山と民俗神 とよだ時(ポンチ漫画家)
『百名山の神話伝説』 
本文のページ(10)
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▼『百名山』(050)薬師岳
「ミサノ松と高山植物の美女」

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▼【本文】

▼【目次】
・薬師岳とは。
・四つのカール。
・山頂の祠。
・開山伝説。
・岳の薬師の祭り。
・太郎兵衛平。
・太郎兵衛伝説。
・高山植物の妖精伝説。
・長棟(ながと)鉛山。
・伝説類話。
・山ろく有峰村。
・薬師岳データ。
・参考文献。

★【薬師岳とは】
 各地に「薬師岳」いう名の山が
見受けられます。山名辞典をひく
と、薬師の名のつく山・峠は異名
も含め42項目もならんでいて、か
つては病気を治してくれる薬師信
仰が盛んだったことがうかがわれ
ます。その中でも富士山の頂上に
ある久須志岳(薬師岳ともいう)
を除き、最も標高の高いのは北ア
ルプス立山連峰(※確認済み)の
薬師岳(標高2926m)です。

★【四つのカール】
 ここの薬師岳は容姿が雄大で、
壮麗な山として名高い山です。東
側直下に黒部渓谷上ノ廊下があ
り、それを隔てて雲ノ平、水晶岳、
赤牛岳が望めます。東斜面標高
2600〜2700mの位置に大カール
が4つもならんでおり圧巻です。

 とくに南側第1カールは素晴ら
しく、また第2カールの底にはい
までも岩石氷河を残しています。
1952年(昭和27)、国の特別天然
記念物に指定されています。

★【山頂の祠】
 この山もかつては信仰の山だっ
たといいます。山頂には屋根に大
石を乗せた立派な祠があり、ガラ
ス戸のなかには絵馬やこの山の名
前でもある薬師如来と、観音像が
鎮座しています。

 これは薬師岳のふもとにある有
峰湖(ありみねこ)の湖底に沈ん
だ有峰村の村人がまつった祠だそ
うです。有峰村は北アルプスの最
奧の村でしたが、1920年(大正
9)、県有地として買い上げられ、
1961年(昭和36)に有峰ダムの
湖底に水没しました。

★【開山伝説】
 薬師岳開山の由来として、昔、
この村に駕籠の担架棒(天びん棒)
づくりを生業とする、ミザの松と
いう貧しい職人がいたそうです。
ある日、山中で昼寝をしていると、
自分の名を呼ぶ者がいます。目を
覚ますと、目の前に金色に輝く薬
師如来がいました。

 驚いたミザの松が、如来のもと
にかけ寄ると、如来はふっと姿を
消し、いつの間にか遠くにおわし
ます。ミザの松がまた近寄ると、
如来はまた遠くにおわしていま
す。こうして如来に導かれ、気が
つくと高い山の上にいるのでし
た。

 薬師如来は、その後「五ノ目」
と呼ばれるところの自然石のお堂
に姿を消したといいます。これを
まつったのが薬師岳の開山のはじ
めであるということです。これが
「岳の薬師」(峰本社)のいきさ
つだそうです。

 その後夢のお告げにより前立社
壇として、有峰の里に「里の薬師」
を建てたといいます。地元『大山
町史』では、里宮(里の薬師)の
建てたのは南北朝時代の明徳元
(1390)年としています。

 かつて頂上の祠には、1尺7、
8寸(約54、5センチ)の黄金で
できた薬師如来の立像がまつられ
ていたといいます。それはまぶし
いまでの美しさであったそうで
す。ですが、百数十年前、何者か
に盗まれてしまい、その後大阪で
売りに出され買われていきまし
た。

 その時、「有峰に帰りたい」と
いう薬師さまのお告げがあり、驚
いた買い主はあわてて有峰に送り
返したそうです。しかし、ふたた
び盗難にあい、いまは行方不明の
ままだといいます。

★【岳の薬師の祭り】
 この山もかつては女人禁制で、
当時女性は、折立地区近くの真川
谷までしか行けなかったそうで
す。ふもとの有峰村には以前、「岳
の薬師」のお祭り(旧暦6月25
日)があったそうです。祭りには
村民の15歳から50歳までの男子
が参拝する習わしだったそうで
す。

