山の伝承伝説に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼984号「長野県戸隠鬼無里一夜山」

【序文】
140字
要害堅固、風光絶佳のこの地を時の帝は都に定めようと計画をたて
ました。しかしここにすんでいた鬼たちにとっては、自分たちの居
所がなくなってしまいます。そこで戸隠山と戸倉山の間の、この里
の真ん中に別の山を一夜のうちに築き上げました。そのため遷都は
中止になりました。この山は一夜山と呼ばれているという。
・長野県長野市鬼無里地区
(本文は下記にあります)

▼984号「長野県戸隠鬼無里一夜山」

【本文】

戸隠連峰の西岳が北から南へ、第一峰、第二峰、第三峰と高度を落
とし、標高1400m付近で終わると、すぐ南にくっきり立ち上がる
一夜山(1562m)があります。このあたりは長野市旧鬼無里村。
かつては閉ざされた秘境であったという。いまは奥裾花渓谷(日本
百景)や、ミズバショウ大群落の奥裾花自然園(日本の秘境100選)
が有名です。ここは鬼女紅葉の伝説でも有名です。

その昔、京の都から流されてきた呉葉(くれは・のちに紅葉に改名
した)という美しい高貴な女性がこの里に落ち着きました。彼女は
里人に、なにかにつけ京での生活を懐かしそうに話していました。
里長(さとおさ)は、京を懐かしむ紅葉の心を察して、村内に加茂
川、東京(ひがしきょう)、西京(にしきょう)、高尾、二条、四条
など、京にある地名をつけてやったという。

しかし、紅葉は自分を慕う純朴な村民の心を利用、妖術を使って旅
人を襲って、豪勢な暮らしをする鬼女に変身してしまいました。こ
のうわさはやがて京の都にまで伝えられ、朝廷は平維茂(これもち)
に征伐を命じました。維茂は鬼女を退治、それからは「鬼の無い里」
となったという。

一夜山の山頂は360度の展望で、一夜大明神の石祠と鳥居がありま
す。また1989年(平成1)に建てられた「鬼女紅葉生誕一千年祭
の碑」も建っています。紅葉は鬼女として平維茂に討たれはしたも
のの、京の文化をこの地方に伝え、また村人に慕われ、村名の由来
にもなっています。この里を世に知らしめ、高貴で美貌と才芸の紅
葉の生誕1000年祭にあたり、報恩感謝の意を表し、これを建てた
ということらしい。

この一夜山にもこんな伝説があります。「昔から風光明媚のこの村
は、四方が峻峰の取り囲まれて、要塞堅固の地であったため、天武
天皇は都をここに移そうと計画した。ところがこの地に棲む鬼共が、
この仙境に都を定められては自分たちの棲み家が亡くなる。なんと
か遷都の邪魔をしなければ、と一夜にしてこの山を築き上げて妨害、
天皇はやむなく遷都を思い止まった。

しかし、その後天皇は鬼共の行為をいたく憎み、後に阿倍比羅夫(あ
べのひらふ)という人に命じて一夜山の鬼共を残らず退治したとい
う。一夜山はこの時以来、一夜山(ひとよやま)、または夜出山(よ
んでさん)とも呼ばれている(「鬼無里村史」)というのです。

『日本伝説叢書・信濃の巻』(第三〇)にはもっと詳しく記されて
います。「鬼無里村は戸隠山の奧にあって、四方峻峰を持って囲ま
れ、要害堅固の土地であるばかりでなく、山麓を流るる鬼無里川
の水は清く、風光また絶佳であると聞こえたので、都の地をお調
べになっておいでの時の帝<此帝は、桓武(かんむ)天皇であっ
たとも冷泉(れいぜい)天皇であったとも、天武(てんむ)天皇
であったとも言いはれてゐる、桓武(かんむ)天皇は坂上田村麻
呂に、冷泉天皇は平継茂(これもち)に、天武天皇は阿倍比羅夫
(あべのひらふ)に遷都を妨害した鬼を退治せしめた>は、この
土地を都にお定めならうと、<「日本書紀」巻二十八(巻二十九
の間違いか?)に「天武天皇十三年六月遣三野王小錦下采女臣筑
羅等信濃之地形看、将都是地歟。」而今不詳其所、と見えるもの、
或はこの時でではなかったか。>すっかり、この里の御設計を終
へさせさせられた。

ところが、その頃、此山に棲んでゐた鬼共は、「この仙境に都など
を建てられて見ろ第一自分達の居所が無くなってしまふ。これは、
何しろ、とてつもない邪魔を入れて遷都を思ひ止まらせるより外
はない。」と一夜(ひとよ)の中(うち)に、戸隠山と戸倉山との
間、丁度此里の真中どころに、別の山を築き上げた。

