山旅通信【ひとり画ッ展】1176号
『日本百名山』の伝説と神話
(山の神・伝説神話)
本文のページ(06)
……………………………………
▼日本百名山(76番)恵那山のはなし
「天照神の胞衣と神坂峠」

(長文です。ご興味ある部分を拾
い読みしてください)

★【目次】恵那山とは、信仰、
恵那山七社・恵那神社、山名
伝説、神坂峠伝説、記紀の神
坂峠、炭焼吉次伝説、恵那山
データ、参考文献

▼【本文】
 中央アルプスの最南端のそ
びえる恵那山は、長野県の阿
智村と岐阜県中津川市との境
にある山です。山頂からの
展望は雄大で、木曾の御嶽山
や、北アルプスの南端乗鞍岳、
さらには富士山などの山々が
見渡せます。古くから名が通
っていたらしく、『古事記』
や『日本書紀』にも載ってい
る山です。

★【山名】
 この山は伊勢湾から見る
と、舟を伏せたような形のた
めひと目でわかり、三河地方
の漁師たちはアテ山(海上か
らの目印の山)としていたそ
うです。その形から舟覆山(ふ
なふせやま)、また江戸期、
信州側では野熊山とも呼ば
れ、さらに胞山(えなさん)
とも書き、遠山(とおやま)、
恵那嶽、恵那山、俗称を御嶽
様(おたけさま)などともい
ったそうです。

★【信仰】
 恵那山も古くから信仰の山
で、山頂には恵那神社奥宮本
社があり、西ろくの川上(か
おれ)地区(岐阜県中津川市)
には恵那神社の里宮(前宮)
があります。山頂にある小屋
は講堂というそうで、かつて
は行者が籠もって修行した所
といわれています。

 明治9年(1876)に阿智村
が調べた村誌、『長野県町村
誌』(長野県町村誌刊行会)
には恵那山は、「……嶮にし
て人跡無之篠を分け、藤に縋
(すがっ)て嶺上に至る。頂
上に恵那七社之神祠有り、絶
頂より辰巳の方、皇太神御産
湯之池と言ふ神地有り……」
(『長野県の地名』)とあり、
山頂には恵那七社と産湯之池
があったとあります。

★【恵那山七社】
 元禄13年(1700)信濃国
小川町(いまの阿智村)と、
中津川・落合両村が取り交わ
した為取替証文の「胞梺雑誌
略草」(ほうろく・※ふもと)
には、山頂に鎮座する恵那権
現社を、「山上鎮座年暦不詳」
としています。さらに、永禄
4年(1561)願主小木曽彦兵
衛と書き、天正4年(1576)
「七社共再建と小木曽彦十方
に控に有之」と、ここにも恵
那山七社のことを記していま
す。

 七社とは「恵那権現社」と、
「役ノ行者」、「富士浅間社」、
「熊野権現社」、「神明社」、
「剣権現社」、それに「和光
白鹿(和光同塵・じん)」の
ことだそうです。いま山頂に
は、恵那神社本宮(奥社)と、
その摂社六社(葛城神社、富
士浅間神社、熊野神社、神明
神社、剣神社、一宮神社)が
ならんでいます。

★【恵那神社】
 この恵那神社も古く、平安
時代の「延喜式」神名帳にも
その名があり、明治維新の前
は恵那郡の総社として威勢を
ふるっていたそうです。それ
も1873年(明治6)以降は、
郷社(村落の産土神)として
定められ、規模が小さくなり、
勢力が落ちて落ちてしまった
そうです。ここも以前は、恵
那山修験と結びついた「恵那
権現社」でした。

 しかし、明治時代になって
神仏分離令が出てからは、「権
現」では仏教的でありけしか
らんというので、恵那神社と
改名させられました。祭神も
神仏混合系から、伊弉諾尊(い
ざなぎ・男神)・伊弉冉尊(い
ざなみ・女神)・天照大神(あ
まてらすおおかみ)ほかと神
道系にかわりました。

★【山名伝説】
 「恵那山」の山名は、天照
大神が降誕したとき、その胞
衣(えな・胎盤)を山中に納
められたことからきていると
の説もあります。その根拠は
先述の『長野県町村誌』に「絶
頂より辰巳の方、皇太神御産
湯之池と言ふ神地有り」とか、
江戸中期の1757年(宝暦7)
に書かれた、木曾の地誌『吉
蘇志略』(松戸秀雲=君山)
巻第一「湯舟澤」などにある
記述だといいます。

 『吉蘇志略』には漢文で次
のように書かれています。「在
恵那山北麓、岩石形如槽、里
民伝、是天照大神降誕時所浴
也、村名職是之由、且蔵胞衣
於此山、胞衣倭訓恵那、則恵
那山名、亦復拠此、其山下所
出水温煖、則所謂温川也」…
…。