 祭りには、1週間も前から厳重
な物忌みが行われ、家を出るとき
には塩で身を清め、なおも太郎兵
衛平や薬師岳の雪氷で、3回けが
れを落としたといいます。さらに、
頂上の手前180mくらいからは素
足になって、山頂に着くと、ヒエ
でつくった白酒の御神酒をあげ
て、鉄板を切り抜いた剣を奉納し
たということです。

 いまでも、祠のまわりにブリキ
の剣が落ちていますが、かつての
村人の祭りの盛んだったことを思
わせます。登山者は、祠の中をの
ぞき込んでは石仏に手を合わせ
て、登山の無事を祈り、軒にぶら
下がっている釣り鐘をついていま
す。

★【太郎兵衛平】
 さて、西銀座ダイヤモンドコー
スと呼ばれる、三俣蓮華岳から黒
部五郎岳、北ノ俣岳の先なだらか
な稜線をたどると太郎山(三等三
角点2372.98m)があります。山
頂付近の草原や湿原には高山植物
が見られ、南側には黒部五郎岳、
さらには笠ヶ岳、乗鞍岳が北を見
れば薬師岳、その奥には立山も望
めます。

 北ノ俣岳から太郎山にかけて
は、登山道が踏み荒らしされ、浸
食や裸地化が問題になり、いまは
登山道を木道にしたりして、植物
を回復させる努力がなされていま
す。太郎山から程ないところ、山
小屋のある太郎兵衛平は、北アル
プス縦走路の十字路。東からは奥
黒部、雲ノ平、薬師沢方面から、
南からは槍ヶ岳、双六岳、黒部五
郎岳方面から、北は遠く剱岳、立
山、五色ヶ原、スゴ乗越、薬師岳
方面から、また西側は富山地方鉄
道有峰口駅、折立登山口から登っ
て来るところ。

 太郎兵衛平は江戸時代1815年
(文化12)の登拝記「有峰御薬師
参詣」に、「文化十二乙亥(きの
とい)八月八日暁寅八刻頃、有峰
村出立也。(……中略……)。池ノ
平(ダイラ)ノあけはなし。是迄
村?(より)三里八丁。是?草
山三里(リ)の間、此所多分せキ
シャブ(石菖蒲カ・ママ)、長貳寸
ニハ不過。長五尺ニハ不過、五葉
シャシ松少々見ル。……

 ……大木とてハ一向なし。所々
シヤウライ田(精霊田)とて数万
ノ水タマリ有リ。イン(炎)天ニ
而(※しか)も水不干由。右草山
真東エ向、二里真下リ也、〆。此
平ニ而南?(より)少し東ニ当
ル、信州鑓ヶ岳見エル。誠ニ鑓先
ノ様なる(ママ)嶮山也。此平ヨリ
南ニ当テ黒部川奥深ク見エル也。
此所ニ而晝弁当」と出てきます。

 ここに出てくる「池の平のあけ
はなし」は、このあたりは高原状
で前後左右に見晴らしよく、開け
っぱなしの「あけはなし」。そし
て「精霊のつくる水田」があった
というわけです。

★【太郎兵衛伝説】
 ここを太郎兵衛平というのに
は、こんな伝説があります。江戸
時代、いまの富山市の長棟(なが
と)鉛山に住む鉱山師(やまし)
の太郎兵衛という人がいました。
その鉱山師が、有峰領の太郎兵衛
平あたりで、金や銀が掘れる鉱山
を発見したというのです。

 鉱山師太郎兵衛は、大儲けをし
たのか鉱夫たちを集めて大宴会を
催しました。その時、この平地に
咲いている高山植物の化身の美女
に惑わされたという伝説が地名の
もとになっているようです。

 ただ参考書によっては、ここと
有峰の鉱山、さらには有峰西方の
長棟鉱山の話、また太郎兵衛とい
たずら酔っ払い鉱夫などの伝説が
入り乱れて、混乱してしまってい
るため、どれが本当かは分かって
いません。このように有峰・太郎
兵衛平の鉱山は栄えていたことに
なっています。

 そんななかで、この鉱山が「栄
えた」とはいえないという説もあ
ります。有峰領であったここ黒部
源流太郎兵衛平での鉱山は、あま
り採掘できなかったというので
す。それは有峰鉱山と、栄えた長
棟鉱山を間違えて伝わっているら
しいのです。以下はその話のひと
つです。

