『甲斐国志』大日本地誌大系45(別巻2)(雄山閣)1982
年(昭和57)
・『角川日本地名大辞典19・山梨』竹内理三編(角川書
店)1991年(平成3)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005
年(平成17)
・「西桂町役場小冊子」
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平
成16)
・『日本の野草』(山と渓谷社)1983年(昭和58)
・『牧野新日本植物図鑑』牧野富太郎(北隆館)1974年
(昭和49)
・「三ツ峠冊子」(西桂町教育委員会)


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▼上記は、ヤマケイ新書日本百霊山を参考にしました。
書店で発売中 ・店頭にない時は店員の方にご注文を。
品薄のため、多少時間がかかるかもしれません。ご了承下さい。

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▼【
売店】もあります。


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【とよだ 時】 山の伝説伝承探査

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