山の伝承伝説に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼981号「秩父・父不見山」

【序文】
140字
埼玉県小鹿野町と群馬県神流町の境に父不見山という山がありま
す。山名は、「平将門が戦死し、その子がまだ見ぬ父を慕って嘆い
たところ」とか、弘法大師が東国の高野山をつくろうと、山の南面
の寺平に造った寺の「僧侶が子どもを捨てて逃げ、後を追いかけた
子供が父を見失った場所が父不見山」だったという説もあります。
・埼玉県小鹿野町と群馬県神流町(かんなまち)にまたがる。
(本文は下記にあります)

▼981号「秩父・父不見山」

【本文】

 西上州・埼玉県小鹿野町と群馬県神流町の境に父不見山という変
わった名前の山があります。「ててみずやま」とも「ててみえずや
ま」呼ぶそうです。山頂は2峰に分かれ、東の低い方の峰が父不見
山(1047m・ザル平ノ頭とも)、高い方の西峰は長久保ノ頭(大塚
山とも)といい、こちらには三角点(1065.8m)があります(『日
本山名事典』)。

 三角点のない狭い父不見山の山頂北寄りには、なぜか「三角天(マ
マ)」と彫られた丸いだるま石が置いてあります。また『新日本山岳
誌』では三角点のある西峰を長久保ノ頭、ザル平の頭、三沢山とも
いうとあり、ちょっとこんがらがります。地形図には、長久保ノ頭
の位置には三角点と標高のみで山名の記載はありません。

 そもそも父不見山は、この山域一帯の草刈り場の総称で、南麓秩
父側では寺平山とも呼んでいたという。かつては秩父側近在の村人
が元旦に、寺平の摩利支天へ登って五穀豊穣を祈ったところだとい
う。

 山や自然を主題とした詩人尾崎喜八は「神流川紀行」の「父不見
御荷鉾も見えず神奈川星ばかりなる万場の泊り」という一首を残し
ました。それが有名になり、おかげで父不見山も有名になったのだ
という。

 ちなみに「神流川紀行」は尾崎喜八の『雲と草原』のなかの一文
で、その文学碑が父不見山の北方、群馬県の御荷鉾山の西御荷鉾山
(藤岡市と神流町(かんなまち)にまたがる)南麓直下御荷鉾スー
パー林道わきに建っています。

 樹林の中で展望がきかず、あまり人気がなかったこの山も2000
年(平成12)の火事で、皮肉にも見晴らしがきいて面白みのある
山になりました。しかし近ごろはまた、植林が成長して展望がきか
なくなってきたという。いま山頂からの展望は南側は樹林のため展
望はききませんが、北側は御荷鉾山から赤久縄山に連なる山々、東
南には武甲山など奥武蔵の山々が眺められます。

 この山の名は、「平将門が戦死し、その子がまだ見ぬ父を慕って
嘆いた」とか、弘法大師空海が父不見山の南ろく、埼玉県側小鹿野
町の長久保地区の北奧の「寺平」というところに、東国の高野山を
つくろうとしましたが、「その寺の僧侶が子どもを捨てて逃げ、後
を追いかけた子供が父を見失った場所が父不見山」だったという説
もあります。

 また弘法大師に関連して別の伝説もあります。その昔、弘法大師
空海が「寺平」に訪れ、「ここは場所も広いし、谷もたくさんある。
ここに和歌山県の高野山と同じ聖地を造り、同じような寺を建立し
よう」と、高野山にある地名をここにもつけました。

 大日さまのある所を桔梗指(ききょうざす)、また大教僧(だい
きょうそう)、花坂(はなざか)、腰越(こしごえ)、鍾撞堂(つり
がねどう)などなどという地名をつけました。そして七堂伽藍(が
らん)を建て、高野山から75人の僧侶を呼び、真言の教えのもと
でお寺を守っていました。