★【高山植物の妖精伝説】
 その昔、薬師岳太郎山のふもと
の有峰に鉛の出る鉱山がありまし
た。鉱山の中には大勢の鉱夫がお
り、何十頭という牛が鉛を積んで、
富山まで運んでいました。ある年
の春、特別のたくさんの鉛が採れ
ました。満足した鉱山の頭領は、
「きょうはお祝いだ」といい、あ
ちこちの町や村から人夫たちを集
めました。酒盛りがたけなわにな
ると、それぞれのお国自慢の歌が
出はじめ、それに合わせて踊りも
はじまりました。

 盛り上がったその時です。白、
淡紅、薄紫の衣装をまとった3人
の美しい女性が、フイとあらわれ
ました。そしてすきとおる声で歌
い優雅に踊りはじめたのです。そ
の上なんともいえないいい香りが
あたりにただよいはじめました。
「まるで天女のようだ」。頭領は
じめ、鉱夫たちもうっとり見ほれ
てしまいました。みんな喜び、痛
いほど手をたたきました。

 「白い衣に、白のかんざしの娘。
薄紫の衣に、薄紫のかんざしの娘。
薄紅の衣に、薄紅のかんざしの娘
……」。突然、荒くれ男が立ち上
がりました。ふらついた足取りで
娘たちに近寄り、紅の衣の娘の手
を握ろうとしました。思わず棟梁
が「あっ、何をするっ」。

 すると3人の娘の姿がフッと消
えてしまったのです。人夫たちは
狐につままれたようにポカンとし
ています。……白い衣の娘は、ミ
ズバショウの花の精。薄紫の衣の
娘は、ヤナギランの花の精。薄紅
の衣の娘は、クガイソウの花の精。
……。そんなことがあってから、
鉱山からは鉛がとれなくなってし
まいました。

 さびれ行く鉱山。鉱夫たちは山
から下りることになり、やがて鉱
山は閉山になってしまったといい
ます。いまでも、「あの3人の花
の精たちは、有峰の守り神だった
のだ。人夫に悪ふざけされたから、
罰があたり鉛鉱山もつぶれてしま
ったのだ」と、いい伝えられてい
るということです。

★【長棟(ながと)鉛山】
 さて、この長棟(ながと)鉛山
は、江戸時代、寛永3(1626)年
に大山左兵衛という人が発見した
と鉱山だといいます。場所は富山
市長棟(旧富山市奥山)で、瀬戸
谷の西方金山谷近くにありまし
た。採掘の最盛期は、開坑してか
ら正保(1645〜1648)ころまで
の約20年間でした。このころは
家数が300軒、山小屋800軒もあ
ったといいますからまさに栄えた
鉱山です。

 こんな鉱山も鉛の価格暴落もあ
って、生産の減少がつづきます。
鉱夫たちは、次第に生活にも困ま
るようになり、多くが離散してし
まいました。文政4年(1821)に
なり、藩は鉛山を直営として援助
したこともあったそうですが、再
興はできなかったということで
す。

★【伝説類話】
 なお、伝説の類話にこんなのも
あります。安土桃山時代の天正年
間(1573〜1598)、有峰の近く亀
谷(かめがい)に銀山が発見され
ました。銀山の最盛期である江戸
時代の初頭、慶長から元和年間に
は、人夫の家々数千軒が密集し、
遊女数千人が住むという栄えよう
でした。

 そんなある日、山師・大山左平
次たちの宴席に、見たこともない
美女3人があらわれました。鉱夫
たちは遊女だと思い、戯れようと
したところ急に姿が消えたとい
う。その後鉱山は廃れ、その跡に
いままで見ないような美しい3つ
の高山植物、ミズバショウ・クガ
イソウ・ヤナギランの花が咲くよ
うになったということです。

★【山ろく有峰村】
 ついでながら有峰村は、薬師岳
の山ろく、常願寺川の支流和田川
の水源地で、標高1000mの盆地。
当時、山奥のこの村に入るには、
山の尾根道を利用、安蔵(あんぞ
う)村、水須(みずす)口留番所、
東笠(ひがしかさ)山、西笠山の
間を通り、いまの祐延(すけのべ)
ダムのルートをとったといいま
す。村に入るだけでこの厳しさ。
また飛騨(岐阜県側)へ行くには、
大多和(おおたわ)峠や、唐尾(か
らお)峠など道がありました。