かうした妨害は、全く功を奏して、帝も、余儀なく遷都を御中止
なされるやうになった。かうした事から、一夜(ひとよ)のうち
に、此里の中央部に造り出された山であるので、一夜山(ひとよ
やま)と呼ばれてゐるのであるといふ。その、此地方に、東京、
西京、府政(ふせい)などの名が残ってゐるのは、時の帝が、御
設計あそばした形見となってゐるところだと言はれてゐる。」とあ
ります。

これによると、鬼無里に都を造ろうとした天皇は、「桓武(かんむ)
天皇」(第50代・在位781〜806年)、「冷泉(れいぜい)天皇」(第63
代・在位967〜969年)、「天武(てんむ)天皇」(第40代・在位673
〜686年)などの説があったようです。

また『日本書紀』(巻第二十九)には、「天武天皇下、十三年(684)
二月(きさらぎ)の、…。庚辰(かのえたつのひ)(28日)に…、
都つくるべき地(ところ)を視占(み)(ママ・視察)しめたまふ。

是の日に、三野王(みののおほきみ)・小錦下采女臣筑羅等(せう
きむげうねめのおみつくらら)を信濃に遣して、地形(ところのあ
りかた)を看(み)しめたまふ。是の地に都つくらむとするか。…
十三年閏(685)四月、壬辰(みずのえたつのひ)(11日)に、三
野王(みののおほきみ)等、信濃国の図(かた)(地図)を進(た
てまつ)れり」とあり、すでに都を建てるところの地図まで用意さ
せていたようです。

また別の山名由来に、一夜山の名は、昔、西岳霊窟めぐりをしてい
た修験者が、この山の東麓に建っている西清寺を3番目の宿坊とし
ました。太平寺の次の第4番夜(だけの1夜)を泊まって修行をし
た山なのでその名があるという。

さて、一夜山には、戸隠山の北東にある九頭竜山にちなんだ伝説も
あります。「昔、戸隠村の代官が、九頭竜山の山神を見たいといっ
て奥山に登っていきました。すると向こうから美しい娘がやってき
ます。はて、こんな山中で、見たこともない娘だ。九頭竜山の神か
も知れないと、娘を捕らえようとしました。すると娘は笑いながら、
口から火を吐き出しました。

代官はほうほうの体で逃げ帰りました。それからは、恐ろしさのあ
まり近寄りませんでしたが、しばらくしてこんどは戸隠山の種ヶ池
のほとりで、こりもせず「九頭竜の神、そなたに魔性があるならわ
しのこの身を隠して見ろ」と叫びました。すると、たちまち池は渦
巻き、代官を水底に巻き込んでしまいました。

それからのち、この代官の息子が眠っていると、夢のなかに九頭竜
の神が姿をあらわし、「わしの本体を見たいとお前の親父は命まで
捧げている。その子であるお前にわしの本体を見せて進ぜよう。夜
が明けたら一夜山を見るがいい」といい残して消えました。

息子は不思議な夢にいぶかりながら、夜明けに一夜山を見てみて驚
きました。ナント、9頭の竜が一夜山を七巻き半巻いていたという
ことです。一夜山山ろくの裾花川源流には、「木曾殿アブキ」とよ
ばれる間口50m、奥行き13mの大洞窟があります。ここは木曾義
仲が、越後に逃れる時、数百頭の馬と郎党とともに留まったという
伝説があるという。

▼戸隠鬼無里一夜山【データ】
★【所在地】
・長野県長野市鬼無里地区(旧鬼無里村)。新幹線長野駅からバス、
財又停留所下車、さらに歩いて3時間20分で一夜山。三等三角点
(1562.0m)がある。山頂に一夜大明神の祠と鳥居、無線中継塔
が2つある。地形図上には山名(一夜山)と三角点の記号とその
標高のみ記載。

★【位置】
・三等三角点:北緯36度43分22.16秒、東経137度59分21.83秒

★【地図】
・旧2万5千分1地形図名:塩島

▼【参考文献】
・『信州山岳百科3』(信濃毎日新聞社編)1983年(昭和58)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本書紀』720年(養老4):岩波文庫『日本書紀5』(校注・
坂本太郎ほか)(岩波書店)1995年(平成7)
・『日本伝説叢書・信濃の巻』藤沢衛彦 編著(すばる書房)1977
年(昭和52)
・『日本伝説大系7・中部』(長野・静岡・愛知・岐阜)岡部由文ほ
か(みずうみ書房)1982年(昭和57)
・『日本伝説名彙』(にほんでんせつめいい)柳田国男監修(日本
放送出版協会)1950年(昭和25)
・『日本歴史地名大系20・長野県の地名』(平凡社)1979年(昭和54)

 

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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