山と民俗神 とよだ時(ポンチ漫画家)
『百名山の神話伝説』
本文のページ(07)
【とよだ時】
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▼(047)鹿島槍ヶ岳
「地震神とカクネ里の落人」

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(長文です。ご興味ある部分を拾
い読みしてください)

★【目次】
・【鹿島槍ヶ岳とは】
・【鹿島槍の山名】
・【布引山】
・【立山の後ろの山は?】
・【カクネ里】
・【住んでいた落人は】
・【鹿島槍ヶ岳の地名】
・【ホシガラス伝説】
・【吊り尾の根雪田】


▼【本文】

★【鹿島槍ヶ岳とは】
 山の名前には、山の形からきた
ものがたくさんあります。槍の穂
先のように、とがっているので名
づけられたのが槍ヶ岳。また、後
立山連峰北部の白馬三山にも、と
がった山があって、これには槍と
同じ意味の「鑓ヶ岳」の字を当て
ています。

 さらにもう一座、同じ後立山連
峰中央部にもとがった槍ヶ岳があ
ります。「鹿島槍ヶ岳」がそれだ
そうです。この山の頂上は、南峰
と北峰との二つに分かれた双耳峰
になっています。かつては北峰を
槍ヶ岳、ふたつの峰の間をつなぐ
吊り尾根が馬の鞍に似ているた
め、とくに南峰を乗鞍岳と呼ぶ地
域もあったといいます。

 双耳峰の南峰と北峰の間は吊尾
根とよばれるなだらかな稜線で結
ばれています。北峰から北の主稜
線はやせ尾根で、とくに八峰(は
ちみね)キレットは深く切れ込ん
でいます。

▼【鹿島槍の山名】
 この山は、双耳峰の二つの峰が
高さ競争をしているように見える
ので「背比べ山」、また春に雪が
消えた岩の形が、安曇野一円から
シシやツルに見えるところから、
獅子ヶ岳、鶴ヶ岳と呼んだも呼ん
だそうです。

▼【布引山】
 ちなみに鹿島槍ヶ岳の南側に、
布引山がコブのようにひっついて
います。これは明治時代発行され
た『北安曇郡地誌』という本に、
「初夏残雪白布を引くに似る故に
南の一峰を布引岳という」と書か
れているところからつけられた名
前だそうです。

▼【立山の後ろの山?】
 この山がある後立山連峰は、富
山側から見ると、山岳信仰の聖地
立山の後ろにあります。「立山の
後ろ」なので「後立山」です。こ
れは「ごりゅうざん」とも読みま
す。江戸時代の地図に、後立山と
書き込んだ山があり、それはいま
の五龍岳のことだといわれたこと
もありました。

 しかし、明治時代の登山家・木
暮理太郎が、自分が所属する山岳
会の会報に、「後立山は鹿島槍ヶ
岳に非ざる乎(あらざるや)」と、
発表し、いまでは、後立山は鹿島
槍ヶ岳のことをさすのが定説に。
したがって、鹿島槍ヶ岳の山名は、
明治時代以後つけられた山名にな
ります。

▼【カクネ里】
 さて北東直下には、平家の落人
伝説のあるカクネ里と呼ばれる所
があります。ここはかつて源氏に
追われた平家の落人が住みついて
いたところだというのです。落人
たちは、のちになって大川沢をく
だり、いまの鹿島川のほとりに移
り住み、田畑を切り開いていまの
鹿島槍ヶ岳山麓、大町市鹿島集落
になったというのです。

 しかし困ったことに、古文書や
武具など、証拠となるものは一切
残されていないといいます。1916
年(大正5)と1922年(大正11)
の2回の火事で土蔵にあった過去
の資料がすべて焼失してしまった
というのです。しかも肝心な鹿島
集落では「カクネ里」伝説など知
らないという。そのうえ、集落内
の鹿島神社に大同2(807・平安
初頭)年の記録があり、それによ
ると平家追討以前にすでに人が住
んでいたことになってしまいます
(『あしなか第九七輯』)。

 そこで研究者たちが、古文書や
地形語などを考察し、カクネ里(隠
れ里)の言葉の変化や、また柳田
国男の研究の例などから推理して
います。つまり、カクレをカキク
レ、サトはザトウ、サコまたはセ
トに変化した例をあげ検証をして
います。

 また登山の大先輩羽賀正太郎氏
は、もっと単純に考えています。
「鹿島槍北峰」などと、登山者が
必要に応じて地名をつけたよう
に、狩人や杣人など山村民が何か
のことを仲間に話すとき、決まっ
た地名がないために、人が隠れ住
むに都合がよい地形から「カクネ
里」の名が生まれたのではないか
としています。