 初めての「越中の通史」といわ
れる「肯搆泉達録」(こうこうせ
んたつろく)には、「平家の落人
多く隠るといへり、今なほ武具を
傳ふ」とあります。平家の落人伝
説といっても倶利加羅峠の合戦の
平家ではなく、平家出身とされる
江馬氏の武将・河上中務丞富信と
いう人が、中地山城(なかちやま
じょう)で敗れ、元亀3年(1572)
ごろ、有峰にやってきて住みつい
たことによるらしい。

 有峰村という名前は、もともと
は宇連村(うれむら)でしたが、
のち有嶺村(うれいむら)になり
ました。さらに元禄年間(1688
〜1704)ごろに加賀藩が、難読
の村名を改める時、有嶺(うれい)
が「憂い」に通ずるというので、
訓読して「アリミネ」とし、元禄
8年(1695)以降の史料には「有
峰」という文字を使っているとい
うことです。


▼薬師岳【データ】
★【所在地】
・富山県富山市旧大山町各地区名
(旧上新川郡大山町)。富山地方
鉄道立山線有峰口駅の南東19キ
ロ。富山地方鉄道立山線有峰口駅
からバス・折立から歩いて8時間
で北ア薬師岳。二等三角点
(2926.01m)がある。地形図に
三角点標高と卍寺院記号、南方に
避難小屋の記載あり。

★【地図】
・2万5千分の1地形図「薬師岳
(高山)」

★【山行】
・某年年7月31日(水・快晴)。


▼【参考文献】
・『石川・富山ふるさとの民話』
(北国新聞社出版局)2011年(平
成23)
・『角川日本地名大辞典16・富山
県』坂井誠一ほか編(角川書店)
1979年(昭和54)
・『山岳宗教史研究叢書16』(修
験道の伝承文化)五記重編 (名
著出版)1981年(昭和56)
・『山岳宗教史研究叢書17』(修
験道史料集・1)五木重編(名著
出版)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナ
カニシヤ出版)2005年(平成17)
・『立山の昔話』監修・遠藤和子
(立山黒部貫光株式会社)発行年
不明
・『富山県山名録』橋本廣ほか(桂
書房)2001年(平成13)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか
(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系16・富山県
の地名』高瀬重雄ほか(平凡社)
1994年(平成6)
・『日本百名山』深田久弥(新潮
社)1970年(昭和45)
・『日本の民俗16・富山』太田栄
太郎(第一法規出版)1974年(昭
和49)

▼【赤城山】
 国定忠治でおなじみの赤城山
(あかぎやま)は、上毛(じょう
もう)三山のひとつ。標高140
0mあたりの新坂平一帯は、初夏、
群落するレンゲツツジが満開にな
り、その見事さは有名です。ここ
には赤城山という峰はなく、黒檜
山(くろびさん)をはじめとする
外輪山と中央火口丘との総称。

 赤城山は平安時代初期の大同2
年(807)に、日光を開山した
勝道(しょうどう)上人というえ
らいお坊さんによって開かれたと
されています。火口原には火口原
湖の大沼と、火口湖の小沼があり
ます。大沼の東岸の最高峰である
黒檜山の山ろくに赤城神社があり
ます。赤城神社は関東地方を中心
にして約300社の赤城神社があ
るといわれる名刹(めいさつ)で
す。

▼【流れて来た山】
 千葉県流山市には赤城神社がま
つられた小さな山があります。こ
こは江戸川沿いにあるのですが、
その昔、大洪水の時、上流から赤
城山の一部が流れてきたのだとい
う伝説があるそうです。そういえ
ば江戸川上流の利根川は赤城山の
西ろくを流れています。市名の「流
山」はそんなことから来ていると
いう。

▼【赤城と日光の神争い1】
それはともかく、赤城山は赤城
と栃木県日光の神争いや、赤城と
同じ群馬県榛名(はるな)の神争
いの伝説は有名です。昔、赤城の
神と日光男体山の神が、美しい中
禅寺湖を自分の領地にしようと戦
いました。しかし神さま同士なの
でなかなか勝負がつきません。そ
こで日光男体山の神は子孫である
弓の名人、猿丸に加勢を頼みまし
た。日光の神の子孫の猿丸は戦い
がはじまるという、日光の戦場ヶ
原の木の陰で隠れていました。

 日光の神は蛇になり赤城の神は
ムカデになって戦いました。猿丸
は赤城の神が変身している大ムカ
デの目をねらい、弓を力一杯ひき
しぼりヒョウと放ちました。矢は
見事命中。赤城の神は血を流しな
がら逃げ帰りました。赤城の山木
々は、その血でその血で山が真っ
赤に染まり赤木山と呼ばれ、血が
流れてたまった沼を赤沼といいま
した。また山すその温泉でその創
(きず)を洗ったので赤比曽の湯
という(林羅山『二荒山神伝』:
『山岳宗教史研究叢書・8』)。

