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山里の伝承【ふるさと祭事記】(07)
【とよだ 時】

 (イラスト本ではありません)

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▼秋分・第三侯(第48侯)「水始めて涸る」

【説明略文】
最近は豆まきの声も聞こえなくなり、「恵方巻き」があまり、その
損失がニュースになったりしています。そもそも節分の夜豆をまい
て鬼を追い払う行事は室町時代からすでにあったという。年と年と
の境に降りてくる年神サマについてくる精霊がいるという。その精
霊たちへの供物を豆まきの形にしたのだともいわれています。

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▼秋分・第三侯(第48侯)「水始めて涸る」

【本文】
 けさ起きてみたら玄関のヒイラギに鬼がかかっていました。皆さ
んは夕べ豆まきをしましたか。最近は「福はうち、鬼は外ォ」の声
もすっかり聞こえなくなりました。それにかわって「恵方巻き」な
どという、得体の知れない風習がまかり通り、白髪頭の年寄りまで
が海苔巻きを口にくわえて写真に写っています。やっと気づいたか
近頃はあまった海苔巻きの処分で、いくらいくらの損失だと、ニュ
ースになったりしています。さぞかしオニも笑っているでしょう。

 そもそも節分の夜豆をまいて鬼を追い払う行事は室町時代からす
でにあったそうです。年と年との境(大晦日から正月)には祭りを
うけるため、年神サマがおりてきます。ところが年神にゾロゾロつ
いてくる精霊がいるというのです。その精霊たちへの供物を豆まき
の形にしたのだともいわれています。

 また昔の暦では、節分は正月と重なることがよくありました。そ
のため豆まきの行事が、大みそかに行われていた追儺(ついな=鬼
やらい)の行事とあわさり、「節分には悪い鬼がやってくるので、
豆をまいて追い払おう」ということになります。

 豆まきは京都では室町時代にはじまり、、『花営三代記』(かえい
さんだいき)(室町幕府の記録)の「応永二十八年(1421)正月八
日の条」に、同日節分で、「勝栗打ち」を行ったとあり、『看聞御記』
(かんもんぎょき)「応永三十二年(1425)一月八日(節分)の条」
に、「抑鬼豆打事近年」(『日本年中行事辞典』鈴木棠三)と記載が
あり、古い時代から続いているようです。ただ、中国にもこれと同
じような豆で鬼を追い払う行事があり、それが日本に伝わってきた
のではないかという説もあります。

 ここで変わった豆まきを二、三。大阪の旧家では主人が豆打ち役
で跡とり息子は豆男。そのあとからもう一人、十能をふりまわしな
がらついてくる男があり、豆男の「福は内」につづけて「ごもっと
もサマ……」でとみんなの笑わし役。昔、九鬼という大名の家では
自分の姓と同じ鬼に「鬼は外」ともいえず、「鬼は内、福は外……」
といい、最後に苦しまぎれに「富は内」ととなえたそうです。大阪
の古い家では「福は内」と豆をまく人のあとから「ごもっとさまで
……」とあいづちを打ちながらついてくる、笑わせ役があったとい
います。

 また節分には魔よけとして、イワシの頭をヒイラギやカヤにさし
て戸口にさします。これは「目突き柴」といい鬼の目を突いて追い
払うということで、同じく悪魔をはらう「焼いかがし」という行事
を簡単にしたものだそうです。ところによっては年末のすす払いの
時に豆をまく所(青森、岩手)や、1月7日にまく所(九州)もあ
るそうです。
 福の豆 桝(ます)にこぼるる ばかりかな(王城)

▼【参考文献】
・『日本年中行事辞典』鈴木棠三(角川書店)1977年(昭和52)

上記は『ふるさと祭事記』から引用しています。

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【とよだ 時】 山の伝承探査
山旅通信【ひとり画っ展】発行
U-moあ-と】すたじお
山旅はがき画の会

 

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