▼【住んでいた落人】
 一方、鹿島集落住人のあるお墓
に刻んである年代から調べた資料
がありました。墓石の正面に「先
祖代々精霊塔」とあり、その両側
面に、「永禄二未」、2代目「文禄
元辰」、3代目「元和三巳」とあ
ったとしています。

 年代は順番に、永禄2年(1559)
己未(つちのとひつじ)で室町時
代も戦国時代の終わり、2代目は
文禄元年(1592)壬辰(みずのえ
たつ)で安土桃山時代、3代目は
元和(げんな)3年(1617)丁巳
(ひのとみ)で江戸時代初期にあ
たります。

 これらから推測すると、落人た
ちが鹿島槍ヶ岳の山ろくに逃げ込
んだとすれば、甲斐武田の残党た
ちか、越中方面の落人たちではな
いかとしています(『北アルプス
物語』)。

 甲斐武田の落人(※1582年・
天正10武田氏滅亡)だとすれば、
山梨県甲州市(JR甲斐大和駅付
近)で織田勢から逃れ塩尻峠を越
えて、「塩の道」沿いに大町市か
ら大町温泉郷あたりを経由、鹿島
川をさかのぼって鹿島槍ヶ岳の山
ろくにたどりついたものらしい。

 また越中の落人だとすれば、立
山から内蔵助谷へ来て、黒部川を
少し下って新越沢対岸から黒部川
を渡り、新越沢を経て新越乗越付
近の稜線に出て、鹿島槍ヶ岳のふ
もとまで来て落ち着いたのではな
いかと推察できます。

 いずれにしても現地は、普通で
はとても遡行できない大川沢の奧
の奧、雪崩や雪塊の崩落が名物の
ような場所。とても人の住めるよ
うな所ではないといいます。しか
し確かに下流の鹿島集落は平家の
落人だという説は根強く残ったま
まです。

▼【鹿島槍ヶ岳の地名】
 また鹿島槍ヶ岳の地名について
こんな説があります。江戸中期の
享保9年(1722)、時の松本城主
忠幹が政事の一助にと作らせた
『信府統記』(しんぷとうき)(松
本藩内の総合書)の第六巻に、「鹿
島山(鹿島槍ヶ岳)と名づけたる
は、昔、鹿島明神出現ありしとて
此処に祭りしより今に此名あるな
り」とあります。

 さらに、「地震説」もあります。
戦国時代の天文年間(1532〜55
年)に大地震があって、山が崩壊
してふもとの集落に大きな被害を
もたらしたというのです。村人た
ちは協議の結果、地震の神で有名
な常陸の国(茨城県)にある鹿島
神宮の鹿島明神を勧請して鹿島槍
の山に祭り、さらに村の中に鹿島
明神を建てました。また集落の名
を鹿島集落、山の名を鹿島山、さ
らに集落の中を流れる川を鹿島川
と改めたといいます。

 しかし、いまの鹿島集落の場所
では、鹿島槍ヶ岳の直下からはず
れているため、崩壊で被害を受け
るとは位置的にちょっと考えにく
いですよね。あるいは、鹿島槍北
壁直下の「カクネ里」にいた?と
きの話なのでしょうか。

 鹿島集落の名のもとについては
異説があって、集落を流れる鹿島
川が氾濫したときに鹿島神社を勧
請し、鹿島という集落名が起きた
とする本もあります。鹿島集落は、
大町の平地区にある旧借馬村(か
るま)の枝郷になっているそうで
す。

 このカクネ里に最初に足を踏み
入れたのは、日本登山界の草分け
でもある三枝威之介(さえぐさい
のすけ)という人。1908年(明
治41)7月、威之介が白馬岳か
ら後立山連峰を縦走、五龍岳から
鹿島槍ヶ岳に登り、カクネ里に降
りて大町に出たという記録が残っ
ています。

▼【ホシガラス伝説】
 この鹿島槍ヶ岳に、お灸の起源
だという民話が残っています。そ
の昔、このふもとに住む木こりの
一家に娘がいました。彼女はいつ
も鹿島槍ヶ岳をボンヤリと見つめ
ていました。ある時、山のホシガ
ラスがやってきて、一本のびんを
渡していいました。「この霊水を
飲むと足が丈夫になる。足の弱い
人に飲ませて助けてあげなさい」。

 そこへ父親と、木こり仲間が山
から帰ってきました。「最近、年
のせいか山歩きがきつくなった」
と愚痴をこぼしています。娘はホ
シガラスに貰ったびんを思い出
し、木こり仲間の家に行って霊水
を少し飲ませました。