▼【赤城と日光の神争い2】
 もうひとつの話です。赤城の神
と日光の神が領地争いをしまし
た。両方の神が自分の領地を同じ
時刻に出発して、出くわしたとこ
ろを境界にきめようということに
なりました。ところが赤城さんは
馬で走ってきました。日光さんは
牛に乗ってゆっくりきたので名越
(沢入)の「たたかいばたけ」と
いうところで出合って戦いまし
た。そこでいろいろ押し問答をし
た結果、その場所を両国の境界線
にしたという。そのために、両国
の境のことを「がみあい境」とと
いう。赤城山の方が遠いけど、馬
できたので早く来て、土地を余計
にとってしまったという。

 この戦いのとき、日光さんが逃
げるときに、サツマイモのつるに
足がからまって、モロコシの切り
株で目をついてしまいました。そ
のため栃木の人は目が細いとい
う。それで足尾では最近までサツ
マイモ、トウモロコシや米などを
つくらなくなりました。それらを
つくらなくてもお腹を減らすこと
なく、足尾の人たちは、必ずよっ
ぱら(たらふく)食うことができ
たとのこと。それは大黒さまのお
使いのシロネズミが米などをひい
てきて、足尾の人たちに食わせる
ためだという伝説があります。こ
れが赤城と日光の神争いです(『日
本伝説大系4・北関東』)。

▼【赤城と榛名の神争い】
 また赤城と榛名の神争いという
のもあります。南北朝時代の説話
集『神道集』(しんとうしゅう)
に載っている武勇伝です。そ赤城
山と同じ群馬県の榛名山にそれぞ
れ鬼が住んでいたという。この鬼
は仲が悪く、小さい時からケンカ
ばかりしていたといいます。赤城
山の湖のまわりには小石がたくさ
んあり、榛名山の湖の周辺にはバ
ラがたくさん生えていたという。

 鬼たちはケンカするたび赤城山
の鬼は小石を投げ、榛名山の鬼は
バラを丸めて投げつけたという。
2匹は来る日も来る日も小石とバ
ラを投げ合いました。そのため、
いつしか赤城山にはバラがたくさ
ん生えるようになり、榛名山の方
には小石が山のようにたまってし
まったということです。

▼【赤城と榛名の神争い・類話】
 またその類話に、赤城山と榛名
山がけんかをしたとき、赤城さま
は軽石を榛名山に投げ、榛名さま
はバラを赤城山に向かって投げま
した。戦いの結果、赤城さまは負
けてしまい、陸稲(りくとう・お
かぼ)のわらでつくった縄でしば
られてしまいました。そのため、
赤城山のふもとにはバラが多く、
榛名山ろくには軽石が多い。また
赤城山の氏子の赤城山ろくの村で
は陸稲をつくることができないと
いう。

▼【榛名山に谷を盗みに行った赤
城の神】
 別の話では、赤城山には谷が、
九十九谷しかありませんでした。
残念がった赤城山の神は山を一つ
増やして、百谷ちょうどにしよう
と、榛名山に一山盗みに行きまし
た。赤城の神が一山背負った所を
榛名の神に見つかってしまいまし
た。

 そして赤城の神は榛名山ろくで
よくとれる陸稲の縄で、がんじが
らめに縛られ、「これからは陸稲
をつくるな」と榛名の神からいわ
れたといいます。それからは赤城
山ろくでは陸稲をつくれなくなっ
たということです。

▼【赤城山の天狗】
 山の伝説には天狗話が多いです
が、ここにも天狗がいることにな
っています。それもそんじょそこ
らの小ワッパ(童)天狗と大違い。
大天狗のなかでも、赤城山杉ノ坊
(さんのぼう)という名前まであ
る大物天狗です。赤城神社は大沼
神を祭った社ですが、そのそばの
飛鳥社(ひちょうしゃ)には、天
狗をまつってあるというのです。

 『図聚天狗列伝・東日本編』知
切光歳著によれば、『前上野志』
という本に「大沼大塔には本社(赤
城明神)の他に、飛鳥社(天狗を
祭る)、開山堂(了儒(りょうじ
ゅ)法師とて、長楽寺(※月船)
?海(ちんかい)和尚に随従せる
行者を、開山と推せり)などあり
し」とあります。赤城山大沼湖畔
の飛鳥社は天狗祠だというので
す。

