山と民俗神 とよだ時(ポンチ漫画家)
『百名山の神話伝説』
本文のページ(08)
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▼(048)剱岳
「登山者の遺品と人登る能わず」
パソコンの方↓
https://toki.moo.jp/mail-maga/100den/100den08.pdf
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(長文です。ご興味ある部分を拾
い読みしてください)
★【目次】
・【鹿島槍ヶ岳とは】
・【剣岳とは】
・【剣か釼か剱か劔か劒の文字か】
・【不入の山】
・【登山者の不審な死】
・【平安時代から登山】
・【タブーを無視した女性】
・【池平山】
・【モリブデン鉱山】
・【仙人だらけ】
・【冠松次郎が発見した仙人池】
・【参考文献】
▼【本文】
★【剣岳とは】
かつて映画「劔岳 点の記」(原
作・新田次郎)で話題なった剱岳。
映画では「劔岳」となっています
が、いまは「剱岳」に統一されて
いるようです。剱岳は『万葉集』
巻十七などに多知夜麻(たちやま
・立山連峰の総称)として、また
大伴池主(生没年未詳。没年はお
そらく757(天平宝字1)年)の「こ
ごしかも 巌の神さび」などと歌
われてはきました。
しかしツルギの名があらわれる
のは安土桃山時代になってからと
いう。天正13年(1585)、羽柴秀
吉が佐々成政を討つため越中にき
たとき、京都に宛てた書状「東は
立山うは堂・つるぎの山麓迄(焼
いて打ち従えたとする)」とある
のが最古の文献だろうといわれて
います。しかし「焼いて打ち従え
たとする」とは乱暴です。
▼【剣か釼か剱か劔か劒の文字か】
剱岳の「ツルギ」の字は、江戸
時代の文献では「劔ヶ岳」が一番
多いそうですが、劔山、劔峰、劔
ノ御嶽、劔御前といろいろです。
文字も「劔」やその異体字(劔の
偏に刃)が多いですが、「剣」や
「劒」も使われているらしい。な
かには山廻役がつくった古地図の
ように金偏にして「釼」を使う例
まであります。
剱岳(2999m)は北アルプス黒
部渓谷西側富山県立山連峰の中心
をなす岩山。山頂から南へ派生さ
せる別山尾根は、前剱、一服剱、
剱御前をへて別山乗越に至りま
す。これに対して北へ延びる北陵
は、小窓ノ王、池の平山、大窓ノ
頭から白兀(しらはげ)、赤兀(あ
かはげ)方面へ。東側には八ツ峰、
源治郎尾根を突き出しています。
▼【不入の山】
西側にはあの長大な早月尾根が
馬場島まで派生しています。剱岳
は立山連峰中最も険しく、山名は
「針の山」ともたとえられるよう
に、岩峰が剣のように突き立って
いることに由来するといいます。
かつて弘法大師がワラジ6千足を
使っても登れなかったといわれて
います。「立山曼陀羅」では奥の
方に白い針の山の形でその急峻さ
が描かれています。
立山の信仰ではここは登る山で
はなく、遠くからあがめる礼拝の
山。長い間、「不入の山」として
登山はタブー視され、その周囲に
も立ち入ってもならぬとされてい
ました。「山の姿峨々(がが)と
して険阻(けんそ)画(え)のご
とくなるは越中立山の剱峯(けん
ぽう)に勝れるものなし…最も高
く聳え、たがひに相争ふ程なる峯
五ツあり、剱峯も其一也」。江戸
後記の医者で文人の橘南谿の「名
山論」(「東遊記」巻末)の剱岳に
関する一節にあるほどです。
▼【掟破りの不審な死】
ここも伝説の山で、江戸時代の
中期初頭の1712(正徳2)年に大
阪の医師・寺島良安が著わした
『和漢三才図会』(わかんさんさ
いずえ)には、剱岳の地主神は刀
尾天神(たちおてんじん)として
います。また信州側の言いつたえ
では、「長野県戸隠村の戸隠明神
の本体は九頭竜で、その尾は、こ
こ剱岳を七巻き半している」とあ
ります。
江戸時代、このあたりは加賀前
田藩の所領でした。1838(天保9)
年、江戸城西の丸が消失。その再
建にあたり、幕府は前田藩に課役
の命を下します。それを受けて加
賀藩は黒部奥山の木の伐採を試み
ます。その時、伐木担当の役人・
増(松)崎藤左衛門が調査のつい
でに?単身で入ってはならぬ剱岳
に登ったという。
しかし、帰途急死したとしてい
ます。これは彼の行為が、藩命違
反と判定され、秘密裡に処分され
たといううわさが広がったことが
ありました。これに前後して快天
という行者が、こっそり釼登山を
試みて成功しました。ところがこ
の行者、それを自慢して歩いたた