 そんなある日、大きな台風がやってきて裏山が崩れ、せっかくの
寺が埋まってしまいました。僧侶たちが懸命に再建しようとしまし
たが復興はできませんでした。僧侶たちは相談した末、仕方なく高
野山に帰ることになりました。台風の被害の後かたづけが終わった
ころはすっかり冬になっていました。

 高野山に戻るには上州から甲州への山々越える難所が待っていま
す。僧侶たちが上州の峠にさしかかった時一寸先が見えないような
大雪に見舞われました。吹雪の中で道に迷った僧侶たちは、山中で
とうとう凍死してしまいました。吹雪がおさまり、長久保の村人が
行ってみると、僧侶たちは雪に埋まって冷たくなっていました。

 村人たちは悲しみ、川原から75個の石選び、山道を担ぎ上げ、
峠に墓を造り丁重に葬りました。いまでもその「おそう峠」(※群
馬県神流町持倉のおそう峠(和尚峠)。いまの杖植(つえたて)峠?)
には人の頭くらいの大きさの石がならんでいるそうです(『秩父の
伝説』)。

 さらにこの寺平地区には大仏が埋っているといわれています。周
囲には熊穴等の鍾乳洞も散在しています。蛇足ながら平将門は、平
安時代の935年(承平5)年に承平天慶の乱を起こし、一時は関東
全体を統治しながら、平貞盛、藤原秀郷ら連合軍に討たれました。
関東地方、とくに秩父一帯には将門伝説が多く伝わっています。

 さらにまたこの山の北ろく、群馬県神流町を流れる神流川を挟ん
ですぐ北、地図には記載されていませんが、桐ノ城山の南方の石尊
山(954m)の先、891m峰を若御子山(南峰)、その北の双耳峰を
若御子山(北峰)というのだそうです。

 父不見山の名はこの若御子山の伝説にも関係しています。「戦国
時代、桐ノ城山の城に住む城主が家来らを引き連れ、都に戦さに出
かけました。しかしなかなか帰ってきません。心配した身重の妻は、
桐ノ城の南の山まで下り、南の方を眺めながら帰りを待っていまし
た。

 ある日、いつものようにその山で帰りを待っていると、玉のよう
な男の子が生まれました。それからはその場所を「若御子山」と呼
ぶようになったという。さらにその妻子が、父親の帰ってくるはず
の南の方の高い山を眺めて、いまだ「ててみえず」といったので「父
不見山」と呼ぶようになった」というのが神流町側の伝説です。

またまたこんな説もあります。その昔、この山域一帯は草刈り場で
した。そこへ草刈りに出かけた親子連れが、どうしたはずみか父を
見失ってしまったという。子供たちはあわてて「父見えず」と叫び
ながら家に帰ってきたことからこの名がついたと地元の人から聞い
たとの話もあります。

▼父不見山【データ】
★【所在地】
・埼玉県秩父郡小鹿野町と群馬県多野郡神流町(かんなまち)に
またがる。西武秩父駅からバス小鹿野車庫行き。小鹿野町バス停か
らタクシー、杉ノ峠入り口から徒歩1時間で父不見山。標高点1047
mがある。狭い頂上の北側に「ダルマ石形の三角天」(ママ)と彫っ
た丸い石があるが、三角点はない。さらに30分で西峰の長久保ノ頭。
二等三角点1065.7mがある。

★【位置】
・父不見山標高点1047m:北緯36度05分38.6秒、東経138度54
分58.93秒
・長久保ノ頭1065.7m:北緯36度05分29.71秒、東経138度54分
44.39秒

★【地図】
・旧2万5千分1地形図名:万場

★【参考文献】
・『角川日本地名大辞典11・埼玉県』小野文雄ほか編(角川書店)
1980年(昭和55)
・『関東百山』(実業之日本社)1985年(昭和60)
・「神流川紀行」:尾崎喜八詩文集(第5)『雲と草原』(創文社)1959
年(昭和34)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『秩父の伝説』秩父の伝説編集委員会(発行:秩父市教育委員会
・発売:幹書房)2007年(平成19)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)

 

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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