 赤城山を開山したとされる了儒
(りょうじゅ)法師とは、赤城山
中で30年あまりも修行したとい
う行者。了儒法師に随従したと書
かれる月船?海(げっせんちんか
い)和尚との出会いはこうです。
そもそも長楽寺月船?海和尚とい
うのは、群馬県新田郡世良田村の
長楽寺の法照(ほっしょう)禅師
のことだといいます。

 月船?海和尚は、弘安5年幕府
の命により長楽寺第5世住職とな
り、延慶(えんきょう)元年(1308)
没し、朝廷より法照禅師の諡(お
くりな)を貰ったエライ坊さん。
鎌倉時代中期の弘安年間(1278
〜1288)のころ、その法照禅師
があるとき、赤城山に登るとひと
りの行者の出迎えを受けました。

 その出迎えの様子です。『赤城
秘文』という文書によると、「赤
城山ニ一練行(修行を熱心に練り
あげること)ノ人有リ。三十余年、
影、山ヲ出ズ。木食澗飲(※かん
いいん・※澗は谷のこと)、氷雪
不凍、多クノ神異有リ。儘(※こ
とごとく)、天狗ヲ友トシテ善シ。

所謂(いわゆる)魔界ナリ。タ
マタマ師、赤?(※せききょう)
(※甚だしく高い山)ニ陟(※の
ぼ)リ、霊区ヲ逍遥(しょうよう)
ス。……

 ……練行ノ人、出テ迎エ、受法
シテ勝因ヲ結ブ。乃(※すなわ)
チ号シテ了儒ト曰(※い)ウ。是
(これ)ヨリ一州学師ノ道者、赤
城門徒ト称シ、彼ヲ以テ儒翁ノ祖
ト為シ、時ノ人、之(※これ)ヲ
尊ブコト神ノ如クナリ」だという。

 出迎えにきたその行者は、この
山で木の実を食べ、木の実、谷の
水で身を養い、30余年も山を降
りたことがなく、氷雪にも凍えず、
神異あり、いつも天狗を友として
暮らしているというからやはり人
間業ではありません。そしていつ
も天狗を友として暮らしていると
いうのです。

 法照禅師(?海(ちんかい)和
尚)が山に登ってくると知った行
者は、弟子にして貰いたいと考え、
魔境から抜け出してきたといいま
す。それを聞いた法照禅師は、そ
の行者に法を授けて「了儒」とい
う法号を与えました。

 飛鳥社とともに大沼湖畔にある
開山堂の本尊は、この了儒法師で
あるといいます。法照禅師を出迎
えた了儒行者が「天狗ヲ友トシテ
善シ」としているところから、了
儒は、霊力を備えた大行者です。
その大行者の貫録をもって天狗ど
もを手なずけていたのだろうと
『図聚天狗列伝』の著者知切光歳
はみています。

 そして大沼湖畔にまつられた飛
鳥社の天狗の総帥赤城山杉ノ坊
は、了儒行者が天狗に変身したあ
との姿だろうともしています。し
かし、大沼湖畔の開山堂と飛鳥社
は、了儒行者の創建に関わるもの
かは疑わしいとの説もあるという
ではありませんか!。ここが伝説
・伝承調査する時に困るところで
す。

▼【赤城の天狗、和歌山の法燈寺
を一夜でつくる】
 ところで、江戸時代中期の寛延
2年(1749)刊行の著者不詳
とも神谷養勇軒著ともいわれる
『新著聞集』(しんちょもんじゅ
う)という書物にはこんなことが
記されています。

 「天狗一夜にして法燈寺(ほっ
とうじ)をつくる」という項で、
法燈寺は、和歌山県の由良(ゆら)
町にある臨済宗(りんざいしゅう)
の鷲峰山興国寺(じゅぶざんこう
こくじ)というお寺。ここを開山
した法燈(ほっとう)国師の名前
から法燈寺とも呼ばれていまし
た。

 先の『新著聞集』によると、こ
の寺はどうしたわけか、たびたび
火災が起こるのです。そこで仕方
なく住職は、草葺きの仮の庵(い
おり)に住んでいました。ある時、
ひとりの旅の僧が来て「この寺が
火災にあうのは、開山した法燈国
師の文字からきている。法燈の文
字は、水去り火登ると書くからだ。
(※法という字はサンズイ(水)
に「去る」で、燈は火へんに「登
る」と書きます)。