め村人の反感を買い、反逆者とし
て縛られ、山中の岩場に放置され
たため餓死してしまったという伝
説も残っています。
▼【平安時代から登山】
その後、明治40(1907)年7月、
三角測量点設置のため、参謀本部
陸地測量官柴崎芳太郎一行が苦労
の末、やっと山頂に立ちました。
その時、山頂で修験者が持ってい
る錫杖(しゃくじょう・修験者が
持っている杖)の頭と鉄刀を見つ
けたのです。さらに山頂わきの石
窟でたき火の跡の木炭も発見しま
した。
さあ大変、だれも登っていない
はずの剱岳山頂でそんなものが見
つかったのです。早速、錫杖を鑑
定しました。その結果、平安時代
初期のものと分かって大騒ぎにな
りました。その錫杖は、いまは国
の重要文化財に指定されていま
す。自分たちが初登頂だと思って
いたにもかかわらず、すでに平安
初期に山伏が登頂していたのを知
ってガクゼンとした話はあまりに
も有名です。
また南北朝時代に、裏剱の仙人
谷洞窟に籠もって修行したらし
い、修験者の木炭などの遺跡も見
つかっています。木炭のあった石
窟は、山頂の斜め下のところにあ
ります。そこは山頂の祠を見上げ
る位置で、高さ約2m、底幅2m
くらい。奥行き3mくらい。奥壁
の上部がせり出しているとありま
す(『古代山岳信仰遺跡の研究』)。
かなり以前の夏に登ったとき、
山頂の祠の下方に石窟があり、そ
の底をのぞいてみたことがありま
す。そこが本当の石窟か、看板も
立て札もありません。中は空き缶
やゴミで埋まっています。その中
で一夜を過ごしてみたいと興味を
もちましたが、さすがに泊まる気
にはなりませんでした。
柴崎測量官たちが見つけた錫杖
の頭は模造品となって、いま、早
月尾根登山口・馬場島の馬場島荘
で売っているらしいのです。かつ
て馬場島から登ったのですが、早
朝のため手に入らなかったことを
いまでも悔やんでいます。
民間登山者としてはじめて剱岳
に登ったのは、1909年(明治42)、
富山県高岡市の吉田孫四郎と同県
西礪波郡福光町の石崎光瑶ら。こ
れらの登頂には宮本金作、宇治長
次郎らの名ガイドが案内したとい
います。このときのガイドの名を
とり登路の雪渓を長次郎谷と命名
しました。
1913年(大正2)には小暮理太
郎、田部重治が別山尾根からガイ
ドなしで発登頂。さらに2人は2
年後、北陵から登頂、西側早月尾
根からは、1917年(大正6)冠松
次郎がはじめて登頂したという。
▼【タブーを無視した女性】
このような「人間登る能わず、
人間登るべからず」という神聖不
可踏の山でも時代にはかなわず、
大正9(1920)年、竹内イサとい
う女性が、夫とともに長治郎谷・
剱岳・小窓、馬場島(ばんばじま
・いまの富山県中新川郡上市町)
のコースを踏破したといいます。
なんとも度胸のすわった女性では
あります。
また翌年、大正10年(1921)に
は小倉貞という女性が塚本繁松と
ともに小黒部谷(こくろべだに)
を遡行して剱岳に登頂しているそ
うです。ちなみに剱岳の山頂には、
三等三角点(2997.1m)と標高点
(2999m)、須佐之男神(すさの
おのかみ)をまつった剱岳神社の
木の祠があります。いま剱岳山頂
にある三角点を設置したのは2004
年(平成16)8月24日だったそう
です。
▼【池平山】
さて、北アルプス剱岳から北に
のびる稜線ルートには、池ノ谷乗
越(いけのたんのっこし)、三ノ
窓(さんのまど)、小窓ノ王、小
窓の頭、小窓(こまど)、池平山
(いけのだいらやま・池ノ平山と
も書く)などの難所があります。
窓(まど)というのは、稜線上で
V字形に深く切れ込んだキレット
のこと(『山の用語なんでも事
典』)。
大窓の手前の池平山(池ノ平山)
は、古くは「西仙人山」と呼ばれ
ていました。明治時代、陸地測量
部という役所が地図を作成する
時、この山の東面の「池ノ平」の
名前をとって「池平山」としてし
まったのだそうです。その証拠に、
この山の西側(富山県上市町馬場
島方面)から小窓へ突き上げる白
萩沢の一源流に西仙人谷してその
名がいまも残っています。
▼【モリブデン鉱山】
しかしすぐそばに中仙人谷、東
仙人谷もあるので、それぞれの文
字のつく山があったのかも知れま
せん。池平山の東面直下の「池の
平」は大正時代の初期にモリブデ
ンという鉱石が採掘された時期が
ありました。これは特殊合金の原
材料になるシロモノ。
時は1902年(明治35)、陸地
測量部が白ハゲ山(大窓北方側ピ
ーク)に三角点を設置しようとし