 すると「あれ、足が軽くなった
ぞ」。木こりは喜びました。それ
からというもの、足の骨を折った
人やケガした者がいると、娘は霊
水を飲ませに出かけました。村人
たちは大喜び。みんなが娘にお礼
をいいました。

 何も知らない父親は不審に思い
ました。娘のるすに調べてみると
びんが一本あるのを見つけまし
た。のぞき込むと自分の顔が写り
ました。「内緒で男とこっそり逢
っていたのか」。

 アホくさッ。びんをのぞき込ん
で自分の顔が見えたからといっ
て、男をこっそりかくまっていた
と思うかいな。などと思わないで
ください。話が先に進まなくなっ
てしまいます。スミマセン。

 怒った父親はびんを投げつけ割
ってしまいました。戻ってきた娘
は割れたびんを見つけ、がっかり
しました。娘はまた鹿島槍ヶ岳を
ぼんやりながめはじめました。す
るとまたホシガラスが飛んできて
こんどはヨモギを渡しました。

 そして娘にその使い方を教えま
した。それがお灸のはじまりだと
いうことです。そのためこの村で
はホシガラスを大切にするそうで
す。これが鹿島集落の話かどうか
は不明です。

▼【吊り尾の根雪田】
 ある8月、白馬岳方面から南を
目指して縦走してきました。暑さ
ジリジリ。鹿島槍ヶ岳吊り尾根に
ある雪田に入り込み、雪で顔を洗
います。日光が雪の白さに反射し
て目が痛いほどです。上空は気流
が激しいためか、上がったり下が
ったりガスが忙しく動いていま
す。

 地震の神・鹿島明神のお陰でこ
んなに穏やかなんだ。雪田でしば
らく童心に帰って雪遊び。南峰に
はい上がり布引山経由冷池のテン
場に向かいます。布引山を前にし
た下り坂、視線の下でホシガラス
がハイマツのマツボックリをつつ
いています。なかの実を食べるの
でしょう。

 やがて冷池のテント場の広場に
飛び出ました。右手西側に深い黒
部川。その先にそびえる剱岳。そ
の先につづく八ツ峰、三ノ窓雪渓
や小窓雪渓が目立ちます。♪釼見
るな〜ら赤谷尾根でヨ、大窓小窓
にネ、三ノ窓よかネ……、鼻歌を
歌いながらテントを設営したので
ありました。



▼鹿島槍南峰・北峰【データ】
★【所在地】南峰と北峰がある。
・長野県大町市と富山県立山町と
同県黒部市宇奈月町との境。大糸
線信濃大町駅の北西15キロ。JR
大糸線信濃大町(タクシー20分)
大谷原から歩いて8時間45分で鹿
島槍ヶ岳南峰、さらに歩いて30分
で北峰。南峰には二等三角点(28
89.1m)、北峰には写真測量によ
る標高点(2842m)がある。

★【位置】(国土地理院「電子国
土ポータルWebシステム」から検
索)
・北峰標高点:北緯36度37分37.3
8秒、東経137度45分7.05秒
・南峰三角点:北緯36度37分28.3
941秒、東経137度44分49.39秒

★【地図】
・2万5千分の1地形図「十字峡
(高山)」or「神城(高山)」(2図
葉名と重なる)。



▼【参考文献】
・「あしなか第九十七輯」山村民
俗の会
・『アルプスの伝説』山田野裡天
(ナカザワ)発行年不明
・『角川日本地名大辞典16・富山
県』坂井誠一ほか編(角川書店)
1979年(昭和54)
・『角川日本地名大辞典20・長野
県の地名』市川健夫ほか編(角川
書店)1990年(平成2)
・『北アルプス物語』朝日新聞松
本支局編(郷土出版社)1982年(昭
和57)
・『信州山岳百科1』(信濃毎日新
聞社)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナ
カニシヤ出版)2005年(平成17)
・『信府統記』第六巻(信濃国郡
境記四安曇郡の部)享保9(1724
年)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石
利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編
(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか
(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系16・富山県
の地名』高瀬重雄ほか(平凡社)
1994年(平成6)
・『日本歴史地名大系20・長野』
(平凡社)1990年(平成2)
・『富山県山名録』橋本廣ほか(桂
書房)2001年(平成13)
・『名山の民俗史』高橋千劔破(河
出書房新社)2009年(平成21)
・『山の紋章・雪形』田淵行男著
(学習研究社)1981年(昭和56)


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