 つまりだいたい、「恵那山
の北のふもとに、浴槽のよう
な形をした岩がある。里の人
たちは、これは天照大神(あ
まてらすおおかみ)が生まれ
たときに入った浴槽で、湯舟
沢村の名前もここからきてい
るといっている。その時の胞
衣はこの山中に納めた。胞衣
はエナと読むところから山の
名も「恵那山」になった。ま
たこの山の下には温水が湧き
出すところがあり、そこを温
川と呼んでいる」となるよう
です。

 天照大神の生まれた様子
は、『日本書紀』の神代上・
第五段に、「……共に日の神
を生みまつります。大日?貴
(おおひるめのむち)と号(ま
う)す。大日?貴、此をば於
保比婁灯\武智(おほひるめ
のむち)と云ふ。……。一書
に云はく、天照大神(あまて
らすおおみかみ)といふ」と
あります。

 でも『古事記』ではちょっ
と違います。黄泉の国から逃
げ出した伊耶那岐命(いざな
ぎのみこと・男神)が、日向
の橘の小門(おど)の阿波岐
原(あわきはら)で禊(みそ)
ぎをしました。そのとき左目
を洗った時できたのが、天照
大神だとしています。アララ
…男神が天照神を産ん
だ??。そして胎盤???…。

 そんなことからか、江戸中
期、医者首藤元震が書いた地
誌『巌邑府誌』には、「妄誕
(ぼうたん・根拠がない)固
(もと)より信ずるに足らざ
るなり」と、天照大神がこの
山で生まれ、胞衣をこの山に
埋めたという説を否定してい
ます。

 この神社はよくいわれてい
るように、たしかに平安時代
の『延喜式』の「神名帳」に
神社名がありますが、恵那の
神社名は、山名に由来するの
ではなく、当時は恵那郡全体
の神社という意味らしいので
す。なので山名の胞衣(えな)
山や、胞(えな)山が、恵奈
・恵那に転訛したわけではな
いそうです。

 よく山に本などに載ってい
る恵那山の山名由来説、つま
り先にも書きましたが「伊弉
諾(いざなぎ)・伊弉册(い
ざなみ)の神が、天照神を生
んだときの胞衣をこの山に納
めた」とか、「天照神がこの
山に登って胞衣を山上に納め
て伊弉諾・伊弉册をまつっ
た」などと伝えるのは、近世
後期以降の話だとか。

 おもに皇国日本の近代に至
ってから宣伝された俗説であ
るというのです。天皇家の祖
神である「記紀」神話の神々
が、全国各地の神社にまつら
れるようになるのは、多くの
場合、明治になってからだと
いうことに留意する必要があ
るようです(『名山の民俗
史』)。

 しかし、なんですね、そう
目くじら立ててもね。そこは
それ万事、丸〜く納めるのも
一つの方法です。明治初年の
「神仏分離令」発布からず〜
ッとあとの、明治26年(1893)
以降成立の書物ではあります
が、『日本名勝地誌』という
本に、以下のことが書かれて
います。

 恵那山、「信濃にては熊野
山と稱せり、神世の時に、天
照大神御神胞(えな)を此山
に納めたるを以て此称あり、
……山中に恵那神社あり、式
内郷社にして、伊弉冊尊、伊
弉諾尊、天照皇大神、豊受大
神、一言主命、木花開耶姫命、
速玉男命、天目一箇命、猿田
彦命らをまつる、創立の年月
未だ詳しからず」と、……。

 まあ、地元の人もそういっ
ているのですから、大昔の話
は大昔の話として、天照大神
はこの山で誕生したというこ
とにしておきましょう。

★【神坂峠伝説】
 さて話は変わって、恵那山
の南ろくを通る神坂峠(みさ
かとうげ)というのがありま
す。『万葉集』(巻20)に、「ち
はやふる神の御坂に幣(ぬさ)
奉(まつ)り斎(いは)ふ命
は母父(おもちち)がため」
という文のなかの「神の御坂」
とあるのがこの峠です。ここ
は中津川落合と阿智村園原を
結ぶもので、官道のなかでも
最も標高が高く、東西の駅ま
での距離が長い。そのうえ険
しく気象の変化が激しいとこ
ろだったといいます。昔の人
は「荒ぶる神」がいると考え
ていたほどの東山道の難所と
して知られていたそうです。

 このような峠でも日本武尊
が東征の帰りに通ったといい
ます。その後も源義経や、そ
の他の多くの人たちが越えて
いったという峠です。日本武
尊が、神坂峠(みさかとうげ)
を越えたという話は『古事記』
や『日本書紀』に出ています。
神坂峠の入り口にある神坂神
社は、海神の住吉様をまつっ
ていて、境内には「日本武尊
の腰掛け石」や、ここを往来
した防人(さきもり)が詠ん
だ「万葉歌碑」なども残って
います。