た時のこと。三角標をたてるため
作業員が登山。その中の一人が地
面に鉛のようなものが散らばって
いるのを見つけ、持ち帰りました。
それがたまたま横浜に住んでいた
ドイツ人が手に入れました。この
人はそれをモリブデンを含む輝水
鉛鉱だと判定する知識があったの
か、薬の原料だとうそをついて買
い取り、地元の鉱夫たちを雇って
採掘させたということです。
そして年間約3トンものモンブ
デンを母国へ送り、耐久性のある
大砲を製造していたのだそうで
す。やがて日本もこれが重要な金
属であることを知り、鉱夫たちで
にぎわうようになります。モリブ
デンの産出量のピークは1917年
(大正6)あたり、日本の生産量の
76%を占めたというからすごい。
そして突然の閉山。「五棟の飯
場は皆傾き、帳簿や伝票類が乱雑
に散らばっている……」、1922年
(大正11)にここを訪れた冠松
次郎(山岳紀行文、とくに黒部峡
谷の地域研究で知られる登山者)
は、なぜかあわただしく短期間に
閉山した様子を著書に記していま
す。その後、第二次大戦下の1941
年(昭和16)には、海軍の支援
によって、本格的に採掘しました
が、1945年(昭和20)終戦と同
時に閉山しました。
また戦後に再び開鉱しました
が、短い期間で閉山してしまいま
した。いまも池ノ平小屋の近くに
は鉱石を洗鉱していたあともあっ
て、キラキラ光るモリブデン鉱が
落ちているといいますが、気がつ
きませんでした。モリブデンの採
掘場所は、小黒部谷と大窓雪渓の
出合い付近。事務所と飯場は、池
平山東方直下の鞍部(いまの池ノ
平)に置きました。建物は建て替
えられ、いまの池ノ平小屋になっ
ています。
1915年(大正4)、ここを訪れ
た小暮理太郎と田部重治が宿泊し
たといいます。採掘された鉱石は、
索道で上市町馬場島方面へ搬出し
ていました。その経路は池ノ平か
ら大窓に運び、大窓からは索道で
白萩川におろし、白萩川沿いにブ
ナグラ谷出合へ。さらに早月川沿
いにいまの滑川市へと運ばれてい
たらしい。
史跡としては大窓に955年(昭
和30)ごろまで、大きな櫓が建
っていたといい、白萩川の河原に
もワイヤー類が散乱していたとい
います。いまでも大窓から白萩川
に下る途中に、3ヶ所石積みの架
台(かだい)がかかっているとい
うから、大規模な索道をつくって
いたようです。
▼【仙人だらけ】
さて、池平山の東側下方には仙
人の名のつく地名がならんでいま
す。池平山をかつては西仙人山と
いい、その東に仙人山、南仙人山、
北仙人山(地形図では坊主山)、
仙人峠、仙人池、仙人湯、仙人谷
などなど。このあたりはかつて、
剱岳を崇拝する修験者が修業しな
がら回峰していたかららしい。そ
のせいか仙人湯の近くには、仙人
窟があって、南北朝時代の石仏も
鎮座するといいます。
ただ池ノ平山山頂、赤谷山、大
窓にも石仏がありますが、これは
のちに建てられたもので、昔の山
岳信仰の石仏たちではないそうで
す。(こういう、近年になって新
興宗教団体が石仏を建てるには国
の認可は必要なのでしょうね)。
仙人山は、北東面にある仙人谷
からきた名前で、人の住むどこの
里からも見えないほど奥深い山だ
とか。仙人山の北東にある坊主山
(2199.2m)。国土地理院の地形
図では「坊主山」とありますが、
かつては北仙人山といっていたそ
うです。昭和のはじめ、このあた
りがよく登られていた時代の文献
をみると、坊主山はこの山の北約
3キロの1668.1mの名無し峰を
指していたのだそうです。
仙人山の東、約1.5キロには南
仙人山もあります。南仙人山は仙
人峠、仙人池から東へつづくガン
ドウ尾根の上にあり、標高は
2173.1mです。尾根の末端は黒部
峡谷のS字峡になります。ちなみ
に「ガンドウ」とは、大きな鋸の
ことで、尾根の形がギザギザにな
っているさまといいます。ここは
登山道がないので登山者はいませ
ん。ただ冬季、鹿島槍ヶ岳から黒
部峡谷を横断して剱岳をめざす際
の一コースとなっているそうで
す。
▼【冠松次郎が発見した仙人池】
ある年の9月、大勢の登山者で
賑わう剱岳山頂から、東北へのび
る尾根に入り、池ノ谷乗越(いけ
のたんのっこし)へ向かいました。
そびえたつ岩陰で薄暗く、砂地の
急坂を大石と一緒になって滑りな
がら下ります。三ノ窓の先は、鼻
がつかえるように「小窓ノ王」が
そびえたっています。小窓ノ王と
はその北側にある2650m峰の小窓
ノ頭よりもっと高い所にあるた
め、「頭」よりも上位の地位だと