 ただお望みなら、わしが建てて
やってもよい。しかしそれもつい
には焼失してしまうが、護摩堂だ
けは残るだろう。わしは上州(群
馬県)赤城山の杉ノ坊(さんのぼ
う)というものだ。」と言い残し、
僧は寺から去っていきました。

 しばらくして住職は再建を決意
し、ふたりの若い僧を群馬県の赤
城山に使いに出しました。赤城山
に着いて若い僧は、びっくり仰天。
杉ノ坊はここにすむ天狗の大親分
だったのです。ビクつくふたりに、
杉ノ坊は建設の日取りを決め、若
い僧たちを山伏2人の背中に乗せ
て、空を飛んで紀州(和歌山県)
へ送ったといいます。

 約束の日、村人はお寺に近寄ら
ないようにいわれました。夜にな
り、お寺の方から数十万人もの人
声がします。なにやら大工事がは
じまったらしく、一晩中トントン
トン、ゴリゴリゴリと物音がつづ
きました。

 夜があけてみると、見事七堂伽
藍(がらん)が出来上がっていた
というのです。法燈寺の住職は、
飛び上がらんばかりに喜びまし
た。しかし杉ノ坊がいったとおり、
やがてまた火災に見まわれました
が、護摩堂だけは残ったというの
です。

▼【山行記】
 紅葉真っ盛りのころ、由良町興
国寺を訪れました。地元の小学生
たちや父兄が、参道途中の公園に
ならんでおやつを食べています。
境内にはいると大きな天狗堂があ
り、暗い堂内に日本一、二の魔除
け天狗面が、まっ赤になってにら
んでいます。売店で厄よけのお札
を買いました。「えっ。天狗を調
べて歩いているんですか。面白そ
うですね。」と、若い僧侶が竹箒
の手を休めて笑いかけています。

 それにしてもこの話は、群馬県
側に伝わるだけでなく、和歌山県
側でも伝承されています。由良町
の興国寺のパンフレットや町の教
育委員会発行の『由良町の文化財』
にも記載されているのです。当時、
こんなに離れた和歌山と群馬の間
にどんなことがあったんでしょう
か。それとも山伏たちが群馬県に
移り住んできてからこの話を広め
たのでしょうか。


▼赤城山(黒檜山)
★【所在地】
・群馬県沼田市・昭和村と渋川市
・富士見村・前橋市・桐生市との
境。両毛線前橋駅の北北東20キロ。
JR両毛線前橋駅からバス、大洞
下車、歩いて2時間でで黒檜山。
三等三角点(1827.57m)がある。

★【位置】国土地理院「電子国土
ポータルWebシステム」から検索
・三角点:北緯36度33分37.38秒、
東経139度11分35.76秒

★【地図】
・2万5千分の1地形図「赤城山
(宇都宮)」


▼【参考文献】
・『江戸百名山図譜』住谷雄幸(た
けし)(小学館)1995年(平成7)
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大
和久震平著(名著出版)1990年
(平成2)
・『山岳宗教史研究叢書1』(山岳
宗教の成立と展開)和歌森太郎編
(名著出版)1975年(昭和50)
・『山岳宗教史研究叢書8』(日光
山と関東の修験道)宮田登・宮本
袈裟雄編(名著出版)1979年(昭和
54)
・『山岳宗教史研究叢書・16』(修
験道の伝承文化)五記重編 (名
著出版)1981年(昭和56)
・『新著聞集』神谷養勇軒著(天
狗一夜に法灯寺をつくる):(『日
本随筆大成・第二期・5』(吉川
弘文館)
・『神道集』安居院作:東洋文庫
94「神道集」貴志正造訳(平凡社)
1994年(平成6)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナ
カニシヤ出版)2005年(平成17)
・『図聚天狗列伝・東日本編』知
切光歳(三樹書房)1977年(昭
和52)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸
書房)1975年(昭和50)
・『日本山岳風土記4』(宝文館)
1960年(昭和35)
・『日本伝説大系4・北関東』渡
邊昭五ほか(みずうみ書房)1986
年(昭和61)
・『日本歴史地名大系10・群馬県
の地名』尾崎喜左雄ほか(平凡社)
1987年(昭和62)


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