★【記紀の神坂峠】
 『古事記』の中つ巻「倭建
命(日本武尊)、美夜受比売
(みやずひめ)と聖婚」の条
にはこのようにあります。「…
…甲斐の国から科野(しなの
・信濃)の国に越え渡って、
そのまま科野(信濃)の坂(神
坂峠)の神を言向けて(服従
させて)、尾張(をはり)の
国に還り来て、先の日に約束
した美夜受比売(みやずひめ)
の許(もと)に入りましき。」
とあるのがそれです。

 また『日本書紀』は次のよ
うに書かれています。卷第七
に、「日本武尊は信濃国に進
み、険しい峰々を越えて煙霧
をかき分けて進んでいきまし
た。そんな時、山の神が武尊
を苦しめようと白鹿になって
行く手を阻みました。怪しん
だ武尊は持っていた蒜(ヒル)
を白い鹿に弾き飛ばしまし
た。するとヒルは白鹿の目に
当たって死んでしまいまし
た。ホットしたのもつかの間、
こんどは道に迷ってしまった
のです。

 すると白い山犬があらわ
れ、武尊の道案内をはじめま
した。こうして日本武尊はや
っと美濃国(岐阜県南部)に
出られたのでした。」さらに
『日本書紀』は続けます。「こ
れ以前は、信濃坂(神坂峠)
を通る人は、山の神の毒気に
当たって寝込んでいました
が、白鹿を殺してからは、ヒ
ルを噛んで人や馬に塗ってお
けば、毒気に当たることはな
いということです」とありま
す。

★【炭焼吉次伝説】
 さて恵那山の南ろくの神坂
峠の伝説です。昔、神坂峠の
ふもとに炭焼の吉次という男
が住んでいました。吉次はあ
るとき、黄金を発見し大金持
ちになり「伏屋長者」と呼ば
れていました。いまでも長野
県阿智村の園原地区には、伏
屋長者の屋敷跡というのがあ
り、近くには昔源義経が奥州
へ下る時、駒をつないだとい
う「牛若丸の駒つなぎ桜」と
いうのもあるそうです。

 そもそも牛若丸がまだ京都
鞍馬山にいたときのこと、牛
若丸を奥州の藤原秀衡のとこ
ろへ連れだした金売吉次(か
ねうりきちじ)の話がありま
す。これがその吉次が神坂峠
のふもとの炭焼の吉次だとい
うのです。吉次は都と奥州を
往来して、奥州の砂金を売り
買いする商人です。

 そのころ、京のある公家に
年ごろの姫がいました。ある
夜、夢に住吉神があらわれて
「信濃国の園原の里に、吉次
という若者がいる。そなたは
すぐに嫁いで行くように」と
のお告げがありました。その
姫は、都を出発、園原の吉次
のところに嫁入りに行きまし
た。ところが、姫が吉次を訪
ねてきたところ、結婚相手の
吉次は、炭で顔が汚れていた
ので、がっかりと気落ちしま
した。

 ふと、そばの池に映る自分
の姿を見たら、長旅のせいで
顔や体が汚れているのを見
て、さらに気落ちします。姫
は自分の姿にあきらめて、妻
になったとの話もあります。
そこでこの池を「姿見の池」
と呼ぶようになったそうで
す。吉次のところに嫁入りし
た姫は、いままで身につけて
きた「金紗、銀紗」(きんし
ゃ、ぎんしゃ)の類を振り捨
てて、木綿(もめん)着物に
姉さまかぶりの「下品な女」
となって立ち働きました。

 それからというもの、吉次
の家には不思議なことばかり
おきました。炭焼きの半焼け
の炭が金色に輝く薬師如来に
変わったり、できあがった炭
が次々に黄金になったりする
ことがつづきいたのです。こ
うして吉次の家は次々に幸運
にめぐまれ、ついには「伏屋
長者」と呼ばれるようになり
ました。

 その時の金色薬師如来はい
まもあり、嫁いできた公家の
姫が着ていた小袖といっしょ
に阿智村園原の長嶽寺という
お寺に保存してあるとか。ま
た、伏屋長者の屋敷跡には、
当時の庭石といわれる石や、
姿見の池もあります。

 また、この池のそばに杖柳
(つえやなぎ)と呼ばれる木
があります。これは、都から
来た姫がついてきた杖をさし
たところ根づいたものといい
ます。もとは大きな木だった
そうですが、ある時その木を
切ったところ祟りがあったた
め植え替えたそうです。