して「王」の字がつけられたとの
ことです。
「小窓ノ王」の名がはじめて使
われたのは『登高記』で著者の吉
沢一郎氏の命名らしい。これに対
して、小窓の西側にある小さなピ
ークを小窓妃(ひ)と呼んでいる
とのことです(『富山県山名録』)。
小窓を通過し、草つきをあえぎな
がら池ノ平山へ。山頂からは剱岳
がみごとです。ここからは大窓方
面を右に見ながら東方へ下りま
す。
途中、かつてモリブデン鉱山の
小屋だった池ノ平小屋を見送り、
仙人池ヒュッテへ。水面にうつる
剱岳から続く八ツ峰、三ノ窓、あ
の小窓ノ王、小窓雪渓……、なる
ほどこれが仙人池か、などと感心
します。のちに資料を調べると仙
人池は、1926年(昭和元)に冠
松次郎が発見した池で、氷河がつ
くった圏谷と、氷河末端の堆石提
で囲まれた場所に、水が溜まって
池になったものとありました(『角
川日本地名大辞典・富山』)。また
ヒュッテでは、こんなに山の奥深
い所にかかわらずお風呂も「ご馳
走」になり、翌朝は仙人峠から仙
人新道、剱沢、内蔵助谷経由で黒
部ダムに向かったのでありまし
た。
▼剱岳(つるぎだけ)【データ】
★【所在地】
・富山県中新川郡上市町と富山県
中新川郡立山町との境。富山地方
鉄道立山線立山駅の北東19キロ。
富山地方鉄道立山駅からケーブル
美女平からバス・室堂から歩いて
6時間30分で剱岳。三等三角点(2
997.07m)と写真測量による標高
点(2999m・標石はない)と、須
佐之男神をまつった剱岳神社の小
祠がある。地形図に山名と三角点
の標高と標高点の標高のみ記載。
★【位置】国土地理院「電子国土
ポータルWebシステム」から検索
・標高点:北緯36度37分23.69
秒、東経137度37分00.68秒
・三角点:北緯36度37分24.06秒、
東経137度37分01.68秒
★【地図】
・2万5千分の1地形図「剱岳(高
山)」or「十字峡(高山)」(2図葉
名と重なる)。
▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典16・富山
県』坂井誠一ほか編(角川書店)
1979年(昭和54)
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大
和久震平著(名著出版)1990年(平
成2)
・『山岳宗教史研究叢書10・白山
・立山と北陸修験道』高瀬重雄編
(名著出版)1977年(昭和52)
・『山岳宗教史研究叢書15』「修験
道の美術・芸能・文学」(U)五
木重編(名著出版)1981年(昭和
56)
・『新稿日本登山史』山崎安治著
(白水社)1986年(昭和61)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナ
カニシヤ出版)2005年(平成17)
・「立山の昔話」立山黒部貫光
(株)
・「旅と伝説」三元社(1942年(昭
和17)1月号)
・『東遊記』橘南谿(「東西遊記・
1」所収)(東洋文庫・宗政五十緒
校注)(平凡社)1986年(昭和61)
・『富山県山名録』橋本廣ほか(桂
書房)2001年(平成13)
・『日本山岳風土記1』(宝文堂)
1960年(昭和35)
・『日本三百名山』毎日新聞社編
(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本大百科全書13』(小学館)
1987年(昭和62)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか
(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系16・富山県
の地名』(平凡社)1994年(平成
6)
・『名山の文化史』高橋千劔破(河
出書房新社)2007年(平成19)
・『名山論』橘南谿:東洋文庫248
「東西遊記1』宗政五十緒校注(平
凡社)1986年(昭和61)
・「山と高原地図・4」昭文社
・『和漢三才図会』寺島良安(江
戸時代1712年(正徳2)の図入り
百科事典):東洋文庫「和漢三才
図会10』(巻第66〜巻第68)島田
勇雄ほか訳注(平凡社)1988年(昭
和63)
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from
20/10/2000




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