山の伝承伝説に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

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▼995号「奥多摩・棒ノ折山の折れた棒」

【序文】
140字
奥多摩の棒ノ折山は、棒ノ嶺、坊ノ尾根などいろいろな名前で呼
ばれていましたが、いまは棒ノ折山に統一されているようです。
しかしいまも地形図には棒ノ嶺とし、棒ノ折山はカッコの中に記さ
れています。山名は、畠山重忠愛用の石棒の杖がこの山で折れたか
らとか、金精さまの石棒に由来するともいう。
・東京都奥多摩町と埼玉県飯能市との境。
(本文は下記にあります)

▼995号「奥多摩・棒ノ折山の折れた棒」

【本文】

奥多摩の棒ノ折山は、東京都奥多摩町と埼玉県飯能市との境にあ
る山です。棒ノ嶺、坊ノ尾根、棒ノ峰、坊ノ尾根などとも呼ばれ
ていましたが、いまは棒ノ折山に統一されているようです。

しかし、いまでも国土地理院の地形図には「棒ノ嶺」と書かれ、「棒
ノ折山」はその下のカッコの中に記されています。山名は、畠山重
忠が愛用していた石棒の杖がこの山で折れたからとか、金精さまの
石棒に由来するともいわれています。

奥多摩の昔話にこんなのがあります。鎌倉時代、源頼朝公の重臣
だった畠山重忠は、秩父、畠山の地を治める武将でした。頼朝の
命で鎌倉に出向く時、重忠はいつも鎌倉道と呼ばれた街道を通っ
ていました。

いまの埼玉県の秩父からは山伏峠を越えて名栗集落を通り、小沢
峠、松の木峠、榎峠を越えて軍畑(いくさばた)に出て柚木(ゆ
ぎ)から馬引沢に向かうという道だったという。畠山重忠は美男
であったため、一行が通ると街道筋の若い女性たちが、重忠をひ
と目見ようと、ワイのワイのと集まってきたという。重忠はそれ
がうっとうしくてしょうがありません。

ある日、街道を通らずに、名栗集落から尾根づたいに道をたどり
ました。四方を見渡せる山の頂上に着いた時、重忠はついていた
石の杖をへし折ってしまったのです。そして半分を東京都奥多摩
側大丹波の谷へ、もう半分を埼玉県秩父側名栗の有馬の谷へ投げ
ました。

そんなことから、この山を棒ノ折(ぼうのおれ)といい、頂上を
棒ノ嶺(ぼうのみね)というようになったということです。大丹
波の谷へ投げられた石棒はいまでも、川井駅方面からの登山道途
中のゴンジリ沢の小さな祠の中にまつられています。一方、名栗
側に投げられた石棒は行方不明になっているということです。

畠山重忠が美男であったことは有名だったらしく、室町初期から
中期の成立といわれる軍記物語『義経記』(ぎけいき)巻第六に、
静御前の舞の舞台に身支度をして現れた重忠は「…名を得たる美男
なりければ、あはれやとぞ見えける。其(その)年(とし)廿三に
ぞなりける。鎌倉殿(かまくらどの・頼朝)是(これ)を御覧じて、
御簾(みす)の内より「あはれ楽黨(音楽一党)や」ととぞ讃(ほ)
めさせ給ひける」と載っています。

棒ノ折山の由来や伝説はこれだけなのですが、山名の考証となると
なかなか一筋縄ではいきません。奥多摩の研究者、宮内敏雄はその
著書『奥多摩』の中で、明治から昭和にかけての登山家で,植物学
者の武田久吉博士の文章を引用しています。

棒ノ折山が、地図には棒ノ嶺と名(なづ)けてあるので、棒ノ嶺
(ぼうのみね)または棒ノ嶺山(ぼうのみねやま)と呼んでいる旅
行家もいる。しかしこれは『武蔵通志』という地誌に棒折山とある
とおり、棒の折(ぼうのおれ)である。それを耳の良いお役人が棒
ノ嶺と訳(?)した御手際には敬服せざるを得ない。

山名は山腹にある石の棒の折れから導かれたもので、伝説によると
畠山重忠が杖についた棒の折れ端というのである。ただ、石棒は人
工の円柱ではあるが杖とは受け取りがたい、と記しています。

宮内敏雄氏は、さらに武田久吉博士の説から一歩すすんで考えて
みたいとし、「この山を名栗側では坊ノ尾根と呼んでいるのである。
之は昔からこの山が有名なカヤトの山だったからで、往時は河又付
近の農家は、家屋の屋根の萱ブキを採るために、毎年此処を火入れ
してカヤトを生い繁らせたものだそうである。