 この話にはつづきがありま
す。炭焼長者とあがめられる
ようになった吉次は、ふと、
女房の姫がはじめて都からき
た時の、美しい姿を思い出し
ました。そして「長者になっ
たいま、炭焼きなんかとして
歳をとって行くのは残り惜し
い」などと考えるようになり
ました。やがて吉次は、日に
日に炭焼の苦労がうとましく
なっていったのです。

 そんなある日、黄金に変わ
る「半焼きの炭」を神棚にい
くら供えても、黄金に変わら
なくなったのです。それどこ
ろか、家の中に山のように積
んであった黄金が次第に光が
うすれ、半焼きの炭に変わっ
て行くではありませんか。こ
うして伏屋長者の家は没落し
ていきました。

 その伏屋長者の家が没落し
ていったとき、近くの松の根
元に「金の鶏」を埋めたとい
う伝説があります。そこは園
原川が臨める丘に生えた「朝
日松」と呼ばれる松の木が生
えた場所。いまでも毎年、元
旦に松の木のある丘に行くと
「金の鶏」のものか、鶏の鳴
き声がするそうですヨ。

 西ろくからの登山道「前宮
ルート」はもっとも古いルー
トで、かつては修験者も歩い
た登山道。ある年の8月。山
頂探査の帰途、木から飛び降
り逃げ去る熊の気配。ことし
は熊が民家に出てくるニュー
スが多い。

 登山口の河原でテント。翌
朝早くバス停に急ぎます。前
宮本社近く、小さな生き物が
林道のクルマのわだちに頭を
つっこんでいます。ウリ坊の
エサ探し。ためらいましたが、
バスの時間も気にかかりま
す。やっと気がついたウリ坊、
大慌て…。そのかわいいこと。

 しかし、親イノシシが近く
にいるに違いない、立ち去る
にかぎります。かなり遠のい
た時、遠くで田んぼ仕事をし
ていた農家の人が立ち上がっ
て、こちらと「現場」方面を
見比べています。母親が出て
きたに違いありません…。南
無三、クワバラ、猪八戒。



▼恵那山【データ】
★【所在地】
・長野県阿智村と岐阜県中津
川市との境。中央本線中津川
駅の南東11キロ。JR中央本
線中津川駅からウエストン公
園行きバスで終点下車、さら
に歩いて20分で恵那山登山
口。歩いて5時間20分で恵那
山頂(標高点)、さらに10分
で三角点のあるピーク。山頂
に写真測量による標高点(21
91m)と避難小屋がある。三
角点のあるピークには一等三
角点(2189.8m)と恵那神社
の祠は奥にある。

★【位置】国土地理院「電子
国土ポータルWebシステム」
から検索
・恵那山頂標高点:北緯35度
26分34.87秒、東経137度35分
52.50秒
・三角点:北緯35度26分25.4
2秒、東経137度36分01.78秒

▼【地図】
・2万5千分の1地形図「中
津川(飯田)」



▼【参考文献】
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長野」(角川書店)1991年(平
成3)
・『角川日本地名大辞典21・
岐阜県」野村忠夫ほか編(角
川書店)1980年(昭和55)
・『吉蘇志略』(デジタルコ
レクション)(松戸秀雲・君
山)1757年(宝暦7)木曾
の地誌
・『古事記』:新潮日本古典
集成・27『古事記』校注・西
宮一民(新潮社版)2005年
(平成17)
・『義経記』作者不明:(日
本古典文学大系37『義経記』
岡見政雄校注(岩波書店)1959
年(昭和34)
・『信州の伝説』浅川欽一ほ
か(日本の伝説・3)(角川
書店)1976年(昭和51)
・『信州百名山』清水栄一(桐
原書店)1990年(平成2)
・『新日本山岳誌」日本山岳
会(ナカニシヤ出版)2005
年(平成17)
・『大日本地名辞書』「北国
・東国」吉田東伍(明治時代
に編算)(冨山房)1989年(昭
和64・平成1)
・『日本架空伝承人名事典』
大隅和雄ほか(平凡社)1992
年(平成4)
・『日本山名事典」徳久球雄
ほか(三省堂)2004年(平
成4)
・『日本山岳ルーツ大辞典」
村石利夫(竹書房)1997年
(平成9)
・『日本書紀』720年(養老
4):岩波文庫『日本書紀』
(一)(校注・坂本太郎ほか)
(岩波書店)1995年(平成
7)
・『日本伝奇伝説大事典』編
者・乾勝己ほか(角川書店)
1990年(平成2)
・『日本三百名山』毎日新聞
社編(毎日新聞社)1997年
(平成9)
・『日本歴史地名大系20・長
野県の地名』(平凡社)1979
年(昭和54)
・『日本歴史地名大系21・岐
阜県の地名』(平凡社)1989
年(平成元)
・『名山の民俗史』高橋千劔
破(河出書房新社)2009年
(平成21)


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