…これを坊主山の意味で坊の尾根との表現は如何にも簡明な表現だ
と思う」。さらに「大丹波側から考えてみると、石棒を俚人は棒ノ
折山として祀って、今では本来の意味は忘れられているが、あきら
かにこれは金精様で、それを崇拝した名残が今日まで惰性で伝わり、
「あの棒ノ折様が」の「位置を示す」言葉がその祀ってある場所を
示すようになり、それが名栗側の坊ノ尾根と混乱混同して、棒ノ折
山の名が山を距てた双方の部落で同一名で呼ばれるほどになったの
であろう」と結論づけています。

一説に、畠山重忠が馬に乗ってこの山を越えようとしましたが、あ
まり急いだため落馬して股のイチモツをへし折ってしまったそうで
す。それからこの山を棒ノ折山といったという話もあります。

棒ノ折山から南東に下ると黒山があります。ここは成木地区方面で
黒山、または常磐(ときわ)山と呼んでいるという。さらにそこか
ら尾根を南にとるとその先にあるピーク逆川ノ丸があります。ここ
を青梅市の成木集落では「常磐ノ前山」というそうです。

常磐御前とくれば平安時代末期,源義朝の妾。牛若 (義経) の母と
しても有名です。その常磐御前がこのふもとに住んでいた(黒岳方
向に突き上げる成木川源流に同じ名の地名があったという)といい、
南東の高水山の常福院(高水山不動尊・青梅市)には常磐御前愛用
の鐘が宝物になっています。さらにはすぐとなり、埼玉県側飯能市
には常磐御前の墓もあります。

一方、黒山から尾根道を東にとると、馬乗馬場(まのりばんば)と
いう平に出ます。ここは石尾根の将門馬場と同じように、畠山重忠
が「厩ノタル」に置いた馬を引き出してきて、馬術の稽古をしたと
ころだそうです。

この馬乗馬場の一隅には、黄金を埋めたという伝説があります。黄
金は地熱があり、どんな降雪がつづく年でも積もることのないと伝
えています。ただ埋蔵金を掘り出すと祟りがあるというから注意が
必要です。

川井駅からのバス終点清東橋停留所。登山道に入り、ワサビ田に
沿って歩きます。登山道がゴンジリ沢から離れはじめるつき当たりにあ
らわれた小さな石祠。中に彼の石棒が鎮座ましましておられます。

持参した巻き尺で測ったところ長さ30センチ位、太さが16センチ位。
しかし、祠の入り口が狭くうまく測れません。そこであの武田久吉博士が
測った数字を見ると、高さ1尺1寸(約33.3センチ)、上端の周囲8寸(約
24.2センチ)、下端の周囲6寸(約18.1センチ)だとあります。

すると奥多摩側に投げた石棒はずいぶんと短い方だったようです。こ
れが杖の片割れかァ?棒ノ折山は、古くから信仰登山の対象なって
いて、交通の便がもよく、四方から登山路が通じているため、1
年中ハイカーが訪れています。広い平坦な山頂からは、奥秩父、
奥多摩、上越、日光までが一望できます。

▼棒ノ折山【データ】
★【所在地】
・東京都奥多摩町と埼玉県飯能市(旧名栗村)との境。青梅線川
井駅の北西5キロ。JR青梅線川井駅からバス、清東橋停留所下
車、さらに歩いて2時間で棒ノ折山。標高点(969m)がある。

★【位置】
・棒ノ折山標高点:北緯35度51分31.85秒、東経139度9分18.54秒

★【地図】
・旧2万5千分の1地形図:原市場

★【参考文献】
・『奥多摩』宮内敏雄(百水社)1992年(平成4)
・『おくたまの昔話』(第三集)奥多摩民話の会編著(奥多摩民話
の会)1990年(平成2)
・『角川日本地名大辞典11・埼玉県』小野文雄ほか編(角川書店)
1980年(昭和55)
・『角川日本地名大辞典13・東京都』北原進(角川書店)1978年(昭
和53年)
・『義経記』作者不明。室町初期・中期の成立?の軍記物語:日本
古典文学大系37『義経記』岡見政雄校注(岩波書店)1959年(昭
和34)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『増補ものがたり奥武蔵』神山弘ほか(金曜堂出版)1984年(昭
和59)

 

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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